吉田郡山城跡(広島県安芸高田市吉田町)とは?
安芸国の国人領主・毛利氏代々の居城跡です。のちに、毛利元就という立派な当主が出現したことにより、毛利氏は中国地方を治める大大名へと成長します。元就の勢力が拡大するに従って城も拡張されていったと思われ、非常に大規模な城跡となっています。
中世の山城というのは、いざとなったときに楯籠もるためのもので、平時は麓の館で生活をしているのが普通でした。けれども、戦国時代に突入し、日々是合戦とあいなると、領主の居館じたいが城の中に作られるような構造になっていきます。戦国時代への過渡期にあたり、吉田郡山城は日常生活には不便な山城でありながら、元就や隆元が居住し、その菩提寺なども城内に建立されるなど近世城郭的性格ももつ山城であるという稀有な構造となっています。
なお、尼子晴久に攻撃された毛利元就が、大内氏に助けを求めた際、援軍は高塚山に着陣、天神山から尼子家に総攻撃をしかけました。両本陣跡も遺構として残っています。
吉田郡山城・基本情報
立地 独立丘陵、山上一帯
標高(比高) 390メートル(190メートル)
面積 郡山城山頂を中心に東西1.1キロメートル、南北0.9キロメートル
築城・着工開始 建武三年~元和元年
築城者 毛利氏
改修者 毛利元就(天文二十年)
遺構 郭、堀切、土塁、石垣、井戸、礎石
文化財指定 国指定「毛利氏城跡」
(参照:『安芸国の城館』『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』『安芸高田 お城拝見』『日本の城辞典』すべていずれかの書物が典拠ですが、本によって載せている情報の種類が違うため、バラバラな情報をひとつにまとめてます)
吉田郡山城・歴史
毛利氏の先祖と安芸国に入るまで
毛利家に限らずですが、東国出身の人々が西国に大量移住しておられますので、元々いた方々はどうなっちゃったんだろ? って、常に思います。源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃、いわゆる「平家没官領」だの滅亡させた奥州藤原氏の土地だのが大量に手に入りました。さらに、その後起った承久の乱に勝利すると、上皇方についていた敵たちの土地も鎌倉幕府のものに。室町のそれと違い鎌倉の幕府は「関東御領」という大量の直轄地を所持して、強固な経済的基盤を維持し続けました。
配下の御家人たちも、それらの大量な土地のうち、頼朝が私した以外の部分を、恩賞として受け取ります。西国の地に住む名のある人たちが、あいつもこいつも、じつは関東出身じゃん!? というビックリなことになっているのはそのためです。毛利家もそのようにして、西国に移り住んだ鎌倉御家人でした。
鎌倉御家人の出自も色々で、どいつもこいつもが武骨な東国武者ってわけじゃありません。頼朝はそのような連中(武芸に秀でていても、読み書きなどは苦手な方も普通におられました)ばかりでは、統治機構を整えていくのも難しかろうということで、都から政治力の高い方々をスカウトしました。これらの方々は「京下りの輩」と呼ばれ、文字通り、政治面で頼朝と幕府を支えます。そのようにして都からやって来た方の中に、大江広元という人がいました。
受験参考書で要暗記人名となっているゆえ、ご存じない方もおられぬかと。ですが、参考書はそこどまりなので、ふーーんで終わりとなってしまいます。この方が毛利家の先祖であったと知った時は衝撃でした(日本史わからなくてすみません)。だって、「毛利」さんと「大江」さんって、お名前全然違うではないですか。しかし、大江広元の子孫は、宝治合戦でほぼ滅亡してしまったといいます。
毛利季光の墓(神奈川県)
宝治合戦は北条時頼の代に三浦一族を滅ぼした戦闘のことで(これも要暗記事項だよ……年号は覚えなくていいみたいだけど)、何やら三浦家が摂家将軍と結びついて、北条家と揉めたようですね。で、大江広元の四男・季光という人は、三浦氏と婚姻関係にあったため、三浦一族の側につきました。三浦一族は滅亡。大江広元の子孫もほとんどが亡くなってしまいます。ちなみに、この時、季光はすでに「毛利」と名乗っており、名字の地となった「毛利荘」を手にしていたと思われます。なんだよ、すでに毛利氏になっていて、しかも滅んでしまったら、毛利元就なんてこの世に現われるはずないじゃん、と疑問符かもですが……。亡くなったのは「ほとんどが」であって、「全員」じゃありません。
季光の四男・経光という人が、遠く越後国にいたのです。越後は遠すぎるゆえにか、この合戦に巻き込まれることがなかった経光はお咎めなしとなったらしく、毛利荘も安堵されたようです(この辺り調べていませんが、『日本史広事典』にも『越後の季光の系統のみが残る』としか書いてないので)。南北朝期、その子孫は安芸国吉田荘に移り住みました。郡山がある吉田の地です。ゆえに「吉田郡山城」なんですね(郡山という地名は何気に全国に大量にあります。吉田をつけないと、ほかの郡山と混同してしまいます)。
以来、国人領主として安芸国に根を張り、元就の代に大飛躍したことはここに書くまでもないでしょう。
まとめ
- 毛利家の先祖は大江広元。朝廷の官吏出身の鎌倉御家人だった
- 相模国「毛利荘」が名字の地となった
- 宝治合戦に巻き込まれて一族の多くが亡くなるなどしたが、越後にいた一類が難を逃れた
- 南北朝期に安芸国吉田荘に移り住み、国人領主として土着した
大内・尼子の二大勢力に挟まれた苦難の日々
ここが「大内庭園」であって、「三本の矢公園」ではない以上、毛利元就の出世物語について語る必要はありません。ただ、一言で要約すれば、以下のようなことかな、と思っています。めまぐるしくかわる状勢のなかで、小領主だった毛利家が生き抜いていくためには、あれこれと策を弄する必要がありました。それはどこの家も同じです。皆、あれこれと知恵を絞り、生き残るために必死だった。頑張ったけれど、それでも淘汰されてしまった勢力は大勢います。勢力により、それを導くリーダーの力量により、それぞれに限界があったでしょう(そもそも『策を弄する』なんて芸当、頭がよくないと無理です。涙)。毛利元就さんという知恵者がそのような困難な環境下に存在し、その中でますます鍛えられていった、すべてはそこに尽きると思います。大内家もその「策」のためにしてやられたり、助けられたりしました。
してやられるのは、毛利家が敵対勢力に加担している時、助けられたのは配下に入ってくれたときです(当たり前ですが)。基本的には、毛利家は大内氏の支配下に入っていた時期が長かったのではないかと思います。御家人ですから、幕府に叛旗を翻すようなことをしない限りは、守護である大内氏ほかの差配に従います。ですけど、尼子経久というスゴいのが現われると、毛利家をはじめ、周辺の国人たちの動向はますますめまぐるしくかわるようになります。
尼子家に安芸東西条を奪われたのだって、(あくまで軍記物曰くではありますが)活躍したのは毛利元就ですし、敵にしたらメンドーなことこの上ないです。『陰徳太平記』は凌雲寺さまがご遺言で、毛利元就さえ味方につけておけば安泰だ。けれども敵に回したらたいへんなことになる、何としても味方に付けろ、みたいに言ったことにしてしまっています(巻九『毛利元就属大内義隆事』)。まあ、元就さん礼賛の書物ゆえ、歯が浮きそうな記述のオンパレードですが。確かに敵にしたらメンドーだし、毛利元就さん立派なのは認めるけど。それ以上は褒めすぎで、ご本人もお読みになったらかたはらいたしだよ。それよりも、きちんと味方に引き入れず放置していたら、やがて大勢力となり、大内家も安泰ではいられない。だから味方にしてしまえ! って凌雲寺さまの「未来予知能力」のほうがスゴいよね(あくまで『陰徳太平記』が書いているだけだけど)。事実、そうなったわけであって、そこは最後の殿様に罪はないけど、叛乱者たちは耳が痛いね。
大内氏からのラブコールがなくとも、毛利さんのほうでも尼子の配下を続けるのはちょっと……という思いはあったのではないかな。最後ののほほんとしたお殿様の人となりは、味方についた毛利家としても、驚きの連続だったろうけど。しかし、大内方に付く、ということは尼子を敵に回す、ということです。周防国よりは出雲に近い安芸国。尼子家からしたら、毛利家の野郎、心変わりして大内なんぞにつきやがって、と怒り心頭に発す状態。大内に攻め込む前に、毛利家を戦神に捧げようと考えるのは当然です。
吉田郡山城最大の危機 郡山合戦
以下は、郡山合戦時の、主な陣城配置図です。相変わらず地図がかけないので、正確ではないところが多々ありますが、「配置図」的にはだいたいこんな感じです。
