人物説明

大内盛見

2022年4月4日

新介イメージ画像

基本情報

父・弘世、兄・義弘、母・三条氏(永和三年、山口今小路の屋敷で出生)
幼名:六郎
周防守⇒左京大夫
五位⇒従四位下
周防、長門、豊前、筑前の守護(叙位任官の年月日不明)

その生涯概観 

相続争いに勝利して当主となり、最後は戦死

大内盛見の生涯は、弘茂との兄弟間での家督争いに始まり、九州の合戦で戦死して終わった。思えば、幕府に叛旗を翻して敗死したり、将軍弑逆事件に巻き込まれて命を落としたり、家臣の謀叛に遭って亡くなったり……と、ショッキングな亡くなり方をしている当主が少なくないことはこの家の特徴とも言える。
合戦中に亡くなったケースはほかにもあるのだが、それは正確には「病死」である。とはいえ、合戦という非日常(中世においては、むしろ『日常』であったのかもだが)では体調を崩すことも少なくなかったであろうから、これも戦死とはいえないまでも、「合戦がらみ」の亡くなり方、と言えなくもない。
そんな中、盛見の場合は、純粋に(?)戦死なので、珍しくもあり、また気の毒にも思われる。

文武の家を始動

戦死したくらいなので、この人もしばしば合戦に赴いた武人である。そうであると同時に、文芸の人でもあって、自身もたくさんの和歌を詠んでいる。義弘期にも文芸活動はあったし、ここがスタート地点ではないものの、恐らくは初期の頃は幕閣デビューして京都に進出したことで、これからは文芸にも心を傾けて行かなければ……という最初の一歩的なもの。そこからもっと踏み出して、当主本人の嗜好と優れた才能から、文武の家として正式に始まったのはここからなんじゃないかな、と思っている。

名だたる当主たちを生み出した人

さらに大切なことは、盛見から最後の義隆にいたる家督継承の流れが確定したこと。いきなり戦死してしまったこの人に、家督をどうするかの将来設計ができていたかどうか不明だけれども、事実としては、直後に持世を挟んだものの、そののちには、盛見の子・教弘、教弘の子・政弘、政弘の子・義興、義興の子・義隆と、盛見の直系の子孫が最後まで続いた。

仏教を重んじる

大内氏当主は、戦い、歌を詠み、海外と通交し、氏寺を信仰し……とやっていることは代々同じ。あえて差別化するとしたならば、盛見という人は、歴代の中でもたぶん、一番仏教関係の事業に精を出した人ではないか、と言える。
その理由は、盛見本人が信心深かったこともあるだろうけれど、研究者の先生方のご指摘によれば、当主権力の正統化という性格もあった。家督相続の争いというのは、どこの家でもそうだが、相続人候補・甲、相続人候補・乙……当人らの背後にそれぞれの支持者となる一門、家臣などが連なる。誰からも支持されない人物は、そもそも相続争いなど起こせないのであるから、揉めている当事者のところには当然、そのようなグループができている。
盛見と弘茂にはそれぞれ協力する家臣らがいたわけで、そもそも幕府のお墨付きをもっていたのは弘茂のほうだから、それに勝利して家督を継いだ盛見は、弘茂の後援者だった人たちへのフォローが必要だった。
結論から言うと、幕府は盛見を討伐することができず家督を認めざるを得なかった。おおやけに認められた以上は、弘茂派だった家臣たちも従わざるを得なかったであろうし、そもそもどっちでもいいや、と思っていた人もいたかも。しかし、家臣団がいったん分裂してしまったことは確かだし、統治者の相続争いに巻き込まれて国の民も動揺してしまったことだろう。
そんなときに、国を鎮め、人々の心を一つにするものが、皆の心のよりどころとなる信仰なのである。だから盛見は、氏寺供養を盛大に執り行い、家臣、領民の心をまとめた。

以下順番に、これらのことをちょこっとだけ具体的に見ていく。なお、特にことわりがない限りは、『大内氏実録』だけを見ており、その後の新しい研究の成果は今の段階では追加していない。そのために最新の情報とやや異なるところがあるかもしないことをお断りしておく(参考文献が目茶苦茶大量にあるので、分かっていても典拠不明となっていて、順番に探して行かなくてはならず、その作業は生きているうちに完了するかわからないくらい時間がかかりそうだからです……)。

契機としての応永の乱

盛見、留守を預かる

盛見が生まれ、成長した頃は、まだ南北朝期だった。父の弘世が亡くなり、義弘が当主となると、九州探題・今川了俊を援けたり、京で明徳の乱鎮圧に活躍したりと足利義満政権下で輝かしい功績を残した。にもかかわらず、義満 = 幕府と決別し、応永の乱を起こすに至り(それは義弘のところで書くべきことなのでここでは触れない)大内家の命運にも暗雲が垂れ込めた。

