人物説明

宗室・大内氏歴代当主の子ら

2022年4月18日

新介イメージ画像

「宗室」というのは「本家」みたいな意味らしく(辞書など)、そうととらえると独立して家をたてた人々はここには入らないことになる。『実録』だと、鷲頭祖などが「宗室」にはいっているけれども、問田、右田などと同じく分家したととらえて「親族」に回した。
そうなると、残るのは当主の身内で分家を作らず、実家に寄生し続けた人、のようになる。独立する暇もなく不運にも亡くなった当主の兄弟、家を継ぐ前に早死にした子息の例、および、当主の傍近くあって家督を争った身内の例、という両極端。
なお、『実録』だと大内弘茂や大内持盛を世家に入れているが、系図では当主として数えていないし、それは最新の研究でも同じなので、ここに入れた。ただし、それぞれ、家督を争っていた当主たちの箇所と中身が重複することになるため、名前程度。

歴代当主子女・簡単まとめ

まずは、重弘以下の子女を系図にそって書き出すと次の通り。
※『大内氏実録』附録系図参照
※当主の「代」については、米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』系図による

二十二代・ 重弘の子ら:弘幸、女子、弘直、師直
二十三代・弘幸の子ら:弘世、師弘
二十四代・弘世の子ら:義弘、某、満弘、某、弘正、盛見、弘茂、弘十、(持盛)、(持世)、女子八名
二十五代・義弘の子ら:(持盛)、(持世)、教祐、女子三名
二十六代・盛見の子ら:教幸、教弘、女子
二十七代・持世:実子なし
二十八代・教弘の子ら:女子、政弘、女子四名
二十九代・政弘の子ら:義興、(輝弘)、隆弘、梵良、女子二名
三十代・義興の子ら:女子三名、義隆、弘興、女子二名
三十一代・義隆の子ら:義房、女子、義尊、弘盛、義教、亀鶴、女子

( )になっている、持盛、持世、輝弘はよく分からない人たちである。
持盛、持世 ⇒ お二人は系図だと義弘の子、となっている。しかし、近藤先生はかなり自信をもって、系図は誤りで、実際には弘世の子、義弘の兄弟である、としている。ただし、『大内氏史研究』以下では、義弘の子とされているのが普通である(中には‥‥で不確実とされている先生もおられる)。
輝弘 ⇒ 最近では政弘の子・高弘(隆弘)の子とするのが普通である。

参考記事:歴代当主年代順

大内弘直

二十二代・重弘の子で二十三代・弘幸の弟。新介(系図:介三郎)。

建武二年十一月、新田義貞に従って東下し足利高氏を討つ。
延元元年七 月七日死去(系図:尊氏のため石州益田大山で討たれた)。
菩提寺:吉敷郡上宇野令白石・宝珠山瑞雲寺、法名:瑞雲寺恵海浄智

大内師弘

二十三代・弘幸の子で二十四代・弘世 の弟である。三郎(系図:五条殿、介三郎、大内介) 。

康暦二年五月二十八日、甥・義弘と安芸で戦う。

『花営三代記』は、師弘を義弘の弟のように書いているが、義弘の弟は満弘であり、師弘は弘世の弟である。系図に、師弘郎等・野田安景と弘世郎等・豊田光景は権威を争って仲が悪かったが、ついには弘世師弘兄弟が遺恨のために、戦を起こしてしまった。師弘は敗れて戦死した。法名を興禅寺殿本源彦潽という、とあってこれと間違ったのだろう。

興禅寺は長門と安芸とにあり、長門の寺院は阿武郡弥富村にあり弥高山と号する。今の須佐村大薀寺の旧号で、永享七年鋳造の洪鐘がある。安芸の寺院は高田郡吉田村にあって、のちに毛利隆元 の妻・多々良氏の香華寺となって妙寿寺と改まり、慶長年間に周防国吉敷郡宮野村に移った。その旧地を今なお興禅寺谷という。もともと興禅寺は二つある。師弘は安芸で敗死して吉田荘の興禅寺に葬られ、興禅寺云々と法名し、のちに弥富村の興禅寺は、はじめ某寺であったのを、弥富村があるいは師弘の所領だったか、もしくは某寺が師弘と縁故があったかで興禅寺と改めたのであろう。

