始祖・琳聖王子

琳聖王子とは――――大内家の始祖とされる伝説上の人物。
伝説上の人物、としたが、実際紙に記された記録として、系図にも載っている。
だが、繁栄のさなかに滅亡した大内家の系図は現代まで続くものではなく、
ことに先祖などについては、意図的に創作されたものであり、信憑性が薄い。
研究者の先生方は当然、この人物の存在を否定しておられる。

伝承の類によれば、およそ次のとおりである。
琳聖王子は、百済の聖明王の王子。来朝して、周防国多々良浜にやってきた。
そして、聖徳太子に謁見し、周防国大内に領地をもらった。

彼の子孫が、代々その地に住み、やがて、多々良という姓をもらった。
一族は繁栄し、どんどん枝分かれして、大所帯となった。
だが、本家本元は、大内にいたので、大内介と呼ばれ、これが通称みたいになった。

この記事は2021年08月30日 に大幅に加筆・修正、画像もリニューアルされています。

下松の星降る伝説

琳聖が多々良浜に流れ着く少し前。
下松市にある「鼎の松」に、北辰が舞い降りた。
それらの星々は、七日七晩に渡って光り輝いたので、地元の人々はこれを不審に思った。
そこで、巫女を招いて占ったところ、

近くこの付近に高貴な方がおいでになる。我は北辰=北極星であり、この高貴なお方をお守りするためにここへやって来た守護神である

というような「神託」が得られた。
現在とは違い、非科学的なことが受け入れられていた時代のこと。
この「神託」は人々にどれほどの驚きを与えたことか。

鼎の松に星が降って間もなく、多々良浜に現れたのが琳聖である。
身分は百済の王子。異国の人とはいえ、王子である。
まさしく「高貴なお方」に違いない。
人々は先の「神託」を思い出し、彼こそが、星に守られた高貴なお方である、と確信した。
「神託」はインチキなどではなかったのである。

北極星といえば、妙見様なので、以来この地では妙見信仰が盛んとなった。
何しろ、「神託」「高貴なお方の来朝」と立て続けに妙見様の仰る通りになったのだ。こんな有難い神様を信じない民はいない。
人々は社を建てて、妙見様をお祀りし、深く信仰した。
ところが、最初に建てた山頂の妙見社は、あまりにも光り輝いていたので、その眩しさで、船の運航が困難になった。
そこで、仕方なく妙見社の場所を別の所に移したという。

聖徳太子に憧れた王子様

かなり創作色が濃くなるが、琳聖は聖徳太子を慕って日本にやってきた、という。歴史研究書によれば、後に述べる大内家の先祖伝説「創作」過程で、盛り込まれたエピソードとされる。当時、聖徳太子信仰というものが根深くあったので、ついでにご先祖様が聖徳太子とも関わりがあったという一節も盛り込んでしまおう、ということだろう。
琳聖は深く仏教を信仰していた。そんなあるとき、倭国にいる聖徳太子は観音菩薩様なのである、というようなお告げを夢に見た。
以来、やがて倭国に行って、このありがたい聖徳太子様にお目にかかりたいと願うようになった。そして、ようやく願いがかなって倭国に至ることができたのが、れいの多々良浜に流れ着き云々だったわけだ。
王子は願いを実現するべく、聖徳太子を訪ね、謁見がかなった。聖徳太子もまた、信心深い王子が遙々来てくれたことを喜び、領地を与える。琳聖はそのまま倭国に定住する……ということになる。
この、ウソのような本当(?)の話は、『陰徳太平記』などにもきちんと載っていて、当時彼らの先祖伝説が広く流布していたことがわかる。
そのた大勢の武家が、元をたどれば源氏だ、平家だ、いや藤原だ……ということで周知されていたのと同じく、ああ、あそこはちょっと変わっていて、異国の王族が先祖なんだとさ、とまことしやかに流れていたのだろう。
イマドキに至ると、研究者の先生方の手でほとんど、調べ尽くされており、
聖徳太子の逸話が盛り込まれたのは、大内盛見の代、ということになっている。
最初は、なんとなく朝鮮半島の出身
やがて、より具体的に、百済の王族、それも琳聖という人物の子孫
その琳聖はとても信心深く、かの有名な聖徳太子とも交流があって……
と、先祖伝説はより具体的なものとなっていったのだった。
歴史学の分野で存在が否定されている人物の墓地などあるはずがないわけだが、防府市には琳聖王子の墓といわれる古墳が実在する。琳聖が日本にやってきた推古天皇の時代が、まさしく古墳時代の末期にあたるので、年代的には合致するかも知れないところがスゴイ。防府にたまたまあったそのような古墳を、盛見は始祖・琳聖の墓である、としたのだった。琳聖伝説の整理と同時に、その存在を裏付けるためのモノも準備されたわけだ。
当然単なる伝説、意図的につくられたものであろうが、琳聖がらみのゆかりの品はほかにもいくつか伝えられている。

