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桜尾城跡(廿日市市)

2021年2月17日

桜尾城跡・桂公園石碑

広島県廿日市市桜尾本町の桜尾城跡とは?

かつて厳島神主家の居城だった「桜尾城」があったところです。厳島神主といっても、厳島神社を創建し、代々その祭祀を執り行ってきた佐伯氏ではなく、鎌倉時代、幕府によって任命された藤原姓神主家のことです。広大な神領をもつ大神社は神主といえども、大名家のようなものであったらしく、武士の横領などで荒らされる神領を守るためには自らも武装して防御を固める必要があったのですね。

ことに、厳島神社は神主家に相続争いが起ったことなどから、大国大内氏に介入され桜尾城も接収されるなど、あれこれ大変でした。これを端緒に長らく合戦状態となり、ついには滅ぼされてしまいます。その後も厳島合戦の舞台の一つともなり、毛利元就が合戦勝利の凱旋式を行なった場所としても知られています。

要害の地にある難攻不落の堅城だったといわれておりますが、現在は公園として整備され、城だった時の面影はほとんどありません。

桜尾城跡・基本情報

所在地 〒738-0005 広島県廿日市市桜尾本町 11
最寄り駅 廿日市駅から徒歩圏内

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五郎

何なんだ、ここ? ただの公園じゃないか。

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ミル

とんでもない話だよ。ココは歴史上きわめて重要な拠点として、何度もその名前が出てくる城跡だ!

桜尾城跡・歴史

桜尾城は厳島神主家・藤原氏の居城であったが、後に厳島神領をめぐって争いが勃発。藤原氏は滅亡するに至った。城の所属は大内 → 陶 → 毛利と移り、やがて、徳川幕府の時代になって、毛利家が防長の地に転封された際に廃城となる。

桜尾城が歴史の舞台に登場するのは、大きく分けて三回(じつはその後にも多少ありますが、近世以降は無視)。

 一、厳島神主家と安芸武田氏との争い
 二、大内家と厳島神主家の争い
 三、厳島合戦時の陶 vs 毛利の争い

いずれもすべて、庭園の歴史と少なからず関係しているとはいえ、1551年滅亡説を取れば三は無関係だし、一にしても、メインはあくまでも神主家と武田氏の揉め事。それでも、観光案内的にはすべてに目を通しておくことが必要である。

難攻不落の「七尾城」

そもそもこの桜尾城だが、現状を見て「ただの公園だ」から一歩進んで、昔はここに城があったのです、と聞いていたとして、それが海中に浮かぶ水上要塞であったなどと言われると、俄には信じられない。現在の桂公園は、べつに、海中公園のような特別なロケーションではないから。つまりは、宮島・要害山と同じで、かつて周囲は海だったけど、今は陸地になっている、ということに思い至らなければならない。

厳島神主(というか、一番偉い人:大宮司)は、元々は佐伯姓。神社を創建、のちに神格化された佐伯鞍職の家だ。ところが、源平合戦の折、あれほど平清盛に気に入られた厳島神社だから、神主と平氏との関係も密接ということで、鎌倉幕府になって神主が変えられてしまった。⇒ 関連記事:宮島簡略通史

まあ、いつの時代にも厳島は交通の要衝でもあるし、全国各地に自らの御家人を配置しまくった源頼朝が、平氏べったりだった神主家をそのままにしておくはずがない。なので、信頼の置ける人物として、藤原親実なる人物を新しい神主とした(親実の父・親能が頼朝のブレーンの一人だったっぽい)。

当時この城は、海上要塞だったと言ったけれど、郷土史家の先生方のご本によれば、周囲を篠尾城(天神山、現天満宮ら辺 、本城の控え)、岩戸尾城(桜尾城のすぐ南、本城の前衛)、藤掛尾城(宮内入口、地御前辺)、藤掛尾城の峯続きの奥、北側から順番に宗高尾城、谷宗尾城、越峠尾城という支城で守られたとてつもなく堅固な城だったらしい。本城である桜尾城も含めて「七尾城」という。さらに、この「七尾城」の背後には、嶽尾城(佐方)と海老山城(=五日市城、五日市海老山)があって西北からの敵の侵入を押えていた。