※以上『大内氏実録』イマドキ語変換

大内弘茂

弘世の子で義弘の弟。

周防介となり、新介と名乗る(守護代記には散位とある)。

応永六年己卯十月、義弘に従って東上する。義弘が堺に城を築き拠点とした時、弘茂は五百騎を率い、兵部卿師成親王および菊池肥前守、楠某と東墩を守った。

応永六年十二月二十一日、京勢が北墩を焼き、守将杉備中守が死に、ついで義弘も戦死した。南墩は杉重運と厳島神主が守っていたが、重運は義弘が戦死し、我が子・備中守も死んだときいて北墩に馳せ闘って死に、厳島神主は降伏した。
弘茂が守る所だけは、水田に臨む要害の地であったから、京兵は力を尽して攻撃したけれども落ちなかった。敵将・今川上総入道が、一命を捨てなければ功をなしがたい、と進むと、同五郎、又五郎もこれにつづいてその兵二百余騎、先を争って攻撃すると、一色左京大夫詮範入道、同右馬頭満範も五百余騎でこれを援け、杉生円明も加勢した。弘茂は防ぎ戦うこと数回、配下の兵が二百余となったので、柵門を閉ざし自殺しようとしたが、平井道助がこれをとどめて降伏させた。ここに於いて師成親王は周防に下向なさった。

師成親王:明年庚辰二月、吉敷郡上宇野令滝の法泉寺で御落飾、梵阿と御法名あそばした、と南朝編年紀略に見える。李花集奥書には恵梵とあり、法泉寺旧址に御廟野という所があって古墓が頗る多い。親王は法泉寺で薨去なさり、ここに葬られた。よって御廟野というと伝わる。いま親王の廟というものがあるが銘はない。また政弘卿の墓というものもあるが、これもまた無銘である。

菊池はどこへともなく逃亡し、楠は手下の兵二百余人を率いて大和に逃れた(南方紀伝はこの新介を持盛とし、系図には弘茂盛見と本国に逃れ罪を謝すとする。共に誤り)。

火を消す者がなかったので、二十二日の未明、風に炎が吹き散って堺の人家一万軒(足利治乱記、一万三千家)が一宇も残さず焼亡した。

応永七年庚辰七月十一日、まず義弘の旧領豊石見紀伊和泉の四州を削って、防長二国を賜り、弟六郎盛見を討伐し、また甥・馬場殿五郎満世を召し出すべしとの命令を受けて、この日京師を出発して周防に下った。

弘茂が両国を賜った年月は不明。畠山基国入道徳元が益田越中入道に与えた応永七年七月二日沙弥とある執達状に、「周防長門凶徒対治事、所被差遣大内介弘茂也、早属彼手、可致忠節、且被仰守護人畢、可被存知之由、所被仰下也」とあるので、盛見討伐の命を受けたのはこの頃の事である。なぜこんなにもおそくなったのか、いま考えるべき理由がない。さて弘茂はこの日京師を発して、いつ山口に着いたのだろう。益田兼顕に与えた七月七日の書状に、「来十一日是を立候て可令下向候」。同十三日の書状に、「抑一昨日十一、既京都罷立」。同二十一日の書状に「去十九日御返事、今廿一日酉刻於備州三吉到来」。同二十四日の書状に、「昨日廿三、日縫罷着候」とある。

盛見は豊後に逃れた。陶山佐渡守高長を長門国守護代とする。

応永八年辛巳夏四月、感山城を修理した(四月二十二日小野弥四郎資に与えた書簡)。書簡に、「感山城誘以下、就諸事御奔走之由陶山申候、返々悦入候、猶々可被入御意也云々」という。感山城はどこの国郡村なのか分からない。

兵を屋代島に派遣した(五月一日の同書簡)。書簡に、「此間長々在府事痛敷存候、諸事御奔走、返々悦入候、此辺軍勢等就屋代島事差遣候、暫御在府候はゝ悦入候、子細定陶山可申哉云々」という。屋代島は周防国大島郡のことである。

応永八年冬十二月二十六日、盛見が豊後より長府に帰る。四王寺山の毘沙門堂で合戦。敗北。

十二月二十九日、下山(豊浦郡江良村)で合戦。また敗れて戦死。

法名:真休院日菴浄永(三浦氏所蔵古文書は成永とする。真休院旧址不明。阿武郡萩天樹院に、真休院住持職事という文書があったが、天樹院は廃寺となって今はどこに伝わるのか分からない)。

※以上『大内氏実録』イマドキ語変換

参考記事:大内盛見

大内満弘

二十四代・弘世の子。二十五代・義弘の弟。
伊予守(系図:三郎)。

永和三年、兄・義弘に従って鎮西に下向し南朝方を撃つ。八月十二日の戦いで力戦して大いに敵軍を敗った。

応永四年、兄義弘の命で、弟・盛見と五千餘騎を率いて九州に渡り南朝方を攻撃した。筑前国八田で戦死した。

法名:雲泉院心満月峯(系図)