① 毛利家・吉田郡山城
② 風越山城(尼子本陣 Ⅰ)
③ 光井城(尼子本陣 Ⅱ-1)
④ 青山城(尼子本陣 Ⅱ-2)
⑤ 高塚山城(大内氏本陣 Ⅰ)
⑥ 天神山城(大内氏本陣 Ⅱ)
尼子軍襲来
尼子晴久が、三万(三万は誇張とする意見もありますが、当時の尼子家の実力からみて、最低でも一、二万は動員できたと考えられるそうです)の大軍を率いて吉田郡山に侵攻してきたのは、天文九年(1540)のことです。最初、尼子軍は「風越山」というところに本陣を置きました。風越山は郡山城からやや遠い上、標高も高く(555メートルもあります)、大軍の収容には向かないところでした。ここを本拠に郡山攻撃をするつもりというよりは、単に「着陣」したところのようです。城跡解説本などで、研究者の先生方が書いてくださっているご意見などを総合すると、「後方兵站基地」のような役割として使われていた模様でして、多少の防御機能もあったようです。
尼子軍はほどなく、青山、光井という並び合う山に陣を移します。青山、光井はもう、郡山城の目と鼻の先であり、襲われるがわからしたら恐怖です。また、こちらは多数の郭を備えた巨大なものでして、単なる合戦用の一時的な城というレベルではなく、目茶苦茶完璧な完全なる山城でした。この点は、いずれのご本でも意見が一致するところです。わずか数ヶ月で、そのような巨大な山城を完成させてしまう尼子家の実力は凄まじいものというほかなく、高嶺城築城間に合わない(悲鳴)、とか喚いていた内藤隆世と大友晴英にも見習って欲しかったです。
尼子方の布陣
風越山(後方兵站基地)― 本陣とを結ぶルート状にいくつかの陣城的山城 ― 青山・光井本陣(晴久本隊)
風越山と青山光井の本陣の間にどれだけの小城(?)があったのかわかりませんが、それらには尼子家に与する国人領主などが詰めていました。有力な配下が入った史料も残るものとしては、宮崎城があります。のちに、毛利大内方が「宮崎長尾」を攻め、なんて出てくるのは多分ココです(黄色枠内)。
迎え撃つ毛利方
いっぽうの毛利方はどうなっていたのでしょうか。そもそも、尼子家と手切れになったことで、いずれこうなることはわかっていたと思われますが、当時の郡山城は「郡山本城」という歴代当主が使っていた小城でしかありませんでした(後述)。現在の巨大要塞のようなお城を想像してはなりません。
そんなところに三万もの大軍が押し寄せたら大ピンチ疑いなしです。元就が領民たちを城内に入れ(軍記物などによれば、八千人くらいいたとか)、彼らの力も借りつつ中に人が大勢いるように見せかけたりとか、あれこれの小細工をした話などがよく出てきます。要するに、大軍に囲まれちゃってさすがにもうダメだってことで、籠城モードに入るとともに、大内氏に助けを求めたという通説ですね。
でもですね、コレ、ものすごく違和感あるのです。領民の方々など、合戦の役には立ちません。戦渦に遭わないように城内に入れて守ってあげたというのが正しいでしょう。問題はそこではなく、籠城戦だったんでしょうか、という点です。
実際に、現地に行ってみて、郷土史の先生(安芸高田市専門の先生ではあらせられない)が何度も溜息をついて、なんで助かったのかね。普通に総攻撃されてたら、ひとたまりもなかったんじゃないのかなぁ、みたいなことを独りごちておられたのを耳にしてしまいました。まったく同感で、大軍で押し寄せ、目と鼻の先に凄まじい巨大要塞みたいな「陣城」を造った晴久ですよ。あとは、総攻撃一択だと思うんですよね。いかに毛利元就が智謀の将でも、城はちゃちで、敵があまりにも大軍だったらもう、どうしようもないはずです。
ぐずぐずしていて大内から援軍来たらメンドーになるだけじゃないですか。なのに、なんで、巨大な城造って睨み聞かせたまま動かなかったんだろ? 謎ですよね。確かに、いくら何でも一夜城ってわけにはいきませんので、大内から援軍が着いた十二月の時点くらいまで、本陣の造営は続き、そこでやっと完成したんだとは思いますが。でもさ、相手が一捻りと思ったら、別に巨大要塞造る必要もないし、先手必勝、速戦即決すべきと思うんですが、ど素人の勘違いでしょうか?
これについては、『安芸国の城館』というご本の中で、研究者の先生が書いておられたことがヒントかなぁと思われます。先生曰く、そもそもこの合戦、毛利家の城を囲む「籠城戦」ではなかったのです。尼子方は、毛利を囲むことで、大内が引きずり出されてくることを予測し、彼らとの合戦を想定していたそうです(推論として書いておられましたが)。出てきたところをぶっ叩けば、仇敵大内の力を削ぐことができますもんね。ゆえに、巨大な青山光井本陣は、多分に援軍としてくるであろう大内軍を意識したものであったといいます。
それが事実なら、計画通り大内を引きずり出すことに成功したものの、逆にぶっ叩かれてしまったので、何ともはやですが。しかし、研究者の先生は尼子家は敗北したというよりも、自ら「退却した」と書いておられました。ならば、多少は計画通りに行ったってこと? その後、いい気になった大内方が月山富田まで攻め込んでボコボコになったことを考え起こしてみると、まさかと思いますが、そこまで想定してたんでしょうか……。だとしたら、尼子晴久は祖父をも凌ぐ謀聖ということになってしまいますね。
大内軍の到着を待っていたゆえになのか、亀のように籠もっていたのはむしろ尼子家のほうで、毛利方はチョロチョロと攻撃を仕掛けています。そこは毛利元就のやることなので、いちいち理にかなっていたはずです。嫌がらせ的にちょっかいを出してみるとか、陣所に放火するとか、兵糧(輸送ルート)を絶ってみるとかね。このようなことは数えきれずあったようですが、いずれも小競り合いに過ぎませんでした。こちらから総攻撃をかけるにはやはり、人数的に無理があったのでしょう。ゆえに、毛利方も大内からの援軍を待っていました。
ヒーロー登場
そこに颯爽と現われたのが陶隆房ということになっていますが、「違います」。実際には、それ以前にも援軍は到着しており、単に陶の本隊は後から来たってだけです。まあ、最初に来てくれた人たちは人数も少なかったようですが。先遣隊は小早川興景と杉隆宣の部隊で、彼らと尼子軍の間には戦闘もありました。この時に使われていたのが高塚山という陣城です(よく見たらさ、この杉隆宣さんって、曾場ヶ城のところにお名前ありましたね。月山富田で戦死した、って。何てこった……)。
援軍総指揮官・陶隆房
ようやく、隆房の本隊が到着したのは十二月のことでした。こちらは一万の大軍でした。到着後、まずは高塚山を整備します。郷土史の先生はまたしても、高塚山を眺めつつ、ここに一万もの援軍がやって来たら、尼子的にはぞっとするよね、と。仰る通り、ココは、睨みをきかせる要素しかなかったみたいで、位置的に「げ、一万も敵の味方が来たぜ」と尼子兵がビビったとしても、総攻撃をかける基地とするには不便です。
研究者の先生方の調査によれば、高塚山山頂は「全長2㎞の削平地」となっており、明らかに人工的なものと考えられているそうです。つまりは、一万の大軍を収容するに充分な広さが確保されていたということです。けれども、防御的機能はまったくなく、万が一攻められたらヤバい状態でした。攻められるとか、1ミリも考えてなかったよね(多分)。要するに、「着陣」し、来る総攻撃の日まで「在陣」するための場所であった、ということです。
なお、軍記物その他には大内軍到着地を「山田中山」と書いてありますが、高塚山が =「山田中山」なのでしょうか。ちょっとそこ、調査中です。どこかに解説を書いてくださったような気がします。
大内軍は年が明けるのを待って、尼子本陣にほど近い天神山に陣を移します。ここに来て、毛利大内連合軍が尼子家を総攻撃する準備が整ったのでした。
毛利+大内方の布陣
郡山本城 ― 郡山山頂 ― 大内援軍陣所(天神山)
尼子軍の眼中には、毛利元就などなく、本命は大内軍で、そのために、「難攻不落」の要塞的「陣」城まで造ってしまったとするならば、いよいよ本命登場ってことになるはずですが……。やはり何かの歯車が食い違っていたようです。九月からずっと籠もっていた尼子軍は疲れ果てていました。
要は立派な陣城造っただけで、ほかには何もしていないわけです。戦線は膠着状態。両軍ともに戦果などありはしません。せいぜい小競り合い程度の戦闘しかなかったわけで。しかし、相手は毛利元就なので、ちまちまやるにしても、一つ一つに意味があったでしょう。尼子軍の士気はダダ下がり、大軍で押し寄せてぶっ潰すと喚いていた時とはまるで違っていました。そこへ持って来て、一万もの援軍が押し寄せた……。尼子晴久はいったい何を考えていたのか、本当に訳がわかりませんが、配下は皆、やる気を失った上に、恐怖すら覚えたでしょう。
