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槌山城(広島県東広島市八本松)

槌山城・案内看板

広島県東広島市八本松吉川・原の槌山城とは?

大内氏が直轄支配していた安芸国東西条の拠点。鏡山城 ⇒ 曾場ヶ城 ⇒ 槌山城と移転してきた大内氏拠点の最後の城です。槌山城はそれまでの城同様、大内氏の安芸国内での重要拠点として機能しましたが、叛乱家臣の人々によって、大内義隆が倒された後は、毛利家が管理を任されました。

義隆の死後、叛乱家臣たちから「親義隆派」勢力とみなされた人々がこの城に楯籠もって抵抗し、毛利家によって討伐された、という経緯があります。大内氏の拠点云々というよりも、城を落とした毛利三兄弟の活躍のほうが、語り継がれている城です。東広島市により、史跡認定を受けています。

お詫び

この項目は書きかけです。東広島市ボランティアガイドの会さまから、とても詳細な貴重な資料を拝領しており、未だに読み込めていないためです。暫く時間がとれないため、ほかの本などで見たことをメインにとりあえず書いて置きます(むろん、それらの本も間違ってはいません)。

槌山城・基本情報

名称 槌山城
別名 明神山城
立地 丘陵頂部※
標高(比高) 488メートル(260)
面積 東西400メートル、南北250メートル△
築城・着工開始 十四世紀~十六世紀か※
遺構 郭、虎口、堀切、土塁、石垣
文化財指定 東広島市史跡
(参照:『安芸国の城館』、『日本の城辞典』※、『兵どもの夢の跡』△)

槌山城・概観

西条盆地の南西端にある槌山に築かれている。東に西条盆地を望め、頭崎城まで見渡せるという。しかし、ほかの方角からの展望はあまりよくない。山陽道からはやや外れるが、南に戸坂峠、北に笹ヶ峠と西条盆地南西の出入り口にあたる(参照:『安芸国の城館』)

山頂郭群 三段に分れる ⇒1郭(東西約50メートル、南北約20メートル)、虎口あり
西郭群、東郭群 

槌山城・歴史

史料に現われる初めと実際の築城時期

槌山城の名前が史料に現われる最初は天文十二年(参照:『安芸国の城館』)となります。いつものように、これはあくまで「史料に現われる最初」であって、その存在が文字史料として確認される=城の存在が証明される時期となります。天文十二年(1543)は、月山富田城に遠征し大敗を喫した大内義隆が、命からがら逃げ帰った年に当ります。分国の動揺を鎮静化させるために、義隆は弘中隆兼を槌山に派遣しました(後述)。つまりは、城はとっくに存在していたことが分ります。慌てて築城し、それから信頼置ける家臣を派遣とか、全然間に合いません。

では、槌山城の築城時期はいつ頃なのでしょうか。『安芸国の城館』には「南北朝期に、南朝方の拠点として築かれたと見られている」と書かれています。これについては、鏡山城のところで述べた通り、西条一族が、武家方と戦うために築いた城でした。正平五年(1350)のことです。大内氏が東西条の地を手に入れたのは、これより後のことになりますので、西条一族が築いた城が残っており、それに手を加えたのか、あるいはすでに跡形もなく、まったく新しく築かれたのかは不明です。

なお『賀茂郡史』によれば、『萩藩閥閲録』の中に、応永年間、蓮池蔵之丞父子なる人々がこの城で討死した、とあるそうです(『閥閲録』は所持しておりますが、経済的な理由から「索引」の巻が欠けたものを購入しました。よって、自ら調べるのは困難です。道理で格安で売られてたんですね。索引なしで、必要な記述が探せるとはとうてい思えません……)。この時点では鏡山城すら築かれていなかったはずです(そもそも、正確な築城時期は不明であるため、証明はできません)。この戦闘についての詳細も不明で、蓮池氏がどのような身分でどのような勢力と戦ったのかは、わかりません。しかし、大内氏が曾場ヶ城から槌山に拠点を移転するために、築城(もしくは増改築)を行なう以前にも、ここに城があったらしいという記録はたいへんに貴重です。