※以上『大内氏実録』イマドキ語変換

大内満世

五郎と称した(系図:中務大輔) 、馬場殿と名乗った(山口に馬場殿小路という街があり、ここに居住していたようだ)。

応永六年 十月、伯父・義弘が謀反。叔父・盛見を留守とし、叔父・弘茂を伴って東上した。その年十二月廿一日、義弘は和泉堺城で戦死。

応永七年、弘茂が義弘の旧領のうち、防長二州を賜って下向した時、石見の益田越中守兼顕は弘茂を援けて盛見を討ち、満世を召出すように、との将軍家の命を受けて満世を諭した。

応永七年七月二十日、満世は益田に赴き、その命を承った。

応永七年八年七月、満世は、将軍から長門二郡を賜った。

その後のことは、氷上山本堂供養日記、同唐本一切経に名前が見えるのみ。
系図に法名道満、京師で自害とあるがほかに所見はない。

※以上『大内氏実録』イマドキ語変換

大内持盛

持盛、持世は兄弟で、義弘の子である、というのが最近の定説っぽい(今どの本が根拠と提示できない、お待ちください。少なくとも『大内氏史研究』『戦国武士と文芸の研究』ではそうなっていた)。なおも、不確定にしている本もあった気がするので、以下は『実録』近藤先生のご意見。

弘世の子。兄・義弘が養って子とする。
系図に、義弘の子で持世の弟であるとするのは誤りである。弘世の子で持世の兄である。『薩戎記』、永享五年四月廿一日の件に、「参左相府殿、大内兵部大輔持世討取兄新助某之由、昨日注進」と見えて、持世が盛見と兄弟である裏付けがあるので、持盛は弘世の子で義弘の子ではないことは明らかである。さてまた、義弘の養子というのは、玖珂郡今津村白崎八幡宮棟札に、勝音寺殿依御家督御供仕とあるので、義弘の養子となったことは疑いないからである。系図が義弘の子とするのも理由がないわけではないのだ。

新介と称した(薩戒記は介を助と誤っている。系図に、孫太郎正六位上とあるがほかに所見なし)。

永享三年辛亥、兄・盛見に従軍し、豊前国朽網に在陣した。

夏六月廿八日、盛見が筑前国深江で戦死する。持盛が家督を継ぐ。

四年壬子春二月十三日、豊前から長門に入る。陶越前守盛政が守護代となってつき従う。

五年癸丑夏四月八日、弟・持世と豊後国篠崎で戦って敗死した。

棟札に、澄清寺殿、勝音寺殿、両家御弓矢之時、勝音寺殿依御家督御供仕、依負方本領已下相違也とあって、薩戒記と符合する。死亡の日は系図以外に所見がないけれども、薩戒記に四月廿一日云々、昨日注進と見えるので間違っていないだろう。また系図に行年三十七歳とするはありえない。父弘世死去の年より数えても今年五十四歳である。まして持世の兄なのである。

吉敷郡上宇野令滝の観音寺を菩提寺とし、観音寺芳林道継と法名した(観音寺は勝音寺ともいう。一寺二名で高嶺太神宮御鎮坐伝記に、きたは勝音寺山と見えている。今の廃・大通院の地で、ここにある観音堂がすなわち観音寺の本堂である。木像はここにあったが今は万年寺に移された)。

※以上『大内氏実録』イマドキ語変換

大内教幸

二十六代・盛見の子で二十七代・教弘の兄。
掃部頭、(系図:孫太郎)。筑前守護代となる。
剃髪して南栄道頓と名乗った。

あれこれ重複しているので、ひとことでまとめると、応仁・文明の乱で甥・政弘に叛き細川勝元に与した人である。

『実録』中、本人の項目で真新しいことと言えば、道頓は「筑前守護代・仁保加賀守盛安に誘われて」、兵を挙げた、とある(ほかは、政弘、陶弘護記事と重複。検索エンジンにますます嫌われてしまいます……)。

左京大夫となった。⇒ この時期、東西両方で守護を任命したりしているので、政弘がもらっていたものは、全部もらったと思う。

陶弘護にコテンパンにされて、九州で自殺したことになっているけれども、実際にはよく分からない模様で、その後も生存していた可能性がある(須田牧子先生のご研究がある)。

菩提寺:吉敷郡古熊・広沢寺、法名:広沢寺南栄道頓。
※『実録』の廣澤寺位牌引用の記事:「廣澤寺明治二年平井村の恒富の口口口と合併して該地に移り、今は口口口と改号せり」どこと合併して、今は何と言うのか……。

