
5分でわかる大内氏について
大内氏は周防・長門国を中心として発展し、室町幕府の重鎮としても活躍した名門氏族です。海外貿易によって得られたその財力は将軍家をも凌ぎ、強大な軍事力は周辺諸国を圧倒していました。中国から九州にわたる広大な領国を支配する、まさに西国地方最大の勢力でした。ところが、親族家臣が起こした政変によって当主が命を失うという悲劇により、歴史から忽然と消えてしまったのです。
始祖はとつ国の王子様
大内氏の先祖は日本に仏教を伝えた百済の聖明王の第三王子・琳聖太子だと言われています。太子は仏教への信仰心厚い人で、日本の聖徳太子に会うために遙々海を越えてやって来たのです。太子の来朝を予言して、都濃郡にあった松の大樹には眩い星が降りそそぎました。その星が太子を守護する妙見大菩薩であったことから、大内氏の氏神は妙見さまとなったのです。聖徳太子に拝謁した太子は多々良の姓を賜り、また大内県を采邑として日本に定住しました。ゆえに彼の子孫たちは多々良を姓とし、やがてその本貫地から大内氏と呼ばれるようになったのです。
星が降ってきたとされる鼎の松。これは何代目かの子孫(下松市)
西の京やまぐちへ
多々良氏の一族は、周防国衙の在庁官人として、少しずつその勢力を伸長させていきました。源平合戦のおりには、頼朝方について軍功をあげたという記録が『吾妻鏡』に残っています。武士としても実力をつけてきたのでしょう。大内氏が歴史の表舞台に輝かしくその名を轟かせたのは、南北朝時代の惣領家嫡男・弘世の時でした。弘世は南朝と北朝の対立という構図を上手く利用しつつ、惣領の地位を脅かす存在だった同族の鷲頭氏を倒し、さらには防長の地をも統一したのです。弘世は父祖伝来の地から、山口へと「首都」機能を移転させます。これを機に、大内氏の発展に伴い、その本拠地山口も西の京と呼ばれるほどの一大都市に成長していくのです。
山口開府の父とされる大内弘世公像(香山公園)
文武両道の家
大内氏の当主は並外れた統率力をもつ、「武」の人々であっただけでなく、雅な文化に憧れる「文」の人々でもありました。幕府に帰順して間もない頃の当主・義弘はどこか泥臭い武人としてのイメージが先行してしまいますが、彼を含め、つづく盛見、持世と勅撰集にその名を連ねました。仏教への信仰厚い盛見は著名な禅僧たちと交流しながら五山の文化に触れ、持世は足利義教政権下で「歌人」と見なされていました。そして、教弘は連歌の正徹や水墨画の雪舟との交流を求めました。教弘の嫡子・政弘の代には、文武の家としての大内氏はまさに最盛期を迎えます。応仁の乱における政弘の活躍を知らぬ人はないほどの若武者ぶりであったと同時に、彼はまた、武家歌人としても当代一流で、その麗しい言の葉はその死後、『拾塵和歌集』としてまとめられ、後世に伝えられたのです。
日本史上稀なる文武の将・大内政弘卿墓(法泉寺跡地)
宴の終焉
政弘の嫡子・義興もまた、稀に見る名将でした。細川政元が起こした明応の政変で将軍職を追われた足利義稙を帰京させ、将軍職に復職させたのは義興の功績です。ただし、彼にはその後の戦国大名のように、京都に上って天下を統一し、権力者になろうなどという野心はありませんでした。将軍の忠義な家臣として、難儀に遭った主を救い助けたに過ぎなかったのです。大内氏の軍事力無しでは京都の治安を維持できなかった将軍や朝廷は義興の引き留めにつとめ、十年余にわたる在京を余儀なくされた義興でしたが、時はすでに戦国乱世。彼の留守を狙って騒がしくなる分国をこれ以上放置することはできず、最後は自らの意思で帰国しました。乱れた国許を安定させたいという願い空しく世を去った父の跡を継いだ義隆も、最初のうちこそ当主らしく合戦にも精を出していましたが、やがては公家のような雅な生活に憧れる武人らしくない当主へと変貌していってしまいました。そして、親族でもあった家臣・陶晴賢らの起こした政変によって命を落とし、長らく続いた名門の家系はここに潰えてしまったのでした。
名門一族終焉の地・大寧寺大内義隆墓(長門湯本)
歴代当主一言解説
弘世以前の当主世代表
始祖:琳聖太子
二代~七代:不明
八代 ⇒ 正恒
九代 ⇒ 藤根
十代 ⇒ 宗範
十一代 ⇒ 茂村
十二代 ⇒ 保盛
十三代 ⇒ 弘真
十四代 ⇒ 貞長
十五代 ⇒ 貞成
十六代 ⇒ 盛房
十七代 ⇒ 弘盛
十八代 ⇒ 満盛
十九代 ⇒ 弘茂
二十代 ⇒ 弘貞
二十一代 ⇒ 弘家
二十二代 ⇒ 重弘
二十三代 ⇒ 弘幸
ひとこと解説
二十四代 | 弘世 | 南北朝期に活躍。南朝、北朝を渡り歩きつつ、一族の鷲頭氏、長門の名族・厚東氏などを倒して防長を統一。山口を本拠地に改めた。 |
二十五代 | 義弘 | 弘世の子。九州探題・今川了俊を助けて、九州地方を統一するなど、幕府に貢献。しかしながら、将軍・義満の有力守護勢力削減政策の対象となって応永の乱を起こし、敗北して自害(もしくは戦死)。 |
二十六代 | 盛見 | 義弘の弟。兄・弘茂との相続争いに勝利して家督を継ぐ。応永の乱でいったん弱体化していた大内氏を建て直し、幕府内での地位向上に努める。九州で少弐との合戦中に戦死。 |
二十七代 | 持世 | 義弘の子。兄・持盛と家督を争う。持盛を倒し、当主として認められる。将軍・義教の覚えもめでたかったが、将軍が赤松家で暗殺された「嘉吉の変」でその場に居合わせて重傷を負い、数日後に亡くなった。 |
二十八代 | 教弘 | 盛見の子。持世の養子。大内氏の幕府内での地位も安定し、支配領国も広大となる。手狭になった守護館を補完するものとして築山館を建築。文化人を招聘するなど、文武にわたり活躍。四国での合戦中に病を得て亡くなった。 |
二十九代 | 政弘 | 教弘の嫡男。応仁の乱で活躍し、十年におよぶ在京期間中に多くの公家・文化人等と交流。元々素養の深かった文芸面での才能をさらに開花させる。和歌・連歌に優れ、古典の蒐集にもつとめた。 |
三十代 | 義興 | 政弘の嫡子。明応の政変で都を追われた将軍・足利義稙の復職を助けて上洛。船岡山の合戦で活躍するなど武名を轟かせただけでなく、管領代として、政治家としても実力を見せた。文芸面では有識故実の習得につとめる。 |
三十一代 | 義隆 | 義興の子。大内氏の勢力が最大となったときの当主。尼子氏との月山富田城の戦いで大敗北を喫してから合戦に嫌気がさし、文治派の側近に政治を任せて雅な宴会に現を抜かすようになった。重臣等の不満を招き、政変に遭って自害。 |
※当主の世代順番は、御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』、米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』中の系図によります。なお、このご著作はまだ完全に読み切れていないため、参考文献には入れてません。