「西条守護」

大内義隆が弘中隆兼を槌山城に派遣したのは、天文十二年七月のこととされています(参照:『安芸国の城館』、『賀茂郡史』ほか)。補佐役として神代兼任も入城しています。義興代に、大内氏は安芸守護に任命され、それは子の義隆にも引き継がれましたので、守護が拠点としている城(要は一昔前なら『守護所』です。平穏無事な時代、安定した土地柄ならば政庁の建物ですが、戦国期に差し掛かったので城になってます)なので、槌山城は「守護山」とも呼ばれていました。鏡山城のような輝かしい時代の象徴(落城したけど)のような城なら相応しいですが、滅び行く勢力の城が「守護山」などと呼ばれるとは、何やら悲哀漂う感じがしなくもありません。

守護職に就いているのは主君の義隆ですから、弘中はせいぜい守護代でしかありません。しかし、彼は「西条守護」と呼ばれました。安芸と備後のことは弘中に丸投げしていたのでしょう。確かに飛び地になっていて、細かなことまでいちいちお伺いをたてていたら、緊急時に間に合いません。なお、弘中もこれまでの城跡の守護代たち同様、いつまでも城内に住み込んではいません。かわりに、城番を置いていました。

槌山城番

菅田越中守宣真、尾和備後守種親、大林和泉守、財満越前守隆久(入道宗因)

鏡山城、曾場ヶ城と、東西条には信頼の置ける重臣を配置する、というきまりはこれまで通りです。この四名のうち、筆頭格だったのは、大内氏が送り込んだ菅田氏であったようです(参照:『賀茂郡史』)しかし、大内氏重臣が守護代に任じられ、地元西条の武士だちが城番を務めるというこの構図も、弘中隆兼が最後となりました。本国で、大内義隆が政変により命を落とし、叛乱家臣らの政権が大友氏から借りてきた義隆の甥・大友晴英(大友宗麟の弟)が傀儡の当主となるという大事件が起ったためです。

ならば、この城は引き続き、傀儡でもなんでも、大内氏の当主により任命された新しい「西条守護」によって治められることになったんじゃないの? と思われる方もおられるかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。城は毛利家によって落とされ、以後は毛利家の管理下に置かれることになります。ん? それは、大内氏が毛利家によって滅ぼされたから当然だよね、というのも間違いでして、その辺、やや複雑となります。

幻の「槌山合戦」

のちに、厳島合戦で、主(大内義隆)を弑逆するような不届き者は成敗するという「大義名分」の下、叛乱家臣らの政権を倒した毛利元就ですが、あら不思議、この時は叛乱家臣らの政権を支持していました。単に、上に立つ者が変ったので、風下に置かれている状態では仕方がない……という話ではありません。最初から、大内義隆を排除する企てに賛同していたのです。厳島合戦の大義名分云々のほうが、軍記物の脚色と思われますので、特に矛盾する話でもありません。最初は叛乱者側につき、のちに彼らと対立するに至ったのでしょう。軍記物の影響で、毛利元就を英雄視してしまっている方々は失望するかもしれませんが、その必要はありません。

叛乱家臣らをワルモノ扱いするのはご自由ですが、彼らだけでは主を追い落とすのに心許ないため、事前に毛利家と密約を結んだわけです。そのかわり、今後安芸国については、毛利家に任せるというような有難い条件もついていました。命令してきたのが、大内義隆だろうと叛乱者だろうと、他家のことなのであずかり知らぬところです。これを機会に自らの勢力を拡大できるのであれば、協力するのは自然のことでしょう。まあ、この件についてはここでは深入りしません。ただ、義隆が亡くなったのが九月一日、毛利家が「親義隆派」の城だった頭崎城の攻撃を始めたのが九月四日といいますから、「事前の話し合い」がなければ、これほどまでに迅速な行動はとれなかったはずです。

毛利元就は病と称して参戦せず、隆元を総大将に、吉川元春、小早川隆景の三人の息子たちが出陣しました。頭崎城の主・平賀隆保についてはこれまた最後の当主にかかわる恥ずかしい逸話が残っていますが、「お気に入り」だったのですから、これで親義隆派になっていなかったらそれこそ不義理ってものでしょう。城は落とされますが、隆保は逃げおおせたらしく、のちに槌山でまたその名前が出てきます。

義隆が亡くなった後、槌山城には、親義隆派の人々が詰めていました。でなければ、攻撃される意味がわかりません。叛乱者たちは、自らの政権を安定させるため、まずは反対派の粛清を行なったわけですが、ところどころに火種が山積しており、すべてを自力で処理することは不可能でした。そのため、安芸国のことは毛利家に任せたのです。城を落とせば、自家のものになるわけで、毛利家にとっても美味しい話です。要はこの時点ではウインウインの関係にあったのですよ。

