イマドキ『陰徳太平記』上巻

『陰徳太平記』曰く「大内先祖について」

2023年9月17日

右田弘詮イメージ画像

軍記物に描かれた大内氏を読もう!

軍記物に描かれた大内氏の物語を拾い読みする企画です。今回は『陰徳太平記』巻六「大内先祖之事」をご紹介します。稚拙なイマドキ語変換で内容をご紹介した上で、当時の人々の大内氏に対する考え方などをお伝えすることができたら、と思います。

この記事の中身

  1. 『陰徳太平記』巻六「大内先祖之事」の内容紹介
  2. 大内氏の先祖とされる琳聖太子が聖徳太子に会おうと一念発起して、遙々百済国からやってくる逸話が活き活きと描かれているのは珍しくて楽しい
  3. 大内氏歴代当主の事蹟がわかりやすくまとめられているものの、書物が書かれた江戸時代の認識なので、現代の、より進んだ研究成果と照らし合わせると誤りが多すぎて、参考にできない(ただし、当時の人々が大内氏をどのようにとらえていたのか、ということがわかる点では興味深い)

「大内先祖之事」は作者が大内氏の来歴について、始祖から最後の当主・義隆まで三十一代を駆け足で説明し、読者の便宜を図っている章段となります。中世、中国地方を扱った軍記物ではお決まりの百済の王子・琳聖太子が来朝して云々という、聞き飽きた内容ではあります。しかし、琳聖と聖徳太子が相対する場面の描写はほかでは見られないものですので(書いている人が知らないだけかもです)、一見の価値があります。

残念なのは、せっかく歴代当主の事蹟についてざっくりまとめてくださっておられるのですが、今となっては否定されている信じられない誤りだらけであることです。それらを正しい記述と差し替えて、読み物として完結させる方法もありですが、現状は作者さまのご意見を尊重して誤りのままで公開しております。正誤表ではなく、「間違っている」というエラそうな但書をお付けしています。

『陰徳太平記』とは?

最初に、そもそも『陰徳太平記』とはどのような書物なのか、ということをまとめておきます。年代、人名等の参照典拠として、山川出版社の『日本史広事典』を使っています。

陰徳太平記・まとめ

  1. 吉川家家臣・香川正矩が吉川家について記した書物『陰徳記』を、息子の宣阿がアレンジして完成させた軍記物語。江戸時代・元禄年間(1695年頃)に完成、正徳年間(1712年頃)に刊行された。
  2. 主家の吉川家を礼賛する書物ではあるが、普通はオダノブナガなどばかりがメジャーである中、大内家をはじめ、中国、四国、九州の諸家の興亡が多数描かれている極めて貴重な作品。吉川家、毛利家とかかわりのあった家々、人々、出来事に限定されはするが、なにゆえに、中国・四国地方ってこんなに扱いが少ないの? と嘆いている人は、感動の涙せきあえず状態となること必定。
  3. 八十一巻にも及ぶ大作ゆえ、読破するのが困難であるのが最大の課題。
  4. なお、タイトルにある「陰徳」とは、「人知れずなした善行は必ず報われるという陰徳思想」(『日本史広事典』)から来ており、作者の意図はこの思想に基づいて、毛利元就を崇敬に値する立派な人物として描くことにあるようだ。

大内氏先祖について(イマドキ語変換)

ミル笑顔イメージ画像
ミル

なるべくガチガチで意味不明な逐語訳を避け、できるだけ自然な訳文となるよう、大胆にアレンジしております(成功しているかは不明ですが)。また、メンドーなので注釈も本文中に織り込んでいるため、原文とはやや異なります。

大内氏の系譜

大内氏の先祖について調べていくと、つぎのようなことになる。

その昔、百済には東明皇帝という国王がいた。東明以下の子孫は以下の通りである。

 東明 ⇒ 昆 ⇒ 慶 ⇒ 牟都 ⇒ 明 ⇒ 昌 ⇒ 璋明

でもって、璋明の第一皇子を阿佐、第三皇子を琳聖といった(璋明って誰? ってことだけど、日本に仏教をもたらしたことで有名な百済の聖明王を指していると思われます)。

安佐太子来日

読み飛ばし用要約・1

  1. 琳聖太子には「安佐太子」という兄がおり、琳聖に先立ち、聖徳太子に会うために日本に渡った。
  2. 安佐は、聖徳太子が観音菩薩の化身であるというのは噂通りだった、と感激して帰国した。

