人物説明

大内家臣:杉氏

2022年4月8日

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ミル

杉さんたちは大量にいらっしゃって、それぞれの杉さんたちの関係とか研究者の先生方でもメンドーみたい。そんなん、ミルにわかるはずないよね。とりあえず、見かけた杉さんはすべてココね。

杉重運

義弘に仕えた。
豊後守となる。のち出家して豊後入道と称した(法名不明)。
気性激しく勇敢で、大刀を巧みにあやつる。

明徳二年、二条大宮の合戦では、力をつくして戦い、その功績は並外れて抜群であった。将軍・足利義満は内書を与えてこれを褒めた。

応永六年、義弘が堺に東上するのに従う。前将軍・義満は義弘を諭し、戦をやめさせるため、僧・中津を堺に派遣した。義弘がこのことを相談すると、弟・新介弘茂および平井道助はつつしんでご命令を受けるようにすすめた。重運はこれを非難して言った。
「都鄙(みやこといなか)でほねおって数多くの強敵を滅ぼし、忠あって不忠ない大内氏であるから、その褒美として賜った国郡ではないか。そうであるのに、将軍は理由もなくそれを減らし取り上げようとしている。その考えはひとえに大内氏を滅すためである。義弘公はこのことをといただすために東上したのだ。内の意見はすでに外に聞こえている。そもそも公は天下の大事を計画していたのに、今将軍が諭したら俄かに従うといはどういうことか」
義弘はその通りだと思い、中津に向かい、諭旨には従わないと答えた。

義満が自ら兵を率いて出陣すると聞いて、義弘等は戦守の策を相談した。
弘茂は河内の高山を攻めてこれを奪い、東条土丸に出陣して紀伊・和泉を支配すれば、堺、清水の二浦は中国との運輸に便利な地なので、五年から十年、味方はまったく差し迫ったことにはなるまい、と言った。
重運はそれは違うとし、戦に勝てば勢いは高まり、負ければ気後れする。だから先ずる時は人を制し、後るる時は人に制せらる、と言うではないか。 いまこの地を棄て、 本国に逃れる状態を見せて船に乗り、尼崎まで行って上陸し、すぐさま将軍の陣営八幡を衝き、勝敗を一時に決するに越したことはない、と言った。

道助はこの二つの意見に反対した。海路は風波が変化するはずがない。またこの地を退けば紀州・和泉の兵は皆、将軍家に降参するだろう。そうであるならばすなわち、味方は少ないのにその上少なく、敵は多いのにその上多くなり、勝利を得るみこみはない。天時は地利にしかず。地 利は人和にしかず、と言うではないか。 公は紀州・和泉を支配し、長い年月が経つ。地元の民は十分にその御恩に心服している。また兵糧と材木が多い地なので、城を築いてそこを拠点とすることが上策である。河内を奪うようなことは、そのために味方の兵を損なわざるを得ない。大事の前の小事に人力を費すことは無益である。

義弘は道助の策を採用して堺城を築き、重運に南墩を守らせた。
十二月二十一日、北墩が陥落し、義弘は戦死した。子息・備中も死んだと聞いて、重運は北墩に向かい、六人を斬った。敵兵二百余騎は勢いにおされてたじろぎ、二町ばかり逃げた。山名入道某は力があり、重運と素手で勝負して打ち取りたいと思い、太刀をなげ捨て近くに迫った。重運は眉尖刀で山名入道の胸を突いた。刀の先は背中まで通ったが、入道は屈せず、重運を引っ張って刺そうとした。重運が貫いた刀で入道をくつがえすと、入道は三丈ほどむこうに投げられて死んだ。重運はなおも敵中に駆けこんで苦しい戦いをしたが、十余ヵ所に重傷を負ったので、大声で己の名を叫び、終には戦死した。

重運子息・某

備中守となる。父に従って東上し鵙山を守った。義弘が堺城を築いてたてこもった時、備中守を呼び戻して北墩を守らせた。
十二月二十一日、敵兵が北墩を火攻めにした。たまたま風が激しかったため、楼櫓はすべて焔となった。備中守は主君と父が亡くなるのはきっと本日だろう思い、これに先立とうと山名民部少弐の陣を衝き、当面の敵十余騎を倒して進んだ。重傷を負ったがなおも突進して三人を斬り、五人を負傷させて死んだ。