大内晴持

初名:恒持(系図:太郎、隆廣、義房) 。三十一代・義隆の養子で、土佐一条大納言房家の子である。房家の四男、母は義隆の姉。三歳で義隆の養子となったという(系図)。
※晴持の母について、『実録』では『異本義隆記』や『房顕記』の記述を引用し、伏見宮院の娘であり、系図は間違っている、としている。さらに、養子になった時期についても、系図にしか記録がなく、確定は難しいようである。とはいえ、生母が義隆の姉であるから、晴持は義隆の甥となって、血縁となるわけで、単に姉の嫁ぎ先の子ども、というのは養子に迎える動機として薄い気がする。根拠はないけれども。

晴持という人はイケメンな上に、「詩歌管絃蹴鞠」という公家のお遊び全てに優れた上、武芸の心得もあったということなので、養父にたいそう気に入られた模様である。ゆえに、月山富田城の大敗北で命を落としたことで義隆はショックのあまりあれこれとやる気をなくした、という逸話が有名。

それだけで、ほかには何もない人物のように思われがちだけれども、養子とはいえ、三歳から(上述のように根拠は系図だけのようだが)ずっと実の親子同然、将来の跡継ぎとして大切に育成していたわけなので、嫡子としての活動もきちんとこなしていたと思われる。
天文九年からの義隆安芸遠征にも従っているし(もっとも、義隆自身、防府まで出て来たにすぎない……)、天文十年三月には安芸国に入り、五月五日に厳島で流鏑馬を見ている。

官職も順調に上がり、天文八年には、将軍・足利義晴の偏名を賜って、晴持と改名した。
従五位 ⇒ 正五位下(十一年正月五日)、周防権介、左兵衛佐 ⇒ 左衛門佐

天文十一年冬、尼子討伐のために出雲に入ったが、翌年五月七日に味方軍は潰走。晴持は帰国の途上で溺死したといわれている。

晴持は意宇郡出雲浦に逃れた。敵の追撃が甚だ急であり、晴持は福島源三郎親弘、右田弥四郎等が防戦する間に船に乗って出発した(福島、右田両名は戦死)。ところが、逃れようとする味方兵たちで船はごった返しひどい有様であった。乗り遅れた者は水中に入り、何とかして船によじ上ろうと船舷(ふなべり、ふなばた)にとりついたが、船上の人は楫(かじ、かい)や篙(さお、ふなざお)で船舷を払って彼らを落とした。船はこれらの人々の重みで傾いて転覆し、晴持は水底に堕ちてしまった。 水に慣れた者が晴持を探したけれども、敵がまたせまって来たため終に救うことができなかった。晴持はこの時年二十歳だった。
※晴持が亡くなった場所は、出雲浦とする説が多いけれども、『中国治乱記』は八杉浦から舟に乗ったとし、系図は八杉浦で亡くなった、とする。いずれが正しいのか今は分からない(『実録』)。

後日、漁師の網にかかったので、首を斬って富田城に献上した。それ以来、出雲浦では暴死する者があり、また陰火(おにび)が徘徊して行く人を驚愕させた。 地元の人は甚だおそれおののき、晴持の霊魂のしわざとして、祠をたてて祭祀した。 その祠はいまなお楫屋浦にある。
※『中国治乱記』は新介殿を神として崇め、その社を新宮と呼び、錦の浦という所にある、とする。『毛利氏八箇国分限帳』には、大内若宮、 七石八斗九升、 島根郡とある(『実録』)。
近藤先生が出雲に行かれた際、 偶然小さな祠を見つけた。地元の人に何の神なのか尋ねると晴持の社であった。社傍に形ばかりの祠があり、杉宗三という人の霊を祀るという。楫屋浦で晴持を海底よりかづきあげた漁師の子孫であるという人がいて、その家の言い伝えでは、晴持は息を吹き返してその家に暫くかくれていて、後に山口に帰ったという。その時の遺物であるという曲玉が一つ、伝わっている。先生はこの話をデタラメとしている。

大内義尊

義隆の子で、生母は継室小槻氏。⇒ 義隆継室廣橋氏
従五位下、周防介、新介と称した。

天文二十年八月二十九日、政変により長門に逃れたとき、義隆は同朋・龍阿に義尊の世話を命じた。
九月一日に敵軍に捕まって、翌日殺された。わずかに七歳だった。
法名:系図 ⇒ 幻性院真海珠珍、大寧寺過去帳 ⇒ 珠珍鳳毛

