人物説明

大内盛見

2022年4月4日

大内盛見
作画:アイカワサン様

大内盛見とは?

大内家二十六代当主。大内弘世の子で、義弘の弟。兄・義弘が応永の乱で敗死したあと、分国を守っていた盛見は幕府に降伏した兄弟・弘茂と家督を争って勝利した。別れ際、亡き兄が言い置いた「分国を頼む」との遺言を守ったのである。大内氏の勢力削減を目論む幕府に対抗し、兄弟相争うという悲劇を乗り越えて当主となった盛見は、動揺する国内に平穏を取り戻すため、仏教を厚く信仰した。

将軍の代替わりで、幕府との関係も修復し、分国内も安定。九州の凶徒を退治したり、朝鮮半島と盛んに交流するなど積極的な活動を続けた。盛見は五山禅僧らと盛んに交流すると同時に、数多くの和歌も詠んだ。『新続古今集』の作者に名を連ねているだけでなく、『盛見詠草』と呼ばれるまとまった詠歌を残してもいる。「文武の家」としての大内氏が大きく飛躍する基礎は、盛見の代に固められたといえる。

重要なのは、間に一代、義弘の子・持世を挟んだものの、この先の大内家当主が、盛見子息・教弘 ⇒ 孫・政弘 ⇒ 玄孫・義興と、盛見の子孫が嫡流となっていったことである。

大内盛見・基本データ

生没年 1377~1431.6.28(永和三年、山口今小路の屋敷で出生)永享三年14316月28日筑前国志摩郡深江にて戦死56(55)才
父 大内弘世
母 三条氏
幼名 六郎
通称 大内介
別名 法名:大先古覚、道雄、徳雄
官位等 従四位下 ⇒ 上、周防介、大内介、左京大夫、周防長門豊前筑前守護
法名 国清寺殿大先徳雄大禅定門
墓地等 洞春寺に墓(供養の無縫塔、※現洞春寺は元盛見菩提寺・国清寺)、福岡県粕屋町泉蔵寺に五輪塔、深江に宝篋印塔
(出典:『日本史広事典』、『新編大内氏系図』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』等)

「盛見」の読み方について

人名の読み方は現在でも色々。ふりがながふってある史料が残されていない過去の人物についてなど、なおさらわからない。古来、同一人物について幾通りもの読み方がすべて「通説」となっているケースは少なくなく、これが正解、というものはないのかもしれない。

たとえば、後醍醐天皇の皇子・護良親王など「もりよし」「もりなが」のほか、「ごりょう」でも可とする先生もおられる。軍記物のふりがなも、同一版、同一の先生による校正で、場所によっては訓読み、場所によっては音読みとなっていたりする。というようなことを念頭に置いた上で、現在「盛見」さんのお名前は「もりはる」とお読みするのがだいたいの「通説」。しかし、参考までに以下の典拠を載せておく。

「盛見」の読み方は、「もりみ」「もりはる」「もりあきら」とあり、どれが正しいのか不明。(参照:『山口市史 史料編 中世』30ページ。ただし、『山口市史』には「もりあきら」が有力っぽいと書いてある)

特にこだわりがないのなら、多数意見の「もりはる」にしておけば問題ない。もちろん、「もりみ」と発音したとしても、知識のない人だと軽蔑される筋合いはないのでご安心ください。万が一「もりはる」ですよ、と注意されたら「どれが正しいのか不明」と答えましょう(偉そうに聞こえるし、喧嘩する必要もないので素直に『そーなんですねー』がいいとは思いますが)。

その生涯概観 

相続争いに勝利して当主となり、最後は戦死

大内盛見の生涯は、弘茂との兄弟間での家督争いに始まり、九州の合戦で戦死して終わった。思えば、幕府に叛旗を翻して敗死したり、将軍弑逆事件に巻き込まれて命を落としたり、家臣の謀叛に遭って亡くなったり……と、ショッキングな亡くなり方をしている当主が少なくないことはこの家の特徴とも言える。
合戦中に亡くなったケースはほかにもあるのだが、それは正確には「病死」である。とはいえ、合戦という非日常(中世においては、むしろ『日常』であったのかもだが)では体調を崩すことも少なくなかったであろうから、これも戦死とはいえないまでも、「合戦がらみ」の亡くなり方、と言えなくもない。
そんな中、盛見の場合は、純粋に(?)戦死なので、珍しくもあり、また気の毒にも思われる。

文武の家を始動

戦死したくらいなので、この人もしばしば合戦に赴いた武人である。そうであると同時に、文芸の人でもあって、自身もたくさんの和歌を詠んでいる。義弘期にも文芸活動はあったし、ここがスタート地点ではないものの、恐らくは初期の頃は幕閣デビューして京都に進出したことで、これからは文芸にも心を傾けて行かなければ……という最初の一歩的なもの。そこからもっと踏み出して、当主本人の嗜好と優れた才能から、文武の家として正式に始まったのはここからなんじゃないかな、と思っている。