いっぽうの毛利軍は勇気百倍です。それにしても、大内軍が高塚山から天神山に陣を移したのが、一月十一日。両軍による総攻撃が十三日ですから、まさに電光石火です。やっぱり、戦争ってこうじゃないとダメなんですよね。郷土史の先生ではないけれど、なんで尼子晴久が一捻りで吉田郡山を落とせなかったのか、理解に苦しみます。むろん、総攻撃をしかけても落とせなかった可能性はあります。ですが、何一つせずに、ただドデカい陣城を造って待機してたって何のため? 仮に大内おびき寄せてぶっ叩き弱体化させることが目的だったとして、配下となった毛利を先にぶっ叩いて吉田郡山を配下に収めてしまえば、有力な味方を失ってしまったという点で、大内のダメージは大きいはずです。弱体化することが目的だとするならば、達成されたことになるじゃないですか。意地でも直接対決したかったんですかね? 謎すぎて、理解できません。
これじゃ、内藤弘世と大友晴英よりなお、みっともないですよね。彼らの場合は城を建てるのが間に合わない上、兵力もなかったんです。大軍擁してて、要塞みたいな陣城造って、何もせずに退却するって、いったい何のために安芸まで来たんだよ? わけわかんない。
郡山合戦流れ
- 天文九年九月、尼子晴久「風越山」着陣
- 九月二十三日「青山」「光井山」へ陣替え
- 十二月、大内軍援軍一万「山田中山」に到着
- 天文十年、一月十一日、大内軍「天神山」に陣替え
- 一月十三日、毛利&大内軍総攻撃
- 尼子軍撤退
吉田郡山城・概観
立地
可愛川と多治比川が合流する辺りの北側に位置する「郡山」に築かれています。
(※「展望台」付近にある案内看板をお借りしています)
文章で書いたままの配置です。可愛川、多治比川、そしてその合流地点(すべて黄色枠内)の交差する地点の下側(この地図は下が北です)に城跡(赤枠)があります。
地元では可愛川という可愛らしいお名前のほうがなじみが深い可愛川、じつは「中国太郎」江の川のことです。観光資源的には、むしろ、河口にあたる江津(島根県)が、日本海とこの江の川との海運業で栄えた港町として観光地理の常識となっています。つまり、この可愛川は、遠く日本海に注いでいるということです。
ここに城が築かれたことには理由があって、だいたい有名河川が造りだしてくれたところって、肥沃な場所ですよね。ゆえに、古来より開けた場所でした。毛利家の先祖たちが城を築いた頃には、ますます開発が進んでいたことでしょう。
ついでにですが、多治比川のちょい右上にある「猿掛城」(オレンジ枠)は、毛利元就が当主となるまでの居城です。つまり、吉田郡山城は歴代当主が居城する本拠地ですので、不幸にして兄が若くして亡くなることがなければ、元就がこの城の主になることもなかったのです。吉田郡山城の付近には、毛利家家臣団の山城跡がそれこそ大量にありまして、どの山もそうなんじゃないかって思えるくらいの分量です。上の地図内にもいくつかみえておりますね。
大内氏守護館周辺には、家臣の屋敷があっただけ。ここは主の城を取り囲むように家臣団の城があったんです。戦国時代になるとどこもこんなものなのかもですが、あまりにも違いますね(正確には山口にも城跡はありますが、ココとはかなり意味合いが違うような気がします)。
内部構造
(※城跡入口付近の案内看板の地図をお借りしています。)
二つの城跡
吉田郡山城にはいわゆる当主が住まいする場所が二箇所あります。つまり「本丸跡」と「旧本城跡」(青枠内)です。もともとの吉田郡山城はこの、「旧本城跡」でした。ご本によっては、それぞれを別の城跡として、丁寧に解説をしてくださっています。基本二つは繋がっていますので、ここでは一つの吉田郡山城にある二つの部分として扱います。
そもそも初期の頃の毛利家は、さほどの大勢力というほどの方々ではありませんでした。ですので、小さなお城で事足りたのでしょう。けれども、やがて安芸国内での地位が高まって行くにつれ、手狭になった城はどんどん拡張されていきます。といっても、拡張工事はそう古い話ではなく、天文年間になってからです。
尼子晴久が攻めてきた出来事の後、元就は尼子家への備えはもちろん、戦国乱世に突入した状勢を鑑みて、城の大改築に着手したのでしょう。結果、吉田郡山城は現在皆さんがご覧になるような、巨大なものへと変貌したのです。
城跡解説のご本に、二つの城跡として分けて解説されていたからという理由で、二日かけてそれぞれを見学に行かれる方もおいでにならないとは思いますが(もしそのように計画しておられたとしたらやめましょう)、これら二つの城跡は、けっこう距離的に離れております。一度で二つ見れますが、両方見るとそれなり疲れます。
元就さんが、家督を嫡男の隆元さんに譲られた後、ご自身は「旧本城」に住まいなさっておられました。隆元さん夫妻は「尾崎丸」というところに住んでおられたそうです(だから奥方は尾崎の局っていうのか、とかぼんやり考えました)。で、律儀な隆元さんのこと、お父上へのご挨拶を怠らないわけです。つまり、尾崎丸から本城跡までの道のりをせっせと通っておられたわけ。
郷土史の先生が、相当大変だったろうなぁ、とまたしても独りごちておられました。全く同感です。
中世山城は万が一攻められた時にだけ使われると普通習います。戦国時代になって、何に使うのか意味不明なゴージャス天守閣(わからなくてすみません)付きの城が建てられる時代となりますと、城は不便な山から平地に下りてきます。むろん、山城時代同様、そうした「造られた建造物」である城も防御技術が施されており、それは自然の地形をそのまま利用した山城の時代とは比較にならないほど、あれやこれやだったでしょう。それらいっさいわかりませんが(興味ないので)、平地に住んでて、防御施設バッチリなので、城主も城の中に住んでいたってのが、それらの近世城郭です。周囲には城下町が発展したりもしました。
だけど、山城は辺鄙な場所にあったり、自然の地形を利用した防御機能であるため、やたら登りにくい道だったりするわけです(道が登りにくいなどは、近世城郭でもわざとそうなっていたりするようですが。どこかしら見学したとき、天守かなんかの階段がとんでもないことになっていて、理由を尋ねたら防御的意味と言われたような記憶があります)。敵も登りにくいけど、味方も上がるのたいへんじゃん!! と文句タラタラで登山するのがフツーのイマドキの観光客です。でも、たとえば大内氏の例などを見れば、殿様は守護館でのほほんと暮らしているし、陶クラスの重臣でも、館は城とは別物でした。つまり、それらの、「上がるのたいへんじゃん」を上がらねばならないのは、そこに詰めている「城番」みたいな人たちだけです。偉い人が上がらなければならなくなったとしたら、それはもう、「有事」ってことで、それこそ風雲急を告げているわけです。
「が」この、吉田郡山城に限っては、ほかの鬼たいへんな城に比べればさほどではないとはいえ、やはり、十二分に登りにくい城の中に、毛利元就も、隆元も住んでいたわけです。お父上に挨拶に行くだけで、どれだけ大変なんだろうか、と思うと何やら可笑しくもあります。
孫の輝元の代になってようやく、広島に、皆さま大好きな近世ゴージャス天守閣が付いた広島城ができますが。それまでの間は、ここが本拠地でしたので、この何やら不便な生活が続いていた、ということになりますね。毛利家が中国地方を統一したら、もはやここら辺一帯で戦闘などなくなったので、素直に麓に下りてきてもいいと思うのですが、こんどは魔王を挟んで猿や狸の時代となって、大内や尼子が攻めてくるかもどころの話ではなくなりました。そいつらが、この城に攻め込んでくることはなかったはずですが、どうしていたんでしょうかね。毛利家のことは詳しくないのでごめんなさい。
山口の著名寺院跡地だらけ
上の地図をご覧になったイマドキ山口の皆さまは、「え?」と思われたかも知れません。だって、どれもこれも、県内で有名なみどころ寺院と「同名」の寺院跡ばかりじゃないですか(いくつか『黄色枠』にしてあります)。
たとえば、洞春寺さま。山口市民でご存じない方はおられないでしょう。すると、「洞春寺跡」なる場所が。ちょっと落ち着いて考えてみれば、洞春寺は毛利元就の菩提寺です。孫の輝元の代に、嫌らしいタヌキ爺が日本全国の大名を好き勝手な場所に配置替えするという「テキトーシャッフル」案件がなければ、未来永劫この地にあったはずなんです。なのに、ふるさとの広島を離れて、なんで隣の県に移されなきゃなんないわけ?
