人物説明

始祖・琳聖太子

2020年8月23日

琳聖王子イメージ画像

琳聖太子とは?

大内氏の始祖。日本に仏教を伝えたとして有名な百済・聖明王の第三王子。仏教への帰依深く、聖徳太子に会うために遙々海を越えてやって来たとされる。「伝説上の人物」と一笑に付す研究者等は数多いが、それは昨今流行りの「聖徳太子は存在しなかった」と主張する人々(含研究者)と同じく、人々の夢と浪漫を破壊する非情な行為である。

自らの「始祖」と仰ぐ人物の存在を否定されたら、その子孫たちはどれほど傷つくことか。学術的研究などは無視して、長く語り伝えられてきた物語に憧れ続けることは、なんびとにも許された権利である。無味乾燥な「学術的」研究など、相手にする必要はまったくない。

琳聖太子基本データ

生没年不詳
父 百済聖明王
※ 学問的には伝説上の人物とされており、詳細は一切不明

父・百済の聖明王

知名度圧倒的ナンバーワン

日本同様、中国文化の影響を強く受けた朝鮮半島では、王の諡もそれに準じていると思われる(ココ、調べ中)。日本の天皇も、中国の皇帝も、唯一絶対、神聖不可侵な存在だから、そのお名前を直接口にすることなど、畏れ多くてできない。お亡くなりになった後(もしくは、引退された後)、〇〇帝なる諡がつく(引退の場合は、〇〇院、〇〇上皇等)。

この諡だが、明朝以降は皇帝一代につき、一つの元号と定められた(逆に言うと、それ以前は皇帝一代の間でも、何度も元号が変ったということ)。ゆえに、明の洪武帝は「洪武」という元号の時の皇帝だから、「洪武帝」なのである。日本でも、明治以降は天皇一代につき、元号はひとつとなった(多分)。

こうなると諡〇〇帝、〇〇天皇は、元号がそのまま用いられるが、以前は違っていた。太祖、高祖、武帝、文帝、高宗……などなど、あれこれあるが、たいがい生前の行いに合せた命名がなされる。漢の武帝は対外遠征を大量に行なったから「武」帝のように。だとすると、哀帝なんかは悲惨な人だったんだろう。

何が言いたいか。聖明王はどう見ても、名君である。「聖」にして「明」なのだから。「仏教を伝えた人」として、日本でまで有名である。

仏教公伝

538 年、もしくは 552 年、百済の聖明王によってもたらされた

聖明王以外の百済の王さまの名前がスラスラ言える人がいたとしたら、研究者以外なら、かなりの韓流マニアだけだろう。反対に、聖明王を知らない人は、日本史を知らない人である。

中国のではない三国時代と英君の死

日本人が大好きな『三国志』。後漢が滅び、晋による再統一が成し遂げられるまで、中国が魏・呉・蜀という三つの国に分裂した時代を描いた物語だ。日本の軍記物同様、物語である以上、史書ではない。それを以て、「インチキ」と宣うのは、歴史研究者だけなので、相手にしないでおこう。

中国史は、分裂、そして、再統一の繰り返しだ。けれども、この「三国時代」と呼ばれる天下三分裂の時代が朝鮮半島にもあった。高句麗・百済・新羅の三国時代である。中国のそれと同様、三国はそれぞれが、半島の統一を目指して戦った。悲しいことには、日本同様、自らの文字を持たなかった当時の朝鮮半島でも、この時代の歴史は漢字を用いて記された。しかも、現在、『三国史記』として我々が目にすることができるのは、三韓一統を成し遂げた新羅の学者が記したもの。ということは、自国に都合が言いように脚色されている可能性は極めて高いだろう。とは言え、一応は滅ぼした高句麗・百済の史書も参考にして書かれたらしい。で、この聖明王だが、死因は戦死。新羅との戦争に敗れて「殺害されて」しまった。

