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洞春寺(山口市水の上町)

2020年9月20日

洞春寺

山口県山口市水の上町の洞春寺とは?

洞春寺は山口市内にある臨済宗寺院です。元々は大内盛見の菩提寺・国清寺であった寺院が、毛利元就の菩提寺・洞春寺となりました。盛見菩提寺が元就菩提寺に変るまでの経緯は少々複雑です。まずは、関ヶ原の戦いに敗れた毛利家が、徳川幕府によって、故郷・安芸国を追い出されて強制移住させられます。移住先は、毛利家が大内氏を滅ぼして手に入れた防長の地でした。当主・毛利輝元はこの「引っ越し」にあたり、故郷の地にあった祖父・元就の菩提寺「洞春寺」を萩に移転。同時に、父・隆元の菩提寺・常栄寺を現在の洞春寺があるこの場所に移しました。けれども、明治維新の頃、政庁を山口に移すにあたり、元就菩提寺も山口に引っ越し。隆元菩提寺・常栄寺を現在同名寺院のある場所に移したあと、この場所に移転しました。それゆえに、盛見菩提寺・国清寺 ⇒ 隆元菩提寺・常栄寺 ⇒ 元就菩提寺・洞春寺と変遷したのです。

寺院は移転しても建物はそのまま転用したので、災害や経年劣化による被害を除けば元の建物が残っていたりします。ただし、元国清寺にあった経蔵は毛利輝元が園城寺に譲ってしまったので、現在は礎石が残るのみです。

瑠璃光寺五重塔からほど近い場所にあり、ロケーションも最高。盛見の墓、経蔵の礎石跡、持世の菩提寺から移された観音堂などを見ることができますが、残念ながら元就墓所はここにはありません。

洞春寺・基本情報

住所 〒753-0082 山口市水の上町5−27 
電話 083‐922‐1028
最寄り駅 山口駅、県庁前バス停 徒歩圏内
山号・寺号・本尊 正宗山・洞春寺・観世音菩薩
宗派 臨済宗

洞春寺・歴史

毛利元就の菩提寺は当然、毛利家の本拠地安芸国にあった。しかし、関ヶ原の合戦で毛利家が属した西軍が敗北するに至り、毛利家は故郷の安芸国を没収され、徳川幕府によって防長二ヶ国に押し込められてしまった。毛利輝元は萩に本拠地を置いたので、元就の菩提寺・洞春寺も萩に移した。後に、洞春寺は山口に移され、現在に至る。

洞春寺が移されてきた山口の地は、元々大内盛見の菩提寺・国清寺があった場所である。それゆえに、国清寺時代の建造物などが残されている。洞春寺を訪問する際には、国清寺についても知っておいたほうがいい。

国清寺は応永七年(1400年)、大内盛見によって創建された。天下泰平、家門繁栄、武運長久などの現世利益、さらに、亡き先祖たちの後生安穏の実現を祈願するためとされる。開山は、香積寺の開祖・石屏子介の弟子、透関慶頴である。

毛利家の時代となって、先に隆元、続いて元就の菩提寺となり、洞春寺と名前を変えた。

盛見は大内氏歴代の中でも、仏教への信仰心篤い当主の一人として知られる。十五世紀の始めには、氏寺・氷上山の落慶供養を盛大に執り行っているし、応永14(1407)年には、朝鮮との通交で氏寺・興隆寺のために大蔵経を求め、獲得・施入した。このほかにも、岩国永興寺、防府天満宮、そして国清寺のためにも大蔵経を獲得している。

藩政時代、国清寺にあった大蔵経は、興隆寺のそれとともに、徳川幕府に献上されてしまった。国清寺のものは、経蔵、輪蔵ごと近江三井寺(園城寺)に移され、現在は洞春寺墓地に八角輪蔵の支柱を支えていた礎石のみが残されている。

洞春寺・みどころ

山門と観音堂が国指定重要文化財、鐘楼門が山口市指定の重要文化財である。残念ながら、元就公の墓所はここにはない。地元・安芸国(広島県)にあるので、お参りの方はそちらへ。そのかわり、盛見公の墓はここに残されている。また、元国清寺にあった大蔵経経蔵の礎石も見ることができる。