これから順番にご案内いたしますが、これらの寺院跡地はすべて、何もない廃墟です。ミルたちが、法泉寺跡地や凌雲寺跡地を見た時の衝撃と同じ衝撃が、日本全国の毛利元就贔屓の皆さんを襲います。正直、とてもショックでした。確かに、寺院は山口に移っても、きちんと洞春寺さまとして存続しています。ですけど、狸のシャッフルがなかったら、毛利家はそのままずっと、広島に住み続け、洞春寺だってそのままだったはずです。
盛見さんの国清寺が、今は洞春寺になっていますけど(まあ、ここの場合、最初は常栄寺だったとかあれこれメンドーですが)、コレ、もしも毛利家の人が「あ、ちょうどいいから、この寺、再利用しよう」って思わなかったら、今頃は凌雲寺跡地と同じ状態になっていたかもしれません。心中複雑で泣きたくなった。毛利元就贔屓の郷土史の先生も、次から次へと出てくる「○○菩提寺跡地」= 廃墟の連続に、何とも言えない表情をなさっておいででした。
洞春寺は元大内盛見菩提寺国清寺だったのを、毛利家が毛利元就菩提寺にしてしまったとか喚いていたことが、すべて煙のように消え去った瞬間でした。でもこれ、非常にデリケートな話題だし、人によって考え方はそれぞれだと思うので、全部関東のタヌキが悪いってことで、中国地方の人は仲良くしましょう(だって、マジ、タヌキが悪い。実家のお殿様だって、四国とは無関係の他所者がいつの間にか入部したんだぜ。いったい何なのよ? タヌキと書いても、好きな人はまさか『○○大○現さま』のことだとは思うはずがないので、身の危険はないです。ゆえに、いくら書いても大丈夫です)。
まとめ
- 中世山城から近世城郭への移行期、言い換えれば戦国時代の幕開けに対応するため、吉田郡山城は大改築を経て、難攻不落の大要塞のような山城となった
- とはいえ、山城は山城なので、天守閣付きの近世の城とはその構造が異なる。けれども、元就一家は、居住空間とするにはとてつもなく不便な山城内に住居を造って暮らしていた
- 居住場所もある、生活のすべてが詰まったところゆえ、菩提寺などの寺院も城内に多数存在した。そのほとんどが、江戸時代山口に転封させられた毛利家とともに引っ越して来た。ゆえに、吉田郡山城跡内に「跡地」が残る菩提寺の類が、山口に現役の著名寺院として存続し続けている
吉田郡山城・みどころ
とても広大な城跡です。みどころは大量にありますが、何しろ広いですので、すべて見ようとすると、けっこう時間がかかりますし、疲れます。道は基本的に、きちんと整備されておりますので、危険な場所はありません。元ある姿を大切に整備する方式をとっておられるため、ちょいっと山道を段差上がるところはありますので、それらには注意が必要ですが。
唯一の問題は、敷地が広大で、みどころが多すぎる点です。どこから来たかによっては帰路時間を考慮せねばならず、すべてを満喫するには時間が足りなくなるかもしれません。日帰り圏内から来ると、逆に大慌てとなるケースも。できたらまる一日時間を取って、ゆっくり見学したい場所です。
安芸高田市歴史民俗博物館
とりあえず、車を置いたら(降りたら)コチラへ向かいましょう。毛利元就愛に溢れた博物館で、毛利家グッズを買うのは帰りでもいいですが、情熱溢れる城跡専門家の学芸員さんのお話は最初にお伺いしておくべきなので(だって、登頂後に、もう一度登って見落としを再確認とか、時間の都合もあるかもだし、辛いので)。
中には城跡地形の立派な模型があって、ここが何、アソコがどこと、あれもこれも詳しくご教授くださいます(むろん、お仕事がお忙しい最中にあたれば無理かもですが)。大内からの援軍はどこに着いたのか、という質問ばかりしていたら、山口から来ましたねーとすぐに見抜かれてしまい……。いいえ、廿日市から来ました、とお答えしました(だって、本当に廿日市から来てたもん)。むろん、「大内からの援軍はどこに着いたか」についても、ものすごく詳しくお教えくださいました。残念なことに、じつは城跡詳しくないので、お話が難しかったんですが、ご一緒した郷土史の先生はいちいち感心なさっておられました。
毛利元就郡山城入城五百年(2023)
「毛利元就郡山城入城五百年」記念幟旗。期せずして、ものすごいメモリアルな年のご訪問となりました。でも、地元(広島)郷土史の先生は、五百年記念とか言ったって、誰も来ないよ、と嘆いておられました。そうかなぁ……。我々の記憶では、毛利元就さんは大人気です。どこへ行っても、「へえー、あなた、大内なんだ?」(いや、わたくし = 大内じゃないです……意味は通じるけど誤解を招きます)ってさらりと言われますが、そういう皆さんが「自分(一人称色々)は毛利元就が好きなんよ」と仰るときは全員、お目々キラキラなんですけど(あまりにも広島県に出入りしすぎてるから? けど山口にもいるよーこういう人。つーか、全国にいるんじゃね? 厳島合戦でメロメロになったなんとなくヤバい人とか皆そうじゃん)。
ただし、一つだけ気になったことが……そう言えば、至る所で「毛利元就○○」という看板をお見かけするのが広島県なんですが、毛利元就「公」じゃなくていいんですか? とある別の場所で「○○公」だらけだったのを見て来たばかりだったので、ちょい違和感が。
そもそも毛利元就さんはすでに「神様」なので(豊栄神社で神格化)、普通に「公」でいいのかも気になってきた……。築山大明神さまと同じ扱いにしないとダメなんじゃ……? タヌキみたいに「大×現」とか? 思うに、ご本人が一番当惑されてるよね。まるで欲というものがないお方だもの。神様にされてしまっているとか知ったら何て仰るかな?
青山光井尼子陣所跡
到着早々、このような仰々しい看板が目に付きます。そのくらい、入口から近い所に置いてある看板、ってことです。
「安芸高田市史跡 青山光井山尼子陣所跡
安芸高田吉田町吉田・常友・相合
天文九年(一五四〇)出雲尼子氏が吉田に侵攻した郡山合戦の際、尼子詮久(晴久)軍によって築かれた巨大な陣城跡。独立した山である青山と光井山を総称し、近世以降に「青光井山」と呼ばれた。 毛利軍の本拠である郡山城に対峙するように築かれたこ二城は谷を挟んで並んでおり、一体的に築かれたことがわかる。
毛利元就自らの記録によると、九月二十三日に尼子軍が布陣し、翌年一月十三日に大内氏からの援軍である陶隆房軍が三塚山(光井山)を攻め、毛利軍は宮崎長尾(宮崎城) を攻撃した。この日、三塚山を守った詮久の大叔父尼子久幸が討死するなど激戦となったが、その夜尼子車は急遽全軍退却し、合戦は終結した。
わずか四ヶ月間の使用と考えられるが、短期間で築かれたと思えないほど、長い尾根上に断続的に大小多数の郭を連ねた本格的山城である。いずれも城域は長大で、 直線距離で青山城は全長さ九〇〇m、 光井山城は一一〇〇mにも及ぶ。 遺構の状況は極めて良好で、特に青山城中心部の完成度は詮久本陣を思わせる。
築城時期と築城者が特定できる陣城跡であり、歴史的にも重要な合戦を伝える貴重な史跡である。」
(看板説明文)
背後に見えている双子山みたいなのが、尼子家本陣だった山城跡となります。近いと行っても、実際歩いて行くには遠いこと、行ったら登らねば意味がないこと、などから看板と遠景だけで終了します。ただこれも含めてですが、敵本陣って、味方が斬り込んでいるという意味では、外せないゆかりの地なんですよね。
だって、ここまで攻め込んだ、ってことは傍近くまで行った、ってことですから。そこまではっきりしている場所って、そうそうないです。せっせと宮島通っているのと同じく、この城跡(吉田郡山)にもしつこく来る運命みたいな気がする。にしては、ちょい場所的に不便なんですが(涙)。
毛利元就公墓所参道入口
いきなり墓所ですかーってなるのですが、そうなんです。これはですね、毛利元就公墓所に続く参道入口みたいなものかと思います。鳥居もありますし。元就公墓所じたいは、ずっと上のほうにございますので、ここは単に「入口」なだけです。けど、入口に鳥居立ってて、参道まで付いてるって、明治維新迎えた方々皆そうなの? 羨ましすぎて爆裂寸前。法泉寺さまのお墓(といわれている宝篋印塔)なんて、山中に放置されてるじゃん……泣。
そう言えば、毛利元就「公」ってちゃんとなっておりますね。やはり、イマドキのイベント用看板とは違うんだ。イマドキの童に○○公とか書いて見せても誰も感慨浮かばないです。ある程度の年齢いって、生涯学習で郷土史とか始めたら、彼らもいきなり「○○公」と語り出すと思うケド。どこの都道府県も同じかと。
参道(元就公墓所までの道)
元就公墓所までの道は、このようにきれいに舗装された道が続いております。やはり、お参りに来る方が多いからだと思うのですよね。法泉寺さま墓地までの、マムシまで出るかもの虫だらけの道を、命がけで登る人がいることは、完全に無視されていることと比較してなんという環境でしょう。羨ましくて倒れそうになります。
でも、舗装路から下を見下ろすと、下の写真のように、鬱蒼と木々が茂っております。やはりここは山城跡なんだな、ということを思い出します。
「毛利元就の墓」碑
いよいよ墓所への入口、というところにあった「広島県史跡」碑です。史跡名称として記す時は、やはり、「公」はとれてしまうんですかね? いきなり呼び捨てになっていたので、またしても「あれれ?」な感じです。
毛利元就公墓所入口
うわっ、また鳥居が……。そういや、神様なので、神社扱いなんですかね? さっきのが一の鳥居、こっちが二の鳥居とか。いつになったら、元就公墓所というか、お墓にお参りできるのでしょうか。
洞春寺跡
山口の洞春寺さまは、遙々ここからやって来られたのですね。十月にまた山口入りするけど、その時は寺院さまに対する思いがまた違うものになっていると思います(もちろん、毛利元就さんの菩提寺になっちゃってるから、洞春寺さん好きじゃない、とかいう思いはこれまでも1ミリもなかったですよ)。長い長い旅、大変でしたね、ってお声かけしたいです。観音堂にね(どこでもいいけど、なんとなく。いや、あれは大内持盛の菩提寺観音寺の……って、もういいよ、ソレ)。
「洞春寺跡
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年(一五七三)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、元就の葬儀の導師であった嘨岳鼎虎禅師を開山とした臨済宗の寺院である。
輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と共に山口に移転。まもなく萩城下に移された。
遺構は、等高線に添って馬蹄形に六段の平坦面に区切ったもので、墓所のある段を中心に、三段が広く約四千平方メートル(千二百坪)あり、この地に建物があったと考えられている」
(看板説明文)
かなりの面積ある削平地です。野っ原でしかないですが。ここが菩提寺ということはつまり、墓所もこの敷地内にあるかと。目指す場所はもうすぐのはずです。⇒ 関連記事:洞春寺