大内本家のほうはどうなっていたかと言えば、隠れ親義隆派のような人は大勢いたはずです。しかし、自ら大胆にそれをアピールして命を奪われるまでの忠義の家臣となるとぐっと減るでしょう。それでも、頑として義隆派を貫いた人々もいたことは事実です。叛乱者たちはそれらに対処し、毛利家は安芸国にもいたそのような人々を討伐して回ったわけです。槌山城も、親義隆派の城と見なされ、攻撃されました。

長いものには巻かれろ、面倒に巻き込まれたくないと思う人が大半の中、それでも主と運命をともにするというタイプの人は何時如何なる時にも、一定数いるものです。槌山城にいた人々の中には、そこまでの義理はないのに、巻き込まれてしまった人もいたかも。いわゆる単に、城番に従って城を守っていた人々です。「大内氏恩顧の兵・一四〇〇あるいは一三〇〇」のようなことが『賀茂郡史』には書いてあるけど、上の命令には逆らえないとはいえ、いい迷惑です。途中で逃げてしまった人も、当然いたでしょう(多分)。

例によって、『陰徳太平記』のごとき軍記物には、これらの合戦の一部始終が面白おかしく書かれていることだろう。しかしながら、『陰徳太平記』は、毛利元就を聖人君子にしなければならない関係上、事前に叛乱家臣たちと密約していた件を伏せている。まあ、これは近現代の研究者の意見として出てきたことかもしれないので(すべての軍記物を調べまくるなんて無理なので、書いてある本があったらすみません)、当時の人々は何が何やらわからなかったのかも。毛利家を全国区の大大名にするには、飛躍のきっかけは絶対に必要で、それがたとえ、他家の叛乱者に手を貸すことであったとしても、それを以て毛利元就を悪人だと考える人はいないはず。むしろ、上手く利用したとか、運も味方してた、とか思うのが現代の思想です。けれども、近世だと、主を追い払い命まで落とすほど追い詰めたとなれば、反乱者たちはとんでもない悪逆非道の輩となりますから(現代だと、それすらも普通に受け入れられます。どう捉えるかのご意見は人それぞれとして。だって、明智光秀を悪く言う人あまりいないではないですか)、そんなワルモノに元就公が味方したとなったらたいへんなことになってしまいます。

それはいいとして、それでもなお、『陰徳太平記』が毛利三兄弟の活躍を記しているのはなぜというに、なんと、ワルモノたちに味方した城だったから成敗していたという筋書きになっているようです(参照:『賀茂郡史』)。元就公神聖化のために、敢えて史実をねじ曲げたと『日本史広辞典』の項目にも出ている本ですけど、こりゃまたとんでもないデタラメですね。しかし、この説は普通に信じられてもいたようでして、そのほかの軍記物にも同様のことを書いているものがあるそうです。まあ「密約」なだけに、当人たち以外は知らなかったのかもしれませんし、厳島で大義名分掲げている関係上、お前らも殿様殺しの連中に味方したじゃん? というツッコミを避けるため、近現代の研究者たちに曝かれるまで、深く隠蔽されていたのかも知れません。

それで、さて『陰徳太平記』の記述はどうなっているだろうか、と見てみたところ……ないんですよね……。分厚くて重すぎる本なので、作っておいてよかったタイトル一覧表を見たところ、「槌山合戦之事」とかありそうなのに、「ない」。でも、槌山攻めの時に、血気にはやる吉川勢が隆元の命令を無視して突出して云々という話をどこかで見た気がするのに何で? タイトル一覧に書き漏らしたか、ほかの軍記物で読んだのだろうか。確かに、『陰徳太平記』は義隆の死後、いきなり厳島に雪崩れ込んでしまうので、「?」な展開であったと記憶してはいます。最初から最後まで、元就公は主殺しの連中とは相容れないという流れでした。となると、頭崎や槌山の話は書けるはずがありません。まあ、どっち道、軍記物は脚色が多くて史料にはならないと嫌われる傾向ですので、忘れましょう。

『賀茂郡史』に、『陰徳太平記』は槌山での合戦は叛乱者方の城だから潰したと書いてある旨ご指摘があるので、どこかにさらっと書かれていはいると思われますが、探すのも時間の無駄です。

