この記事を見てわかること
- 月山富田城の歴史(言い伝えも含む)
- 難攻不落の城としての概観(地理的要素、尼子十旗、尼子十砦など)
- 主なみどころ(写真付き)
- みどころを満喫するためのおすすめルート
月山富田城と尼子家に関する資料は大量にあります。一度ではとても消化しきれないため、今後も新たな情報が加えられていく予定です。なお、この記事で取り扱っているのは「城そのもの」です。紙幅の関係上、城を舞台とした合戦については場を改めています。
島根県安来市広瀬町の月山富田城とは?
出雲の尼子経久が、山陰に覇を唱えた時の本拠地です。富田城じたいは、『平家物語』の悪七兵衛景清が築いたという伝説まであり、誰がいつ建てたのが最初かはっきりしません。要害の地ゆえ、さまざまな勢力がそのつど城を築いていたかもしれません。
尼子氏が中国地方で一二を争う大勢力となったとき、同じ中国地方の巨大勢力大内氏と衝突しました。経久の代には正面切っての激突はありませんでしたが、孫・晴久の代にはついに直接対決に及びます。結果は大内側の惨敗に終わりました。そんな大内氏も毛利家に滅ぼされ、つぎは尼子氏にも襲いかかります。城は落ち、当主は毛利家の庇護下に入りましたが、富田城のほうはその後も主を替えながら十七世紀まで存在していました。
国史跡に認定され、たいへん整備が行き届いた山城跡です。
月山富田城・基本情報
名称 富田城、月山富田城
立地 丘陵頂~麓部△
標高(比高) 183.8メートル(160)※
築城・着工開始 12世紀頃△
築城者 佐々木氏か△
廃城年 1615※
廃城主 堀尾氏※
遺構 郭、石垣、堀ほか△
文化財指定 国史跡
(参照:『兵どもの夢の跡』※、『日本の城辞典』△)
月山富田城・概観
ルートは完全に整備されており、基本は、案内図の通りに往復するとすべての遺構を見ることができるようになっています。行く先々に順路看板もたっておりますので、見落としも少ないと思われます。これほど親切な城跡もないですので、見落とすことがないよう、丁寧に見て行きましょう。
どれほど整備が行き届いていると書かれている山城跡でも、本丸以外の樹木は伐採されていなかったりします。予算の関係もあり、その辺は仕方ありません。しかし、月山富田城に関してはそれはないです。綺麗さっぱりと刈り取られております。ただし、雑草の蔓延りや、悪天候による通路の歩きにくさといったイレギュラーな時節に遭遇してしまう可能性はゼロではありません。絶対に安全、視界は常に良好とはなりませんことをお断りしておきます。
順路
往路:巌倉寺(堀尾吉晴の墓、山中鹿之助供養塔、能楽平)⇒ 大土塁⇒山中御殿 ⇒(親子観音)⇒ 七曲り ⇒(山吹井戸)⇒ 西袖ヶ平 ⇒ 三の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸(山中鹿之助記念碑、勝日髙盛神社)
復路:山中御殿 ⇒ 花ノ壇 ⇒ 奥書院 ⇒ 太鼓壇(山中鹿之助の像)⇒ 千畳平(尼子神社)⇒ 歴史資料館
しかし、この案内看板にあるのは、本当に優等生的なモデルコースでして、実際にはそこここの看板を見付けたらそっちに行くということの繰り返しで、どこに行ってもそれなりのみどころが必ずあることが災いして満腹状態となってしまいます。意外にも、すべてを見尽くすことは難しいかもしれません。帰宅後、地図と写真をにらめっこしつつ、あれ? 見てない……となっているものが何かしら出てくるはずです。それが嫌な方は、モデルコースを徹底するしかありません。
月山富田城・歴史
悪七兵衛景清伝説
この地に初めて城を築いたのは、『平家物語』で有名な悪七兵衛景清だといわれています。
景清が城を造っていたということに出典は認められませんが、立地条件の良さなどから尼子氏以前にも防御施設として目を付けていた人物が存在したのは大いにあり得ることです。少なくとも、佐々木氏が出雲守護となった最初の人、佐々木義清が、何かしら城砦として使われた痕跡があったようなないようなこの地を再建し、最初の「月山富田城」を造りました。
そののち、尼子持久が伯父でもある当主・京極高詮の命で出雲守護代となって入国。この月山富田城を本拠地としました。我々が尼子 = 月山富田城、月山富田城 = 尼子と普通に認識しているのは、文字通りこの城が、山陰の勇・尼子家の牙城となっていたからですが、そのスタート地点はこの時です。
かの毛利元就は、毛利家が着々と力をつけていくに従って、本拠地・吉田郡山城を増改築し、立派なものに建て替えていったといわれています。同じく、月山富田城も、尼子家をいきなり山陰地方随一の大勢力までのし上げた経久の代に、大いに増改築されました。その「増改築」ぶりはすさまじく、まさに「難攻不落」といってもよろしい堅城へと生まれ変わりました。道理で大内義隆がヘロヘロで攻めかかってもびくともしなかったはずです。それでも、のちには毛利家に落とされてしまいますが……。