名だたる当主たちを生み出した人

さらに大切なことは、盛見から最後の義隆にいたる家督継承の流れが確定したこと。いきなり戦死してしまったこの人に、家督をどうするかの将来設計ができていたかどうか不明だけれども、事実としては、直後に持世を挟んだものの、そののちには、盛見の子・教弘、教弘の子・政弘、政弘の子・義興、義興の子・義隆と、盛見の直系の子孫が最後まで続いた。

仏教を重んじる

大内氏当主は、戦い、歌を詠み、海外と通交し、氏寺を信仰し……とやっていることは代々同じ。あえて差別化するとしたならば、盛見という人は、歴代の中でもたぶん、一番仏教関係の事業に精を出した人ではないか、と言える。
その理由は、盛見本人が信心深かったこともあるだろうけれど、研究者の先生方のご指摘によれば、当主権力の正統化という性格もあった。家督相続の争いというのは、どこの家でもそうだが、相続人候補・甲、相続人候補・乙……当人らの背後にそれぞれの支持者となる一門、家臣などが連なる。誰からも支持されない人物は、そもそも相続争いなど起こせないのであるから、揉めている当事者のところには当然、そのようなグループができている。
盛見と弘茂にはそれぞれ協力する家臣らがいたわけで、そもそも幕府のお墨付きをもっていたのは弘茂のほうだから、それに勝利して家督を継いだ盛見は、弘茂の後援者だった人たちへのフォローが必要だった。
結論から言うと、幕府は盛見を討伐することができず家督を認めざるを得なかった。おおやけに認められた以上は、弘茂派だった家臣たちも従わざるを得なかったであろうし、そもそもどっちでもいいや、と思っていた人もいたかも。しかし、家臣団がいったん分裂してしまったことは確かだし、統治者の相続争いに巻き込まれて国の民も動揺してしまったことだろう。
そんなときに、国を鎮め、人々の心を一つにするものが、皆の心のよりどころとなる信仰なのである。だから盛見は、氏寺供養を盛大に執り行い、家臣、領民の心をまとめた。

以下順番に、これらのことをちょこっとだけ具体的に見ていく。

契機としての応永の乱

盛見、留守を預かる

盛見が生まれ、成長した頃は、まだ南北朝期だった。父の弘世が亡くなり、義弘が当主となると、九州探題・今川了俊を援けたり、京で明徳の乱鎮圧に活躍したりと足利義満政権下で輝かしい功績を残した。にもかかわらず、義満 = 幕府と決別し、応永の乱を起こすに至り(それは義弘のところで書くべきことなのでここでは触れない)大内家の命運にも暗雲が垂れ込めた。

盛見の名前が出てくるのはこれより少し前、応永四年(1397)のことで、兄弟・満弘に従って肥後で合戦した時である。旧南朝勢力が反乱を起こしたためであり、のちには義弘自らも九州に赴いて戦った。相当な激戦であった模様で、兄の満弘はこの時戦死している。
応永の乱が起こったのは、それから二年後、応永六年(1399)のことだった。

義弘は上洛するにあたり、留守の間、しっかりと分国を守るように、と弟・盛見に言い置いた。いっぽう、同じく弟の弘茂は京都に同道させた。兄弟二人の明暗はここで分かれた。

義弘の立場に立って考えてみたとき、何人かいる兄弟のうち、最も信頼できる一人には何を頼むべきだろうか。留守の間のすべてを任せるのと、大事な合戦で傍らにいて欲しいと望むのと、どちらがより大切だろうか。本人に確認する術がない以上、今となっては分からない。もしも、家を出る時に、二度とは戻れぬ戦だと考えていたのなら、当然、留守を任せたほうに後事を託したことになる。ともに出陣した者は、同じく二度と戻れない可能性が高いから。幕府に挑んで勝てる見込みなど普通はないはずだから、何となくだが、後事を託すに相応しいのはこの弟だ、と考えていたのでは? と思うが、むろん適当な推測。

義弘の死と弘茂の降伏

結果、義弘は戦死した。予想外というか、弘茂は生き残り、しかも幕府に降参してしまった。最初これを、それこそ、家督の簒奪みたいに誤解してしまったのだが、それはまったく違っていた。

『実録』によれば、およそ次のような流れである。
義弘は和泉堺で戦死したが、その時点で弘茂は存命していた。彼らが堺に築いた砦のうち東側だけはまだ陥落しておらず、弘茂はそこに拠っていたからである。兄の死を知った弘茂はその後を追おうとしたが、平井道助という人に止められた。
弘茂は平井の強引な説得で幕府に投降した。幕府は弘茂を許し、義弘に与えていた大量の守護職を防長二カ国だけに削減した上で、家督を継ぐことを認めた。『実録』では「大内氏のこの時断絶せざるは偏に道助が力なり」という『応永記』の一節を引用しているから、平井の行動を評価しているものと思われる。