盛見の名前が出てくるのはこれより少し前、応永四年のことで、兄・満弘に従って肥後で合戦した時である。旧南朝勢力が反乱を起こしたためであり、のちには義弘自らも九州に赴いて戦った。相当な激戦であった模様で、兄の満弘はこの時戦死している。
応永の乱が起こったのは、それから二年後のことだった。

義弘は上洛するにあたり、留守の間、しっかりと分国を守るように、と弟・盛見に言い置いた。いっぽう、同じく弟の弘茂は京都に同道させた。兄弟二人の明暗はここで分かれた。

義弘の立場に立って考えてみたとき、何人かいる兄弟のうち、最も信頼できる一人には何を頼むべきだろうか。留守の間のすべてを任せるのと、大事な合戦で傍らにいて欲しいと望むのと、どちらがより大切だろうか。本人に確認する術がない以上、今となっては分からない。もしも、家を出る時に、二度とは戻れぬ戦だと考えていたのなら、当然、留守を任せたほうに後事を託したことになる。ともに出陣した者は、同じく二度と戻れない可能性が高いから。幕府に挑んで勝てる見込みなど普通はないはずだから、何となくだが、後事を託すに相応しいのはこの弟だ、と考えていたのでは? と思うが、むろん適当な推測。

義弘の死と弘茂の降伏

結果、義弘は戦死した。予想外というか、弘茂は生き残り、しかも幕府に降参してしまった。最初これを、それこそ、家督の簒奪みたいに誤解してしまったのだが、それはまったく違っていた。

『実録』によれば、およそ次のような流れである。
義弘は和泉堺で戦死したが、その時点で弘茂は存命していた。彼らが堺に築いた砦のうち東側だけはまだ陥落しておらず、弘茂はそこに拠っていたからである。兄の死を知った弘茂はその後を追おうとしたが、平井道助という人に止められた。
弘茂は平井の強引な説得で幕府に投降した。幕府は弘茂を許し、義弘に与えていた大量の守護職を防長二カ国だけに削減した上で、家督を継ぐことを認めた。『実録』では「大内氏のこの時断絶せざるは偏に道助が力なり」という『応永記』の一節を引用しているから、平井の行動を評価しているものと思われる。

ここで弘茂が死に、盛見が分国で留守番している状態だけが残ったら、そのまま討伐対象になって滅ぼされ、家そのものが断絶していたということだろう。ただし結局、弘茂は盛見を討伐できず、幕府も最終的にその家督を認めざるを得なかったわけなので、せっかくのお膳立ては無駄となった。弘茂も堺で死んでいた場合、誰が盛見を討伐したのか? そもそも、誰であれ、盛見を討伐することが可能だったのか? と思われ矛盾する(どんだけ強いんだろうか……)。

いずれにせよ、弘茂は兄が亡くなったおかげで、これ幸い棚から牡丹餅式に家督を手に入れられてラッキーと思うような薄情者だったとか、兄を死に至らしめた幕府に頭を下げて恥ずかしくないのかとか、短絡的にそのような想像をすると弘茂に気の毒であること。幕府が兄弟どうしで家督を争わせて大内氏の勢いを削ぎ、さらに、命を助けてもらった恩から弘茂が生涯幕府の言いなりになって働いてくれるだろうと嫌らしい期待をしていたこと。以上二点に注意しましょう。

参考記事 ⇒ 大内弘茂

兄弟相争う

身内どうしで家督を争った例など数え切れないほどあったわけだし、現代とて遺産相続で揉めるケースがあるくらいなので、いや中世ならば殺し合いになるのでどれだけ悲惨なのか、などと思い悩んではいけない。

しかし、兄弟相争う状態を回避できる可能性がゼロだったわけではない。弘茂が家督に定まったことを認めて、盛見もおとなしく降伏したならば。ただし、幕府は弘茂の家督を認めた時点ですでに、盛見を「討伐対象」に指定していた。降伏したところで、命の保証はないだろう。
盛見は義弘の「京都での勝敗に関係なく、分国をしっかりと維持すること」との言いつけを、遺言として守り、幕府に投降した弘茂と絶縁した。

弘茂が周防に帰国した正確な日時は不明で、残された書状の類からだいたいのところが分かるくらいである(『実録』)。盛見はいったん豊後国に逃れたが、応永八年に、長門国で弘茂と戦って勝利し、弘茂は戦死した(『実録』には七月に四王寺山の毘沙門堂、七月二十九日に下山で戦った、とある。なお、御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』だと、応永八年十二月二十九日、長門国府盛山城で弘茂を滅ぼした、となっている)。