堅城といっても、それを守る人、攻める人の能力値によってどれだけ頑張ってもびくともしないか、苦労した挙げ句、ついには陥落してしまうかのいずれかにわかれるのですね。毛利元就でなければ、月山富田城は落とせなかったでしょうし、城に籠もっていたのが尼子経久だったら、攻め手は諦めて立ち去るほかなかったかもしれません。毛利家によって陥落させられた時の当主が小粒の義久だったこと、大遠征の結果落とせなかった大内軍の総帥がへなちょこの義隆だったこと、どっちも災いしていたと感じます。
月山富田城・概観
Googlemap で「月山 島根県」と調べると、確かに「月山」なる山が探せます。けれどもこの「月山」、指名検索しないと出ては来ません(普通に付近の地図として広げても名前は載っていない。例えばたまたま付近にあった『広瀬温泉 憩いの家』と入力して検索すると『月山』とはどこにも書いてない)。これはもう、「月山富田城跡」ってことで、お山と城とが一つものになってしまっているのだろうかと想像します。
月山はそれ一つで独立したお山となっている「独立峰」とかいう類の山で、何たら連峰、何たら山脈のように山々が連なっている、という山ではないそうです。とはいえ、付近はあれこれの山に囲まれており(だったら何たら連峰にはならないの?)、守るに固い要害の山です。
よく、鎌倉は三方は山、一方は海で守りに固く云々といいますが、ココ月山も三方を山に囲まれています(このように聞くと、残り一方は囲まれてなくて不安だが……)。東、西、南方が山ということですので、北方だけが開けている、となります。
うーんと、まず月山の東から順に見ていくと、日向丸、独松山が、西は城下町で飯梨川が流れ、川の向こう側が三笠山、経塚山、駒帰り峠、京羅木山、滝山(勝山)、南は大辻山、蓮華峯寺山、北は平野って感じです。と、ご本には書いてありますが、地図にこれらの山は見付けられず。唯一、飯梨川だけはわかります。
山の名前などはとにかくとして。「月山富田城○○」となっているものを探すと、地図をチラ見しただけで、山ほどの史跡があり、何やらドキドキしますね(下部 Googlemap ご参照くださいませ)。
月山富田城といったら「難攻不落」。そもそもなんでそんなに固いのか。これは色々なところで飽きるほど語り尽くされてきたことではありますが、ちょいとまとめておきましょう。
一、中に入ることができる入り口(つまりは門、城門)がわずかに三ヶ所しかない
二、その三ヶ所がすべて異常に固く、なんとか入れたとしてもさらに上を目指すためには、非常に急峻な坂道を上らねばならない(七曲り)。
三、城の東、西、南が山に囲まれていて自然の防衛線となっている
四、「尼子十砦」という十の支城に守られている
五、さらにその外側を、「尼子十旗」という十の堅城が守っている
入りにくい入り口をクリアし、上っていくのが困難な道をどうにかこうにか上っていって、ようやく山頂まで辿り着けるわけですが、三つの門から内へ入れる敵からして、ほぼ「いない」(=無理)造りです。
加えて、「尼子十旗」「尼子十砦」といって、月山富田城に辿り着くまでに、敵軍は尼子家の精鋭たる家臣団が守る「支城」「堅城」の類を攻略しつつ進まなくてはなりません。そもそも本城まで辿り着くことも困難であったんです。
三つの城門
城を守る三つの城門は、それぞれ菅谷口、御子守口、塩谷口といい、それぞれ城の北、西、南に位置しています。それでは、東側には入り口はないのか? といえば、東側も何も、この三ヶ所以外はすべて千仞の谷です。さすがに入り口がひとつもないと、本人たちも困りますから、なんとか三ヶ所の城門を設置。けれどもいずれもやたら堅固な防塞に守られており、ちょっとやそっとでは突破できません。
入口案内看板をお借りして、かつての三つの入口跡を確認します(黄色枠)。当時は菅谷口が本道だったらしいですが、現在の登山道は御子守口から入っていくように整備されています。
この三つの城門はいずれも、「大手門」という一つの門に続いており、そこが登城の道となります。この道が「七曲り」と呼ばれるすさまじく急な上り坂であり、途中幾重にも防御装置が張り巡らせられているため、何とかこの道まで侵入できたとして、無事に上っていくのは並大抵なことではないと思われます。
それでもなお、無事に「登城」できたとすれば、二の丸、本丸は山頂の削平地にあります。
石垣
オダノブナガとかに詳しい人ならば(?)「穴太衆」という方々をご存じのことと思います。かつて、戦国系歴史SRGでそれらの人たちに石垣を造ってもらい、城を建てるなんてことをやっていました。つまり、穴太衆=石垣を造る専門家みたいに想像していた(ちなみに当時はアナタイとか読んでいました。恥)。要するに、いくら頑張っても大内家云々にこれら「穴太衆」は出てきません。だって、城なんて造らず、雅なお館で暮らしていた方々なので。あまり縁がなく、どうせオダノブナガとかの時代の産物だろ、って思っていました。
ところが、月山富田城の石垣はこれらの方々の手になるものです。大内歴代で尼子経久とやり合ったのは最終盤のご当主方とはいえ、戦国もまだ初期の頃に、こういう石垣職人がすでに活躍している、っていうのがスゴいです。彼ら近江の出身ですから、尼子家は京極家繋がりでそれらの方々にお願いすることができたんですね。