毛利一族墓所
この階段、何やら見覚えがありませんか? そう、香山公園の毛利家墓所に似ていますよね。相変わらず長い石段です。いよいよここを上がればと思いましたが、その手前に一族の方々の墓所がございました。山口にお墓がない方々、安芸国で亡くなられた昔の皆さまの墓所となります。
ほかの色々な墓所でもそうですが、どれがどなたのお墓であるのか、という説明看板です。このような看板がないと、まったく判読不明の古い宝篋印塔だったりとか、そもそも墓碑は囲いの中で近付くことができない場合だったりとか、単にご親切な場合だったりとか、このような看板が立っている理由はそれぞれ。しかし、ここの場合は二番目でした。
「毛利一族墓所
毛利一族墓所は、郡山城内や城下にあったそれぞれの墓を、明治二年(一八六九)にこの地・洞春寺跡地に移葬されたものである。
右側の一面の墳墓(図4)は、毛利時親から豊元までの八代にわたる毛利氏当主の合葬墓である。これは大通院谷奥にあった古墓を移したものという。左側の区画には三基の墳墓が並ぶ。左側(図1)が毛利元就の兄・興元、中央(図2)が興元の子・幸松丸の墓で、これらはもと吉田村秀岳院にあった墓を移したものである。右側(図3)は元就の長男・隆元の正室(大内氏の重臣・内藤興盛の娘、大内義隆の養女)の墓を郡山城内から移したものである。」
(看板説明文)
このような状態ですので、説明看板がないと、どれがどなたのものなのかはまったく不明ですね。しかしこの、色々な場所から移してきて一つにまとめる、ということ、いいですね。大内氏歴代と関係者もそのようにしてくれたら、とても便利だと思うんですけど……。
毛利元就公墓所
これが「毛利元就公墓所」です。お一人だけの墓所ですが、敷地が広大であることに驚かされます。凌雲寺さまの墓もニセモノだというし、法泉寺さまのお墓だと「思っている」ものだって、ホンモノなのかどうかは謎です。大内氏ほどの財力がある家で、お墓をそこらに転がして置くはずはないと思うのですよね。このくらい厳重に守られていて然るべきです。もしかして、現在ある「伝」がついているお墓はすべてテキトーにそこらの誰かのものをそうだと考えているだけだったりして。はぁ。
しかしです。元就公のお墓がどれだけ立派なものなのか、中に入ることはできないものの、何とか外から見えないだろうか、と頑張った結果、「何も見付けられませんでした」。いわゆるそういう「塔」の類がないのです。まさか失われてしまったとは考えにくい(もしそうならば、囲いいりませんよね。そもそも)。経年劣化で失われたので、場所だけを確保したのだろうか? というケースも多少心をよぎりました。だって、本家は広島を離れて、いわば、お墓だけ残して行かざるを得なかったのです。後から来た方々が、どれほど大切にしてくださったかは、神のみぞ知るです。
すると……。『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』に、つぎのような一文がありました。
「墓標は石ではなくて、枯れて白くなった『ハリイブキの木だった』」
つまり、おかしいなぁ、墓標がないなんて……と諦めて帰宅した後、整理中の写真に紛れ込んでいるコレ、コレこそがまさに、元就さんのお墓だったということなのです。
でもって、これらの事柄はすべて、つぎの看板に詳細に書かれておりました。さすがにこれは、あまりにもの長文ゆえ、文字起こしする気になりません。
文字を起こすかわりに、先程までの疑問点の答えと、最重要点をまとめておきますと、以下の通りです。
一、毛利本家は広島から出て行ったが、後に広島藩主となった浅野家でも、毛利元就の墓を大切に保護した
一、毛利元就の墓には「墓標樹」としてハリイブキの木が植えられた
ほかにもあれこれと、興味深いことが書かれておりますが、べつに元就公の信者ではないゆえ、興味ないです。崇敬してやまない皆さまには、いずれも既にご存じのことなのであろうとご推測いたしますが、まだ初心者です、という方は申し訳ありませんが、この写真からなんとか解読なさってくださいませ。
「百万一心」碑
毛利家関係の場所には必ずありますね。豊栄神社でも見た気がします。月山富田城でもそうだったんですが、なんというか、もはや皆さん、全員が毛利家愛に溢れちゃってるのね(富田城は尼子愛)。高嶺城跡って、べつに大内氏愛に溢れてないよね? ああ、そう言えば、周南市の若山城跡の陶氏(というか晴賢 only なのでちょっと異色)愛も凄まじかったけど。なんか、ちょっと暑苦しくなってしまうんですよね。他所者は入っていけないというか。
別に毛利元就さん嫌いってわけじゃないけど、普通滅ぼされた人を好きになれるはずないので、けっこう苦しい道のりでした。ただの城跡マニアで、感情ゼロの人ってホント羨ましい。
ところで、興味ないのでわかんないんですけど(← 別に敢えて書く必要もない一文ですね……)、この四字熟語(?)みたいのって、「ひゃくまんいっしん」じゃないんですよね? 確か? えーと、そうも読むの? 「百万」にしか見えないところは、「一日一力」とかですよね? これがわからないということは、毛利家の関係者ではないことの証でっせ(いや、そうだとしても、正確な意味を解説することが、サイトとしての使命であろうとわかっているけども。ささやかな抵抗)。
嘨岳禅師の墓
元就公墓所付近にありました。大内氏歴代の墓とか、こんな具合に放置されているので、これが元就公墓と間違えても不思議はないです。ほかの毛利家の方のお墓ですでに例の如くであることを周知していたので、これは違うとわかりましたが。洞春寺跡の説明看板に「元就の葬儀の導師」とありましたので、よほどゆかりの深いお方なのでしょう。
「嘨岳禅師の墓
嘨岳禅師は筑前博多の人で二度も明に渡り修行を積み、永禄三年(一五六〇)帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、そして南禅寺などを歴任した。
元就は使を出し、禅師を竹原妙宝寺からしばしば吉田に招きいれた。元就の逝去に際して、禅師は葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山ともなった。
慶長四年(一五九九)十月五日没。この墓は天明八年(一七八八)山口の洞春寺により建立した」
(看板説明文)
「山口の洞春寺により建立した」という一文が謎ですね。この時点で、すでに毛利家は山口に移り、洞春寺もそちらにあったわけで。開山のお墓ならば、寺院の中に……と思うのですが、敢えてこちらの「跡地」となってしまっていた場所に建立した理由は、もしかして、元就公墓所のお側に、開山となったときに寺院があった場所に、という思いが込められているからでしょうか。
ますます以て、タヌキのシャッフルが許せない……。
山道(御蔵屋敷まで)
この先しばらく、山道が続きます。道はきちんと整備されていますが、それ以外の樹木は伐採されていないため、防御施設として人工的に手を加えられている部分について、素人が気付くのは難しいです。
あまりに木が多いため、展望はゼロです。木がなかったとしても、どんな光景が見えるかは想像もつきませんが。
山道にも幾通りかのタイプがあり、ここみたいに土だったり、下のように枯葉で埋もれていたりします。
生えている樹木も色々。細いのから太いのからあれこれです。
専門家以外には、見るべきものはない、ひたすら樹木に覆われた何なのかわからない道がつづいているだけです。
御蔵屋敷跡
やっとつぎの目的地につきました。「御蔵屋敷跡」です。何なのかは読んで字の如くだと思われます。下のように、削平地が広がっています。
「御蔵屋敷跡
御蔵屋敷跡は、東西約20メートル、南北約30メートル、面積600㎡の広い敷地を持つ。
北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。この屋敷の東側に多くの散乱した石が高い石垣もあったと想像させる。さらにその上の曲輪で通路沿いの一部に石垣(高さ12m、長さ35m)が残って、当時をしのばせている。さらにその一段上が二の丸となる。
郡山古城図(山口常栄寺蔵)に御蔵と書かれているが、それがこの地と思われる」
(看板説明文)
「山口常栄寺」とか出てきて、またしてもおおっとなりますね。そういや、この「郡山古城図」なるもの、確かに見ました。さすがに「御蔵」の確認まではしませんでしたが。⇒ 関連記事:郡山古城図(常栄寺)
三の丸跡
「御蔵屋敷跡」から順番に行くと、三の丸です。けれども、撮影した写真の中に、「三の丸跡」なる看板類はいっさいなく。看板は単なる見落としもあり得ますが、城跡の構造的には三の丸 ⇒ 二の丸 ⇒ 本丸と続きますので、通らなかったことはあり得ません。以下の削平地は、三の丸のものではないかと思われますが、自信がありません。
この写真からはわかりづらいですが、奥のほうに、右手に「土塁」があるという順路案内版があります(写真を目茶苦茶拡大すると見えますが、ここに貼ってあるものは画像を軽くしてあるので拡大しても見えないです)。で、土塁は三の丸のところにあるようですので、そこも手がかりの一つとしました。
以下の、二の丸・本丸を見終えた後、つぎの場所へ向かうためにもやはり三の丸を通らねばなりません。何度も通ったはずなのに看板すら見付けられていない謎が全く以て不明ですが、ちょっと先走って「勢溜の壇」に向かう時に再度通過したときの写真で補足しておきます。
三の丸付近の道には、石が大量に落ちています。これらの石は、江戸時代になって城が使われなくなった後に、崩れてしまった石垣のものだとされています。
二の丸跡
このようになっていると、ココが二の丸跡であることは、紛れもない事実であるとわかります。
「二の丸跡
二の丸は本丸の南につながり、北西にあり、約2m低く北西にある石列で画した通路でつながっている。
東西38m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、実用面積は約400㎡と本丸よりひとまわり小さい。またこの石塁の外側には、幅0.5m、高さ約3mの石垣も残るが、この石垣は明治初年に行なわれた毛利元就墓所改修の際、ここから石を運んだという記録があるので、石垣は曲輪の東西両側にもあった可能性が高い。
南にある三の丸へは、 幅15mの通路があり礎石も残ることから、小型の枡形をした門、あるいは塀あったと思われる」
(看板説明文)
さて。二の丸と本丸は文字通り引っ付いて一体化している感じです。なので、本丸跡地から二の丸の削平地がよくわかります。ミルたちが立っているのが一段高い本丸跡地で、ちょい見下ろす感じで二の丸跡地です。黄色枠で囲ったところに、上の写真にある「二の丸跡地」看板(裏側)が写っています。
本丸跡
本丸跡まで登頂しました。立派な石碑が立っております。もちろん、詳細な解説看板もございます。
「郡山城本丸跡