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

うわぁ、なんだかスゴイな。ただの公園じゃないみたいだ。でも、神主が戦なんかするわけないじゃん。弱いから頑丈な城に入ってるのか。

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ミル

いや、そうでもない。神主だからといって単に神事を取り仕切っているだけの人じゃない。宮島で学んだことを、まったく覚えていないのね、君は。

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

ミルがちっとも更新しないから、古い記事なんて覚えてない……。

藤原親実は藤原道長の子孫。いかにも公家って感じだが、歴とした関東御家人。神主にして安芸守護という身分だった。ともあれ、世の中が平和に治っていれば、海上要塞にもその使い道はあまりない。問題が起こるのは、もっと先のこと。

安芸武田氏の侵攻

大内庭園の人々にとって、毎度お騒がせな安芸武田氏。彼らは桓武平氏だらけの鎌倉幕府の中で稀少な存在である源姓で、のちに武田信玄なんかが出る甲斐源氏の先祖から分れ出た。要するに名門。なんかどっかで聞いたことがあると感じていた新羅三郎義光という人が甲斐武田氏の祖ということです。武田と名乗ったのはその子孫が甲斐国に流され、のちに武田庄というところに土着したからで、いわゆる名字の地です。

先祖・新羅三郎義光の孫にあたる信義が源平合戦真っ只中の頃の人で、同族意識から(?)源頼朝に協力して平家打倒で活躍しました。それなのに、理由不明だけど、頼朝にあらぬ疑いをかけられたらしい。その四男・信光だけはなぜか頼朝に気に入られ、三人の兄が全員処罰されるなど不遇が続くこの家で、一人輝いていた。

武田家のあれこれはこれ以上混乱するのでやめてください、ということで、頼朝死後も、鎌倉幕府内で手柄をたてた武田家はそのご褒美として、甲斐国に加えて安芸国の守護職にも任命された。何というか、とんでもない飛び地である。あまりにも遠すぎて面倒だったようで、安芸国のことは守護代に丸投げしていたが、本拠地の整備はキチンと行なった。「銀山城」ってよく出てくるアソコ。でもって、やがて兄に甲斐守護、弟に安芸守護と息子二人に分割相続させた当主がでたため、守護代ではなく、守護様その人がきちんと赴任してきて、以来その子孫は城内に住み着いた。

ああ、疲れた……。「公園」の説明がどれだけメンドーなことか。幕府が鎌倉から室町に移る頃、その前には当然、南北朝のゴタゴタがあったわけで。武田氏はやはり源氏つながりなのか、足利のために多くの手柄を立てた。甲斐国がどうなったかは知らないけど、武田信玄まで続いて行くんだから、そっちはそっちで安泰だったんだろう。安芸武田のほうも活躍した分お礼ははずんでくれると思って期待したら、安芸国一国の収入をあげる、と言われた。なにやら知行国制みたいだ。

だが、この国一つ分くれる、というのが大問題だった。つまり、安芸国には厳島神社神領という神聖不可侵な領域が大量にあり、神社の領域に手は出せないのである。ガッカリ……たいしたことないではないか、と大人しくしていれば何も起らないのだけど、「将軍様から安芸国一国の収入をくれると言わた。ちゃんと『お墨付き』ももらったからそう思え」と、武田家は厳島神社の神領をも畏れず強引に我が物にしようとした。

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五郎

いやらしい連中だな。神社の領地に手を出すなんて。

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ミル

(似たようなことをするであろう君のこの発言にはノーコメント)

驚いたのは神社の人たちだった。これほどの規模の由緒ある神社なのだ。維持管理費、人件費もたいへんなのに、ヘンテコな命令が出たせいで、武家にもっていかれたら単に迷惑なだけでなく、明日から食うにも困る。そこで、神社の人々は話し合い、武田家の横暴に対して徹底抗戦することを決定した。武田家側は神社の連中なんかがナニサマのつもりだ、と髙をくくったようだ。

ちょっと考えればわかることだけれど、寺院の人たちも武装化して戦い、朝廷を困らせていたくらいだから、神社の人々だって同じだ。しかも、そもそもはこの神主様、関東御家人だったではないですか!