で、それらの石垣が遺構としてあちらこちらに残っているそうなのですが、先程出てきた「大手門」辺りの石垣はことに厳重に造られており、そこまで入って来られる連中(敵)も少ないとはいえ、とても大切な場所であったことがわかるそうです。
※しかし、この城は近世になっても、主を替えながら存続していましたので、その時期に造られた近世石垣と区別することは大切です。
周囲は要害山だらけ
天然の要塞となってくれる山に囲まれていたってことですが、コレ、名前を羅列するだけで「あ!」ってなります。日向丸、経塚山、独松山、大辻山、三笠山、京羅木山、宮尾、滝山(勝山)、勝日山……。つまり、月山富田城を攻撃した際、大内方が本陣を置いたところの名前なので、見覚えがあるのです。
経塚山 ⇒ 陶軍本陣
京羅木山 ⇒ 義隆本陣
宮尾 ⇒ 毛利軍本陣
例によって、適当に画いてみるとこんなです。いちおう、敵軍のちっこいほうの〇は新宮党の方々(のつもり)。単にこんな風に向かい合っていました、というだけなので、精巧なものとお考えにはなりませぬよう。
毛利軍が本陣を置いたところ、宮島の宮尾城を思い出してしまった……。ちなみに、経塚山というのは、尼子持久が経塚を作った場所だということです。ほかの○○山にもそれぞれ曰くがあって、なかなかにそそられます。
たとえば、日向丸なる山は、悪七兵衛がこの地に築城していた時、仮の館を造って住んだところ。また、同じく、どのような城を建てようかと思案したのが大辻山。これだけ伝承があると、初めてこの地に城を建てたのは藤原景清であるという話も本当に思えてきます。
また、三笠山は月に願いを~で有名です(これだけでわかった人は相当の尼子贔屓)。
「願わくは我に七難八苦を与え給え」
月山富田城ではことに「西方」を「防備をもっとも厳重にした」といいます。コレ、何でなのかよくわからないのですが。北方だけがなぜか開けていたはずなので、西方にも山はあったと思われ、防御が手薄な地域とも思えないけど。ですが、大内軍攻めてきた時、普通に西側から来たんですよね。まあ、地理的に見て、当然周防長門は出雲より西にあるわけですが。大内意識して西側の防御に力を入れてたってことなのかな? 「もっとも厳重に」してたところから普通に来てしまう軍略もいかがなものかと思いますが、当時の道がどうなっていたかもわからないので、何とも言えないです。
目茶苦茶恥ずかしい図によって防衛線とやらを記してみると、以下のようになります。
敵が城に侵入するためには、尼子十旗を突破し、十砦も落とし、川を越えて、城下町を通過し、堀を越えなくてはなりません。普通に考えてエラい面倒ですよね。それでも敵はやって来ました。遠征途上にあった、尼子配下の赤穴城を抜くことができず、難儀したようです。とりあえず、今回は観光資源の紹介なので、戦闘については置いておきます。でもって、十砦のいくつかに本陣を置いているってことは、それらも落としたわけです。
思いも掛けず、すぐ傍までやって来て、それなりピンチな感じがしますね。まだ、川と堀がありますけど、船あれば普通に渡れるし、橋すら架けられますからね。一手間かかるとはゆえ。まあ、結論から言ってしまうと、敵は惨敗して這々の体で逃げ出して行ったので、城はびくともしなかったのですが。
尼子十砦
「尼子十砦」とは、月山富田城を守る文字通りの「砦」。「通信・連絡」の砦としての役割を果たすほか、本城の「外壁」でもありました。
1、安来市安来町十神山城
2、安来市神庭横山
3、能義郡広瀬町祖父谷三笠山
4.安来市安来町赤崎城山
5、能義郡伯太町東母里亀遊山
6、能義郡伯太町赤屋下十年畑高尾山
7、安来市安来町飯生高守山飯生城山
8、能義郡広瀬町下石原勝山
9、能義郡広瀬町下田原蓮華峯寺山
10、能義郡伯太町安田関要害山
(参照:『月山富田城跡考』ほか)
ちょっと地図を画くことが難しくて、名前だけ羅列されてもイメージ湧かないかと思うのですが……。ほとんど、周辺の山のことです。
なるほど。さきほどの、城を取り囲む要害山として挙げたうちの三笠山と勝山とは、「尼子十砦」だったんですね。ということは、月山富田城攻めの際に本陣を置いたという経塚山などとこれら十砦との位置関係はぜひとも知りたいところなんですが、地図がない……。
尼子家がこれだけ徹底的に難攻不落の城造りをしていたのを見るにつけ、大内家に「城がない」っていうのがものすごいことだと思う。もちろん、城はありましたが、それ、ご当主さまが入る場所ではないわけで。当主は守護館で雅な宴会ですよ。城は家臣が「いちおう」入っとくためのものです。のちに戦国の世が到来するなんてことは、夢にも思わない時代の方々なので、それでよかったわけですが(とはいえ、同じ時期の守護でも、安芸武田とかちゃんと銀山城あったわけで、守護大名=城がない、ってのとも違うとは思うのですが……厳島神主家すら桜尾城あったじゃんね。いったい、何を考えておられたのだろうか)。むろん、文武両道の当主さま方なので、他人の城を攻め落とすことはやっています。けれども自らのそれを持たない=誰からも攻められないほど強い、ってことで、まさにとんでもない話。二十九代、ギリギリ三十代まではそれでよかったのですが……。危機管理能力ない当主って、淘汰されて当然ですわな。