ここで弘茂が死に、盛見が分国で留守番している状態だけが残ったら、そのまま討伐対象になって滅ぼされ、家そのものが断絶していたということだろう。ただし結局、弘茂は盛見を討伐できず、幕府も最終的にその家督を認めざるを得なかったわけなので、せっかくのお膳立ては無駄となった。弘茂も堺で死んでいた場合、誰が盛見を討伐したのか? そもそも、誰であれ、盛見を討伐することが可能だったのか? と思われ矛盾する(どんだけ強いんだろうか……)。

いずれにせよ、弘茂は兄が亡くなったおかげで、これ幸い棚から牡丹餅式に家督を手に入れられてラッキーと思うような薄情者だったとか、兄を死に至らしめた幕府に頭を下げて恥ずかしくないのかとか、短絡的にそのような想像をすると弘茂に気の毒であること。幕府が兄弟どうしで家督を争わせて大内氏の勢いを削ぎ、さらに、命を助けてもらった恩から弘茂が生涯幕府の言いなりになって働いてくれるだろうと嫌らしい期待をしていたこと。以上二点に注意しましょう。

参考記事 ⇒ 大内弘茂

兄弟相争う

身内どうしで家督を争った例など数え切れないほどあったわけだし、現代とて遺産相続で揉めるケースがあるくらいなので、いや中世ならば殺し合いになるのでどれだけ悲惨なのか、などと思い悩んではいけない。

しかし、兄弟相争う状態を回避できる可能性がゼロだったわけではない。弘茂が家督に定まったことを認めて、盛見もおとなしく降伏したならば。ただし、幕府は弘茂の家督を認めた時点ですでに、盛見を「討伐対象」に指定していた。降伏したところで、命の保証はないだろう。

盛見は義弘の「京都での勝敗に関係なく、分国をしっかりと維持すること」との言いつけを、遺言として守り、幕府に投降した弘茂と絶縁した。

弘茂が周防に帰国した正確な日時は不明で、残された書状の類からだいたいのところが分かるくらいである(『実録』)。応永七年(1400)、盛見はいったん豊後国に逃れたが、応永八年(1401)に、大友氏などに支援されて、長府に上陸。長門国で弘茂と戦って勝利し、弘茂は戦死した(『実録』には七月に四王寺山の毘沙門堂、七月二十九日に下山で戦った、とある。なお、御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』だと、応永八年(1401)十二月二十九日、長門国府盛山城で弘茂を滅ぼした、となっている)。兄弟間の争いは、西国各地で二年に及んだ。

さて、弘茂が亡くなり、盛見は応永九(1402)年正月十一日に山口に帰ったが、幕府はなおも諦めていなかったようである。今度は盛見の兄・介入道(道通)という人物に盛見討伐を命じたのであった。
盛見はまず、七月に杉伯耆守重綱等を派遣し、弘茂の与党であった長門厚西郡下津井地頭・箱田伊賀守弘貞を攻撃させ、長門を平定。続いて、応永十年(1403)の四月には介入道を倒し、幕府の命令で介入道を援けていた安芸・石見の国衆も制圧した。

盛見が反対勢力の掃討を完了すると、幕府もようやく諦めたのか、盛見の防長、および豊前、筑前の守護職を認めたのだった。手許の年表類には周防長門が応永十年(1403)、それ以外が応永十一年(1404)のこととある。この時点で、周防・長門・安芸・石見の地をほぼ支配下に置いていたと見られる。

仏事と文芸

氏寺供養と一切経

仏教への信仰が厚い人、といっても、具体的にやれることはそう多くない。領国内に寺院を建てるとか、すでにある寺院を修築するだとか、領主ならば誰でもやっていることだ。また、信仰心からくる毎日の日課なんて、本人の日記でも残っていなければ調べようがない。

それでも、研究者の先生方がこの人は仏教を重んじた、とか書いておられるのは残された史料から分かる様々なことに、仏教関係のそれが多いためだろう。年表などに載っていることをまとめておこう。

寺社の建立など

大内小野の志多里八幡宮再建(応永八年、1401。※この神社は、観応三年に家臣・小野和泉守平弘兼が宇佐から勧請したものといわれる)、国清寺創建、興隆寺本堂等修築、闢雲寺創建(ともに応永十一年、1404)、高嶺山麓に安芸厳島神社を勧請(応永十三年、1406)、仁平寺日吉山王社の鰐口鋳造(応永二十五年、1418、現在光巌寺所蔵)、宇佐八幡宮造営(造替)開始(応永二十五年、1418、応永三十一年完成)、鹿野漢陽寺創建(応永二十五年、1418)、興隆寺に土地寄進(長野郷内50石、応永二十七年、1420)、宇佐八幡宮神輿奉納(同左)、長門国阿武郡大井郷八幡宮建立(永享二年六月十一日)

最後の大井郷八幡宮だけは、出典が何であったか分らなくなってしまったが、それ以外はすべて、『大内氏文化要覧』の年表による。余談だが、創建とか勧請とかなっている場合、一年足らずで竣工した突貫工事でない限り、それ以前から建立を始めている。寺院の建立、修築には何年もかかることがあり、いつから始めいつ終わったかまでフォローしている年表は少ない。神社も同様で、社殿の完成後に神さまにおいでいただくことになるのだから、勧請される以前から、造り始めていたことになる。