阿佐太子は、日本の聖徳太子が仏教を興隆し衆生を済度する(仏教を広く普及させ、人々をお救いくださるため、って感じですね。ここらは敢えて訳さない方がいいようです『済度』とか、信心深くないイマドキの童には難し過ぎる言葉だけどね)ためこの世に現われた救世観音の化身である、と伝え聞き、太子のお顔を拝むために来日した。推古天皇五年の四月頃、難波浦に着岸し、お供の者三十人ほどで大和国に入り、木津を通って、 奈良坂を越えた。

聖徳太子は三輪山の北、草川の南にある森の中に隠れて、阿佐太子らを眺めていた。阿佐の家来にシュチマという者がいた。この者が遙に三輪山を望み、「南東の山に、太子様がいらっしゃる、間違えない(おいでになる印は明らか。かなり意訳)」といって手を合せる。三輪山の麓を通るとき、一行は馬を下りて山を拝んだのだった。聖徳太子はこれらの一部始終をご覧になって、「私は身を隠していたというのに、彼らは神通力でももっているのか。ここにいたことが知られてしまうとは不思議なことだ(なんでバレちゃったんだろう? と訳したかったのですが……我慢)」と仰って、すぐに還御なさる。

阿佐太子は異朝の賢王、我が朝にとっても立派な客人であるから、一夜なりとも俗人の家にお泊めすることはふさわしくない。それゆえに、古の都・沢田の宮にお入れ申し上げた。

阿佐太子が、「私が万里の風浪(困難な旅)をこえて来たのは、太子様にお目にかかるためでした」と仰るので、聖徳太子は衣冠をととのえて対面した。阿佐太子は立ち上がると「救世大慈大悲観世音菩薩、妙教流布東方日本国、四十九年伝灯演説、大悲敬礼菩薩」と唱えて、聖徳太子に向かって礼拝した。

そのとき聖德太子は、目を閉じてやや長いこと座っておられたが、突然眉間の間から光が放たれ、阿佐の頭のてっぺんを照らした(信じられませんが、聖徳太子さまから聖なるビームが放たれた、ってことですね。多分)。阿佐は信心を肝に銘じて、合掌低頭し、感激の涙はとどまるところを知らなかった。その後、我が願いがかなって生身の観音菩薩を拜んだ、と歓喜して帰って行った。

 

琳聖の宿望

読み飛ばし用要約・2

  1. 琳聖太子には「生身の観音菩薩」を拝みたいという願望があり、日々その思いを神仏に祈っていた
  2. あるとき「夢のお告げ」で日本に聖徳太子という観音菩薩の化身がおられると聞き、先に日本を訪問した安佐太子からもその事実が確認できたので、日本に渡りたいと強く望むようになった
  3. いっぽう、周防国では「異国の貴人」が来訪するのを守護するためとして、北辰(北極星)の降臨があり、地元の人々は社を造ってその神様をお祀りしていた
  4. 間もなく、本当に異国から琳聖が来朝したので、国司は丁重に迎えて聖徳太子に会えるよう畿内に送り届けた

安佐の弟・琳聖太子もまた、つね日ごろから、生身の如来を拝みたいと強く願っていた。なので、長きに渡り、昼も夜も一時も休まず、寝食も忘れて、神仏に願をかけ、心をこめて祈り続けていた(願いが叶いますように、と)。 ある時、夢の中に不思議な人(仙人)が現われた。「木を刻み、像を画いてまことの仏になぞらえ、いまだ戒を持たずといえども、髪を剃り衣を染めて聖老となぞらえる。澆季末法の世に、出遭うのが難しいのは如来の教法である。日域(日本のこと)に聖人がおり、名を聖徳という。前世は法明如来。重玄門に入り、なお菩薩地に居す。今日本に降誕し、仏法を興隆し衆生を済度している。生身の観世音即ちこれなり」と告げた。

夢のお告げを聞き、喜び並々ならぬ思いでいたところに、ちょうど、阿佐太子が帰国した。安佐が聖德太子のありさまを詳しく語ったのを聞き、琳聖は、「さては夢のお告げは嘘ではなかったのだ。 急ぎ彼の地へ渡海し、肉身の観音を拜もう」と、旅の準備を整えた。