日本史教科書との接点

さて、仏教公伝は538年、もしくは552年とされており、いずれも百済の聖明王によってもたらされた、となっている(日本史教科書)。
琳聖はこの聖明王の第三王子である(大内氏主張の先祖伝説)。
大内家の始祖は琳聖王子で……とおまじないのように唱えているとき、聖明王は仏教公伝の王で~と平和的なイメージしかないかもしれない。

む? 仏教公伝などまったく結びつかなかった、だと? 今ここで覚えておけ。
φ(`д´)メモメモ…

しかし、この王様は新羅との戦争に敗れて「殺害されて」しまった。『日本書紀』には聖明王の死に至るまでの出来事がかなりたくさん書かれており、王の台詞もある(!)。
歴史書で紹介されている「先祖伝説」の一節などを見ても、始祖琳聖、以下連綿と子孫繁栄……のごとく淡々と書いてあるだけなので、その頃の朝鮮半島なんて想像する人は稀かも。でも、当時の朝鮮半島情勢や、百済と日本との関係などについては、教科書にもあれこれ書かれているので、ちょっと照らし合わせてみてみるのもよい。
琳聖の来朝は推古9年、西暦611年。仏教公伝が、552年のほうだとしても、50年以上も前になるし、そもそもこの年には聖明王はとっくに亡くなっている(554)。
これも教科書的知識だが、白村江の戦いが663年。これより先に百済は滅亡。友好国であった倭国に再建の夢を託した。その頃、百済の王子・扶余豊璋というのが倭国にいた。彼を新しい王として国を再興したい、という申し出を受け入れ、倭国は百済に援軍を送ることになるが……。この豊璋という王子、生き仏様たる聖徳太子との面会を夢見て海を渡った琳聖とは違い、人質として倭国にいた。そうでなくとも、百済に限らず朝鮮半島からの使者はしょっちゅう来ていたので、中には当然王族もいたであろう。
まあとにかく、朝鮮半島との往来は盛んであった。そして、文字通り、朝鮮半島の三国時代もおなじみ中国のそれと負けず劣らず興味深いので、あれやこれやの駆け引きがあり、倭国との通交もそれに左右された。ただ、三国の中で、もっとも友好的であったのが百済であったことは間違いない。

ホンモノの先祖を求めて

琳聖王子は架空の人物で、実在しない
そもそも、大内家が百済の王族の末裔かどうかなど分からない
だったら、ホンモノの先祖はどこの誰なの?
という素朴な疑問が湧く。
残念ながら、それについての明白な答えはないのが現状である。

つくられた先祖伝説

星降る伝説と異国から来た王子様――――そんな幻想的な物語に彩られた大内氏
そのような麗しいイメージを無情にも破壊するのは、だいたい、大内義弘くらいの頃から始まったとされる「先祖伝説」創作についての研究の数々。
もはや定説となっているので、ごく簡単にあらましだけ。
大内家が、朝鮮や琉球、明との貿易で利益を得たことは知られている。
特に、当時倭寇の被害に悩んでいた朝鮮半島では、倭寇の討伐に力を貸してくれた大内家への信頼・親密度が非常に高かった。
そこへきて、大内家の使者が「われわれの先祖は元々朝鮮の王子なのです。互いに助け合うのは当然のこと」という。
真偽はともあれ、朝鮮側としても気分のいい話だ。これからも、大内家に力を貸してもらい、貿易でも儲けさせてもらうにはこの逸話の存在は有難い。
大内義弘は、自らが間違いなく朝鮮の血を引いていることの証明と、そうであるがゆえに、朝鮮国内に領土を頂戴したい、と要求した。
これに対して、朝鮮側は大論争になった。大内家との関係を大切にすることでは皆の意見は一致した。
しかし、領土など与えてしまったら、そのうち要求がエスカレートして、どうなるかわからない。
そこで、領地の件は拒絶したが、我らはもともと同じ朝鮮の血を分けたもの、という点では認めてやることにした。