それよりも、聖明王の死に至るまでの記述は、『日本書紀』が非常にに詳しい(『三国史記』読めないので、比較はできないが)。新羅と高句麗が手を組み、任那を侵食したから、聖明王の息子・余昌は新羅を討伐しようと兵を起こす。重臣たちはまだその時期ではないと説いたが、余昌は自らは大国(=やまと、日本)にお仕えしている身、何を恐れることがあろうか、と突っぱねる。しかし、敵の勢いは強く、なかなか打ち破ることができなかった。聖明王は苦心する息子を思い、慰労のために戦場に赴く。その情報を得た新羅は、聖明王を倒す絶好の機会と大軍を派遣した。

聖明王は新羅軍に敗れて捕らわれたが、新羅の王は敢えて身分卑しい馬飼の者によって王の首を斬らせたという(554)。王子・余昌も新羅軍の包囲を突破できなかったが、弓の名手・筑紫国造(日本人だよね?)が、新羅軍の大物をつぎつぎに射殺して、何とか撤退することができたという。余昌の弟・恵が日本に赴き、聖明王の死について奏上すると、天皇(欽明天皇)は大いに悲しまれた。

余昌はショックのあまり出家しようとしたが、そもそも重臣たちの進言を聞き入れていれば、このような悲劇は起らなかったはず。出家などして、いったい誰にこの国を継がせるのかと誡められて思い止まり、即位して威徳王となった。

以前『善徳女王』という韓ドラを観ていた時、新羅のナントカ王が「聖明王の仇」とか叫ぶ、百済の刺客に襲われるシーンがあった。あらまぁ、いかにもと思った記憶が。この作品に対して、まったく萌えなかったのは、最後に新羅が三韓一統を成し遂げたからだろうか。それとも、始祖さまのお父上を殺した国の女王を描いた作品だったからか。

ところで、百済や新羅は王さまなのに、中国は皇帝。そもそも、皇帝と王さまの違いってご存じですか? 聖徳太子の頃(607)、「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す」と手紙を送って、隋の煬帝がカンカンに怒ったという話は有名です。しかし、当時小学生でしたので、裏側の意味はまったく不明でした。そりゃ、こっちは日の出、相手は日没とか言われたら、怒るよね、とそんな理解だったことを覚えています。問題はそこではなく、ともに「天子」、つまり「対等」である、と主張したところにあったのですよね。

朝鮮半島でも、琉球などでも、中国から「冊封」されています。つまり、王であることを中国の皇帝から認めてもらっているわけです。要は臣従している。ですけど、日本は聖徳太子の頃からすでに、中国の支配下から脱して、独自の道を歩んでいるわけです。むろん、その後も遣隋使だ、遣唐使だと中国からあれこれと学ぶための使者を出していますが。

皇帝ってのはそれこそ、世界の頂点に立っている、ようなエラそうな身分です。何が世界だ、中国という国の王さまにすぎないじゃないか。と思いますけど、始皇帝の時代に、中華帝国の外側のことまでわかりません。匈奴だとか野蛮な連中が多少いる程度の認識でしょう。倭国だって、卑弥呼や倭の五王の時代には中国皇帝から「王さま」って認めてもらっていたわけです。聖徳太子の時代にもう、中国と対等だぜ、って主張していた日本てある意味すごいですよね。

にもかかわらず、足利義満の時に、日明貿易の利益欲しさに「日本国王」に冊封されたことで、あれこれクレームしている人々がいましたが。儲かればいいんだから、そんなんどうでもいいじゃん。「中華帝国」という麗しい響きに自己陶酔して、割に合わない手土産ばらまいているほうが哀れだよ。皆さんプライドが高くていらっしゃるので、そういうところにこだわるんですねぇ。イマドキの民のように、とにかく儲けを優先すれば、卑屈に感じる必要などまるでないことがわかると思うよ。天子さまは天子さまで御簾の中にいらっしゃり、「配下」が金儲けのために勝手にやってると考えたら、古くさい研究者も腹立たないと思うのにね。