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五郎

スゴイ……。俺もこんなふうに活躍したいけど、出来れば勝って帰りたいよね。でも、名前すらわからないなんて、気の毒だな。

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於児丸

歴史は多くの名もない人によって築かれているんだよ。むしろ、名前がわかる人のほうが珍しいと言える。ここは原文がほとんど『応永記』からの引用なので、『管領家の庭園』みたいにヘンテコなことになっているね……。

杉興運

豊後守となる。豊後入道重運の後胤(子孫)である。義隆に仕え、筑前守護代となり若杉山城に居た。

天文十九年七月十七日、従五位下を授かり、二十二日、大宰権少弐となる。
※大内義隆記、同異本では大宰少弐。

天文二十年、義隆を弑逆した陶隆房は、各所に軍を派遣し、己に与みしない者を攻撃した。興運は防ぐことができず、城を棄てて逃亡。糟屋浜まで来た時、賊軍が迫って来たため自殺した。死亡した日にちは不明。
※歴名土代は九月に自害と記し、続本朝通鑑は糟屋浜を津屋邑としている。

杉重矩

幼名:七郎介(言延覚書は重政とする。初名だろう)。
のち伯耆守となる(天文六年十二月六日初見)。彦八郎重祐の子である。

天文七年十二月十四日、従五位下を授かる。

重矩は陶隆房と青景隆著を嫌っていた。二人を除こうと望み、 隆房に反逆の志があり隆著もその仲間となっている、として屡々義隆に二人を讒言した。

天文十八年正月、 麻生余次郎が家人・小田村備前守を殺した。
陶隆房は余次郎と兄弟の契約をしており、隆房もこのことを知っていた、と所々から報告がきた。義隆が隆房に問い質すと、隆房は余次郎との契約の書状を捧げて、小田村備前守の事については、まったくあずかり知らないと述べた。

義隆は重矩がいっていたことであるから、相良武任に命じ、これについて重矩に尋ねさせた。重矩は義隆に話したことを武任にも話し、我が言を信用せずに、このような時に訊問を受けるとは。大内氏はもう終わりだ、といった。

重矩は武任が己の言ったことを隆房に漏らす事を恐れ、俄に意を曲げて隆房、隆著と親しくし、まず隆著に武任を讒言し、隆著に武任を恨ませてから、隆著と心を合せ、隆房在宅の日に、隆著とともに隆房を訪ね、屋敷で武任が讒言するのをきいたとして、己が嘗て隆房を讒言したことを武任の讒言として隆房に告げた。隆房はこれを信じて大いに憤り、遂に反逆した。

天文二十一年、大友晴英を迎え当主とすることで、隆房と意見が合わず、しりぞけられて佐波郡大前村で蟄居した。

口月、隆房が兵士を派遣して己を撃つときき、所領・長門国厚西郡万倉に逃れた。隆房の兵がせまり、長興寺で自殺した。家人・岩武某がこれに殉じた(主従の墓がある)。

隆房は重矩が首を以て義隆の霊に謝罪してこれを梟した(中国治乱記に義隆の御廟の前に首を掛けた。にくまない者はなかった、とある。御廟といえば、大寧寺の墓であるけれども、 あるいは山口の寺に義隆の霊牌を立てて、その寺の霊牌前に重矩の首を捧げて叛いたことを謝罪し、また、人々に示すために、これをその寺前でさらし首にしたのではないかと思われる。なおよく考えるべきである)。

重輔

初名は重信。幼字は七郎、のち彦右衛門尉と名乗った(天文三年十月八日の文書杉七郎、同十八年六月廿六日の文書、杉彦右衛門尉)。伯耆守となる。

天文元年、陶道麟に従い、九州で戦った。

天文三年九月十八日、筑後国生葉郡大生寺城を攻め、 城将星野常陸介親忠を斬った。

天文十八年四月六日、備後国外郡神辺城下で戦って、右膝を射られ、十六日は頸を射られた。

天文二十一年、父重矩が陶晴賢にしりぞけられて蟄居し、重輔が家督を継いだ。父・重矩は、陶晴賢に殺されて梟首された。重輔は慚愧憤懣して、晴賢を殺そうと望んだがその機会が得られなかった。