氏寺・興隆寺については、貞和五年(1349)に、父・弘幸が再建した本堂、仁王堂、鐘楼、妙見社上宮、山王社などの修築事業を行なったとされ、同じ年に本堂供養会を行なっていることから、この「修築」は完成をみた年次を言っている。いつから修築事業を行なったのかは不明ながら、ほんの数ヶ月で終わるはずがないだろう(後述)。

ほかにも、盛見自身ではなく、一族のものが著名寺院を建立したりしている。

応永十七年(1410) 鷲頭弘忠、康福寺を建立 ⇒ 応永三十年(1423) 石屋真梁の高弟・智翁永宗が在住し、「大寧寺」と名を改め、大内氏華香院(=菩提寺)とする
永享元年(1429) 義弘の子・持世が闢雲寺を鳴滝に移す
永享二年(1430) 持盛(持世弟)が観音寺の仏殿を建立

イベント

興隆寺本堂供養会(応永十一年二月十九日、1404)、唐本一切経供養会(応永三十四年四月九日、1427、氷上山興隆寺)

興隆寺のメンテナンスは代々の当主が行って来た。木造建築ゆえ、火災に遭うこともあるし、大々的に建て直す必要に迫られることもある。盛見代には、応永十年(1403)に弘茂およびその一派との争いが終結した翌年から本堂、仁王堂、鐘楼、妙県社上宮、山王社等(※これらは貞治五年に弘幸が再建したもの)0が修造され、二月十七日に落成した。そして、十九日、盛大な本堂供養会が厳かに執り行われた(何と、同じ応永十一年に修築を始めているということは、工事完了まで、わずかに三ヶ月。相当に注力したものと思われる。寺院の建立には時間がかかるので云々の先の記述は見事に裏切られた)。

家督相続のゴタゴタがおさまり、これから先は平らかに暮らして行ける日々がやってきた。その国を治めていくのは他ならぬ盛見である、ということが、荘厳な祈りの場でさりげなくアピールされたのだった。

経典の輸入

朝鮮との交易中、応永十四年(1407)~十五、十六、十七、永享二年(1430)に、唐本一切経(大蔵経)を求め、合計四蔵の入手に成功

応永十四年(1407)四月、通文、通玉、仁方等を朝鮮に派遣し、あれこれの貴重な品々を贈り物として届けた。こうしてご挨拶をしておいて、朝鮮に一切経を求めたのである。通文等は無事に一切経を獲得して、十二月に帰国した。

一切経は、大蔵経と同じ意味。大蔵経は仏教の聖典を網羅的に集成したもののこと。中国で成立し、漢訳された経・律・論に中国人僧の若干の著作を加えたもの。のちに諸外国語のものもさした。宋代に蜀版大蔵経が、朝鮮でも高麗版大蔵経が刊行された(参照:『日本史広辞典』)。

日本でもその後、刊行されるようになるが、この当時はまだで、それゆえに、朝鮮からもらうしかなかった。そう容易く手に入れられるものではないため、大蔵経を持っていることは寺院にとってたいへん名誉なことであり、また、そうであるからして、信仰している寺院にはぜひとも完備させてあげたいものであった。

『実録』には一蔵しか載っていないけれども、盛見は合計四蔵の大蔵経を手に入れている。義弘代から始まって、大内家は全部で八蔵の大蔵経を獲得したので(参照:『戦国武士と文芸の研究』)、そのうち半分が盛見代であれば、仏教への信心厚かったことの一つの現れと言える。

なお、平川の広沢寺にはその一部が所蔵されており、応永十四年頃から書写されたものとみられる(参照:『大内文化研究要覧』)

応永十六年(1409) 盛見は興隆寺に輪蔵を建て一切経を収めた。輪蔵というのは要するに経蔵のことで、特に回転式の書架を備えているものを指す。応永二十一年(1414)国清寺経蔵規式を制定と年表にあるので、年代はこの時なのか不明ながら、国清寺にも経蔵が建てられ、恐らくは一切経が収められていたと思われる。現在、全国に何カ所かある輪蔵のうち、園城寺で国宝となっているそれは、もともとこの、国清寺にあった経蔵を移築したものである。

大内氏滅亡の後、毛利輝元が解体し徳川家に献上。その後、園城寺に寄進されたのだろう。もともと経蔵があった場所には、その礎石のみが空しく残されている(国清寺は、現在毛利元就菩提寺・洞春寺となっていることに注意)。

仏典の印刷

応永十七年(1410)「蔵乗法数」刊行、応永三十三年(1426)「大般若経理趣分」千刊刊行、ほかにも、金剛経、仏教神呪等各種仏典を刊行

大蔵経の輸入とあわせて、盛見が行った事業に、経典の印刷・刊行がある。

いわゆる「大内版」で現存最古のものは、盛見代・応永十七年の「蔵乗法数」だし(参照:『日本史広辞典』)、三十三年には「大般若経理趣分」一千巻を印刷した。こちらは、一巻ごとに百銭をつけて諸国の貧僧に施与したということだ(参照:『実録』)。