親日国百済と日本

日本が倭国と呼ばれていた時代から「日本」と自称するようになったのが、いつの頃なのか、ということも受験参考書に書いてあります。面倒なので、最初から日本にします。

三国時代の朝鮮半島に、高句麗・百済・新羅のいずれにも属さない地域がありました。それが加羅と呼ばれる地域です。このあたり日本では任那と呼んでおり、影響力が及ぶ範囲だったようです(韓国では否定されているようですし、古すぎて分らない、とごまかしたほうが身のためです)。百済と日本とは長らく友好関係が続いていました。心の底から日本大好きだったのか、真意の程はわかりませんが、三国の抗争激しき折、どこかに味方は必要でしょう。

いっぽう、隋はずっと邪魔な高句麗を滅ぼそうとして果たせず、王朝が唐に変っても状況は変りませんでした。むろん、最終的には朝鮮半島全土を支配下に置く心づもりです。先に「日出づるところの云々」で隋の煬帝を怒らせてしまった日本でしたが、黙認されたのは、高句麗との戦争で手一杯だったため「野蛮人は放置」となったゆえにです。敵の敵は味方理論は古代史の時代からすでに有効。新羅と唐は高句麗を滅ぼすために手を組みます。

高句麗強すぎるというよりも、新羅狡賢いし、それより以前に潰れている百済(660)弱すぎ。日本が百済再興を目指して、白村江の戦いでズタボロになった(663)ことは、小学生でも知っていますが、百済についで、高句麗も滅ぼされ(668)、どうせ戦略のために手を組んだにすぎなかった唐と新羅でしたが、新羅は唐の支配下を脱して独立。三韓一統を成し遂げたのでした(676)。

というような流れがあって、まあ、それ以前にも朝鮮半島からは数多くの人々が日本を訪れ、中には帰化した人々も少なくありませんでした。我らが琳聖太子もそのうちの一人と考えてよろしいでしょう。特に、国滅びて云々となれば、亡命してくる人なども後を絶たなかったと思われ、百済から日本に逃れて来て帰化した人は相当数に上ったと思われます。しかし、琳聖はそれらの人とは無関係です。

琳聖ってどんな人?

「琳聖太子」

琳聖は、百済の聖明王の第三王子ということになっております。しかし、『古事記』や『日本書紀』の時代の人々が実在したかどうか、それらの書物に書いてあることが、どこまで真実なのかどうか分らないのと同様、正確なことは不明です。

まず、聖明王の跡を継いだ威徳王(余昌)。この人については、とりあえず、『日本書紀』にも、『三国史記』にも出ているようです。彼には子がなかったのか、その後を継いだのは、先に出てきた弟の恵でした。ここまでは、いちおう記述があるわけです。それ以降の王についても滅亡までの系図は残っています(どこまで正確かは不明)。ただし、聖明王の長男・余昌、その弟・恵(次男かどうかなど不明)については分っていても、それ以外の息子や娘については一切不明です。=いなかったから、書いていない、とは言い切れません。王位を継いでいない子息や、まして女性についてなど、古すぎる記録に残っているはずがありません。

なので、第三王子以下が存在した可能性は、十分にあると思います。ただし、名前などは不明です。そもそも「琳聖太子」という呼称ですが、これは「聖徳太子」同様、本名ではないと考えます(典拠なし)。だいたい、「太子」と言ったら「皇太子」等、要するに、跡継を想像します。ここで、疑問に思ったのです。「聖徳太子」は推古天皇の跡継ではない。ならば、なんで「聖徳太子」なんだろう? と。

【太子】たいし
1.天子・諸侯の世継ぎの子。
2.漢代以降、天子の位を継ぐ皇子を皇太子、諸王の子を太子という。
出典:角川『新字源』

単なる尊称なのかもしれないですが、一応辞書的意味としては上記の通りです。となれば、聖徳太子は天皇家の一門ですから、世継ぎであるかにかかわらず、太子と呼んでも差し支えないとなります。琳聖はどうでしょう? 系図にすら名前がないのですから、なんとも言えません。しかし、聖明王の世継ぎでなかったことは事実です。兄が跡を継いでいますので。そもそも、長男を余「昌」、その弟を「恵」ともに漢字一文字です。