武田家側が所詮宗教家と思って侮ったのか、あるいは、厳島神社側がご神霊に守られていたからなのか、真偽不明だけど、三千人もの大軍で押し寄せた武田軍はわずか数百人の神社の人たちを倒せなかった。この時、神社側が楯籠もり守っていたのが、この桜尾城である。詳細は面倒なので、直接図書館の郷土史コーナーに向かうことをオススメするけど、要するに六つもの支城に守られた難攻不落の海上要塞だから、落とすことができなかった。

神社側の総大将・佐伯親春という神官が軍略に通じていて、七つの城を自在に操って防ぎ守ったから、守護側の軍勢は大軍を七つに分けなければならず、力攻めができなかった。さらに、最後は神の祟りみたいに雷が鳴り響いたから、兵士らは恐れおののき、武田軍は戦意喪失して撤退していった……。というようなことが、郷土史の本に書いてある。

神様の祟りがあったかどうかは別として、桜尾城含む七尾城がとても防御に優れた城砦群だったことは間違いない。いっぽう、攻撃側・武田方の城について、同じご本にはだいたいつぎのようなことが書いてあった。

昔、五日市は海中にあった。その頃、五日市の奥地は「石道街道」といわれた荒れ果てた平野で、古来よりよく戦場となった。だから、じつに多くの城が築かれてきた(うち一つは先に出てきた七尾城の背後にあたる海老山城)。鈴ヶ嶺連峰だけでも十をくだらぬ城があり、その反対側の山々まで含めるとすさまじい数となる。それらの数ある城の中で「本城」にあたるのが釈迦岳城(=石道本城)で、武田家が根拠地としていたのはココだった。後ろには銀山城後方を守る伴城などが続く。

郷土史の先生は、厳島神社神領に関わる戦いを「神領争奪戦」と呼び、とくに嘉吉元年 (1441) に武田信賢が桜尾城に押し寄せたこの時の戦いを「神領争奪七尾血戦」と書いておられる。(以上、参照:『厳島大合戦』)

数年後。世の中の流れ的には、嘉吉の変で将軍・足利義教が弑逆された時、将軍を手に掛けた赤松家は幕府に討伐されてしまったが、その際、武田家はまたしても手柄を立てた。そこで、もう一度例の、「安芸国一国の収入をあげる」ということについて将軍に確認し、再度お墨付きをもらった。そして、懲りもせず、早速再びの神領侵攻を開始した。神社側は前回と同じ佐伯神官が総大将。またしてもわずかな人数を七つの城にわけて徹底抗戦をした。この時の武田軍は五千もの大軍で、その上、海からも攻撃すべく数百の船も準備していた。今回は神社側も防ぎきれないであろうと思いきや、そこへ颯爽と現われたのがわれらが闢雲寺さまであった。神社側が援軍として呼んだのである。

二万もの援軍がやって来たのをみて、さすがの武田信賢もあきらめて退却した。しかし、大内軍はなおも追って来て、己斐城から草津城まで次々と落とし、本拠の銀山域にも迫る勢いだった。ただ、武田の本拠地も名だたる堅城だから、それ以上はやめて、戻っていった。救援に来たというのは名目で、元より境を接しお互いに利害衝突関係にある相手。いずれは本格決戦となるであろう予兆。

武田信賢という人もしつこい人物だ。どうあっても厳島神領を手に入れるという願望を捨てない。この間に将軍はまた代替わりして、八代将軍・義政となり、またしても新しく神領をくれるお墨付きをもらった。三回目ともなると、さすがに学習機能が働いたらしく、いきなり力攻めで七尾城に向かわず、配下の国人勢力を使い、あちこちの神領を個別に横領した(佐東、高田、賀茂、豊田などの)。こんなことは、そこらの武家勢力が普通にやっていることで、なんで今まで気が付かなかっただろう、って感じもするけど、わずかな期間に時代が流れ、それだけ配下の国人たちが力をつけてきたということでもある。こうなると、神社側もお決まりの神がかり的海上要塞徹底抗戦が使えない。神主家当主・藤原教親は幕府にこの事態を訴えることにした。だが、そもそもお墨付き発行元である幕府が助けてくれるはずがない。そればかりか、「すべての神領を武田家に与える」とか言いだした(苦情を言いに行って、なんでこうなったのかわからないけど)。

藤原教親は、さらなる横暴に備えて防衛するため、五日市に城を築いた。武田信賢の父・信繁も、自ら釈迦岳に石内本城(石道本城とは違うのか?)を築き、五日市城を攻めた。教親はまたしても大内家に助けを求め、二万の援軍がやってきたから、武田軍は城を捨てて退却した。

神主家の内紛と大内氏の支配

さしもしつこい武田家だったが、やがて家自身がガタガタになり、神領にちょっかいを出すどころではなくなった。その頃には、武田家ならずとも、安芸国の武家が神領を侵すことは普通になった。神主家でも神事を執り行っているだけでは身を守れなくなって、例の桜尾城に楯籠もって武装した。

周防にいた足利義稙が上洛のために山口を発った永正五年(1508)、付き従った中国、九州の人々の中に、神主家当主・藤原興親の姿もあった。「興」の字がついていることから、大内家当主との関係もわかるというもの。しかし、この興親、京都で客死してしまった。