山門

洞春寺・山門

国指定重要文化財。
年代は不明ながら、建築様式などから室町時代中期頃の建立と考えられている。ゆえに、この地に国清寺があった時代の建築物である。文化財説明看板によれば、この門は四脚門、切妻造、檜皮葺。四脚門は奈良時代から造られるようになったもっとも格式の高い門であり、全国でも数少ない貴重なものであるという。

※しばらくの間、間違えて藩庁門の写真をココに入れてしまっていました。恥ずかしい……。お詫びして訂正します。

鐘楼門

鐘楼門の写真

山口市指定重要文化財。
鐘楼門というのは、読んで字のごとく、鐘を置くための門である。その名の通り、上部に鐘が設置されている。建築年代は不明だが、江戸時代中期頃のものという。

観音堂

観音堂の写真

国指定重要文化財。
この観音堂は、元々は大内持盛の菩提寺・観音寺のものであった。大正年間にこちらに移築されたのである。観音寺は、大通院と名を変えて存続していたが江戸時代末には衰退。観音堂は室町時代からのままであったが、老朽化が激しかった。現在は、きちんと改築されて守られている。

国清寺一切経蔵の礎石

国清寺一切経蔵礎石の写真

国清寺一切経蔵礎石説明看板の写真

洞春寺の墓地内にある。国清寺には、高麗版一切経(=大蔵経)を保管しておくための経蔵が建てられていた。経蔵内には回転式の八角輪蔵があり、この石はその柱の礎石。毛利輝元はこの経蔵を園城寺に寄進。建物ごと移築された。

建築物を見たところで、ぱぱっと何時代、どこ地方の様式とかわからないけれども、専門家の先生方によれば、この一切経蔵には中世山口の建築手法がいたるところに見受けられるという。

説明看板には、園城寺経蔵の写真が載っている。滋賀県まで見に行くのはたいへんなので説明看板の写真で見学したことにする(どうせ実物見てもよくわからないわけだし)。なお、この一切経蔵は滋賀県で国指定重要文化財となっており、残された礎石は山口市指定有形文化財。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

なんで他所の国に寄進したんだろう?

ミル不機嫌イメージ画像
ミル

そこにこだわらず、元は地元にあったものが重要文化財になっていることを素直に喜べないの?

五郎涙イメージ画像
五郎

だってなんだか寂しいじゃないか。礎石だけ残っているなんて。

大内盛見の墓

大内盛見墓の写真

向かって左側が盛見、右側が開基・透関慶頴の墓であると伝えられている。

附記・毛利元就菩提寺「洞春寺跡地」および墓所

毛利元就の菩提寺が故郷安芸国を離れて、周防国(もとは萩にあったから長門国)にやって来た。それでは、安芸国にあったもとの菩提寺はどうなってしまったのか? なんとなく気になっていた。すると、元就のみならず、嫡男・隆元、隆元夫人など、大内氏歴代(含夫人)の菩提寺を転用している方々のそもそもの墓所と菩提寺は、まるっと吉田郡山城跡に残されていた。毛利元就を崇拝する地元(広島)の方々にも、「跡地」しかない……。というミルたち同様の悲しいことになっているが、その後どうなったかまではよほど入れ上げておられない限りご存じない。

というわけで、広島で洞春寺跡地を見てしょんぼりしている地元の方に、山口にあります! と教えて差し上げた。てか、看板にもそう書いてあるので、知らない人はいないと思うんだけど、だから山口まで見に来るかどうか、といえば、そこは何とも。元就さん好きな方からすれば、無理矢理引っ越しさせられて他所に移ってしまった、となるわけで、現在の場所よりも跡地のほうが神聖な感じかも知れない。いやはや、この、菩提寺移転の件は本当に奥が深くて、いったい誰のせいなんだよ? と考えた時、悪いのは徳××康だということで落着しました。

洞春寺跡・説明看板

でもって、下が墓所だが、こちらは厳重に管理されており、近付くこともできない(鍵がかかっている)。盛見さんのお墓が誰でも出入り自由になっている(?)のと比べて随分と趣が違う。たまたまこの日閉まっていたのかどうかわかりませんが、これだとどのような墓碑なのかもわからない。じつは、石柱みたいな形で、いわゆる宝篋印塔とか五輪塔ではなかった。ちょうど、持世さんのお墓があったと思われるところにあった「持世の墓」と書かれた石碑をもっと立派にしたような感じ。ただ、この柵の外から覗いて見ただけなので、それこそ石柱みたいなものは単なる墓標で、そばに何かの石塔の類があったかもしれない。ないとしたら、意外すぎる……。