琳聖の信心深い思いは天にも通じたようだ。同じ推古朝の十七年己巳、周防国都濃郡鷲頭庄青柳の浦の松の梢に大星が降り、七昼夜にわたって光を放つという出来事があった。地元の人々が奇異に思っていたところ、巫女に託して「神さまのお告げ」があった。「異国の太子が我が朝に来臨なさる。その擁護のため北斗星が降臨したのだ」。人々はそれを聞くと、北辰(=降臨した北斗星)のために、妙見尊星王大菩薩の社を造ってお祀りした。そして、星が降りてきたこの浦の名を、降松と改めたのだった。そののち、この妙見の社を桂木の宮に移し奉った。今(この書物が書かれた時、江戸時代)、宮の州の山上に上宮、下宮が鎮座しているが、厳かでおかしがたい神徳がある。琳聖より十代の孫・長門守茂村は(この降松の妙見社から)、大内県に妙見社を勧請して氷上山と名付けた。

かくて三年を経た推古十九年辛未、琳聖太子は船に乗り、風を頼りに来朝し周防国佐波郡の多々良浜についた。浦人たちが琳聖太子の来朝を国司に伝えたので、国司が浜に駆けつける。(太子が乗って来た)唐船の様子を見ると「百済国王璋明王第三の皇子琳聖太子、日本聖徳太子に対面したいと望み来朝す」と金泥で書いてあった。そこで国司は数十隻の船をさし添えて、太子を警固させ、海路難波の浦に上らせ申し上げた。

聖徳太子との面会

琳聖太子イメージ画像

琳聖太子・アイカワサンさま画

読み飛ばし用要約・3

  1. 琳聖は無事に都に着き、聖徳太子と対面できた
  2. じつは聖徳太子と琳聖には前世からの因縁があり、衝山の思念禅師とその侍者で、禅師は日本に生まれ変わって仏教を広めるので再会しようと約束していた。琳聖の来朝はその旧約を守るためだったのである
  3. 琳聖は周防国に定住したいと望み、地元の人々にも歓迎され、防府の地で世を去った
  4. その子孫は「大内氏」という名門一族となった

聖徳太子はすぐに琳聖太子と対面した。お座りになって琳聖の手をとると、「衝山の旧約を違えず、今こうして来てくれて、素晴らしいことです」と過去の因縁を語られた(いきなり『旧約』って、なんぞ? と思いますが、説明はつぎの段落にございます。順番入れ替えようかと思いましたが、原文を尊重しました)。何やら古くからの知り合いのようであった。太子は自筆の紺紙金泥の法華経一部、また、過去に衝山で薄紙にお書きになったという同じ経文を琳聖に授与された。その長さは一部は六寸五分、一部は二寸五分。のちに、大内家代々の家宝として伝えられる。

聖徳太子の前世は衝山の思念禅師で、琳聖は年少のころ思念禅師の侍者だったのである。念禅師は「東方に『扶桑』という国がある。無仏世界だ。吾はかの地に生れて、国主となり、ぜひとも仏法を広めなくてはならない。汝はかならず彼の地まで追って来て、吾に従うべし」と約束されたという。今、琳聖が日本に渡海したのは、じつはこの因縁のためだったとか。

そののち、琳聖太子は周防国に居住したいとお願いした(つまり、それまでは飛鳥の都におられた、ってことになりますね。期間不明ですが)。聖徳太子は防長の人々に、「琳聖は大切な客人であるから、崇敬すべし」と命じたので、地元の人々は王宮を建てて琳聖太子をお迎えした。国司は天皇のお耳に入れた上で、その娘を琳聖に娶せた(ということは、大内氏の子孫は、琳聖さまと当時の国司の娘との間に生まれた御子様方ということになりますね。あくまで『陰徳太平記』曰くだけど。奥さん何人いたのか分らんし)。太子はほどなく防府にて薨去された。

御子孫で、第七代に当たる方は長門守正恒と名乗った。正恒は大内の里に居住したゆえ、大内を氏とし、多々良を姓とした。百済から随って来た家臣は佐波の里に住んだので、氏を佐波と賜った。のちに讃井に移住したので、讃井と改氏した。山口氏、堀氏などはその子孫である。その次(『家臣』よりランクが下って意味か?)の侍を篠原、宇佐川と称し、牛飼を宗守と号し、代々雑色の頭である。番匠は末次と称し、鍛冶は徳久と号した。末裔は永く続いた。