さて、弘茂が亡くなり、盛見は応永九年正月十一日に山口に帰ったが、幕府はなおも諦めていなかったようである。今度は盛見の兄・介入道(道通)という人物に盛見討伐を命じたのであった。
盛見はまず、七月に杉伯耆守重綱等を派遣し、弘茂の与党であった長門厚西郡下津井地頭・箱田伊賀守弘貞を攻撃させ、長門を平定。続いて、応永十年の四月には介入道を倒し、幕府の命令で介入道を援けていた安芸・石見の国衆も制圧した。

盛見が反対勢力の掃討を完了すると、幕府もようやく諦めたのか、盛見の防長、および豊前守護職を認めたのだった。

仏事と文芸

氏寺供養と一切経

仏教への信仰が厚い人、といっても、具体的にやれることはそう多くない。領国内に寺院を建てるとか、すでにある寺院を修築するだとか、領主ならば誰でもやっていることだ。また、信仰心からくる毎日の日課なんて、本人の日記でも残っていなければ調べようがない。
それでも、研究者の先生方がこの人は仏教を重んじた、とか書いておられるのは残された史料から分かる様々なことに、仏教関係のそれが多いためだろう。

一、寺社の建立 ⇒ 国清寺建立、興隆寺本堂等修築(ともに応永十一年)、長門国阿武郡大井郷八幡宮建立(永享二年六月十一日)
二、イベント ⇒ 興隆寺本堂供養会(応永十一年二月十九日)、唐本一切経供養会(応永三十四年四月九日、氷上山興隆寺)
三、経文の輸入
四、仏典の印刷

興隆寺のメンテナンスは代々の当主が行って来た。木造建築ゆえ、火災に遭うこともあるし、大々的に建て直す必要に迫られることもある。盛見代には、応永十年に弘茂およびその一派との争いが終結した翌年から本堂、二王堂、鐘楼、上宮、山王社等が修造され、二月十七日に落成した。そして、十九日、盛大な本堂供養会が厳かに執り行われた。
家督相続のゴタゴタがおさまり、これから先は平らかに暮らして行ける日々がやってきた。その国を治めていくのは他ならぬ盛見である、ということが、荘厳な祈りの場でさりげなくアピールされたのだった。

平安貴族たちから始まって、昔の貴人はしかるべき時が来ると出家して○○入道になってしまう。入道して亡くなるまでの期間が短い人もいれば、早々と出家してしまう人もいる。盛見の出家はかなり早いほうだったようで、三十歳前後とみられる(何を根拠にこれが早いといえるのかわからんけど。都合二十六年間僧形だったので、何となくです)。

出家した年月日が特定できないのは、

十□年□□、祝髪(剃髪)して大先道雄と号す。のち徳雄と改める。

となっていて、史料の文字が不鮮明だからで、応永十二年八月四日の文書に多々良朝臣盛見とあり、応永十三年七月十三日の文書に沙弥道雄とあることから、出家したのはこの間のことである(『実録』)。

したがって、これ以降の事績はすべて出家としての行いとなるが、出家になったからといってもちろん、当主としてのありかたには何ら変わるところはない。

応永十四年四月、通文、通玉、仁方等を朝鮮に派遣し、あれこれの貴重な品々を贈り物として届けた。こうしてご挨拶をしておいて、朝鮮に一切経を求めたのである。通文等は無事に一切経を獲得して、十二月に帰国した。

一切経は、大蔵経と同じ意味。大蔵経は仏教の聖典を網羅的に集成したもののこと。中国で成立し、漢訳された経・律・論に中国人僧の若干の著作を加えたもの。のちに諸外国語のものもさした。宋代に蜀版大蔵経が、朝鮮でも高麗版大蔵経が刊行された(『日本史広辞典』)。
日本でもその後、刊行されるようになるが、この当時はまだで、それゆえに、朝鮮からもらうしかなかった。
そう容易く手に入れられるものではないため、大蔵経を持っていることは寺院にとってたいへん名誉なことであり、また、そうであるからして、信仰している寺院にはぜひとも完備させてあげたいものであった。

『実録』には一蔵しか載っていないけれども、盛見は合計四蔵の大蔵経を手に入れている。義弘代から始まって、大内家は全部で八蔵の大蔵経を獲得したので(『戦国武士と文芸の研究』)、そのうち半分が盛見代であれば、仏教への信心厚かったことの一つの現れとは言える。