郡山城の本丸は、郡山の山頂に位置し、一 辺約35mの方形の曲輪でなっている。 その北端は一段高くなった櫓台がある。櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。 この地点が一番高く、標高三八九・七m、 比高約二〇〇mになる。
城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させ、まとまりをもたせた複雑な構造をなしている。 曲輪も大小合わせて二七〇段以上みられる。
大永三年(一五二三)に毛利元就が郡山城の宗家を相続し、郡山の南東にあった旧本城を郡山全山に城郭を拡大していった。元就はここを本拠城として、幾多の合戦を経て中国地方の統一を成し就げた。」
(看板説明文)
本丸跡の削平地です。きちんと木が伐採されており、すっきりしています。ですが、この地面の上には遺構らしきものは何一つなく、展望が開けてもいないので、これまで散々見て来たほかの山城跡とは趣を異にしている印象です。高さは充分あるはずなんですが、何で眺望が楽しめないんだろ? 吉田郡山城跡には「展望台」がありますので、眺望を楽しみたい方はそちらへどうぞ、ってことですかね。
遺構は何もないと書きましたが、それはこの削平地上にはない、という意味です。看板説明文にある通り、本丸を中心とした城の構造が「わかる人」にはたまらないあれもこれも残っている遺構の数々となります。
これはですね、段々段と曲輪が重なっているんですが、写真だとわかりにくいですね……。郷土史の先生がすごいねぇと仰った時は、ホントだ! って思ったんですけど、これだとナニコレって感じが……。悲しかりけり。
勢溜りの壇跡
「勢溜りの壇跡」と呼ばれている場所の石碑です。「勢溜り」って何ぞ? ってことですが、ぶっちゃけ、兵士の皆さんが待機する場所です。人が留まるところ、削平地ありってことで、だだっ広い削平地が広がっています。万が一の時に、大勢召集された場合は立ちんぼかも知れませんが、日常的に詰めている必要もあるでしょうから、きっとそれ用の建物などもあったのでしょう。現在は何一つないです。
「勢溜りの壇跡
勢溜りの壇は、本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差比約1mで、面積約500㎡から700㎡の広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
この曲輪群では、特に南方の大手、尾崎丸方向へ の防禦は厳重で、たとえ、この方面を破っても、この三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜りの壇から攻撃できる構造になっている。
ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。」
(看板説明文)
「勢溜りの跡」削平地です。写真の撮り方に問題があるゆえにとは思いますが、何やら本丸そのたより遙かに広大な敷地ですね。
尾崎丸
元就さんが、隆元さんに家督を譲られた後、隆元さんご夫妻が暮らしていたという場所が「尾崎丸」です。奥方を「尾崎の局」とお呼びしますが、由来はここに住んでおられたからだったのですね。でも、しつこく繰り返しますが、このお方は単なる内藤興盛の娘であって、大内氏とは縁もゆかりもありませんので。養女にするなら、せめて血縁者からと思いますよね(あー義隆の母親が内藤家の女性だった……)。
じつは、尾崎丸まで辿り着けておれませんでして。どーでもいーやし。と心中密かに思いつつ、毛利元就公ご一家を崇敬して止まぬ郷土史の先生は、麓で歴史民俗博物館のお兄さんにあれこれと質問。もちっと先までがんばらにゃいけなかったということを知り残念がっておられました。そういうときには、意地でもくらいついて「見付かるまで帰らないからな!」というのがミルたちなんですが、先生にはそのご気力も、お時間もおありにはならなかったようです。先生ごめんなさい。素直に最優先してくださってよかったのに。
というわけで、尾崎丸の説明看板、削平地などの写真はありません。
この尾崎丸と、本城(後述)との間が、堀切ラッシュのすさまじくたいへんなところでして、城跡マニアの方なら、狂喜すること間違いなしなんですが、例によって、堀切って、そもそも何? という状態なので、よくわかりません。それらしきものを、下に載せておきます。無関係なものが混じっておりましたら、お詫びします。
尾崎丸から本城への道
途中、珍しく展望が開けたところがありました。見えているのは町並みと山だけですが……。海がみえない展望って、なんか寂しい。
本城跡
「本城」は元々の毛利家の城、先祖代々の城というような感じです。現在、我々が目にしている巨大な城は、毛利元就の代からだんだんと拡張していった結果生まれ変わった新生吉田郡山城みたいなものでして。最初はこんなに小さかったんだよ、というのがわかるのがこの「本城」です。
とはいえ、普通はこの「本城」部分も含めてまるごと見学することになりますし、よほどのことがない限り、別物として意識する機会はないです(そもそも別物ではないと思いますが)。城跡研究をなさっておられる先生方がお書きになった高尚な書物ですと、二つにわけて解説してくださっていることがあります。
毛利元就が隠居したあと、この「本城」部分で暮らしていたとかで、そうならば隠居所みたいな感じですね。よく話題となるのは、日々お父上との対面を欠かさなかったであろうご子息の隆元さんが、新生吉田郡山城の本丸からいちいちここまで来るのは不便なので、より近い「尾崎丸」に移り住んだ、などというようなことです。より近くに移り住んだとしてもですよ、登ってみたらわかりますが、観光資源としてきちんと整備されてもこれだけ登るのはメンドーなんです。防御面での必要性など諸々で、歩きやすい通路などに改築するわけにはいきませんから、行き来するのにどんだけ大変だったんだろう、とそのご苦労を思いやるのがお二人を崇敬する地元の皆さんや郷土史の先生方です。
「本城
標高292m、比高90m
郡山東南の支尾根上、吉田保育所の裏手にあり、南北両側ともに非常に急峻である。東側に流れる可愛川に突き出しており、 本城は物流の要である可愛川を抑えることを意識した立地であったといえる。
最高所(通称本丸)を中心に300mにわたり東方向に郭が伸びており、 城域の両端には堀切が残る。更に東の尾根先端部には細長い平坦地が多数残り、ここも城域であった可能性がある。
築城時期は不明だが、史料から15世紀中頃には毛利氏の山城(初期の郡山城)として存在したと考えられる。 16世紀中頃、ここに居住していた元就は長男の隆元に家督を譲った。その後元就は、郡山の山頂(「かさ」)に移り、 当主となった隆元がこの本城に住んだ。 史料上では、ここに「二重・中・固屋」という空間があったことがわかる(毛利家文書 七五〇)。後に隆元は、元就の住む山頂との利便性を重視して尾崎丸へ移ったと考えられている。」
(看板説明文)
山頂はこんな感じの削平地になっているだけでして、特に何もありません。
本城付近の道です。段々になっているのがわかりますね。
展望台
なにゆえにか、「展望台」が麓にあります。つまり、これまでの行程をすべて終えて下まで下りてきたところにある、って感じです。尾崎丸から本城へ向かう途中でチラ見えた景色にそっくりだったので、何かの間違いかと思いましたが、時間的にもまったく異なる場所で撮影された別の写真でした。
展望台にはたしか、文字通りの展望台があったような気がしますが、郷土史の先生ともども疲れ果て、上に上がった記憶がありません。ゆえに、上に行けば多少よく見えるのかもしれませんが、ここは本当に記憶があやふやなので、事前にお調べくださいますよう、お願い申し上げます。
本来ならば、山頂(たとえば、ココだと『本丸跡地』とかですね)から下を見下ろせるようになっていてしかるべきなのですが、不思議なことに現在のところ(202303)このお城についてはそのような仕様になっていないような気がします。謎ですね。
常栄寺跡地
山口から来て「常栄寺」わからない人いないよね。ココは法泉寺さまの別荘だったところで、雪舟が法泉寺さまのために庭園を造り、のちにお母上が亡くなられるとその菩提寺「妙喜寺」としたんですよ。現在、「常栄寺」ってなってるけど。で、常栄寺は毛利隆元の菩提寺、広島から引っ越してきて、妙喜寺を乗っ取った(もとはその妻の菩提寺に乗っ取られたりだったりとあれこれややこしいけど)というのが常識です。
で、引っ越して来たからには、元々の寺院があったはずで、恐らくは広島のどこかだろうってずっと思っていたのがここでした。
「常栄寺跡
常栄寺は、毛利隆元の菩提寺である。
永禄元年(一五六三) 隆元の没後、元就は、 隆元の導師山口の国清寺の僧、笠雲恵心を招き開山とした。
寺は、翌永禄七年(一五六四) 扶桑十刹に列し、勅願道場とせられ、 正親町天皇の「常栄広刹禅師」の勅額を受けた。
天正九年(一五九一)の分限帳によると千四百八十石五斗余を領している。
寺跡は、二段の曲輪からなり、上の段は60m×25m、下の段は40m×10mでかなりの広さを持つが、建物の配置は明らかでない。
毛利氏の防長移封後、山口に移った。 現在の 常栄寺は、雪舟庭としても有名である。」
(看板説明文)
この看板説明文をご覧になった郷土史の先生が、ほぉ、雪舟庭園なんてあるんだね、と感心なさっておられたので、違いますーーと畏れ多くも先生に向かって訂正を。雪舟庭園は隆元さんのために造られたのではなくて、大内氏二十九代のお殿様さまのために造られたものでして云々に、先生困惑。この観光客、なにブチ切れてるんだろう?⇒ 関連記事:常栄寺
毛利隆元墓所
観光資源的には「毛利隆元墓所」となるので、お父上のほうが「毛利元就公墓所」となっていたからといって、地元の皆さまの思い入れが薄いようなことはありません。石碑や説明看板では、お父上の墓所も「毛利元就墓所」としか書いてありませんでしたので。
毛利隆元墓所への入口です。墓所は常栄寺跡地看板のところから少し上ったところにあります。どういうわけか、城跡見学を終えて下まで下りてきてから、また上ることになってしまいました。要するに見落としたので、行き直しています。隆元墓所、菩提寺・常栄寺跡からも城跡見学用のルートに入れますので、見落とさないようにしましょう。でも、万が一見落としたとしても、隆元墓所は駐車場からすぐの距離なので全然問題ないです(というよりも、地図を見てみたら、駐車場から下る感じになる場所に存在してました。道理で見落とすわけです)。
お父上ほど荘厳ではないものの、やはり鳥居までついているのですね……。山口県文化財保護課に寄進して法泉寺さま墓所にも鳥居つけてもらいたい。
何やらお父上のお墓とえらい違う……。毛利一族の墓とも。普通に見れるじゃん。ほかは鍵付きなのに。この差はなんなのでしょうか。見たところ、墓標もやたら新しいし、もしかして、後から造られた供養塔???