太子は渡海の御船の舳艫に、不動明王と毘沙門の二仏を勧請なさっておられた。種々の奇端があって、風波の難を免れられたので、多々良浜に九十九院を建立して毘沙門を安置し、不動明王は玖珂郡岩国庄横山の麓に一宇の伽藍を造営して崇められた。いずれも霊験殊勝の尊像である。

また来朝の時、お持ちになった宝物は、以下の五種である。

一、薬師如来
二、五寸五分の不動明王の像
三、妙見のご神体
四、宝剣
五、系譜

琳聖の子孫たち

正恒以下のご子孫について、ざっくりと述べておく。

正恒 ⇒ 藤根 ⇒ 宗範 ⇒ 茂村(林とする伝本もあり) ⇒ 保盛 ⇒ 貞長 ⇒ 貞成 ⇒ 盛房 ⇒ 弘盛 ⇒ 満盛。

新介涙イメージ画像
新介

ここから先は、あまりにヒドすぎて、読むに耐えないよ。今回はヘンテコな日本語についてではなく、親族関係などがデタラメだってことに、僕は悲しんでる。

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次郎

いいじゃないの。百済の王子と聖徳太子の話を紹介したいがためだけの企画だから。そもそも、お前の家を滅ぼしたワルモノ役の連中が書いたものだぜ? よく書かれているはずはないよなぁ。世の中、そんなもん。

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五郎

右田の始祖についてもデタラメだ。いくら俺が源氏嫌いだと言っても(← 正確には元寇の時代にはもはや鎌倉幕府は源氏とは無関係。最高実力者は北条得宗になってることを知らない)、百済から援軍を呼んで蒙古に味方するはずないじゃないか。そもそも、この記述だと、右田に分家したあと、そこが本家になったみたいに読める。

ミル涙イメージ画像
ミル

これ、間違っているところを書き出すだけでどんだけ骨が折れるんだろう……。そもそも、これだけデタラメだと、琳聖さまのエピソードだってどこまで信じていいかわかんない。

五郎通常イメージ画像
五郎

降松(下松)に星が降ったとかは間違ってないぞ。だけど、それ以外はすべて嘘で、『当たってる』ところを探すほうが面倒だな。

ご注意

これ以降の内容については、あくまでも『陰徳太平記』の記述であり、史実とは異なる部分がございます。大内氏歴代当主についての現時点での研究成果などについては、必ず系図ページなどでご確認くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。

※現在の研究成果と異なる部分については「?」でマークしてありますので、特にご注意くださいませ。ただし、不勉強ゆえ、抜け落ちているところがあるかもしれないことをお断りしておきます。

満盛は元暦の戦争で右大将頼朝卿に忠勤抽んでられた賞として長門国を賜わる。

満盛の子・弘成は従五位下長門守である。弘成の子・従五位下周防介弘貞を右田太郎と号し、右田の始祖である(?⇒ 右田の始祖は『盛長』さん。弘貞さんより先に分出しておられるため、少なくともこの人が始祖ではあり得ない。百歩譲って『右田』と名乗ったとして、これ以降この方のご子息が当主の座に就き続けるのだから、大内から右田に改姓したんですか!? ってとんでもないことになる)。文永九年、惟康親王の時、蒙古が来て日本を攻め取ろうとした。弘貞も百済国から兵を招き関東を攻め揺るがそうとしたので(? これは……事実無根。今、ちょっと典拠が思い出せないけど、どなたか研究者の先生が激怒しておられた……。渡来系氏族に対する偏見とか冒瀆だとか。出身が渡来系だからといって、国難とも言える時期に、外国人と手を組んで日本の国を脅かすとか絶対にあり得ない。そもそも、元寇のことを言っていると思われるけど、その頃、百済国なんて存在しないし)、北条政村は周防国を与えて和解を求めたとか。弘安九年丙戌七月七日逝去。朝請大夫本州別駕覚浄大禅門がその人である。