槌山城の戦いの真実

軍記物に載っていなかったり、載っていても事実と違うことを知りつつ目を通しても仕方ありません。でも、ここで合戦があったことは事実です。ただし、史料は乏しいのだそうです。東広島市ボランティアガイドの会さまガイドさんの解説によれば、当時槌山城一帯は農村地帯で、読み書きに秀でた人が多くなかったそうです。それゆえに、付近にいたので、あらましは何となく知っていたとしても、文書にして書き記すような人はいないか、いたとしてもごく少数でした。そこで、合戦に参加していた武家たちの「〇〇家文書」のような記録から断片をつなぎ合わせて全体像を想像するしかないようです。幸い、「〇〇家文書」の類は毛利家臣のものはそれなり残っていますから、少なくともここで戦闘などなかったという人はいないでしょう。

数多くの史料に精通している博識のガイドさんにご案内いただけたのは、本当に有難き幸せでした。頂戴した資料の中に、『川上村史』『吉川村誌』を元にまとめてくださった合戦のあらましが載っており、現地でも臨場感溢れる解説を拝聴しております。

槌山城内にいた人々

菅田宣真、宣種、尾和備後守、大林和泉守、財満入道宗因、隆久、平賀隆保

攻撃側・毛利勢

毛利元就、隆元、吉川元春、小早川隆景。
福原、桂、志道、児玉、粟屋、赤川、井上、口羽。
熊谷、天野、香川、飯田、出羽氏
⇒総勢4000

城内に果たしてどのくらいの人数がいたのか不明ながら、攻撃側は錚々たるメンバーが集合していることから、もう、その名前を見ただけで勝敗は明らかって感じです。毛利元就が臨場したのかどうかは知りませんが、大将となった隆元は槌山城と並び立つ「鬼ヶ城」なるところに本陣を置きました。

これほどの人数で囲まれたら、放置していても城は落ちますから、隆元は力攻めはしないつもりだった模様です。そこで、将兵たちにもその旨伝え、動かないようにと命じていました。しかし、吉川元春の軍勢は命令違反をおかして進軍してしまいます。ここで敵方と戦闘になり、菅田宣種を戦死させました。

このシーン(吉川軍が突出した件)、ものすごく鮮明なんですが、いまもってどこで読んだのか不明です。今『二宮佐渡覚書』を見たら、槌山での合戦のことが書かれていましたが、こんなに難解なものが読めたとは思えません。思い出したら書いて置きます。戦果もあげたでしょうが、被害も出たでしょう。隆元は一切被害を出さずに勝利するつもりだったのです。

これを機に、包囲して自滅を待つ作戦から、城攻めに切替えます。毛利勢は「仕寄(大きな竹の束)と勢籠(竹木を井桁に組んだ櫓)を組み上げて隙間なく攻め」(東広島市ボランティアガイドの会さま資料)

これいったいどういうこと? って思うんですけど、自らの本陣から敵の城まで、この櫓のようなものを建てつつ近付いて行ったんですよ。微妙に違うかもしれませんが、要するに、橋を渡したみたいな感じです。目と鼻の先のような場所に本陣を置いていると言えば、確かにそうなんですが、それにしてもこんな形で敵の城まで乗り込む道を繋げるとは、ものすごいですよね。

城内にはわずかな人数しかいなかったと思われますが、それにしても、敵が少しずつ近付いて来るのを、手をこまねいて見ているほかないなんて、悲惨もいいところです。逆に言うと、こんな面倒なことをしなければ、落ちないほど守りが堅い城だったんでしょうか? これも、犠牲を少なくするための方策ですかね。

結局、もはや為す術がないと悟った城内の者たちは和睦を願い出ました。菅田、大林、平賀の三名が切腹し、城を明け渡すことで、決着がついたようです。

平賀隆保については、ほかのところでそれこそすさまじく脚色された逸話を見かけた気がしています(またしても思い出せない)。できすぎた話でしたので、軍記物による創作ですね。そこでは頭崎の城内で亡くなっていたので、こちらまで逃れて来ていたという事実とも違います。

平賀以外の人々は城番を務めたことのある人たちである、という以外に大内氏とのかかわりはないわけで、ここに楯籠もって命を落とすまで大内義隆に義理立てする必要もなかったのでは? と思ってしまいます。同じ安芸国に住まう者として、これからは毛利家の下で働きます、ってことでよかったような気がしてしまいます。毛利家的にはそれで許してくれそうですが、この段階では叛乱家臣の親玉からの命令で動いていますからね。自らに反抗的な人々は一人残らず殲滅する心づもりでしょうから、それは難しかったでしょう。