弘治元年十月一日、晴賢は厳島で敗死した。重輔はその知らせをきき、義長に、父・重矩は全薑にせまられて切腹した。只今陶五郎を切腹させてやる、と言い捨てて、七日都濃郡富田の若山城を襲い、長房兄弟を殺した。⇒ 陶長房

弘治二年三月二日、内藤隆世は陶家人・山崎右馬允等の哀訴を以て重輔の後川原の屋敷を襲撃した。隆世は長房の母の弟である。重輔兄弟は防戦し、卯刻から辰刻になった。隆世の兵は隣家に火を放つ。風が激しかったので、山口市街は皆炎となり、義長は今八幡宮でこれを避けた。重輔兄弟は家人岩武備後守と十五 人で、血路をひらいて義長を追い、今八幡宮に来て、隆世の襲撃は義長が命じたことであろう、と義長を扯て刺そうとした。飯田興秀と仁保隆慰が彼らを遠ざけ、義長が知る所ではなかったと言い聞かせ、義長を宝殿に移し、重輔兄弟を拝殿に置いた。興秀、隆慰は内藤の陣営に赴き、義長の命で和睦をはかった。隆世は認めなかったが、強引に、まずは質を交換させることとなった。重輔は弟の正重に与力大野某をつけて出し、隆世は弟・彦二郎に楊井某をつけて出した。日暮になって重輔兄弟は宝寿院に入り、散らばっていた家人等も集まって来た。
内藤隆世大内義長

四日未明、隆世が宝寿院に来て囲み、火攻とした。重輔は隆世の質・彦二郎及び楊井を斬殺し、主従七十余人激しく戦って死んだ。

重輔は長房を攻撃して殺してから、不安になり、ひそかに、毛利氏に内通していた。死後に事は露顕した。子・松千代丸は毛利氏に仕えた。

正重

彦七と名乗った。義隆の時、侍大将ならびに先手衆であった。
天文十九年七月十九日、従五位下を授かる。
弘治二年三月二日、内藤隆世の人質となる。
弘治二年三月四日、隆世の陣営西方寺の門前で、与力大野某とともに斬殺された(歴名土代には自害とある)。享年二十一歳だった(氷上山所蔵、永禄四年の二月会差定に杉彦七平元重とあり、正重の子で毛利氏に仕えたものだろう)。

兄重輔と同じく宝寿院で戦死した。

杉 興重

初め兵庫助(明応六年九月廿三日初見)、のち三河守 となる(享禄二年七月廿一日初見)。

義興に仕え、安芸で従軍した。義興が薨じると義隆に仕えた。

天文六年正月八日、従五位下を授かる。この時六十一歳だった。
天文八年六月、民部大輔となった(式部大輔とするものもあるがそうではない)。

隆房に与みして義長に仕えた。祝髪して沙弥宗長と号した。
義長に殉じた杉民部大輔はこの宗長の孫であると思われる。

杉隆泰

治部大丞。義隆に仕え、天文十九年七月十九日、従五位下を授かる。これより治部大夫と称した。隆房に与みし、義長に仕えた。玖珂郡玖珂本郷の鞍掛山城に居住した。

弘治元年十月、晴賢が厳島で敗死すると、毛利氏に内通したが、これを悔やみ、毛利氏の動静(をひそかに山口に知らせた。椙杜隆康がこれを察し、山口に宛てた書状を奪って毛利氏に届け、隆泰の異心を告げた。

弘治元十一月十四日、毛利氏が来襲する。隆泰は小方隆忠と戦って隆忠に斬られた。

玖珂本郷村祥雲寺には、隆泰が開基であるとして位牌が伝わる。「鉄真院殿亭安元樹大居士、杉隆泰神儀、家士千三百七十余人幽霊、天文二十三年甲寅十一月十四日」と銘がある。二十三年は二十四年のあやまりだろうと思う。墓は字丈六にあり、もと祥雲寺の旧地字谷津寺谷にあったものをのちに丈六に移したという。

 

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻十九「諸臣」巻十四「叛逆」より

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ミル@周防山口館

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