『危機管理能力』とはいかなるものか? あとで相良に調べさせておくとするかの。
尼子十旗
「尼子十旗」とは、十砦よりもちっと規模が大きめの文字通りの城です(十砦は『砦』ですよね、多分)。名だたる家の方々の本城でもありました。以下十の城をいいます。
1.白鹿城、白鹿山(松江市法吉町)、松田氏の居城
2.三沢城、要害山 (奥出雲町鴨倉)、三沢氏の居城
3.三刀屋、古城山(雲南市三刀屋町古城)、三刀屋氏の居城
4.赤穴城、瀬戸山(飯南町下赤名)、赤穴氏の居城
5.牛尾城、三笠山 (雲南市大東町海潮)、牛尾氏の居城
6.高瀬城、高瀬山(出雲市簸川町学頭)、米原氏の居城
7.神西城、竜王山(出雲市東神西町)、神西氏の居城
8.熊野城、要害山 (出雲市八雲町熊野)、熊野氏の居城
9.馬木城、矢筈山 (奥出雲町馬市)、真木氏の居城
10.大西城、高佐山(雲南市加茂町)、大西氏の居城(もと鞍掛氏、この城のみ当主がはっきりしない)
十砦に比べて、十旗はそれぞれが独立した「城」であり、尼子家の支配下にある城主たちの居城です。月山富田城から見たら「支城」という感じでしょうか。「尼子十旗」と呼ばれるくらいなので、そう簡単に敵に寝返るようなメンバーを配置していたとは思えませんので、「月山富田城へ向かいたいならば、まずは我らのこの城を抜いていけ」てな感じで、そこまで言っちゃう(想像)くらいだから、どれもそれなりの堅城だったかと。でもって、配置上も、敵が月山富田城へ向かう際に、必ず通過せねばならない要所にあったはずです。
所在地を見ればおわかりの通り、これはもう、月山富田城周辺というよりも、出雲国全体に配置されています。すべての城(跡)を見て回るなんて余裕はあるはずもないので、個々の城についてのイメージがまったくわきません。けれども、これらの城もまた、名を聞くだに……って感じですので、想像したくないもないですね。
尼子家も経久の代が最高で、その子孫は今ひとつでしたから、これほど完璧な防御システムを構築しても、結局は毛利に滅ぼされてしまったんですね……。尼子晴久はそこそこ普通に武将でしたが、そのまた子どもの代になると……。いずれにしても、経久とは比較になりません。そうなると皆、嫡男の政久が不幸な死に方をしなかったとしたならば……とか考えるわけですが、でもさ、仮に嫡男がとてつもなく優秀だったとして、結局その後はその息子が継ぐってことになるわけなので、結果はまったく同じことです。
ただまあ、年齢的に、政久が存命ならば、吉田郡山攻め落とせずに逃げ帰るとか、月山富田城で大内毛利撃退するにしても、もっと徹底的にやるとか、多少違ってたかも。吉田郡山城1ミリも落とせなかったっての、未だに謎だし。落とせもしない城ならば、攻めてどうすんの? って思うし。経久が月山富田城を難攻不落に造っておいてくれてなくて、敵の総大将がア×じゃなかったら、普通に落とされてしまっていたような気もするし……。むろん、若死にした政久さんが、どれほど優秀だったかなんて、わかりはしませんけど。何なら兄弟間で相続して、国久とか頑張ってたらダメだったのかなぁ。武辺一辺倒の人っぽいけど、甥よりはマシな気がした。
尼子氏の滅亡とその後の富田城
毛利家に城を落とされたことで、尼子氏は滅亡してしまい、城も使われなくなってんだろう、と思う方が大半かと思います。「が」違います。この城を拠点とした最後の当主となった尼子義久は、毛利家に降伏し城を明渡しましたが、命まで奪われることはありませんでした。暫くの間こそ、幽閉状態にあったものの、毛利家に養われて細々と命脈は続いていったのです。その後、周防長門に移った毛利氏に従って、同じく防長の地へ。土地まで賜って、悠々自適な余生を送った模様です。ただし、義久には実子がいなかったため、ともに毛利家に身を寄せていた弟・倫久の子が跡を継ぎます。その養子は、毛利家臣となりました。のちに佐々木と改姓したようです。元々佐々木姓だったので、先祖回帰したって感じでしょうか。生死の境目を経験するほど、激しく争ってきた大敵の子孫を、命を奪わぬどころか、面倒まで見てくれる。毛利元就の度量の大きさには驚かされますね。そのくらい、尼子家には何の力もなくなっていた、と考えれば寂しくもなりますが。
滅亡したと思われているのは、その後に山中鹿之助の「尼子再興軍」などが出て、人気が高かったためでしょう。別に滅亡してないのなら、「再興」って何? と思いますが、かつて山陰の勇だった時の尼子氏の姿を取り戻したい、ということだったんでしょう。今も山中鹿之助さんの忠義の物語は皆の憧れみたいで、城跡にも銅像が立っていたり、記念碑があったりとあれこれです。気持ちはわからなくもないけれど、歴史の流れには逆らえません。さすがの毛利家も、領国の治安を乱しかねない動きを放置してはくれません。何しろ、あろうことか、どこぞの大量殺戮魔王と手を組んだくらいですから。まあ、それもお家再興のためと思えば仕方なかったのでしょうが。両者ともに仕方ない状況下、その忠義のほどに感服はしても、「再興軍」なる反乱者を自由にさせておくわけにはいかず、毛利家によって成敗されました。しかし、どんだけ地元の方に愛されているんですかね、このお方。いや、全国にもファンは多いと思いますよ。