問田亀鶴

義隆の子で、生母は内藤下野守興盛の娘。内藤氏は問田村に居住し、問田殿と称したから、問田亀鶴と名乗った。

弘治三年十一月十日、大内義長の残党・草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守等が亀鶴を奉じ吉敷郡上宇野令の障子岳で兵を挙げた。
十一月十一日、亀鶴の叔父・内藤左衛門大夫隆春、および杉松千代丸が反乱者を迎え撃った。草庭越中守等は皆戦死して、亀鶴も殺された。系図によれば、この時十一歳であった。

大内輝弘

太郎左衛門尉と名乗った。
庶孽(しょげつ、正妻以外の女性から生まれた子)である。
大内氏滅亡後、大友義鎮に身を寄せる。貧しく、身分も低かった。

最近の研究では、この人は氷上山興隆寺別当・大護院尊光(政弘の子、義興の兄弟)の子、ということに落ち着いている(今具体的に典拠文献がどれとか探せないので待ってください。当たり前のごとくそうなっています)。そこらへんが近藤先生の時代より研究が進んだものかと。しかし『実録』当初も、誰もが知っていたことは、この人物が大友家の援助を得て、毛利家支配下となっていた大内家滅亡後の山口に侵入して、市街を燃やしたことです……。
まず今回の時点では、近藤先生のご本からまとめます。

系図によれば……初め隆弘、氷上太郎。最初僧となって尊光といい、氷上山の別当となり大護院と号していた。のちに還俗して氷上村を領有したので氷上と称した。義隆の代となった時、讒言をおそれて嫡子・武弘を伴ってひそかに上洛、将軍・義輝公に拝謁した。太郎左衛門尉に任じられ、諱字を賜り、輝弘と改めた。その後雲州に下向し、尼子晴久に身を寄せた。永禄年間、晴久は利を失ったので、輝弘は豊後国・大友入道宗麟のもとに向かった。宗麟は輝弘に娘を嫁がせた、とある。系図は政弘の子で義興と同母とするが、政弘没年の出生としても、永禄十二年には七十五歳となるから疑わしい。当時輝字を名としたのは、義輝の偏名を賜ったことによるという点だけは疑いない。

大友氏は何年も毛利氏と兵を交えていた。永禄十二年十月、義鎮は輝弘に兵若干を預け、旧国を回復するよう命じた。輝弘は大いに悦び、周防国吉敷郡秋穂に渡った。秋穂、岐波、白松、藤曲等の地元民がこれに応じた。
十月十二日山口に進入した。警報をきいて事情を探りに行った山口町奉行・井上善兵衛尉就貞は平野口で糸根峠を上って来る輝弘と遭遇した。輝弘は就貞を急襲して殺害。また道中で三河内次郎右衛門尉、波多野備後守、二宮弥四郎等を斬った。
山口に入ると、築山館および龍福寺を本営とし、高嶺城を囲んだ。 城兵は元就父子の赤間関の陣営に報告し、安芸石見に急をしらせて援軍を求めた。
石見の吉見兵がまず来援。輝弘は宮野で迎え撃ってその部将上領余二郎等を斬った(何日なのか不明。この後、十七日に合戦した文書があるが、地名を書いていない。あるいは同じく宮野での戦であろう)。
元就父子は軍を赤間関から戻し、吉川元春を将として、福原貞俊が先鋒となるときくと、二十四日に輝弘軍は散り散りとなった。輝弘は秋穂に逃れ渡海しようとしたがかなわず、海に沿って防府まできた。右田獄の城兵が出て攻撃したので、輝弘は狼狽し都濃郡富海に逃れた。相従う兵はわずかに百人にすぎず、ここにも船はなかった。
椿峠に安芸兵が既に来ているときいて、浮野の茶臼山にたてこもる。二十五日、毛利氏の兵が前と後ろから同時に攻撃した。輝弘は防戦したが、衆寡敵せず、力尽きて自殺した。

法名:定荵(系図)。

浮野峠の路傍に古塁が三基あって、輝弘主従の墓であるといわれている。草莽(くさむら)の中を探れば このほかにもあるだろうとおもわれる。いずれも無銘の斤石なので、確かにそうであるとは言い難いけれども、さしあたって認めることができる。さりながら、むかし地元の人がこの墓地を穿って手に入れたものを、輝弘の物であるとてもてはやしていたところ、祟りがあったとかで、ある人が某社に納めた短刀を見たが、銘はいま記憶していないが輝弘死後の鍛冶の銘であった(『実録』)。

 

参照箇所:『近藤清石先生『大内氏実録』巻十六「宗室」、巻四「世家・弘茂」、巻六「世家・持盛」、附録系図より
参考文献:文中に書いた以外のもの、タイトルなど思い出し中。

 

-人物説明