盛見の出家

平安貴族たちから始まって、昔の貴人はしかるべき時が来ると出家して○○入道になってしまう。入道して亡くなるまでの期間が短い人もいれば、早々と出家してしまう人もいる。盛見の出家はかなり早いほうだったようで、三十歳前後とみられる(何を根拠にこれが早いといえるのかわからんけど。都合二十六年間僧形だったので、何となくです)。

残念ながら、出家した年月日は特定できない。

十□年□□、祝髪(剃髪)して大先道雄と号す。のち徳雄と改める。

となっていて、史料の文字が不鮮明だからで、応永十二年(1405)八月四日の文書に多々良朝臣盛見とあり、応永十三(1406)年七月十三日の文書に沙弥道雄とあることから、出家したのはこの間のことである(参照:『実録』)。

したがって、これ以降の事績はすべて出家としての行いとなるが、出家になったからといってもちろん、当主としてのありかたには何ら変わるところはない。

五山禅僧と和歌の師匠

さて、将軍を筆頭に幕閣たちと五山の禅僧との交流が緊密だった時代、盛見もまた、多くの著名な禅僧たちと行き来があった。碧山別墅(長山、現在の亀山公園付近にあったと考えられている)を造り、多くの禅僧を招いて、禅について意見を交わし、また、その普及に務めた。文芸や宗教に注目して研究している先生方のご著作には、じつにたくさんの禅僧たちの名前や漢籍が出て来るけれども、『実録』ではいたってシンプルに、お一人の名前だけが出てくる(興隆寺本堂供養会願文は除く)。

惟肖得厳

という人がそれで、盛見に頼まれて「大先の説」を作り、天神画像賛を書き(永享元年、1429)、また、ある詩僧が盛見の碧山別墅について書いた詩巻に跋を添えた。

その原文は『実録』にも載っているけれども、要は、盛見の武勇は諸国に響き渡っており、禅の修行に努めていることは、国中の僧侶たちがしっていますよ、と絶賛。

於児丸通常イメージ画像
於児丸

「賛」なので、素晴らしく書かれているのは当然。とはいえ、国清寺様の人となり、深く禅宗に傾倒なさっていたことなどが的確に表現された名文であるはずです。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

一昔前までのように、漢文の教養があるのは当たり前みたいな方々と違い、イマドキの童には口語訳なしで漢文をスラスラ読むなんてことは困難です……。あちこちで研究者の先生方が引用されていますから、それらを頼りにそのうち補充できるでしょう。

『大内文化研究要覧』には、石屋真梁について触れている。石屋真梁は、闢雲寺の開山として盛見が招聘した薩摩出身の高僧。その配下から多くの立派な弟子が輩出されたことで著名である。

石屋真梁⇒定庵守禅(闢雲寺在住⇒船木瑞松庵へ)
    ⇒覚隠永本(闢雲寺住職一時空白後在住)
    ⇒智翁(大寧寺開山)
    ⇒竹居正猷(智翁・定庵・殊益の後大寧寺に住)
覚隠永本の法弟・大功円忠(闢雲寺住職⇒宮野妙喜寺開山※教弘が招く)、雪心直昭(龍福寺の中興開山※教弘が招く)
竹居正猷の法弟・器之為璠(長穂龍文寺三世)、在山曇□(長穂龍文寺二世)、中翁守邦(足利学校を経て瑞松庵へ)
出典:『大内文化研究要覧』78ページ(※一部レイアウトを変更、在山曇□は文字出力不能)

仏教関係は禅僧たちとの交流が盛んで、漢字だらけの恐ろしい世界。では、やまと歌の言の葉はどうだったのかといえば、『実録』には一切記述がない。

しかし、『新続古今集』には盛見の歌が載っているし、「大内盛見詠草」と呼ばれるまとまった詠歌が見付かっており、これは政弘が祖父・盛見の歌を書き写させたものであるらしいという。この辺りの事情は、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』に詳細で、盛見の和歌も紹介されている。これらの詠歌は近年になって出現した、とあるので、恐らく『実録』が書かれていた時点では見つかっていなかっただろう。

※ちなみに、『盛見詠草』は『山口市史 史料編 大内文化』に載っているので、入手困難な米原先生のご本を探さずとも、図書館に行くだけで読むことができる。

盛見は、和歌を耕雲明魏に師事したという(参照:『戦国武士と文芸の研究』)。応永二十二年(1415)明魏は自筆の『畊雲千首』を盛見に贈っている。

メモ

惟肖得厳:いしょうとくがん、南北朝~室町中期、臨済宗の禅僧。備後国の人。南禅寺長老となった。
耕雲明魏:花山院長親(かざんいんながちか)、南北朝~室町中期、公卿、歌人。もとは南朝に仕えたが、のちに出家して足利義持のもとで文壇を指導した。南禅寺耕雲庵に住んだので耕雲と号した。明魏は法名:子晋明魏。