琳聖という呼称は、日本に移住してから付けられた尊称なのかもしれません。さらに、聖明王の子息であるという尊い身分から「太子」と呼ばれたに相違ありません。

そんな風に考えてみると、琳聖太子という人物の存在が、いかにも真実らしく思われ、胸にすとんと落ちます。聖明王には息子は二人しかいないとか、跡継ではないとか、そんなことは無関係なわけです。

ただし、一つ問題があります。琳聖太子(ここはもう、既成事実としてそう呼びます)の来朝が、西暦 611 年とされていることです。聖明王が亡くなったのは 554 年であり、60 年近い年月が過ぎている計算になることです。仮に、聖明王が子沢山で、琳聖太子がその末子などで、父子の年齢が大きく離れていたとしても、来朝時の琳聖太子はすでに 60 代くらいなっていることになります。当時の感覚からいったら、ほとんど老人です。

仏教に深く帰依し、遠く海の彼方におられる聖徳太子に憧れて異国に赴いた、などと聞くとせいぜい青年くらいを想像しませんか? まあ、そこら辺は、若くてイケメンの王子さまを想像するのがいけないのですが。残念ながら、この妄想は捨てましょう。

鷲頭荘青柳浦の鼎之松

琳聖太子来朝より遡ること数年。鷲頭荘青柳浦というところにあった松の大樹に大きな星が降ってきました。これを「北辰降臨」伝説と呼びます。鷲頭荘青柳浦の所在地は現在の山口県下松市です。実際に、この松の木に星が降ってきました、という木も存在します。残念ながら、虫害などにより、本家本元の木はとうに枯れ朽ちてしまいました。しかし、その「子孫」にあたる木は現在も存在します。

この松の木があるのが、ちょうど下松駅北口から徒歩数分という、これ以上ないくらいのロケーションです。江戸時代くらいにかかれた古地図を拝見すると、どうも現在の駅近とはやや違う場所のような気がしなくもないというお話をお伺いしたことがございます。観光資源化するにあたっては、駅近が最高なので、ひょっとしたら……ということもなくはありませんね。

大星が降るっていったい何? ってことですが、降ってきたのは「北辰」つまり、北極星でした。むろん、北極星が流れ星になって天空から消えてしまったら全世界が動揺します。降ってきたのは、北極星そのものではなくして、北極星の神さまです。ゆえに「降臨」なさったというのです。とはいえ、星のお姿で降りてこられたことは事実でして、七日七晩に渡って松の木の上で煌めいていたのです。

地元の人たちは不思議な出来事に肝を潰し、これはいったいどういうことだ? と不審に思っていたところ、ご神託がありました。ご神託? ナニソレ? ってなると思います。神さまというのは、お姿が見えません。それゆえに、口寄せの巫女などに憑依して、神意を伝えるのです。具体的にどこのなんという人物に取り憑いたのかという記録はありませんが、その人の口を借りて人々に伝えたのは、以下のようなことでした。

一、自らは「北辰」である
一、近いうちに異国の貴人がやって来る
一、その貴人を守護するために降臨したのだ

人々は恐れおののき、まずは「神さま」をお祀りするためにお社を造りました。降臨した神さまは自ら「北辰」と名乗っておられます。「北辰」はつまり、妙見さま、妙見さま=北辰(北極星の神さま)なので、皆は妙見社を造りました。その上で、神さまが「守護する」とおっしゃっている「貴人」の来訪を待ったのです。

なんと、それから数年後、百済(異国)から王子(貴人)がやってきました。「ご神託」の通りです。その百済の王子=琳聖だったわけです。神さまをお祀りして貴人の来訪を待っていた人々も、百済からやってきた琳聖もともに驚きました。琳聖からしたら、まさか自らの来訪が、事前に地元の人々に知られていたなど夢にも思わぬことだったからです。

それゆえに、なんとも尊いことである、と感銘を受けた琳聖は「北辰」の神さま(=妙見)を大切に敬いました。これが、のちの大内氏の妙見信仰の起源です。

聖徳太子に憧れた王子さま

琳聖太子が聖明王の王子かどうかはともかくとして、いずれにしても王位を継ぐことはないお気楽な身分であったことは間違いないでしょう。聖明王の息子だとしたならば、父王の悲劇的な死などから仏教に帰依したことも考えられます。いずれにせよ、とても信仰心が篤い人であったことは事実です。日々寝食も忘れて神仏に祈っていました。