さて、尼子義久らは、命が助かったとはいえ、そのまま富田城の城主の身分は続けられません。だったら、やっぱり城はなくなったんだろうと思われます(思っていました)が、じつはその後、六人もの人が城主として城に入っています。最後の堀尾という人(いったい誰!?)に至るまで、持ち主は転々としたのです。安芸国人・天野、毛利元就の身内などが入っていたのは、わかります。つぎに吉川広家さんが入ったのも、毛利家の意向かと思いきや、ここは違います。「天下人」とやらの命令で、国替えとなり、引っ越しさせられたのです。この時、富田城から米子に移ろうと新城建設を始めていましたが、「天下人」とやらが交代。堀尾なる人が来たのは、つぎの「天下人」の命令により、またあれこれの国替えが行なわれたせいです。
申し訳ありませんが、何者かわからない堀尾さんは、二代目の時に、富田城を廃城にした模様です。何せ、「一国一城の制」とかいう悪法が出たので、恐らくは国替えになった記念に、弘家さん同様、新しい城を造ったんでしょうね。そっちをメインにするために、壊したんでしょう。
大内愛一筋でも墓マイラーでもある友人はこの方のお墓にお参りすることを楽しみに、月山行きを計画中ですが、教養ある方は何がメインテーマでも幅広い知識と深い教養を身につけておられるので、「誰?」とかならないんですね。当方、真面目にきいたこともないです。興味も湧きませんでした。
月山富田城城主変遷
尼子清定 ⇒ 尼子経久 ⇒ 尼子晴久 ⇒ 尼子義久 ⇒ 天野隆重 ⇒ 毛利元秋 ⇒ 毛利元康 ⇒ 吉川広家 ⇒ 堀尾忠氏 ⇒ 堀尾忠晴
参照:月山富田城パンフレット
月山富田城・みどころ
非常に整備が行き届いた城跡です。地元の方々が、どれだけこのお城を大切になさっておられるかがとてもよくわかります。普通、観光客誘致や地元の方々のハイキングコースなどとして整備されることが決まった山城跡でも、すべての樹木を伐採するだとか、かつての建物を復元するだとかまでやっているところは少ないです(むろん、全国レベルで探せばいくらでもあると思われますが、ゆかりの地以外は行かないので、いくら整備をしてくださっていても恩恵はありません)。
堀とか堀切とか切り岸とか、あれこれ教えていただき、その場ではなんとなくそうかなと思えても、素人写真ではなかなか現場の雰囲気を写し取れず。「写真だとわからなくなるだろう」と仰ったご案内の方もおられたので、これはもう、致し方ないと思っていました。わかりづらくなってしまう理由で最大なのは樹木です。帰宅後写真を見ると、すべて樹木に埋もれてしまい、なんかの林だ……となっています。
写真などどうでもいいのですが、かつてはなかった樹木の存在は、当時の城の姿を想像する時にも邪魔となります。ここからなら、敵の動きは手に取るようにわかったろうねぇ、などと仰る先生の横で「木があるからなんも見えないじゃん」と常に思います。先生方が城跡から下を見下ろす時、あるはずの樹木は自動的に視界から消えるみたいで……。専門家ではないので、かつての様子などそこまでわからなくても仕方ないか……と思いつつも、まったく手入れをしていないところだと、山頂からの展望すら埋もれて見えません。
その点、コチラ、月山富田城は樹木がきれいさっぱりなくなっており、石垣も土塁も切り岸も手に取るようにわかるようになってます。素晴らしい。
城の姿
いきなり駐車場付近から撮影しているので、遠景ではないですし、城の全体像も入り切りませんでした。でもほかに写真がなかったので。
登山道入口
山道開始はもう少し先になります。「御子守口入口」という矢印看板が見えています。
山道
いかにもな雰囲気になってまいりましたが、まだ道は舗装されており、ほんの入口にすぎません。しかし、御子守口はもう越えたようです。
巌倉寺分岐点
ここを入っていくと、モデルルートの通りになり、寺院と堀尾吉晴の墓などを見ることができます。巌倉寺は歴代当主の祈願所となっていた寺院、との説明があり(参照:『島根県の歴史散歩』)、見学可能かどうかは不明ながら、国重要文化財指定を受けている仏像が二体もあります。
墓マイラーの友人が、堀尾吉晴公のお墓を見たいと話していたので、ああ、その写真持っているからあげますと軽く言ってしまいましたが、無理でした。そもそも寺院に入らなかったので。墓所は境内にあるのです。
千畳平
千畳平と名のつく削平地がある山城跡は数多いですが、中でも月山富田城の千畳はマジ広かったです。後から訪問した、銀山城のそれが、狭いと感じられたほどです。同行者のお姿を隠すため、キャラ画像がデカすぎることが気になりますが、この広さ、伝わるとうれしいです。
太鼓の壇