毛利元就の墓

洞春寺(山口市水の上町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒753-0082 山口市水の上町5−27

アクセス

県庁前バス停から徒歩10分くらい、ということです。

お隣が香山公園ですし、ここら辺一帯が観光資源だらけ。山口駅からも歩けない距離ではないですので、山口の街並みを楽しみながらのんびり歩いて来ることをオススメします。もちろん、最初にバスやタクシーで洞春寺まで来てしまい、歩きながら帰っても同じです。

参照文献:『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』大内氏歴史文化研究会、伊藤幸司 勉誠出版 2019年、山口市編纂『山口市史 史料編 大内文化』、説明看板
※この記事は20230316に加筆修正されました。

洞春寺の観光写真

洞春寺(山口市水の上町)について:まとめ & 感想

洞春寺(山口市水の上町)・まとめ

元大内盛見菩提寺・国清寺
毛利家の防長移封により、毛利隆元菩提寺常栄寺の移転先となった
明治維新の前、首都機能山口移転に際して、萩にあった毛利元就菩提寺洞春寺の移転先となった(先の隆元菩提寺は別の場所に移された)
毛利輝元は国清寺にあった経蔵を園城寺に譲渡。今は礎石跡地だけが残る(移された経蔵は園城寺で国指定重要文化財となっている)
山門と持世菩提寺観音寺から移されてきた観音堂とが国指定の重要文化財となっている
盛見の墓は現在も元々の菩提寺だったこの地にある

初めて洞春寺に参拝した時、なんだか毛利輝元さんが「破壊王」みたいに思えたんですよね。だって、香積寺ぶっ壊して、己の城の建築資材にした、と聞いたから。さらに、この地にあった経蔵も解体して園城寺にあげてしまったというし。解体して園城寺が組み立て直し、そこで国指定重要文化財とか、何だかなぁ……と。さらにですよ、香積寺のほうは五重塔までぶっ壊そうとしたとかで。どんだけ壊すんだよ? と思えば完全「破壊王」でしょ? 今もその思いは完全には消えていません。正直なところは。

難しい裏の事情はよくわからないし、色々とたいへんだったんだろうとお気持ちはお察しいたしますので、恨んだりはしておりませんが、ぶっ壊したという事実は消えないので、そこはお許しください。

ただ、大好きな宮島のガイドさんが毛利元就の生まれ変わりみたいに思えて、説明しがたい親近感が湧くのと、広島大好きで、心優しい地元の方々がみんな毛利元就大好きなので、いつの間にかすっかり仲間に入れられちゃったんですよね。というか、最初から思ってたんですけど、毛利元就さんは山口ではなくて、広島のお方なんですよ。だから、毛利さんご一門にはいつまでも広島の人でいて欲しかった。それはご本人たちのほうがもっと強く望んでいたことかと。

ぜーんぶ徳××康のせいにしてしまったら心が清々したよ。洞春寺は国清寺でもあり、毛利元就の菩提寺であると同時に盛見さんの菩提寺でもあるんです。本当はそれぞれがそれぞれの場所でずっとそのままだったらよかったのに、って思う。でも、輝元さんがあれこれぶっ壊した事実は変らないからね。徳××康への腹いせに大内文化の遺産を壊さないでください。あんな関東の田舎者ほっといて、山口と広島を日本の中心地にしましょ。

こんな方におすすめ

  • 毛利元就公ゆかりの地を回っています or 大内盛見公ゆかりの地を回っています(真っ先に訪問済みと思うけど、元就公の方は安芸高田市にも毎年行ってください)
  • 国指定重要文化財が大好きです(二つもあるよ)
五郎不機嫌イメージ画像
五郎

毛利輝元というのは何者なんだ? ただじゃおかないぞ。

ミル涙イメージ画像
ミル

だからさ、とりあえず、君は厳島合戦以降のこと知らなくていいから。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記。ついでに本拠地・周南の宣伝もしちゃう。

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