そんなとき、日本に聖徳太子という尊いお方がおられる、という話をききます。話を聞いたと言うよりも、夢のお告げがあったんですけどね。この類の話を馬鹿らしいと感じる方には、およそ信じられないでしょうが。『陰徳太平記』には、これらの事情が詳しく書かれており、ますますもって怪しいと思い始めたらキリがありません。琳聖には阿佐太子という兄がおり、その人物が先に来朝して聖徳太子と面会。その話を琳聖に伝えたところ、夢のお告げとまったく同じだったので、ますます、日本に行きたいと思う気持ちが強まった、などと書いてあります。

しかし、この阿佐太子なる人名は、『日本書紀』に出てきます。もちろん、琳聖の話は出てきませんし、聖徳太子と面会したわけでもありません。名前だけ借りて創作したのか、偶然の一致なのかは不明です。どうにせよ、重要なのは「聖徳太子に憧れて来朝した」という点です。

琳聖太子を乗せた船が流れ着いたのは、多々良浜という場所だといわれ(諸説あり)、現在の防府市の辺りです。上手い具合に、国衙に近いですから、国司以下大勢が出迎えました。国司にいたっては、自らの娘を娶せたりしております。要は異国の貴人ゆえ、国賓待遇なんですね(知らんけど)。

ただし、琳聖太子の目的は聖徳太子に会うことですので、多々良浜であれ、艫綱の森であれ、いったん休憩した後はすぐに都へ向かいます。聖徳太子はそれこそ、国賓として琳聖を出迎え、手厚くもてなしました。その後暫くは太子とともにあったようですが、やがて今風に言えば日本国籍を取得し、上陸地である周防国に定住することになります。

その時に与えられたのが大内県という采邑でした。これすなわち、大内氏の本貫地であり、名字の地でもある大内村です。その後、琳聖太子は周防の地で亡くなりました。太子の墓と言われている古墳がいくつか残っております。

推古天皇や聖徳太子の時代は、ちょうど古墳時代の末期と飛鳥文化の時代が重なり合う頃でして、未だに古墳は造られていたのです。ですから、琳聖太子の古墳が存在しても辻褄はあいます。また、聖徳太子が仏教を篤く信仰していたことは事実ですから、この頃を境に古墳は造られなくなり、代わりに氏寺が造られるようになります。ゆえに、琳聖太子が氏寺・興隆寺を創建したというのもまったく矛盾はしないのです。

加えて、大内氏が氏神として崇め奉った妙見信仰。その起源が、琳聖太子来朝を守護するために、青柳浦に降臨した北辰であるというのもあり得ぬ話ではないわけです。

先祖伝説の真実

研究者には浪漫の欠片もない

ここまでお読みいただいて、ナニコレ? インチキの山じゃないのか? と思われた方は、もはや大内氏について語る資格はないので、二度と当庭園には来ないでください。我々は研究者ではありません。歴史に真実だけを求めていたら、何一つ語ることはできません。

そこら辺のマニアが何を適当なことを言っているんだ、というお怒りの声が聞こえてきそうです。執筆者は日本史に精通してはおりませんが、歴史学を修めた者です。ゆえに、学術的な空間であれば、ここに書いてあることはすべて否定しなければならないと思います。しかし、それでは、何一つ面白くないですし、生きていく目標すら見失います。

最新の学問とやらでは、大内氏の先祖伝説は捏造であり、琳聖太子などという人物は実在しなかったというのが定説のようです。学問に忠実でなければならないと思う方はそれでいいと思います。研究者の意見に従ってください。しかし、そうなってしまったら、その時点で、下松駅の松の木も、多々良浜も、あれもこれも存在意義を失います。本当にそれでいいのでしょうか?