城に籠もっていた人たちについては、まだまだあれこれの話が続きますが、それは竹内家屋敷のところでやりたいと思います。

槌山城・みどころ

郭はありますが、堀のようなものはあまりないようで、岩がちな土地は我らが門山城を思い出しました。意外に狭いなと感じてしまうのですが、これは集中豪雨の災害時に、道が閉ざされてしまったことで、通れなくなってしまったルートなどがあるためです。1郭を目指すことがすべてとなりますが、山頂からの展望は最高です。

豊穣池

槌山城・豊穣池

駐車場から登山道入口まで続く道の途中に広がる綺麗な池です。その名も豊穣池。これは槌山城の時代より後、米作りのために作られたため池です。この池のおかげで、ものすごく風情があるのですが。残念ながら当時はなかったもの。なぜなら、池の背後にある山が、小早川隆景が陣取った山でして。もしも手前が池だったら、どうやって攻め込むのか、ですよね。

槌山城・豊穣池2

小早川隆景が陣を置いた山

城の姿

槌山城・遠景

煙硝屋敷付近から見た槌山城の遠景です。このくらい離れたほうが、全体像は分りやすいですね。

登山道入口

槌山城・登山道入口

こちらが登山道入口です。このほかに案内看板もあるため、ちょっとごちゃついています。またしても、東広島市おなじみの毛利元就看板がございますね。しかし、正直なところ、ここは、大内氏の守護山というよりも、毛利三兄弟大活躍の城跡というほうが正しい気がするので、この看板が置いてあるのは当然かと。そう言えば、鏡山にも同じ看板があるのは、「落とした」のが元就だからですね。

山道

槌山城・山道

だいたいにおいて、道はこのように整備されております。植生から道の雰囲気から、門山城にそっくり。

災害の爪痕

槌山城・集中豪雨跡

途中、集中豪雨の災害跡が見えました。元はこちらがルートだったようなお話もあり、自然の力の脅威に驚かされるばかりでした。

分岐点

槌山城・分岐点

鬼が丸(隆元本陣跡)と槌山城山頂の分岐点です。なんだか、隆元本陣のほうが、看板がデカいんですが。なお、鬼ヶ城までの道のりはそこそこ険しく、ここで、行く人・行かない人に分れました。

山道(鬼が城へ)

槌山城・山道(鬼が丸へ)

道が険しいということで、半数の方々は下で待機するほうを選びました。岩だらけ系の道、ということでしたので、登っていくグループに参加。見ての通り、普通に道がついています。が……。これ以降、写真は一枚もありませんでした。撮影する余裕がなかったと思われます。

鬼が城遠景

槌山城・鬼が城遠景

遠目に見た鬼が城はこんな感じです。看板には鬼が「丸」と書いてあり、そもそも槌山城の一部が占拠されちゃったみたいなことだと思いますが、何となく鬼が城と書いています。呼び方は色々のようなので。

鬼が城頂上

槌山城・鬼ヶ城山頂

山頂はえーー!? というくらい何もない上に狭かったです。真向かいに見えているのが槌山城の郭ですが、木が生い茂って、展望はほとんどなし。なお、この狭さでは、到底大将本陣とは思えません。せいぜい見張り台を設置することが可能なくらいです。削平地全体の写真がないのも、狭すぎて、全体を入れようとしたら落ちてしまうからだったからかと。疲れた……。「城」ではなく「丸」となっているのも頷けますね。

槌山城・鬼が城山頂2

こんな具合なので、あまり整備もされていないようですね……。時期も悪すぎて木が生い茂ってました。

木製階段(150段)

槌山城・木製階段150段

これより先は岩だらけとなります。いっぽう、背後に見える看板には「木製階段150段」と書かれています。地元の方々のお陰で整備された階段が150段続いて行きます。

槌山城・大岩

階段が途切れているところにあった大岩。かつて城を構成していたパーツだと思いますが、なんだろう。

槌山城・階段

虎口

槌山城・虎口

ほかの写真はすべて、同行の方が写り込んでしまっていたので、ちょっとわかりにくいですが、これ、虎口。見えてないけど、もう一つ岩があって、入りづらい造りになっています。

展望(一)