味方を鼓舞するため、太鼓を打ち鳴らしたりした場所。現在は公園になっているようです。「太鼓の壇公園」という看板が見えています。太鼓の壇は別名「千畳敷」というそうです。上の「千畳平」とどこが違うのか不明です。
切岸
なんかちょっと、きれいに整備されすぎている切岸です。非常にわかりやすくて、助かるのですが、かえって物足りなさを覚える「通」もおられます。
尼子神社
尼子家代々の御霊が祀られているのでしょうか。説明看板らしきものが見えているのに、近付いて確認すべきでした。
山中鹿之助の像
「尼子再興軍」などと言ってみたところで、降伏した元当主は、毛利家に養われている状態。山中さんは新宮党の遺児を探してきて、再興軍の当主に据えます。この手の忠義の人は、敵側からみたらやっかいであると同時に、心を入れ替え、味方になってくれたらな、という尊敬の対象ともなり得ます。沼城の山崎さんとかを思い出しました。しかし、そういうお方に限って絶対に誘いには乗らないのが世の常です。まして、山中さんは元より毛利家が大嫌い。反抗的すぎて、手に負えなかったから成敗されてしまったのでしょうか。
先頃、はつかいち町歩きで、ガイドさんから衝撃的な話をお伺いしました。山中さんとは別のかたちで、江戸時代になっても毛利家に抵抗し続けたお方の物語です。毛利ってよほど恨まれてたんだなぁと思いました(笑)。
花の壇・復元建物
花の壇と呼ばれる削平地には、復元建物が建っています。これは、かつての侍屋敷などの復元物だそうです。
土塁
ここまでずっと、通った順番に時系列でご案内しております。そう、最初に掲げたモデルコースなど完全に無視されているわけです。もしも、モデルコースに沿ってきたのであれば「大土塁」が見れたはずです。これは小さいのかも知れませんが、いくつか見かけました。
山中御殿
さて、いよいよ山中御殿に到着です。山中なだけに、山中鹿之助さんと何らかの関係が!? と思いますが、無関係です。読んで字の如く、山の中にある御殿、の意味です。むろん、現在は何一つございませんが、かつてはここにあれこれの建物が建ち並び、居住空間として機能していたと考えられている場所です。
さて、月山富田城には三つの入口があり、それらすべては上った先で一つに合流し、そこにやっと本命の大手門が現われる、とご案内しました。現代の我々は御子守口から出入りしておりますが、かつての菅谷口、塩谷口の終点にあたるこの場所には、それぞれの門、さらに、大手門がございます。
塩谷口門(黄色枠内)
菅谷口門
大手門跡(黄色枠内)
雑用井戸
親子観音
「親子観音
親子観音は来待石製の宝篋印塔で、同じく来待石製の石廟に納められている。石廟の壁面全体には陽刻により四十九本の塔婆が表現され、それぞれに「空風火水地」の文字と四十九院名などが彫られている。宝篋印塔には、基礎部側面に「慶長十三年」,「十二日五日」と彫られており、伝承では、堀尾家お家騒動の首謀者とされ、 幽閉されたとされる、堀尾河内守とその子掃部(一説では勘解由) 両名の墓であるとされてきた。 しかし近年の調査により、宝篋印塔の基礎部に「桂岩院殿祥雲世瑞大居士神儀」(□ 内の文字は風化により読むことができない)と戒名が記されていることが確認された。
この戒名は、堀尾家の菩提寺である妙心寺春光院(京都府京都市所蔵の過去帳に記載されており、没年月日もこの宝篋印塔のものと一致しているが、俗名の記載はない。
さらにに堀尾義晴から忠晴まで仕えた家臣である、堀尾但馬が記しだとされる『堀尾古記』には,慶長十三年(一六〇八)の条に、 堀尾勘解由果てル、極月(十二月)五日京ニテ」との記述がみられることから、この戒名は勘解由のものと考えられる、よってこの墓石も勘解由のものである可能性が高いと考えられる。」
(看板説明文)
墓マイラーではないのですが、道すがらに見かけると撮影します。これが友人の求めているお方のものならよかったのですが、違うようです。
七曲り
くねくねと曲がる石段が延々と続きます。それゆえに七曲りと呼ばれるわけですが、ガイドブックなどに載っている、見事に曲がりくねった遠景写真を撮ろうと試みたものの……。
一番マシなのがこれでした……。草木が生い茂っていることもありますが、どうすれば、芸術的な写真が撮れるのかがっかりです。
山吹井戸
雨水が溜まっていて、それらしく見えました。
三の丸石垣
ここから、三の丸、二の丸、本丸と城の心臓部に入っていきます。それだけに、三の丸の役目は重要。立派な石垣が再現されていました。これらの石は、発掘調査によって発見された、当時の石を積み直したものです。
西袖ヶ原
七曲がりを登った先にあります。月山山頂の西側に面しているらしく、眺望がとても素晴らしいです。富田城は西側の防御に力を入れていたということですが、それは敵軍がこの城を目指すと西側から来ざるを得ないということの裏返しでもあります。よって、西側に位置するこの場所は防御を固めると同時に、迫り来る敵軍をしっかりと監視する施設などが完備されていたと思われます。
三の丸
綺麗に整備されているお陰でもありますが、とにかく広い。遮る物がなく、すっきりと見渡せるので、とても心地がよいです。
三の丸・展望