ここへ来て、周辺の武家たちが神領を侵すもなにも、神主家そのものがガタガタとなり、相続争いを始めてしまった。というようなことで、厳島神領争奪戦は、周辺の人々ではなく、神主家当事者へと移っていった。

神主家は真っ二つになった。神主家の一族・小方加賀守派と藤原教親の甥・友田上野介興藤派である。小方派は藤掛城を拠点とし、新里若狭(地元の武家)などが援助した。いっぽう、友田派は、桜尾城、五日市城を本拠地として、宍戸治部小輔らが援助した。このドサクサに紛れて、なんと大内義興が厳島神領に侵攻し、桜尾、己斐、石道の諸城を占拠。城番を置いて完全に支配地化してしまった。

これまで散々武田家の「横暴」から神主家を守ってくれていたはずの大内家である。藤原「教」親も、「興」親も、友田「興」藤さえも、どうやら大内家当主と関係がありそうだし、揉め事が始まったら、調停くらいしてくれてもいいのに。要するに皆、考えることは同じで、神主家のためというよりも、神領の支配権が欲しいだけなのか、とガッカリする。何なら武田家と神主家が争っていた時、助けたりせず、ついでに侵攻してしまってもよかったのに。

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五郎

なんか先代さまのことをワルモノっぽく書いていて気に入らないな。

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ミル

これが地元の方々のお考えに近いと思って。

この展開に腹を立てた武田家は、あれだけ戦ってきた神主家の関係者である、友田興藤と手を組むことにした。武田家の協力を得ることができて勢いづいた興藤は、反撃を開始。大永三年(1523) 閏四月、桜尾城に楯籠もって、大内軍を迎え撃った。内輪もめの最中にちゃっかりいただくことができた桜尾城だが、例によって敵に回すと難攻不落なので、さしもの大内家でもすぐには落とせなかった。ただし、七つの城をガッチリ押さえていたときとは違う上、身内同士で争っているくらいだし、しょせん大国には敵わない。やがては城を落とされてしまった。

義興の死によって、もう一度叛旗を翻す機会がやって来たが、つぎの義隆の代に神主家は完全に倒されてしまった。その後しばらく、大内家の支配が続き、厳島神社にも桜尾城にも平穏な日々が流れて行った。

しかし、大内家の滅亡後、叛乱家臣が立てた傀儡当主政権と毛利家との間にかの有名な厳島合戦が起り、またしてもこの城は合戦の舞台となってしまうのである。

現在の桜尾城跡

どこの城跡もそうであるように、近代化の波が押し寄せると、不要になった城跡は現在の町並みの中に埋もれていく。中世山城は人里離れた山の中にある場合、そのまま荒れるに任せつつ手つかずの場合もあるけれど、桜尾城は町中にある。完全に掘り崩して宅地にする選択肢もあったかも知れないが、庶民の憩いの場所である公園に生まれ変わらせることによって、「かつてここに城があった」という事実のみが伝えられることになった。

桂公園という名前になっているのは、毛利氏の城となってから城主となった桂氏の子孫、桂さんが寄贈なさったから、ということなのだが、毛利氏が防長に追い出されてからここらは支配領域から離れたはずで、なにゆえに、毛利家臣のご子孫が寄贈なさった(つまり所有されておられた)のかが分らなくて困っている。近世以降の歴史をしらぬゆえである。

桜尾城跡・みどころ

現在、城跡は桂公園という公園になっており、当時の面影はない。どこかにかすかにその遺構がのこっているのかもしれないが、素人目線では全く不明。公園内、および入り口に石碑がある以外、何も見付けられなかった。

ただし、地元郷土史の先生からも、何もないよ、とのお言葉を頂戴している。これは事実まったく何もないという意味なのか、歴史愛好家として失われた城跡を惜しむゆえにのお言葉なのかわからず、判断はつかない。ただし、公園としての整備が完璧であるため、見た目には本当に「何もない」。鏡山城のように、公園化されても、城跡も保存してその一部とする、というような構想はなかったと思われる。

それでも、以前は遠目に見れば、何となく城跡的な姿をしていたらしく、展望のよいところから見下ろすとそれと分ったと地元の方から見せていただいた往時の写真で確認している。現在は遠目に見てもほとんどただの公園である。しかし、それだけ公園としての整備が整っているということなので、花見やハイキングなど、地元の方々に愛される新たな名所として生まれ変わったといえる。