看板説明文には、墓碑についての解説はなし。
「毛利隆元墓所
隆元は、毛利元就の長男として大永三年(一五二三) 多治比猿掛城内で生まれた。吉川元春 (二男) 小早川隆景(三男)の兄にあたる。
幼名を少輔太郎といい、天文六年(一五三七) 人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には大内義隆の加冠で隆元と称した。 以後、天文十年(一五四一)一九歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。天文一五年(一五四六)二四歳で家督を相続した。 三年後には、 内藤興盛の娘(義隆の養女)を夫人とし、天文二二年(一五五三)に長男幸鶴丸 (輝元)の誕生をみた。
永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和が成立するやいなや、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に応援のため多治比に一時帰還した。
郡山城には入らず、 出雲に出発、途中安芸佐々郡(高田郡高宮町)で和智城春の饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に四一歳、永禄六年(一五六三) 急逝した。 菩提寺は常栄寺である。」
(看板説明文)
何か信用できないので、付近まで近付いて見ました。ちょうどお名前のところが隠れてしまいますが、間違いなくご本人のものですね。ですけど、何か石が新しい気もする。後から造られた再建物なので、鍵付けてないというのはすごくわかりやすい理由ですが、もしそうならば、本来のお墓はどこに行ってしまったのか、と思うと悲しくもありますね。
敢えてなのか、そこら辺、看板も触れてないですもんね。吉川元春さんのお墓もお参りしていますが、やはりお父上と同じ仕様でした。ココ、どうもひっかかりますね。
附・大内軍援軍本陣跡 Ⅰ・高塚山城
大内からの援軍が最初に本陣を置いていたところ、とされる場所です。残念なことに、工事中で道路が通行止めだったため、登ることができませんでした。それに、仮に登れたとしても、素人には何もわからないだろう、ということは想像できました。ですが、歴史民俗資料館の学芸員さん(というよりも、城跡専門家とお呼びすべき)曰く、わかる人にはそれとわかる明らかに人工的に手を加えたと思われる痕跡があるそうです。
ただし、ここは本当に「着陣」した地点というだけです。なので、特に面白くないといえばそれまででもあります。郷土史の先生がご覧になったら、山頂まで行かずとも、人工的に手を加えた形跡がまるわかりと。どこがですかーって、ポカンとしてたんですが、下の写真がそうです。
この黄色枠の部分なんですが、ほぼ直線になっています。恐らくは登ってみれば、学芸員さんが仰っていた人工的な痕跡がはっきりとわかるだろう、って。要は、一万もの大軍を収容するためにじゅうぶんな削平地ができていたってことです(多分。だって、実際見ていないので)。ちょうど、吉田郡山城の「勢溜の壇跡」のようなものかと思われます。
何も手を加えていない状態の山に、一万もの大軍を駐留させるのも困難です。山の斜面で仮眠するのか!? ってことになりますから。それだけの人数を収容できるスペースが造られていたということでしょう。もちろん、こんなもの、ただの、一時的な収容スペースにすぎず、その後誰かが城として使用したという事実もないわけなので、樹木に埋もれた中に、かつての削平地が確認できるだけだろうと推察します。
そうは言っても、重要な関連史跡であることは疑いありません。道路工事さえしてなかったらな……。
附・大内軍援軍本陣跡 Ⅱ・天神山城
完全に樹木に覆われてしまっていますが、かなり広い削平地になっています。こんなところを木々伐採して観光資源にしたところで、どなたも訪れませんから、これ以上は期待できません。大内軍はココに陣を移してから即尼子に総攻撃をかけていますので、尼子晴久みたいに、何ヶ月もかけて巨大な陣城なんて造る余裕はないです(そもそも、尼子晴久のひたすら陣城立派にし続けただけの行為のほうが謎)。余裕がないというより「不要」です。
この状態が、延々と山頂まで続いているものと思われます。要するに1万人分収容スペースは必要だったわけで。ただの削平地だけど、数日で造ってしまうのもすごいですよね。尼子晴久もわずかに数ヶ月で……て感心されているけど、ロクに攻撃も仕掛けてこないのに、大要塞は不要です。
ところで、ナビゲーション起動で連れて行ってくれたところはココです。写真を見る範囲では本に載っている山とかたちは似ているような気もします。ナビが間違えっこないので、場所的にはあっているはずです。けど、登り口がないです。ナビゲーションはこの場所で「目的地に到着しました」となりました。そりゃ、そうだろうけどさ、上まで行きたいのに……。よじ登ろうとおもったけど、万が一を考えて取りやめ。疲れ果てた郷土史の先生は先に車に戻っていたし、泣きたい気分で車に戻りました。ええ? でも、上の説明文を見る限り、無事に行けたんじゃないの? そうなんです。行けました。というか、行けていました。行けていたのに、行けてないと思って彷徨った挙げ句、諦めて戻った感じになったのです。
郷土史の先生はさすがプロなので、学芸員さんからご説明を受けて即場所がお分かりに。ただし、学芸員さんが仰っていらした「天神社」なるものがどうしても見付けられませんでした(天神社があるところだから、天神山)。それこそ、そっちをナビゲーションすりゃよかったんだけど、先生はそんなもの無視。船岡神社なるところの後ろを上がっていったのですが、心の中で、えええ、神社が違ってないか? と思っていました。で、上のような削平地をきちんと確認して車にお戻りになったわけです。なのに、天神社が気になるミルたちはもう一度ナビゲーションを手に単独で探しに。この時点で、先生のことを完全に信用しておらず、なんという無礼者か、と思いますよね。
でもって、ナビゲーションは上のようなことになり、あああ、もうダメ。と引っ返し。そしたら、歴史民俗博物館のご本にも、ちゃんと船岡神社の裏に天神山城跡の縄張り図書いてあった。口頭で説明するのは難しいのですが、ココ、船岡山城跡という山城跡と天神山城跡という山城跡が道路を挟んで向き合っています。で、船岡山山城というのは、ちょっと言い伝えめいているのですが、毛利元就の弟・相生元綱(家督相続争いに敗れて元就に殺された人)の城だった、って言われています。大内軍の援軍が本陣を置いた天神山城というのは、その相生元綱の城と向き合っているわけです。なので、間違えて船岡山に入ったらダメなわけですが、ややこしいのは、相生元綱を祀った(殺されたから祟りしたので、その霊を慰めるために社を建立。いかにも作り物めいていますが、中世なので)神社が、船岡山ではなく、天神山の麓にあったんですよ。郷土史の先生は、最初から神社がどーのなんてことは無視して、学芸員さんから教わった位置関係からそのものズバリの場所に行き着いておられ、神社のほうは、こんなものがこんなところにあったよ、って感じだったのですが、最初に神社在りきのミルたちは、船岡神社があるほうが船岡山だよね、普通、と思い込んでしまった。そういうことです。
これが、天神山城跡(登れる入口、ほかにもあるかは知りません)麓にある「船岡神社」です。傍にある説明看板によれば、看板が立っている「細声峠」という場所の左側の山が船岡山で、右上にある祠が船岡神社である、と。ちょっと待って。どっちが右か左かなんて、進行方向で変るじゃん? って思いますけど、看板と神社の位置は変らないわけですから、看板の立っているところに神社あり、そこが「右上」ならば、左はその裏山ではなくて、向き合っている反対側の山となります。つまり、神社がある場所 = 船岡山ではないんです。
陶隆房
尼子晴久を撃退!