このあたりから、大内家の「朝鮮のそれも身分ある人物の子孫である」ことの証明に対する要求はそれこそエスカレートしていく。
大内氏が力のある一族として、その地位をますます高めていくにあたって、しっかりとした先祖伝説の確立、正確な系図の作成はなくてはならない重要事項となっていたからだ。

政弘の父・教弘の代には、「確かに貴殿らは琳聖王子の子孫である」とのお墨付きをもらった。ただし、それでもなお足りず、政弘は、朝鮮に使節を送り、「三国志」(中国ではなく、朝鮮の)のような書物から、一部分を抜粋してもらって、証拠の品として持ち帰った。
この時、朝鮮国王から頂戴した「書物」は、氏寺・興隆寺を勅願寺にするための運動で大いに威力を発揮する。
もはや、どこから来た何者かも分からない一族ではなく、朝鮮国王から、「百済の王族の末裔である」との証明書をもらっているから、身分の由来は明らかとなっているのだ。
興隆寺は無事に勅願寺となり、これらの先祖伝説の一部始終は「氷上山縁起」として、興隆寺の扁額に納められた。

つまり、実在したのかどうかすらわからなかった「琳聖王子」は朝鮮国王と大内家当主の共同制作により、ホンモノの大内家の始祖となったのである。

むろん、何もないところから嘘は生まれない。大内家との繋がりは不明だが、朝鮮の史書に琳聖に類似した名はあったかも知れない。むろん、史書とて万能ではない。そもそも、韓国では朝鮮王朝以前のことを記した信頼できる史料は乏しいのだそうである。
何しろ古い時代の話だから、日本でも『古事記』や『日本書紀』をどこまで信じて良いのか分らないのと同じだ。

聖明王後の百済

聖明王の跡を継いだのは、長男の扶余昌。これを武寧王と呼ぶ。そして、昌には子がなかったので、武寧王の弟で、聖明王の次男が継ぐ。これが恵王である。とくに事績はないようだ。
琳聖は聖明王の三男ということになっているから、上述の兄二人のように王位を継ぐこともなく、史書にも名を残さなかった。そもそも「実在しない」人物ということだから、当然である。
百済の滅亡により、倭国に亡命してきた者が多数あったという。長い年月を経て、とうの昔に我々の国に根を下ろした彼らには、もはや故国の面影などないかも。
大内家が家譜を完成させた16世紀に至るまで、1000年もの時が流れているのだ。たとえ、彼らの始祖がじっさいに(琳聖ではないにせよ)百済の王族の末裔であったとしても、それを証明することは難しい。しかも、立派な家譜まで作ってしまったから、もうそれ以外の可能性を探すことができないではないか。

おわりに

家譜はあるのに、研究者から「意図的に造られたもの」とされ、じゃあ、本当はだれが始祖なんですか? と尋ねてみても、史料がないので「わかりません」と。あまりに悲しい。歴史学上、「大内、多々良の名前が史料に初めて現れた」年、という史料は提示されているけれども、なんだかつまらない。じっさいには、歴史「学」はこのように、現存する史料を丹念に調査していく学問だから、夢幻の話は嫌われる。じゃあ、史料にないことはすべて切り捨てるべきなのかと言えば、それも違う。琳聖のことはとにかくとして、限りなく真実に近いと思われるのに裏付けられる史料が出て来ない……と歴史学の先生方が嘆いておられる出来事は五万とある。本当に難しい。
もう琳聖でいいんじゃないか、これに類する人物がきっと実在したはずだ、今はそう考えておきたい。
琳聖の供養塔は山口の乗福寺にある。
何もかもをやらせと片付けるより、信じるほうがずっと浪漫がある。
歴史の楽しみ方なんて、それでいい。
研究者の立場でないのならば。

参照:『朝鮮三国志 高句麗・百済・新羅の300年戦争Truth In History』小和田泰経  . 株式会社新紀元社. Kindle 版.


琳聖王子イメージ画像:アイカワサン様
ぶっちゃけ韓流時代劇の三国時代モノまんまの世界だよな? というイメージから、作画をお願いしました。通史(?)の冒頭を飾るに相応しい素敵な先祖像の完成です。
※アイカワサン様には今後もお時間が許す限り、歴代当主のお姿を描いていただく予定です。お楽しみに。

簡略通史

巻一:琳聖海東に渡り、大内県に采邑を得る始祖来朝推古天皇の十七年、周防国都濃郡鷲頭荘青柳浦に、大きな星が現れ、松の大木の上で七日七晩に渡って煌煌と光を放った。人々がこれを訝しく思っていると、次のような神託があった。「異国の太子が[…]