大蔵経の輸入とあわせて、盛見が行った事業に、経典の印刷・刊行がある。

いわゆる「大内版」で現存最古のものは、盛見代・応永十七年の「蔵乗法数」だし(『日本史広辞典』)、三十三年には「理趣分」一千巻を印刷した。こちらは、一巻ごとに百銭をつけて諸国の貧僧に施与したということだ(『実録』)。

五山禅僧と和歌の師匠

さて、将軍を筆頭に幕閣たちと五山の禅僧との交流が緊密だった時代、盛見もまた、多くの著名な禅僧たちと行き来があった。文芸や宗教に注目して研究している先生方のご著作には、じつにたくさんの禅僧たちの名前や漢籍が出て来るけれども、『実録』ではいたってシンプルに、お一人の名前だけが出てくる(興隆寺本堂供養会願文は除く)。

惟肖得厳

という人がそれで、盛見に頼まれて「大先の説」を作り、画像の賛を書き、また、ある詩僧が盛見の別荘(碧山別墅:旧址不明)について書いた詩巻に跋を添えた。
その原文は『実録』にも載っているけれども、要は、盛見の武勇は諸国に響き渡っており、禅の修行に努めていることは、国中の僧侶たちがしっていますよ、と絶賛。

於児丸

「賛」なので、素晴らしく書かれているのは当然。とはいえ、国清寺様の人となり、深く禅宗に傾倒なさっていたことなどが的確に表現された名文であるはずです。

ミル

一昔前までのように、漢文の教養があるのは当たり前みたいな方々と違い、イマドキの童には口語訳なしで漢文をスラスラ読むなんてことは困難です……。あちこちで研究者の先生方が引用されていますから、それらを頼りにそのうち補充できるでしょう。

仏教関係は禅僧たちとの交流が盛んで、漢字だらけの恐ろしい世界。では、やまと歌の言の葉はどうだったのかといえば、『実録』には一切記述がない。

しかし、『新続古今集』には盛見の歌が載っているし、「大内盛見詠草」と呼ばれるまとまった詠歌が見付かっており、これは政弘が祖父・盛見の歌を書き写させたものであるらしいという。この辺りの事情は、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』に詳細で、盛見の和歌も紹介されている。これらの詠歌は近年になって出現した、とあるので、恐らく『実録』が書かれていた時点では見つかっていなかっただろう。

盛見は、和歌を耕雲明魏に師事したという(『戦国武士と文芸の研究』)。

メモ

惟肖得厳:いしょうとくがん、南北朝~室町中期、臨済宗の禅僧。備後国の人。南禅寺長老となった。
耕雲明魏:花山院長親(かざんいんながちか)、南北朝~室町中期、公卿、歌人。もとは南朝に仕えたが、のちに出家して足利義持のもとで文壇を指導した。南禅寺耕雲庵に住んだので耕雲と号した。明魏は法名:子晋明魏。

京屋敷と義持将軍

「討伐対象」の身分からスタートしているがゆえに、幕府との関係はイマイチだったんじゃないの? と思う人がいるかもしれない。しかし、そんなことはない。そもそも、「討伐対象」になってしまったからといって、必ずしも「討伐されて」しまうとは限らず、許される場合だってある。何を理由に討伐されているか、にもよるのかも。
将軍を弑逆した赤松家みたいなのが許されるとは到底思えないが、ちょっと怒らせたくらいなら怒りが鎮まれば許されるだろう。だいたい、応永の乱の時、義満は「前」将軍という身分だったが、実権は現将軍・義持ではなく、父・義満にあった。父親には嫌われていたかもだが、その死後、息子の代になれば、先代のことなんてもはや遥か彼方である。
何を以て幕府との関係云々がわかるのかと言うと、この義持将軍が何度も何度も、京都の盛見邸を訪問しているからである。盛見が在京してきちんと幕府の一員としての役割を果たし、将軍もまた、その働きを認めたのでなければこのような光栄にそう何度もあずかれるものではない。
将軍による家臣宅訪問は「御成」といって、とても名誉なことだったから。

応永三十一年甲辰夏六月二十七日、将軍が京屋敷を訪問した。

残念ながら、『実録』にはこの一回分しか載っていないのだが、ほかの先生方のご本でこのことを重視しないケースも稀なので、絶対に書き置かねばと思う。以下は、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』を参考に回数だけ調べてみた。米原正義先生のご著作はきちんと出典を挙げて調査しておいでなのに、原典にあたらないのは限りなくズルいやり方だけれども、こんなウエブ上のページごときのために国会図書館など行けないので、興味がある方は直接先生のご著作をお読みになるか、今後ご紹介する最近のもろもろの研究書類にもしょっちゅう出てくるネタです。