京屋敷と義持将軍

「討伐対象」の身分からスタートしているがゆえに、幕府との関係はイマイチだったんじゃないの? と思う人がいるかもしれない。しかし、そんなことはない。そもそも、「討伐対象」になってしまったからといって、必ずしも「討伐されて」しまうとは限らず、許される場合だってある。何を理由に討伐対象となったか、によるのかも。

将軍を弑逆した赤松家みたいなのが許されるとは到底思えないが、ちょっと怒らせたくらいなら怒りが鎮まれば許されるだろう。だいたい、応永の乱の時、義満は「前」将軍という身分だったが、実権は現将軍・義持ではなく、父・義満にあった。父親には嫌われていたかもだが、その死後、息子の代になれば、先代のことなんてもはや遥か彼方である。

その義満将軍が亡くなったのは、応永十五年(1408)のこと。ここへ来て、漸く、名ばかりだった義持将軍の親政が始まる。応永の乱で微妙となった幕府との関係を修復したいと願う盛見としても、兄・義弘の死に直接かかわっている義満将軍と親交を結ぶのには抵抗があったろうし、そもそも嫌われていたかもしれない。けれどもそれは、兄や父の代の話であって、代替わりした盛見と義持には関係ない。先代の死後、応永十六年(1409)冬に盛見は上洛を果たしている。盛見が積極的に働きかけた側面もあろうが、義持将軍のほうでも、盛見を嫌ってはいなかった模様で、両者の関係は良好だったと見える。

何を以て幕府との関係云々がわかるのかと言うと、義持将軍が何度も何度も、京都の盛見邸を訪問しているからである。将軍による家臣宅訪問は「御成」といって、とても名誉なことだった。盛見が在京してきちんと幕府の一員としての役割を果たし、将軍もまたその働きを認めたのでなければ、このような光栄にそう何度もあずかれるものではない。

応永三十一年(1424)甲辰夏六月二十七日、将軍が京屋敷を訪問した。

残念ながら、『実録』にはこの一回分しか載っていないのだが、ほかの先生方のご本でこのことを重視しないケースも稀なので、絶対に書き置かねばと思う。以下は、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』を参考に回数だけ調べてみた。米原正義先生のご著作はきちんと出典を挙げて調査しておいでなのに、原典にあたらないのは限りなくズルいやり方だけれども、こんなウエブ上のページごときのために国会図書館など行けないので、興味がある方は直接先生のご著作をお読みになるか、最近のもろもろの研究書類にもしょっちゅう出てくるネタです。

将軍義持の盛見邸訪問

応永十九 年(1412)三月十七日、八月四日(山科家礼記)
応永二十年(1413)三月二十三日、 八月二十二日(満済准后日記)。
応水二十一年(1414)三月二日(満済准后日記)
応永二十二年(1415)三月二十八日(満済准后日記)
応永二十五年(1418)十一月一日(満済准后日記)
将軍義量の入道徳雄(盛見)邸訪問
応永三十一年(1424) 六月二十七日(花営三代記)

参照:『戦国武士と文芸の研究』(米原正義先生作成の『大内盛見略年譜』)

なんとまあ、これほどまで多くのご訪問があったとは。このほかにも、この「略年表」から分かることは、盛見が将軍の相伴をしてあちこちに赴いたり、じつに活動的であることです。

応永二十八年(1421)十一月十三日、将軍に供奉し伊勢太神宮に参詣する(『実録』)。

これほど親しい交流があり、また信頼関係があるわけなので、九州はじめ分国周辺に何か問題が起これば盛見は即、幕府のために討伐に向かったわけだ。

当然、九州だの安芸石見だのに何事かあれば、周防・長門のことも心配になるから、何も純粋に、将軍や幕府のためである、とは言えない。

たとえば、

応永三十二年(1425)乙巳秋、鎮西が乱れ、叛臣三隊が周防に入ろうとした。この時盛見は京師にいた。しらせを聞いて単舸急ぎ下り、兵を率いてこれを撃破し、多くの首級を得た。将軍家に勝利をお伝えし、厚く褒賞された(『実録』)。
※単舸:たんか、供の船をともなっていないただ一艘の船。

ともあれ、義弘が応永の乱を起こし、幕府に叛いた関係で、大内氏の勢力は一時的に衰退したが、盛見は関係改善に努力し、それに成功したといえる(『日本史広辞典』には盛見が大内氏の家運を再興したとある)。

その後、将軍職は義持から息子・義量に移るが、義満期同様、未だ前将軍・義持は健在だった。義量将軍は父より早くに亡くなってしまう。義持は跡継の誕生を望んだがその思い空しく、彼の死後、次の将軍位は弟・義教と決まる。新将軍に招かれた盛見は再び上洛した。正長元年(1428)のことである。しかし、翌年(永享元年、1429)には帰国。これが都を見た最後となる。

戦死と菩提寺

終焉の地

こうして、盛見は兄・義弘の遺志を継いで家督を継承し、幕府との関係を修復し、仏教を重んじて分国内の家臣や領民の心を一つにまとめ、国外・国内ともに家運を安定させた。
あれもこれも、色々とたいへんな人生だったが、なおも続いていくはずの治世は戦死というかたちであっけなく幕切れした。