弘貞の子・正六位上周防介弘家、正安二年庚子三月二十八日逝去。大宮殿圓浄大禅定門、最初の名は弘安である。

弘家の子・正六位上周防権介重弘、元応二年庚申三月六日逝去、乗福寺道山浄惠大居士。この人は六波羅評定衆である。

重弘の子・正六位上周防権介弘幸。文和二年壬辰三月六日逝去、本州別駕永興寺寒岩妙巌大居士。弘幸には息子が三人あったが(?⇒ 息子や娘の人数については正確なところはわからないといっていいと思うので、三人である可能性もある。ただし、現行の系図ではいちおう『ふたり』になっている。それよりも、弘幸さんと弘直さんとは親子関係ではなく、兄弟関係となってますが……)、嫡子(? いや、弘世さんじゃないんですか、それは……。まあ、長男亡くなって次男ということは普通にありますが……というより、息子ではなく兄弟ですってば)・大内新介弘直は、建武三年七月七日、石見国益田の大山で足利尊氏の命によって誅せられた。瑞雲寺惠海浄智と号した。弘幸の次男・大内介弘世は周防長門石見三ヶ国の守護である。康暦二年十一月十一日逝去、本州別駕正寿院玄峯道階。弘幸の三男・助三郎師弘、のちに大内介。本州別駕興禅寺水(木とする伝本もあり)源彦溜、のちに保寿寺開山になって、癡鈍と改名する。

弘世の子・従四位上左京権大夫義弘は周防長門豊前石見のほか、明徳の乱で、内野合戦の賞に紀伊、和泉両州と大和宇多郡を副えて賜わる。同三年に南帝を嵯峨に移し、三種の神器を再び宮中にお入れした。この恩賞として、従四位上に叙位された。戦功などは『明徳記』に載っている。小林を討ちなさった時の刀が、小林眉尖刀として家宝となっている。義弘は軍事のみならず、文事にも通じ、詠じた和歌は新後捨遺和歌集に載せられている。応永六年已卯十二月二十一日、和泉国堺浦にて戦死。香積寺梅牎道実、その弟・弘茂、応永十年癸未、十月二十日山口にて没。真休院日菴浄栄と号した。

義弘は今川右衛門佐仲秋の娘を妻とし、子息が多数いる。嫡子・新介教幸(?⇒ 後ろの説明を読む限り、応永の乱で、義弘さんが戦死した時に幕府に降伏した人物について記している模様。それならば、義弘弟・弘茂のはず。あと、子息が多数いるのはお父上の弘世さんでは? ついでに。教幸さんは、確かに惣領家に謀叛した人だけれども、それは法泉寺さまの代。義弘さんの息子ではなく、甥。盛見さんがお父上で、築山大明神さまの兄弟)は父・義弘が堺に於いて戦死した時、幕府に降伏したので一命は助けられたけれども、周防長門豊前筑前の守護を弟(?⇒ どんだけインチキなんですか。盛見さんが義弘さんの息子の弟ですと!? ここまで目茶苦茶なのに、惣領家に謀叛したことと、馬岳で亡くなったことだけはなんで現在の通説通り正しいのか。永遠の謎)・盛見に譲り、その身は俗世間を離れて住まいした。のち惣領家に対して謀叛したので、嘉喜丸、師子丸二人の子とともに、豊前国馬の嶽に於いて誅せられた。広沢寺南宋道頓と号す。

従四位上左京大夫盛見(のち盛世と改める(? 盛見さんって改名しておられたのですか。生まれて初めて見ました。こんな記述)、小字六郎)は、新続古今の作者である。のちに剃髪して徳雄と号した。九州をすべて切り取ろうと思いたち、肥前国飯盛という所に在陣して、合戦をした。少弐家滅亡の時である。永享三年辛亥六月二十八日、筑前国菊池氏と戦い、菊池および数人の首を斬ったが、その身もついに肥前国萩原というところで戦死した。

盛見の弟(?⇒ 盛見さんは幕府のせいで兄弟たちと相続争いになったけど、家督は兄・義弘さんの遺児に譲ったのですよ。いい加減にしてください)・正六位上周防権介(小字孫太郎)持盛が跡を継ぎ、四ヶ国の守護となった。永享五年癸巳、四月八日没。観音寺芳林道継。その弟・孫三郎教祐、永享八年丙辰六月二十七日卒。保寿寺鼎文允盛、その弟(? これは間違い。馬場殿はどう繋がっていたか一瞬わからなくなったけど、持盛と持世兄弟の相続争いはどこへ飛んだんだよ)・伊予守満弘、矣泉寺濁世、馬場殿と号す。このほか、息女三人(?)。山名讃岐守時政の室、大友修理大夫親世の室、大宰少弐頼光の室がそれである。