将軍義持の盛見邸訪問
応永十九 年三月十七日、八月四日(山科家礼記)
応永二十年三月二十三日、 八月二十二日(満済准后日記)。
応水二十一年三月二日(満済准后日記)
応永二十二年三月二十八日(満済准后日記)
応永二十五年十一月一日(満済准后日記)
将軍義量の入道徳雄(盛見)邸訪問
応永三十一年 六月二十七日(花営三代記)
以上、米原正義先生作成の「大内盛見略年譜」参照(『戦国武士と文芸の研究』)

なんとまあ、これほどまで多くのご訪問があったとは。このほかにも、この「略年表」から分かることは、盛見が将軍の相伴をしてあちこちに赴いたり、じつに活動的であることです。

二十八年十一月十三日、将軍に供奉し伊勢太神宮に参詣する(『実録』)。

これほど親しい交流があり、また信頼関係があるわけなので、九州はじめ分国周辺に何か問題が起これば盛見は即、幕府のために討伐に向かったわけだ。
当然、九州だの安芸石見だのに何事かあれば、周防長門のことも心配になるから、何も純粋に、将軍や幕府のためである、とは言えない。

たとえば、

三十二年乙巳秋、鎮西が乱れ、叛臣三隊が周防に入ろうとした。この時盛見は京師にいた。しらせを聞いて単舸急ぎ下り、兵を率いてこれを撃破し、多くの首級を得た。将軍家に勝利をお伝えし、厚く褒賞された(『実録』)。
※単舸:たんか、供の船をともなっていないただ一艘の船。

ともあれ、義弘が応永の乱を起こし、幕府に叛いた関係で、大内氏の勢力は一時的に衰退したが、盛見は関係改善に努力し、それに成功したといえる(『日本史広辞典』には盛見が大内氏の家運を再興したとある)。

戦死と菩提寺

終焉の地

こうして、盛見は兄・義弘の遺志を継いで家督を継承し、幕府との関係を修復し、仏教を重んじて分国内の家臣や領民の心を一つにまとめ、国外・国内ともに家運を安定させた。
あれもこれも、色々とたいへんな人生だったが、なおも続いていくはずの治世は戦死というかたちであっけなく幕切れした。

永享三年六月二十八日、少弐との合戦中に、筑前国志摩郡深江で亡くなったという。五十六歳というから、息子や孫たちよりもわずかに長生きだ……。
深江は現在の福岡県二丈町である(『日本史広事典』)。

吉敷郡上宇野令香山国清寺に葬り、国清寺大先徳雄と法名した。

菩提寺

国清寺は応永十一年に、盛見が祈願所、および両親と兄・義弘の菩提を弔うために建立した寺院。『実録』にはとてもややこしい但書がある。
「国清寺は後に毛利隆元の菩提寺となって常栄寺と改めた。文久三年、宮野下村の妙寿寺の址に移り、いまは潮音寺という。墓も宮野に移った。その旧址いまの万年寺である」
国清寺⇒常永寺(毛利隆元菩提寺)と改名⇒妙寿寺跡地(宮野)に場所を移す。いま(『実録』執筆時の明治時代)潮音寺と呼ばれている。
盛見の墓⇒宮野(=妙寿寺跡地?)に移る。いま(同上)の万年寺がその跡地。
というようなことで、現在、菩提寺と墓はどこにあるのだろうか?

その答えは、山口市の洞春寺である。毛利隆元の菩提寺は、その後、毛利元就の菩提寺となっていたのである(ただし、墓もこちらにあるのかどうかは未確認です)。近藤先生が仰っている妙寿寺跡地とか、潮音寺については、調べがついていなくて申し訳ないけれども、洞春寺についてはこのサイトに記事があって、寺院の看板などから、ここが元・国清寺であることは調査済であった。それゆえにか、なんと「菩提寺・氏寺」とかいうリンク集ページで「国清寺」をクリックすると洞春寺のページが開くというヘンテコな仕様になっていた……。

洞春寺

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻五「世家盛見」より、山川出版社『日本史広辞典』
参考文献:米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』

ミル

米原先生のご著作にまで手を出したら混乱してしまうじゃないの。ミルたちにはまだあのご本を読みこなせる能力はないのに。

於児丸

漢文だらけのところは除外しろと言われたら、近藤先生のご本だけでは何も書けなくなったので……。ちょっとしか見ていませんよ。

ミル

疲れた……。こんな程度にしか書けないなんて、もう、こんなサイト、閉鎖してしまおうかな、と思うの……。

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