このような景色が見えるはずです。遮蔽物が何もないため、展望がすこぶるよいです。
恐らくは、これが京羅木山。しかし、現地の案内プレートに詳細に記されていたのは、毛利元就がこの城を落とした時の布陣でして、大内義隆云々は無視されていました(少なくとも展望案内では)。
二の丸
二の丸に来ております、ということを証明するための案内プレート。かように美しく整備されている城跡なのですが、けっこう案内看板類はこのような状態でして。むろん、文字は鮮明に読めるので何ら問題はないのですが、ちょっと勿体ない気がしました。
二の丸・石垣
本丸を守る最後の砦となる場所ゆえ、あれこれの防御施設があったようです。でも、現在それとわかるのは石垣だけでした。
本丸
勝日髙盛神社
本丸に鎮座する勝日髙盛神社さまですが、鳥居は三の丸にございます。
よくある城跡鎮護の神さまかと思いきや、勝日髙盛神社は延喜式式内社。ご祭神は大己貴幸魂神(おおなむちさきみたまのかみ)さまです。というようなことが『島根県の歴史散歩』には書かれており、なんとびっくりと思いましたが……。御由緒看板には、大国主命をお祀りしている神社で、尼子氏の時代には、代々城の守り神だったとさらっと書かれておりました。なお、同じ看板に「月山は190mである」と書いてありますので、ここが「山頂」の印ですね。
山中鹿之助記念碑
いきなり本丸に尊い神さまが鎮座ましましておられ、その上、ストーンヘンジみたいなものまで!? これはいったい何なのか、謎で仕方ありませんでしたが、山中鹿之助さんの生誕400年を記念して建立された記念碑でした。
盬冶興久の墓
尼子経久の三男、興久こと盬冶興久の墓です。見渡せば周囲に尼子家や堀尾家などのゆかりの方々のお墓は数多くあります。しかし、時間の関係もあり、墓マイラーでもないため(なんか、しつこいね)、通りすがりに見かけたものくらいしか撮影しません。むろん、その場ではどなたのものなのか、分らなかったりします。
帰宅後にびっくりでした。よりにもよって……という感じです。思えば尼子経久という人も気の毒な方です。尼子氏を彼一代にして山陰の覇権を握るまでの大勢力にした、文字通りの偉人です。ですけれど、子どもに恵まれなかった。自らが築き上げた勢力を託そうと期待していた嫡男の政久を戦で亡くし、死後のことにはなりますが、跡を譲った嫡孫の晴久によって、次男の国久らも粛清されてしまいます。そして、三男の興久に至っては、父に叛いて処罰されるという皆、それぞれに悲しい最期を迎えています。同じ西国の覇者でも、山陽方面の大内義興は、息子の命が家臣の手によって奪われました。
毛利元就のように、優秀すぎる三人の息子たちが、それぞれに活躍し、家を盛り上げていってくれるという幸せを味わうことができなかったのです。運も味方のうちと言いますが、本当にその通りです。本人に災いがふりかかったわけではなくとも、その子孫が寿命をまっとうできないなど、どれほど辛いことか。
月山富田城で撮影した最後の一枚がこれだったことに、何とも言えない気分となりました。
安来市立歴史資料館
あれこれと、お楽しみいっぱいのためになる資料館、ということで、楽しみにしていたのですが……何と、休館日。そんな馬鹿な……と思いましたが、気を取り直して、手前に幟旗が立っているお蕎麦屋さんで、出雲蕎麦をいただきました。そういえば、島根県の名産品の中に、出雲蕎麦あったよね、とあとで思い出したのですが、美味しいのなんのって。
資料館に入れていないので、また来なくてはなりませんね。
月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒692-0403 島根県安来市広瀬町富田
※Googlemap にあった住所です。
アクセス
遠いです……。最寄り駅は山陽本線安来駅ですが、そこからバスで30分ほどかかります。山城跡ってこんなもの……と思えばそうなんですが(市街地のど真ん中に存在する山城跡はほぼ開拓により破壊されている)、初めての場所にバスで行くのは……と考えた時に、30分は怖いです。タクシー代金すごいと思われますので。
駐車場完備なので、運転免許のある方はレンタカーがいいように感じます。
参照文献:『島根県の歴史散歩』、『月山富田城尼子物語・尼子氏ハンドブック』、月山富田城パンフレット、『尼子・大内・毛利六十年史』、『兵どもの夢の跡』、『日本の城辞典』、『月山富田城跡』、『月山史跡物語』
月山富田城(島根県安来市広瀬町)について:まとめ & 感想
月山富田城(島根県安来市広瀬町)・まとめ
- 山陰地方で勢力を拡大した出雲の尼子氏の居城
- 難攻不落の堅城として名高く、大内義隆の遠征軍を撃退した
- 尼子家の勢力をここまで大きくしたのは、経久の功績だが、嫡男は戦死し、三男は父に叛くなど、跡継に恵まれなかった
- 嫡孫の晴久が家督を継ぐが、経久ほどの器量はなく、その子・義久の代には毛利家によって城を落とされてしまう
- 義久は降伏し、毛利家に養われて長寿を全うしたが、跡継がいなかったので、同じく毛利家に身を寄せていた弟の子を跡継とした。その子は毛利家臣として、佐々木姓を名乗った