教幸の子(? 確かに、盛見さんは持世さんに家督を譲りました。ですけど、教幸さんは盛見さんの子、持世さんは義弘さんの子ですよ)・持世が、嫡子なので家督を継いだ。はじめ周防権介から刑部少輔を経て修理大夫に任官される。従四位下に叙位。四ヶ国の守護である。持盛の子(? ⇒ 何じゃコレは? 教弘さんを養子にしたのはいいとして、そのお父上は盛見さんです)・教弘を養って子とし、家督を譲った。持世は、父教幸(?  しつこい人ですね。持世さんは義弘さんの子ですって。以下の『歌を詠んだ』はほかでも出てくる逸話ですが。父親が誅殺って、もしかして応永の乱の義弘さんと混同しているのだろうか。誅殺されたというか、叛乱起こして自害だけど)が誅殺されたという経緯があるため位階の昇進が遅れ、正五位上にて長い年月を送った。「折々に袖こそぬるれたらちねのかしらをきればしひ柴の露」という一首の歌を詠んだので、義教将軍が哀れと思ったのだろうか、執奏を経て従四位下に叙位されたとか。そのほかにも詠歌が多く、新続古今に載せられている。また、新撰菟玖波集の作者でもある。その後、赤松満祐が足利義教将軍を弑した時、持世も供奉していて嘉吉元年辛酉六月二十四日、疵を蒙り、同七月八日に落命。澄清寺道岩昌弘と号す。

従四位下左京大夫教弘、四ヶ国の守護、享年四十六にして寛政六年乙酉九月三日伊予国興居島で病死。闢雲寺大基大禅定門、のちに贈三位の宣下があった。教弘の子・従四位上左京大夫政弘が跡を継いで四ヶ国の守護となった。その武功については『応仁記』に書かれている。明応四年乙酉九月十八日、周防山口において病死。法泉寺直翁真正。この人は正五位下の時、四位叙階のことを望まれたけれども、小折紙空しく年を経たので「便りなき外山に住みて下枝をも折る事難き峯の椎柴」と詠んだところ、叡感があって従四位下の勅許があり、ついで長享元年十二月二十七日従四位上に叙せられたとか。いにしえの頼政は「椎を拾いて」と詠んで三位に叙位せられ、今の政弘は「折ること難き」と詠み、四位に昇られた。武勇といい歌道といい、かの頼政の再来かと都鄙語り継いで褒めたたえた。その弟を小法師瑞光と号す。

当主列伝肖像画(政弘)

大内政弘・アイカワサンさま画

政弘の嫡子が従三位義興卿。次男は尊光といって氷上山の別当だったが還俗して大内太郎と称した。のちに義隆と不和になったので、出雲に出奔し、そのご豊後に下って大友宗麟の婿になり、輝弘と改め太郎左衛門と名乗った。男子が二人あったが、義隆が山口に於いて誅殺した。また義興の庶兄に梵良という出家があり、保寿寺の住侶である。義興の嫡子・従二位義隆卿にいたって二十九代の苗裔である(※当主の世代数の数え方も間違っておりますね。義隆さんを三十一代、とするのが現在の通説です。ここは仕方ないでしょう。近藤先生の時代ですら、現在とは異なっていたのですから)。

解説 & 訂正

『陰徳太平記』は毛利家家臣による、毛利元就礼賛と自らの先祖について記した書物ですが、凌雲寺さまをきわめて優れた当主と崇め立てていたり、なかなか主人公にしてもらえない、中国地方の方々がたくさん登場する、非常に有難くも貴重な軍記物です。その文学的意義や物語的には、『平家物語』には遠く及びませんが、中国地方が好きな人には嬉しい本であることは確かです。

『大内氏実録』で有名な近藤清石先生はこの本を「俗書」と切り捨てて、ご著作内でも完全に無視なさっておられます。ただし、このご本はあくまで「軍記物」にすぎず、「歴史書」や最近、史料として好まれている貴族が書き残した日記などとはまったくの「別物」です。なので、物語として楽しまねばなりません。『平家』とは比べものにならぬレベルですが、それでも凌雲寺さまの勇姿が描かれていたりするとドキドキしますね。

この本には、原作(?)となった『陰徳記』なる書物があり、近藤先生もそっちは平然と引用なさっておられたりするので、何だかなぁと思いますが、要するに、『陰徳記』を面白くするためにあれこれ脚色してしまったのがいけないのでしょうかね。さらに、『陰徳記』と『陰徳太平記』の書かれた時期にも開きがあり、もはや江戸時代の書物ですので、すでに滅びた大内氏についての人々の記憶もあやふやとなっていて当然ではあります。

