
サビエル記念公園・基本情報
所在地 〒753-0000 山口市金古曽町4
サビエル記念公園・歴史
天文十八年 (1549)、キリスト教を布教するために鹿児島に上陸したフランシスコ・サビエルは、翌年、京都に行く途中山口に立ち寄った。天文二十年(1551) 四月、再び山口を訪れ、大内義隆から布教の許可を得ることができた。義隆はサビエルの住居として、廃寺となっていた寺を与え、サビエルはそこに居住して、布教活動を行なった。
その後、サビエルは弟子のトレルスに山口でのことを任せて、自身は豊後国に向かった。その後、山口では義隆に反対する家臣らの叛乱が起り、義隆は命を落とした。けれども、家臣らに擁立された大友義鎮の弟・晴英も、引き続きトレルスらの布教活動を許可した。その時「大道寺」という寺院を与えられたので、トレルスらはそれを教会として使用し、布教活動を行なったという。熱心な布教活動により、多くの信者を得、日本で初めてのクリスマスが行なわれるなど非常に賑わった。
毛利家の防長経略に先立ち、内藤隆世と杉重輔との同士討ちが起り、山口の町は焼けてしまったが、その時、この教会も焼失してしまい、トレルスらは山口を離れて豊後国に移った。
明治二十二年(1889) 、山口カトリック教会に赴任したビリヨン神父は、かつての大道寺跡地がどこにあったのか、熱心に調査を続け、山口の古地図からその位置を特定したが、そこは軍用地となってしまっていたので、その付近にあたる現在の公園の地を購入した。(参照:案内看板、『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』)
なお、『山口市史 史料編 大内文化』によれば、発掘調査などの結果からも、この公園が、かつての大道寺跡地であると確定することは難しく、伝承地としての扱いとなっている。⇒ 関連記事:サビエル記念聖堂
サビエル記念公園・みどころ
サビエルの記念碑、ビリヨン神父の像、大内義長の裁許状がある。
サビエルの記念碑
大正十五年(1936)十月十六日、建立。高さは約十メートルもある。花崗岩に銅板のサビエル肖像がはめ込まれている。建立当時のものは第二次世界大戦中に供出されてしまい、現在のものは昭和二十四年(1949)サビエルが山口に来て四百年という記念の年に、サビエル遺跡顕彰委員会の委託で彫刻家・河内山賢祐氏が作成したもの。
ビリヨン神父の像
アマトリウス・ビリヨン神父は、フランス人。サビエルの事蹟を調べ、特に「大道寺」がどこにあったのか調査した人として有名。この場所がその跡地にあたるとの結論に達し、有志の方々の協力を得てこの土地を買い求めたという。中原中也の父・政熊も協力者のひとりであった。
この像は昭和三年(1928)に造られたが、やはり戦時中に供出されてしまい、現在のものは昭和二十七年の再建物。
大内義長の裁許状
サビエルが山口を去った後、弟子・トルレス神父が後のことを託された。サビエルに布教の許可を与えた大内義隆は政変により命を落としたが、その後当主の座についた大友晴英(大内義長)もトレルスに対して布教を許可した。その裁許状を銅板に写したもの。同じものが、サビエル記念公園のところにもあった。
『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』に、銅板文字の書き下し文を載せてくださってあった。「周防国大内県大道の事 西域より来朝の僧 仏法紹隆のため 彼寺社を創建すべき由 請い望むの旨に任せ 裁許せしむの状 件の如し 天文廿一年八月廿八日」
アクセス
今八幡宮から自衛隊駐屯地があるほうに向かってひたすら歩いて行きます。自衛隊駐屯地よりなお先にあります。
参照文献:大内文化探訪会様『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』、『山口市史 史料編 大内文化』、案内看板