吉田郡山城(広島県安芸高田市)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田
Googlemap に載っている住所です。
アクセス
郷土史の先生のお車で行っているので、徒歩での行き方がわかりません。参照文献を元に調査した結果をまとめておきます。
最寄り駅:JR 芸備線「向原駅」⇒ 路線バス「安芸高田市役所」
※バス停から登山口までは歩いて 15 分だそうです。
タクシーはどんだけ料金かかるか恐ろしいし、帰り道どうすんの? と思いますが、正直、付近に線路はなく、バスにもほぼ出遭わなかったので、公共交通機関で行くのはかなり困難な印象です。駐車場は完備されているので、レンタカーもしくは、近隣の県ならば、自家用車推奨です。さすがに、最寄り駅から徒歩は無理そうです……。
いずれにしても、大都会広島をイメージしたら絶対にダメです。田舎者なので、広島は交通の便がよくて、道行く人もお洒落で、あああ、どーせ田舎者だーって常に思いますが、ここはそれなりローカルです。毛利元就さん人気のわりには大混雑しない理由はそういうところにあるのかも知れません。
自治体による観光資源化が行き届いているので、迷わず事前問い合わせをしましょう。ちなみにですが、タブレット端末の貸し出しサービスがあり、今どこを歩いていて、足元の地形は何なのか、というようなこともバッチリわかるようです(高額なサービスでしたので、じゅうぶんに調べずブラウザを閉じました)。
参照文献:『安芸国の城館』、『兵どもの夢の跡 中国地方の山城を歩く』、『安芸高田 お城拝見』、『日本の城辞典』ほか
吉田郡山城(広島県安芸高田市)について:まとめ & 感想
吉田郡山城・まとめ
- 安芸国国人領主だった毛利家の居城跡
- 毛利家は鎌倉御家人で、先祖は鎌倉幕府の重鎮・大江広元だった。弘元はいわゆる「京下りの輩」だったので、もともとは朝廷に仕えていた家柄
- 相模国「毛利荘」を名字の地として、毛利氏と名乗るようになった
- 南北朝期に安芸国に移住して、土着
- 毛利元就の代にその類い稀なる知勇で他を圧倒し、次第に周辺の国人領主たちのリーダー的存在となる
- 大内氏と尼子氏とが二大勢力として激突する中、最初は血縁関係を重んじて尼子方についていた元就は大内方に転向。跡継の隆元共々、大内家当主の義隆と良好な関係を築いた
- のちに大内家で家臣の叛乱が起り、義隆が命を落とすと、厳島合戦で叛乱家臣らの政権を倒して元大内家の根幹地・周防長門を手に入れ、最終的に中国地方を統一した
- 吉田郡山城は、元就がこのように勢力を拡大していく中で、次第に拡張されていき、巨大な山城へと変貌していった
- 元就の孫・輝元の代に、近世城郭としての広島城が造られるまで、吉田郡山城は毛利家の拠点であり続けた
- 江戸時代、徳川幕府の命令で毛利家が安芸国を追われると、吉田郡山城もその役割を終えた。城内にあった菩提寺などは、輝元とともに防長に移ったが、元就や、移転前に亡くなった一族の墓所はいまなお、吉田郡山城跡内にある
ひゃーとにかくデカい城でして。ただし、観光資源としての整備が行き届いているため、登頂は容易です。ただ、なんと言いますか、ここは毛利元就さん、およびその関係者の聖地とでもいったところでして、部外者にとってはどうということのない山城の一つとはなります。墓所だの、菩提寺跡地だのは、崇拝者以外にはあまり感心がない史跡になろうかと思われます。逆に、崇拝者が訪れたら、たいへんなことになります……。
生涯のうち、一度は訪れてみたいと思っていた城跡ですので、無事に見学し終えて感無量です。ただし、感心があるのは郡山合戦での大内軍本陣だったりするので、それらは当たり前ですが、郡山城跡とは比較にならないほど何もなく。何もなくても行かねばならない場所なので、義務は果たしたかな、と思います。思い残すことはもうないです。
歴史概観のところでも触れた通り、郡山合戦は三万もの大軍を擁した尼子晴久がなにゆえに、ちゃちな小城一つ落とさず(落とせずではないです。やってみないとわかんないことだよ)、何もせずにひたすら巨大な陣城造っていたのかとか、謎すぎる展開です。ですけど、仮に「何もされない」にしても、そんな大軍に引っ付いていられたら迷惑です。本人に確認できないので、何とも言えませんが、まさか何もせずに帰るつもりのはずはないですから、やはり吉田郡山城は風前の灯火だったと思われます。実際、毛利元就は、大内家に SOS 出していたわけですし。
でもって、援軍来てくれた途端、撃退成功。これ、正直言って、「援軍来なかったらどうなっていたかわからない」=「すべては援軍のおかげ」ですよ。その意味で、どれだけ感謝しても、感謝しきれるものじゃないと思います。むろん、元就さんはそういう礼儀を心得ておられたことは周知していますし、援軍として誰が来るかとか、そもそも援軍出してくれるかとか、決めるのは殿様です。ゆえに、援軍としてきてくれた責任者が = 恩人とはならないのかもしれません。
でもやっぱり、個人に対する感謝の思いもあったよね、多分。厳島であんなことになって、助けてなんてやらなきゃよかったのに、って、心からそう思っていました。源頼朝が平清盛のおかげで命助かったのに、平家滅ぼしたのと同じくらい嫌な感じしてた(源頼朝は、『好きじゃない歴史上の人物』四番目にはいってますので)。でも今はどういうわけか、そうは思っていません。あまりにも多くの、毛利元就さん崇敬する広島県の方々と親しくなりすぎてしまったこともあるけど、人生ってこんなもんだよ、って今は思ってる。
いつも言ってるけど、猿や狸、まして第六天魔王(ゲームやらない人には何者かわからないかな……)なんぞの餌食になるなんて、死んでも嫌です。その意味で、一足先に旅立つことができて幸いだったと考えることにしています。大内家は凌雲寺さまで終わったと思ってる。家臣も含めて、それ以降の人はみんなおまけ。悔しいけど、最後にトロすぎる当主が出て、自信過剰で傍若無人な家臣が家乗っ取って、それを正義の味方・毛利家が成敗してさ。もういいよ、教科書通りというか「通説」通りで。考えすぎると疲れし、頭割れる。
でも、吉田郡山城跡で洞春寺跡地を見た時の衝撃はやはり忘れられない。被害妄想デカすぎる己を恥じた。厳島合戦以降の歴史が空っぽなので、資格試験の準備で○○藩の城下町云々とかいう観光資源を覚えるのに苦労している。正直、わけわからん。わかるのって、実家の山内家と毛利さんだけだった(○○藩と○○家が結びつく、って意味です)。もはや、切っても切れないご縁ができてしまったようで。輝元さんとか、どこかにひどく書いてしまったことを覚えていて、とても悔やんでます。試験が終わるまで直せないけど、ごめんなさい。
こんな方におすすめ
- 毛利元就、毛利三兄弟、とにかく毛利家が好きです(オススメするまでもなく、とっくに行ってますよね……)
- 山城巡りが好きな人
オススメ度
特に毛利家に感心ない人からすれば、普通の山城です。関心ある人ならば、何度行っても happy のでしょう。+0.5 したのは高塚山城と天神山城の分です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
陶入道の援軍がなかったら、毛利なんて終わってたはずだ。恩を仇で返すとは毛利元就なんぞその程度の人物だ。それなのに、なんか褒めすぎてないか。陶入道は俺の身内だ。俺は絶対仇を取るからな。源頼朝並の恩知らずじゃないか。俺もアイツは大嫌いだ。源氏だしな。
この暑さでは頭も割れるんだよ。七浦巡りできたの誰のおかげと思ってるの? すべては毛利元就さんが繋いでくれたご縁なんだよ(それに君、自分で自分の仇討ちはできないからね。自ら言ったら御恩の押し売りだし)。
いや、ダメだ。七浦巡りのお礼にこんな歯の浮くような下手な文章書いても意味ない。俺は郷土史の先生も七浦巡りの船長さんも大好きだけど、嘘を書いてゴマをするようなやり方には断固反対する。@ SITEOWNER を今すぐ呼んで来い。成敗する。
お願い……試験が終わるまで放って置いて。(ミルだって、君を五体満足で埋葬されていない状態にした張本人を好きになれるはずない。でも、歴史はそんなに簡単なものじゃないんだよ。もしそうなら、たとえトロくても、殿様を死なせた君もワルモノってことになっちゃうんだよ?)多数意見に従っておく、というのも立派な処世術です。良い子になってください。
附:毛利家の祖・大江広元の墓
本文中にさりげなく、山口でも広島でもない、東国の史跡が紛れ込んでいますが、お気づきになったでしょうか。そう、毛利季光さんのお墓です。そのお隣に、大江広元さんのお墓もございました。これらの墓所なんですが、ちょっと曰くがございまして、説明を要します。
大江広元の墓(神奈川県)
毛利季光さんのお墓と大江広元さんのお墓は隣あっており、そのお隣にもうお一人、島津忠久という方のお墓もございます。これらの一見無関係なお墓が三つも並んでお祀りされている理由は、いきなり明治維新の時代に飛んでしまうんです。この庭園にはあまり関係がない内容とはなるのですが、せっかく毛利家の方々のお墓をご紹介してきたので、コチラにまとめておきます。
なにゆえに、中世に亡くなられた方々のお墓が明治維新の時代と関係するのか、島津忠久というのはどなたなのか、については、下の説明看板で一目瞭然です。
要するに、江戸時代に整備されたものなので、本当にご本人たちのお墓なのかなんてわからないですが、明治維新で活躍した長州藩と薩摩藩の方々が、ご先祖たちのお墓を整えたという意味で、明治維新と書いています。遙々相模国まで下向(いったん京都通るから、上洛したのち、東に下る)してここまでやるかな? という大サービスのおまけでした(要するにたまたま行ったってだけですが)。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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藩政期・明治維新・現代の観光資源
大内氏について語るというメインテーマとは外れる県内の主要観光資源についてご紹介している記事の目次ページです。当然のことながら、毛利氏に関するところが多いので、広島県内の訪問済み箇所も混じっています。
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