また、作者は教養ある人で、何らかの「史料」を元に調べつつ書いているのでしょうから、故意に捏造して楽しんでいるような悪意はないと思われます。つまりは、この書物が書かれた時代の人々が大内氏について抱いていた認知度はこの程度のものだった、ってことです。ほかの多くのこの手の書物に言えることですが、毛利元就礼賛書物(大量にあり)の特徴として、「書いている人は、大内義興以前についてはよくわからない」というのが実状と思います。他家のことなど、誰もが知っているはずがなくて当然です。ただ、元就さんが活躍したのが、義興代以降ですので、それ以前については、武勇伝を書き残した家臣たちも「知らない」のが普通です。顔を見たこともない人たちなわけですから。

なので、違うだろうー!! とお怒りにならずに(なかには穏やかにはやり過ごせないような箇所もあるんですが、それは今のところ、今回の箇所にはないです)、江戸時代の歴史文学ってこんなものか、と軽く流してくださいませ。

「大内先祖之事」について

『陰徳太平記』中では毛利家はもちろん、九州や四国にいたるまで、じつに広範囲に渡る家の歴史が題材にされています。たいてい、「○○家先祖之事」のような章段が立てられて、その先祖や来歴が描かれている家がほとんどです。毛利家については、正確に書かれているはずですけれど、大内家の例を見ればわかる通り、ほかの家についての記述もすべて正しいかどうかは怪しいものです。

ただ、そもそも論として、源氏や平氏、藤原氏などの子孫であれば、先祖ははっきりしています。桓武天皇ほかの天皇さま、大織冠の末裔とか素性分りやすいし、系図もかなり詳細にわかっています(捏造している成り上がり者もいる可能性はあるけれども……)。けれども、大内氏の場合、本当に先祖が琳聖さまかどうかは怪しいものです。実在しない人物である可能性も大。にもかかわらず、ここだけは確定してしまっており、近世期など、先祖は外つ国の王子の末裔。西国に京都よりも都らしい天上世界の楽園を造った大国が一夜にして崩壊……とか、あれこれのロマンをかき立てていた事情は現在と変らなかったようで。

『平家物語』で、主要人物が亡くなった後に、彼(彼女)に対する逸話の章段が設けられることがよくあります。小松大臣の死後(『無文』以後数段)、平清盛死後(『祇園女御』)、高倉上皇死後(『紅葉』以降数段)ほか源頼政などなども同様。で、この『大内先祖之事』の章段も、凌雲寺さまが亡くなられた後に挿入されています。

『陰徳太平記』は取り扱っている範囲が地理的にも時間的にも膨大ではありますが、メインはやはり厳島合戦と防長経略、毛利家の中国地方統一みたいな辺りです。なので、大内氏でも、最後のお殿様(義隆)が中心となります。凌雲寺さまは巻六で退場となりますので。でもって、人物像などについての知識も、最後のお殿様以外はあやふやみたいでして。凌雲寺さまは毛利元就さんを輝かせる一装置に過ぎないとはいえ、文武両道のスゴい人物ということになっていますが、それ以前のご先祖さまについては……。上に載せたことがすべてですので、あんまりだ……となりますね。

凌雲寺さまが亡くなられた章段に「附・歌之事」という逸話がついているのですが、歴代でも屈指の歌人みたいなことになっていますけど、これ、お父上と勘違いしておられるのではないかな、と思います。だって、歌人ではないですからね。専門に研究しておられる先生方以外、お詠みになった御歌をご存じの方はほとんどいないのではないでしょうか(上述の『附・歌之事』に出てくる、遠き吾妻の富士の嶺を……を除けば)。

まあ、そんな嬉しかったり腹が立ったりする心中フクザツなご本ではあるのですが、これからも大内氏について書かれている部分を拾い出してご紹介していきたいと思います。

ただし、例によって、以下のようなとても大切なことが確認できるかと思います。

大内氏について描いた軍記物の大原則

大内氏の先祖は「琳聖太子」である。この点だけは、軍記物作者、それを読んでいた人々ともに固く信じていた(と思われる)。

訂正(準備中)

※訂正は訳文から切り離したいと考えていますが、面倒なので現状本文中に組み込んで訂正しています。

参考文献:『陰徳太平記』、『日本史広事典』ほか

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