槌山城・展望

山頂までもうひと息なんですが、ちょっと開けた場所から眼下が見えました。

切岸

槌山城・切岸

切岸は近世になると石垣に変化していきます。ここはまだ、単に補強のために石を埋め込んであるだけ。石は当時のものです。

矢竹

槌山城・矢竹

150段の階段を上り、見晴らしのよいところに出た後、再び、山城らしい山道が続きます。その先に矢竹の林が広がっていました。

山頂

槌山城・山頂

山頂に到着しました。城跡碑(こちらは木製でした)と山頂案内看板。とにもかくにも、これがないとね。しかしです。看板には少し問題が……。

槌山城・案内看板

恐らくはここに書かれていただろうと思われる縄張り図が消えてしまっています。最初、下の看板にあるだろうと思いましたが、帰宅後調べたらない。こまるじゃん。

展望(二)

槌山城・山頂からの展望

頂上からの展望は素晴らしかったです。眼下に見えているのは、日本の美しい村100に選ばれている吉川村の風景なんです。

附・煙硝屋敷

槌山城・煙硝屋敷

こちらは、槌山城からほど近い場所にある「煙硝屋敷」なる遺構です。要するに、城内で使うための武器を製造していたところです。名前が「煙硝屋敷」などとなっているので、鉄砲だの火薬だのを作っていたように思われますが、実態は不明のようです。下の看板説明文にある通りです。

「焔硝屋敷
文政2(1819)年成立の「吉川村郡誌下調帳」によれば、
「焔硝屋敷 槌山在城之節 煙硝蔵屋敷と申伝麓田畠の中に凡五畝程其跡残れり。
槌山城の煙硝庫(火薬庫)があったと伝えられています。
市道の建設によって一部破壊されていますが、35×35mほどの方形の平面を持ち、周囲に土塁が残っています。
非常に小規模で堀も確認されていないことから、方形館としてはやや特殊な遺跡といえます。
煙硝庫があったとされますが、槌山城が機能していた時期は16世紀中期で、鉄砲が本格的に使われるようになる時期よりもやや早いため、実際に煙硝が保管され ていたかとうかは明らかではありません。
東広島市教育委員会
平成27年度 まちづくり  吉川村づくり推進委冒会」
(看板説明文)

槌山城(東広島市市八本松)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒739-0151 広島県東広島市八本松町原
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

最寄り駅は八本松です。しかし、曾場ヶ城のように駅から徒歩圏内に登山口はないため、そこがたいへんです。タクシーなどで行った場合、下山まで待っていただくことは難しいですから。でも到底歩けない(車で30ほど)ですので、小回りのきくバイクかレンタカー(駐車場あり)ですね。むろん、付近にお住まいでしたらマイカーでも可能です。

またしても廿日市の先生のお車に乗せていただいてしまいました。ありがとうございます。

参照文献:『安芸国の城館』、『賀茂郡史』、『日本の城辞典』、『兵どもの夢の跡』、『ブラアリタ』(非売品)

槌山城(東広島市八本松)について:まとめ & 感想

槌山城(東広島市八本松)・まとめ

  1. 大内氏の安芸国における直轄地・東西条での最後の拠点となった城跡
  2. 三十代当主の時、漸く念願の安芸国の守護となったのも束の間、続く三十一代当主(義隆)は家臣の叛乱で死に追いやられてしまう。叛乱家臣らが最初に行なったのは反対派勢力の撃退。この城には、親義隆派と見なされる武将たちが詰めていたとされ、叛乱者に味方した毛利家によって城は落とされた
  3. 安芸国内の城については毛利家の好きにしてかまわないという取り決めに従い、城は毛利家のものとなったが、その後、この地で戦闘が起ることもなく、そのまま使われなくなって消滅したらしい
  4. 毛利家ゆかりの家臣らの〇〇家文書くらいしか、史料がないため、落城までの過程はあまりはっきりしない。軍記物の類には数多くでてくるようだが……
  5. 数少ない史料に軍記物(あまりに荒唐無稽な部分を除く)なども加味して考えるに、毛利隆元を大将として、吉川元春、小早川隆景とそれぞれの家臣団、それに毛利家に与する国人等も動員して軍勢4000ほど。対する城内のものは、平賀隆保のような特別待遇を受けていたものを除けば、普通に東西条城番として詰めていたことがある地元の将兵等。人数は三桁ほどとも言われる
  6. 毛利方圧倒的有利な中、隆元は力攻めはせず、ゆっくりと囲む策を取る旨下知したが、吉川勢がいきなり切岸を上がって戦闘を開始。
  7. 結局、敵の城まで橋を渡すような形で攻め込み(ここは軍記物だろう)、為す術ない城中の者たちは、あっけなく降伏した
  8. 毛利隆元が本陣を置いたという「鬼が丸」という郭がみどころの一つとなっているが、総大将の本陣というにはあまりにも狭く、せいぜい見張り台くらいの広さ。しかし、本陣と思わせれば敵は恐れをなすに違いない敵陣の間近にある
  9. 市の史跡に認定されており、地元の方々が整備してくださっているお陰で、比較的登りやすい上、山頂からの景色は絶景