- こうして、尼子氏は月山富田城から去ったが、その後も城は残り、毛利家の手を離れた後は、時の天下人の命令で城主となった人々によって使われた。その中には、元就の孫・吉川広家もいた。しかし、広家が岩国に移った後、出雲に入った新しい当主はやがて拠点を松江に移す。こうして、城は役目を終えた
- 経久の子孫は落城とともに滅亡するということはなかったが、毛利家の保護下に甘んじているのを快しとせず、かつてのような強い尼子氏の復活を望んだ山中鹿之助は、「尼子再興軍」を起こし、毛利家に対抗した。しかし、望みは叶わず、ついには毛利家によって命を奪われた。鹿之助の物語は後世にも語り伝えられ、城内には銅像や記念碑がある
- 城跡は国史跡に認定され、地元の方々の手で整備され、極めて良好な状態が保たれている
去年の六月から書き進められずに頓挫していたものを漸くアップします。書き終えられたからではなく、いちおう書いたからです、尼子氏、月山富田城系の資料は数が多すぎて、到底まとめられません。さらに、整備されていなくて、なにもわからなかった……という城跡も困るのですが、あれもこれも整備されてクリアだった、というところもまた問題ありなんです。なんだか分る物が多すぎると、整理がたいへんで……。資料館が休館日だったのはむしろ有難かったかもしれません。
とりあえず、世に出したので、後はきちんとリライトする日をお待ちください。今回、ちょっと古い本を使っていたりしますので、最新の研究と照らし合わせる必要があります。また、月山富田城の遠征について書いてないのは仕様です。いずれどこかにまとめるので、現状は観光案内。
しかし、地元の方々の尼子愛の深さには驚かされますね。幟旗の数見てください。吉田郡山城も真っ青ですよ。あと、山中鹿之助さんね。この方については、イマドキの童には理解できないと思います。だって、家滅んでないし、主殺されていないのに、「再興軍」って、何のため? この人のお陰で、長きに渡ってだまされてしまい、てっきり、尼子義久って、毛利家にやられちゃったと思っていました。ご無事ではないですか! しかも、食べさせてもらってる……。まあ、そういう状態が嫌だったんでしょうけど。ご本人はそれなり穏やかな余生を送れてるな、って感覚だったのでは? うーん、なかなかに、中世の人の感覚は理解に苦しみます。
それよりも、尼子氏といったら政久さまでしょ。イケメン伝説特になしみたいだけど。不細工だったとはとうてい思えない。亡くなった時の逸話から想像するに、雅なお方であったに相違ない。尼子氏のお陰で、山陰地方にまで足を運ぶことができました。しかしです、地元で小田原城に行ったとか熱田神宮に行ったとか広島城に行ったとか語る愛らしい知人が「私、お城大好きなんです」という言葉にすっかり騙され、今度、月山富田城行くんだよ、すごい? と言ってみたところ、「?」山口の友人にその話をしたところ、月山富田城知らずに「お城大好きなんです」ないよね、と。関東ってそんなところなんですよ(涙)。かくいう己も、自らが住まいする地が誰の領国だったかすら知らないですが。
こんな方におすすめ
- 城跡巡りが好きな人
- 中国地方の歴史に興味がある人
オススメ度
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
あーん、尼子経久の像と新宮党館跡行ってない……(涙)
妙なものに関心があるんだな。岩国でも吉川広家の像を見忘れたとか喚いていたはず。もしかして、銅像マイラー?(そんな言葉あんの?)
誓って墓マイラーでも、銅像マイラーでもありません。でも、時折見落としたことに気付くと勿体ない! って思ふ。
尼子晴久って、毛利元就にはめられて、罪もない新宮党の人を殲滅したんだったよな? こういうトロいのが守ってる城を落とせないって、どんだけトロいの? まるでミルだ。ん? 富田城攻めた時は、まだ新宮党健在だったよな。毛利元就って、かなり腹黒くないか? 俺、あれこれ計略を巡らせて云々て連中好きじゃない。真っ向勝負で行けって言いたい。せせこましい「謀略」とやらの数々、うんざりだ。
お前のようなトロい者に、元就公の偉大さがわかろうはずはないが。戦というものは、如何にしてその損害を最小限に留めるかが大切なのだ。もっとも好ましいのは「戦わずして勝つこと」。それが無理でも、やれるだけのことをやってから臨む。戦う前から、勝利が見えているのが望ましい。
いや、大軍を率いて捻り潰してこそだ。俺のような勇猛果敢な将には、はかりごとなど不要。迷わず正面から突っ込み、突っ込まれたら真っ向勝負だ!
お前、あまりにも分かり易すぎて、元就公の謀にどっぷりはまるタイプだな。
お願い……それ以上言わないで……あ、どなたかのお墓見付けた。墓マイラーではないけど、偶然にも。さて、どなたのものでしょう?
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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