歴史学という学問の実態は、これ以上ないほどつまらないものです。歴史に浪漫を求める人ほど、近寄らないほうが賢明です。むろん、くだらないエンタメ小説などをでっちあげることと、長らく語り継がれてきた郷土の伝承を大切にすることことはまったく次元が異なります。前者については、自らも否定します。芸術作品として楽しむ分には、何ら問題はありませんし、創作することは自由です。しかし、それは「歴史ではなく、インチキ、デタラメ」です。芸術作品を楽しむ前に、真贋を見極める目を養う必要があります。

ただし、長らく語り継がれてきた郷土の伝承は「作り物」ではありません。伝承の裏には、何らかの真実が隠されている、そう思うのです。それを明らかにしていくのが、研究者の役割なのでしょう。その結果、残念ながら真実ではないようだ、という証拠が出てくることがあるかもしれません。それはそれで仕方のないことですが。ただし、真実ではない、という証拠を見付けることがまた困難なのです。

いずこかに、琳聖太子の存在を明記した史料が見付かれば、彼の存在は立ち所に明らかになります。しかし、「存在しなかった」という証明は恐らく、誰にもできません。世の中に、このような人物は存在しなかった、ということを明らかにする魔法などないのです。

ある意味、歴史学はタイムマシンが発明されない限り、何も明らかにはできない学問だと考えます。しかし、残念ながら、タイムマシンなどというものは、絶対に発明できないものであることは万人が知るところでしょう。史料には「ニセモノ」も存在します。何が本当かなど、あの世に行ってから、本人に聞いてみる以外に確かめようがないのです。しかし、あの世から生還できる人などいるはずはありませんから、この世の中のすべてを証明することなど、無意味であることがわかると思います。

だとしたら、もっと浪漫チックに、麗しい夢を見ながら生きて行くほうが幸せだと思うのです。

研究者の中に、「状況証拠」だけで、何の史料もないのに、エラそうに推論を展開する方がおられます。それは、学者として、絶対にやってはいけないことです。著名な研究者だから許されるのかもしれませんが、「推論」はあくまで「推論」にすぎません。そこらの歴史マニアであれ、研究者であれ、あれこれ想像することは自由です。しかし、「推論」をあたかも「真実」であるかのように吹聴する方は、研究者を辞めて、小説家になるべきだと思います。

信じる者は救われる

歴史学とおさらばして、ほかの学問に片足を突っ込みましたが、それもすっぽりやめて、観光業界に転職したことは幸いだったと思います。これが琳聖太子が上陸したといわれている多々良浜です、とご案内したところで、誰からも文句は言われません。それどころか、この松の木に北辰が舞い降りたのですと案内された観光客の方々は、ある種の感動を覚えるに違いないと思うのです。

大内氏歴代は、「先祖伝説」をでっち上げ、長い年月をかけてそれを完璧なものにしていった、あれもこれも、事実ではない。そうかもしれません。でもそれ、証明できますか? 単に、琳聖太子の名前を最初に書いたのは大内盛見である、家譜を書いたのは政弘である、最初に朝鮮半島から来たと言いだしたのは義弘である、そういうことがわかるだけです。捏造の痕跡が限りなく明らかに近くなるかもしれないですが、ただそれだけです。

琳聖太子は確かに存在し、彼こそが大内氏の始祖です!

証明することはできませんが、そう信じています。そのほうが、捏造云々言うより遙かに浪漫があるからです。

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五郎

始祖さまの存在を否定するなんて「学者」ってのは、サイテーだね。でも、ミルはほかのことに腹を立てているように見えるのは気のせい?

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ミル

そう。ゲーム会社と〇女子の連中と、法泉寺さま陰謀説の学者たち(すべては君と、城主さまの名誉のためだよ)。始祖さまは存在しないなんて言っている人たちは可愛いもんだよ。普通にガイドさんたちも言ってるもんね。古代史なんてそんなもの。古すぎるんだよ。

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新介

彼らが言っていることは本当かな? 始祖さまが存在しないなんて……。

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北の方

あの者たちも申しているではありませんか。信じればいいのです。イマドキの民とやらは、何を考えているのやら。

新介笑顔イメージ画像
新介

母上のおっしゃる通りですね!

法泉寺さまイメージ画像
法泉寺さま

……。

この記事は 20240527 に改訂されました。なおもリライト中です。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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