東西条の城跡すべて(大内氏守護所としての)を見尽くす、という夢は叶いました。しかし、ここが最後と思うと寂しい気分でいっぱいです。今回ちょっと体調不良でして、写真もろくに撮れていませんでしたし、熱量はいつもと変らなかったのに、せっかく拝聴したお話を記憶しておくスペースが故障していたようです。お話の内容は、きちんと文字起こししてくださっている、そこらの解説本も真っ青な資料の数々にすべて書いてくださってあるので、いくらでもより深い復習ができます。にもかかわらず、なんとなく、文字を読むのも書くのも疲れます。

この項目はリライト必須になること前提で、現時点での感想を記しておくとすれば、どことなく悲しい城跡、それに尽きます。落とされた、という意味では鏡山城も同じです。曾場ヶ城は戦闘すらないまま使われなくなりました。でも、彼ら(何となく擬人化したい気分)には、「かわり」がいました。次を託せる新しい城が順番を待っていたのです。この城だけはそれがありません。世の人は厳島の合戦云々、防長経略云々と言い、自らもそれらを経て終わったのだと思っていました。でもなんか違う気がしています。意義づけとか良い悪いとかそういうことは置いておいて、当主が家臣のせいで寿命を全うできないという状況に追い込まれた、結局は国として、そこで終わってしまったような気がしたのです。彼(誰とは言わない)には長期的ビジョンがなかった。そうかもしれません。けど、毛利元就だって、天下取れてないんですよ。そもそも取る気もなかった。あとから来て「天下人」とやらになった連中ってなんなんですかね。多分次元が違う話なんでしょう。

全部見ちゃったら、東広島のガイドさんたちにお目にかかれなくなってしまう。それが寂しくて。でもね、城跡はなにも守護所だけじゃないんです。それに、今回の旅もまだまだ続いています。気力があったら続けますね。

こんな方におすすめ

  • 山城巡りを趣味とする人
  • 毛利三兄弟の活躍の跡を確認して回っている人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

やっぱりさ、吉川元春は勇猛果敢な人だよね。俺もこういう人の配下になりたい

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

は、配下!? 君は自らの身分を知っているの!?

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

だって、どうせ滅んで家来になる運命だろ? だったら、自分で気に入った人のところに配属されたい。お前、口きいてくれないかな。もみじ饅頭とちから餅好きなだけおごるからさ。お前なんぞにそんなコネはないか。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

ようやく毛利家の偉大さに気付いたか。でも残念ながら、お前なんぞには1億年早い。「嫌われてるから」。

五郎吹き出し用イメージ画像(涙)
五郎

ミルも同じこと言うんだけど、何でだろ? 俺、毛利家に嫌われるようなことやってないんだけど。会ったことすらないのに。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

そんなことより、ガイドさんたちが言ってたように、こんなところでわずかな人数でやられるの待ってる人たちの話のほうが悲しい……。いったいどんな思いだったんだろうか。行きがかり上そうなったって感じがしてならないんだけど。助けてあげて欲しかったよ。無理だったのかな……。

鶴千代吹き出し用イメージ画像(仕官)
鶴千代

元就公がなさることに間違いはあり得ない。だが、時には思うに任せぬこともある。やはり、何者かの風下に立たされていてはならないのだ。これも中国地方の安寧のため……

ミル吹き出し用イメージ画像(怒る)
ミル

そこまで言うなら、天下取ってください!

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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安芸紀行 五郎とミルの広島旅日記(目次)
安芸紀行 五郎とミルの広島旅日記(目次)

#hitひろしま観光大使に任命された五郎が、ミルと一緒に旅した安芸国の旅(目次ページ)宮島と廿日市は訪問回数最多ですが、ほかの都市は訪問先がばらけてしまっていますので、こちらにまとめています。

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