永享三年(1431)六月二十八日、少弐との合戦中に、筑前国志摩郡深江で亡くなったという。五十六歳というから、息子や孫たちよりもわずかに長生きだ……。
深江は現在の福岡県二丈町である(『日本史広事典』)。

吉敷郡上宇野令香山国清寺に葬り、国清寺大先徳雄と法名した。

菩提寺の行方

国清寺は応永十一年(1403)に、盛見が祈願所、および両親と兄・義弘の菩提を弔うために建立した寺院。『実録』にはとてもややこしい但書がある。
「国清寺は後に毛利隆元の菩提寺となって常栄寺と改めた。文久三年、宮野下村の妙寿寺の址に移り、いまは潮音寺という。墓も宮野に移った。その旧址いまの万年寺である」
国清寺 ⇒ 常栄寺(毛利隆元菩提寺)と改名 ⇒ 妙寿寺跡地(宮野)に場所を移す。いま(『実録』執筆時の明治時代)潮音寺と呼ばれている。
盛見の墓 ⇒ 宮野(=妙寿寺跡地?)に移る。いま(同上)の万年寺がその跡地。
というようなことで、ややこしいこと限りない。

『大内氏実録』は今なお、研究者の必読文献のようになっており、大内氏研究は近藤先生の偉業から始まったことは紛れもない事実である。ただし、この書物が明治時代に書かれたものであることには注意が必要である。寺地の移動、名前の変更といったことは、明治以降も行なわれた。町の開発も進んだことから、先生が「今」と書いておられたり、現地に足を運んでその目でご覧になったと思しき内容については、現在の様相とはほど遠いことが普通にあり得る。

上に書かれた、半ば意味不明の解説は無視して、現在では毛利元就菩提寺・洞春寺が元の国清寺である、という事実は皆が知っている。加えて、墓所の問題も、元菩提寺だった国清寺跡つまりは現在の洞春寺にあることは疑いない。実際、洞春寺には盛見の墓と伝えられる無縫塔が存在する。

『実録』に書いてある「墓も宮野に移る」というのは近藤先生が勘違いなさったのか、移された墓があとからもとの場所に戻ったのかはわからない。思うに、ほかの方々の墓といわれるものも、寺院の移築に関係なく元の場所にあるから(毛利元就の墓も広島にある)、ずっと同じ場所にあったのではないだろうか。

墓じまいの問題がクローズアップされている現代においても、過去に亡くなった先祖たちの遺骨を他の場所に移すことは好ましくないと頑なに反対する身内が一人二人いたりして、実行に移すのが難しいケースが多々あるときく。移したら不吉だとか、そんな迷信めいたものがあるのだろう。確かに墓所を曝くは立派な犯罪行為だから、手続きを踏んで合法的に行なうと言っても難色を示す人がいるのは理解できなくもない。まして、今よりももっと、非科学的なことが普通に信じられていた時代である。寺地の移動や宗派替え、名前の変遷などは普通にあったし、寺院そのものが廃れてなくなってしまうこともあった。しかし、墓所はそのまま、というケースが非常に多い。たとえ誰のものであれ、好き勝手に場所を移動するなどということは許されなかったものと思われる。自己責任で敢行した場合、それこそどんな災いが身に降りかかるかわからない。そんなことを容易く実行する勇気のある人がいただろうか。

畏れながら、この「宮野に移す」云々については、先生の勘違いであろうと思われてならない。

大内盛見墓の写真

関連記事⇒ 洞春寺

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻五「世家盛見」より、山川出版社『日本史広辞典』
参考文献:米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』『山口市史 史料編 中世』『同 大内文化』『大内文化研究要覧』

補足・盛見の朝鮮交易

盛見が、一切経を求めるなど、何度か朝鮮と通交していることは先に見た通り。それについてまとめておく。

盛見の朝鮮交易:応永十、十一、十四(二回)、十五(二回)、十六、十七、十八、二十、二十一、二十二、二十三、二十四(二回)、二十五年、永享二年

実に、毎年のように通交していることが分る。応永二十六年(1419)にいわゆる「応永の外寇」が起こり、応永三十年(1423)になるまで解決しなかったため、表向きこの間は日朝通交が途絶えた。しかし、盛見はこの間にも使節派遣を続けていたらしい。

日本からの輸出は、刀剣、扇、銅など。いっぽう輸入品は大蔵経、仏具、皮革、綿布などだった。なお、大内氏の通称拠点は博多。この頃、中継貿易で栄えた琉球から輸入された南洋産の白檀なども輸出されていたことも特徴。
参照:『大内文化研究要覧』

おわりに

毎回、歴代当主の肖像をお気に入りのイラストレーターさまにお願いしている。イケメン青年を得意とされる方に、毎度毎度中年のイケメンでもない人物をご依頼することを申し訳なく思っていた。どの当主にも青年時代はあるのだから、すべて若い時代のお姿で画いていただくことも可能ではないのだが。今回、仕上げてくださった作品を拝見した際に思ったのは、若すぎないか? という点だった。何となく、盛見=仏教マニアのおっさんというイメージだからだ。しかし、作者さま曰く、出家した年代が早いので。そこであたふたと確認すると、確かに三十代で早くも墨染めの衣に身をやつしている。亡くなったのも四十代と早い。イラストレーターさまのほうが、執筆者の数倍リサーチなさっているではないか、と深く反省。