桜尾城跡石碑

桜尾城跡・説明石碑

公園入口にある石碑です。とても立派なもので、桜尾城の歴史について記されています。ここがかつて城跡であったことを証明する大切な石碑です。コチラの碑文を文字起こしして、現在の長たらしい説明文を削除しようと思いますが、かなりの長文ゆえ、しばらくお待ちくださいませ。

「桂公園碑」

桜尾城跡「桂公園碑」

公園の中には、「桂公園碑」という立派な石碑が立っております。裏側には「大正二年一月建之」とあります。この地を寄贈した桂さんのことなどの由来はこの石碑に書かれておりますが、難しくて読めません。しかし、大正時代に公園化されたということははっきりわかりますね。

桜尾城跡(広島県廿日市市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒738-0005 広島県廿日市市桜尾本町 11
※Googlemap にあった住所です。

アクセス

廿日市駅から徒歩。歩くと 10 分以上かかります。面倒な方はタクシーで。一瞬です。

参考文献:『厳島大合戦』ほか(※整理中)

桜尾城跡(広島県廿日市市)について:まとめ & 感想

桜尾城跡(広島県廿日市市)・まとめ

  1. 鎌倉幕府により、厳島神主家に任命された藤原姓神主家の居城
  2. 厳島神社神領を武士たちの横領行為などから守るためには、神社も武装する必要があった
  3. 安芸武田氏は何度も神領を侵そうとし、神社側と戦闘になったが、撃退された
  4. のちに、神主家に家督相続争いが勃発すると、大国大内氏が介入し、この城を自らのものとした
  5. 大内氏と神主家とは戦闘状態となり、長いこと決着がつかなかったが、やがては大内氏の勝利に終わり、城は奪われてしまった
  6. 大内氏が滅亡すると、城は叛乱家臣たちが樹立した政権のものとなったが、最初叛乱者に加担していた毛利元就は、のちに彼らと決別してこの城を奪う
  7. 厳島合戦で勝利した毛利元就はこの城で凱旋式を行なった。城が完全に毛利家のものとなったことはいうまでもない
  8. 近代となり、城跡はかつて毛利氏の時代に城主をつとめていた桂氏のご子孫によって寄贈され、同氏の名前をとって「桂公園」に生まれ変わった。現在は廿日市市民の憩いの場として親しまれている

あれやこれやと史料に何度も登場し、どれほど浪漫かきたてられるかわからない城跡です。現在は公園となっており、遺構といえるようなものがあるのかないのかすらわかりません。しかし、地元の人々に親しまれる場所となっていることで、元桜尾城も本望でしょう。平和な時代となったからこそ、合戦の舞台となる物騒な城跡から、長閑な公園となったのですから。

現状、ここが城跡でした、ということを知ることしか無理な気がします。たとえば、かつては付近の古戦場跡などから、城跡を見下ろすことができました。公園化されたのちのことです。ですが、公園の整備が進むにつれて、それらの痕跡は消えたようです(こんもりとした山って感じに見えていた)。加えて、廿日市駅よりほど近い所という地理的位置から考えても分る通り、都市化が進めば当然公園も町の中に埋もれていきます。さらに、古戦場跡なども訪れる方が少なく、整備が間に合わないことから樹木に覆われ、展望がきかなくなってきたのです。

というようなことで、あれ? まったく普通の公園じゃないか……という感想になってしまうのは仕方がないことです。さらに、桜尾城を見下ろす高台に陣を取り云々のような古戦場跡の「展望台はこちら」みたいな場所に行っても、そもそもその「展望台」が倒木に阻まれて先へ進めないくらい荒廃しておりました。ただし、地元のかたにお伺いしたところ、倒木を跨ぎ越して先へ進んだとしても、樹木に覆われ何も見えないそうです。そもそもみえるのは町並みに埋もれた公園ですし。

残念ではありますが、時代の流れです。公園に行ってみたところで、歴史に思いを馳せることは無理でしたが、想像力たくましい方ならば、それも可能かもしれません。

こんな方におすすめ

  • 歴史上著名な城を巡っている方(城跡、公園化されたり、石碑立ってるだけでもOKの方)
  • 厳島神社に関連するところならなんでも行きたい方(神社好きな方が城跡に関心あるかどうかわかりませんが)

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

広くて気持ちいい公園だね!

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

(君とこの公園との関わりをどう説明したらいいのか、本当に悩ましいよ)

五郎イメージ画像(背景あり)
五郎とミルの部屋

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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