大内盛見という人は、何かと仏教 & 五山僧に結びつけられがちである。それは確かに彼自身が仏教に篤く帰依したことによる。研究者的には、仏教行事を通して、応永の乱で混乱した分国の動揺を宗教という精神的側面から修復していこうとした云々となる。それは間違っていないだろう。けれども、それと同時に、盛見本人にも、兄弟たちと相争って彼らを倒したということに対する苦衷が終始つきまとっていたことと思う。出家したらすべての罪が消えるのか、そもそも、家督相続で揉めている相手を倒すことは罪なのか、疑問は多々ある。親子兄弟でも争うという事例に事欠かなかった時代の感覚を、現代人に理解しろといっても無理だからだ。

本文中に敢えて書かなかったが、現在山口市の一大観光スポットとなっている瑠璃光寺五重塔。あれは、盛見が兄・義弘を供養するために建立したものである。ただし、完成するには時間がかかり、盛見はその姿を見ることなく逝った。菩提寺となっていた国清寺も、両親と兄・義弘を供養するために創建したという。なんでもかんでも、兄・義弘だけを追悼している。しかし、表向きはそうなっているけれども、早々に出家したことも含め、ほかの兄弟たちへを追悼する思いもどこかにあったのではないだろうか。

盛見はどこまでも、兄・義弘を立て、家督を継いだのも「繋ぎの人」としてであったらしい。つまり、自らの跡は、実子ではなく、成長した後の兄の子らに継がせるつもりだったのだ。実際に、盛見の跡は、実子・教弘ではなく、義弘の子・持世が継いでいる。持世に子がなく、教弘を養子としたことから、結局は盛見の一類が家督を継いでいくことになるが。

人々は、彼の兄・義弘への義理立てに感動したのか、将来、我が子ではなく、兄の子に家督を継がせるため、実の子を手にかけたという信じられない伝承まで生まれた(妙湛寺)。とにもかくにも、応永の乱の犠牲となった兄・義弘を立て、この戦乱のせいで不安定になった家中を一つにまとめ、さらに、将軍家との関係も修復した。その功績は甚大である。漢字だらけの五山僧との交流盛んないっぽうで、歌集まで残していた。その和漢の文芸の素養の高さにも驚かされるのである。

まとめ

  1. 大内義弘が応永の乱で亡くなった際、分国で留守を任されていたのは盛見だった
  2. 幕府は投降した義弘の弟・弘茂に家督相続を許したが、防長二ヶ国以外の守護職はすべて取り上げた。また、弘茂が家督を維持するためには、留守国で頑張っている兄弟の盛見を倒す必要があった
  3. 幕府の後ろ盾がある弘茂と、いきなりの正面衝突は避け、盛見はいったん豊前に逃れる。そして、態勢を建て直した後帰国して、弘茂を打ち破った
  4. 幕府はその後も、盛見の身内を焚付けて徹底的に討伐しようとしたが、結局は盛見に敵うものはおらず、仕方なく、盛見の家督相続を認めざるを得なかった
  5. 周防長門はもちろんのこと、豊前、筑前、石見の守護職も回復し、盛見は兄・義弘との約束を果たした
  6. 家督を継ぐことに成功したといっても、家中は動揺していた。盛見は氏寺・興隆寺の再建事業などを通じて、人心を安定させる。ほかにも、多くの大蔵経を手に入れたり、宇佐神宮の造替事業を成功させるなど、盛見は深く仏教に帰依して、それにかかわる数々の行事を執り行った
  7. 文芸面では、仏教関係で多くの五山僧と交流したほか、和歌の素養も高かった
  8. 応永の乱で義弘が叛旗を翻した義満が亡くなり、義持将軍と盛見とは親交もあり、幕府との関係も修復された
  9. すべてが順調に見えたが、九州は不穏な状態で、少弐氏の討伐に出向いた盛見は彼の地で戦死した
  10. 盛見は、家督を実子ではなく、兄の子に継がせるつもりで、実際、義弘の子・持世が跡を継ぐことになる。我が子を差し置いてまで兄の子らを立てた盛見だったが、持世と弟の持盛とが家督相続で血の雨を降らせたという史実を知ることはなかった。持世の死後、家督は養子となっていた教弘(盛見の実子)に行くので、ただの「繋ぎ」に徹しようとした盛見の思いははからずも実らなかった。しかし、彼の子孫が嫡流となり、名君が輩出されたことは、じつはこの人の最大の功績ではなかろうか

この記事は 20240726 に加筆修正されました。

  • この記事を書いた人
ミルイメージ画像(アイコン)

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

あなたの旅を素敵にガイド & プランニングできます

※サイトからはお仕事のご依頼は受け付けておりません※

-人物説明
-