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善生寺(山口市古熊)

2020年10月12日

山門の写真

善生寺・基本情報

住所 〒753-0031 山口市古熊3丁目7−1
電話 083-922-5485
寺号・山号・本尊 道衆山・善生寺・阿彌陀如来
宗派 浄土宗
最寄り駅 上山口駅から徒歩5分

善生寺・歴史

善生寺庭園が有名で、「名勝」指定されている寺院。庭園は発掘調査によって整備されたもので、14世紀末頃につくられたものであることが分かっている。しかし、雪舟が造ったという確証はなく、あくまで伝承地という扱いとなる。ゆえに、説明看板にも「伝」雪舟作と書かれている。

善生寺の境内は元は大内氏重臣・内藤興盛の菩提寺・西方寺があった場所。江戸時代、そこに周慶寺が移築されたが、明治時代に廃寺となり、その跡地に移ってきたのが現在の善生寺である。

三つもの寺院が関係し、ややこしい変遷を経て現在に至っている。説明看板が見付けられなかったので、『趣味の山口』と『山口県寺院沿革史』 というご本で調べたところによると、およそつぎのような感じ。

最初にこの場所にあったのは、西方寺(西法寺と書くこともあった)という寺院であった。西方寺は、古熊飯ノ山麓にあった浄土宗寺院で、開山は盛譽上人。内藤興盛の菩提寺として知られる。創建は弘長元年(1261)とされているけれども、その由来は寺院を建立した時、土の中からでてきた金鼓による。そこに「弘長元年」とあったためだが、伝説の類で実際の創建年ではないと考えられている。大内家の家臣・内藤興盛が念仏堂を建てたり、土地の寄進をしたりした。天文二十二年、興盛が亡くなると、この寺に葬り、西法寺殿前野州太守法誉智覚大禅定門と法名した。

慶長九年(1604)閏八月朔日、毛利輝元の側室・兒玉氏が亡くなり、西方寺に葬られた。法名を快楽院周慶大姉という。同じ年、その菩提を弔うため、萩に周慶寺が建てられた。寛文四年(1664)、周慶寺は毛利秀就の室・德川氏の菩提寺となり、寺号は廃された。そこで、西方寺を真如山周慶寺と名を改めた。これ以後、飯ノ山は周慶寺山、門前の橋は周慶寺橋と呼ばれるようになったという。後山には内藤興盛の墓、その上手に兒玉氏、毛利元康室・吉見氏の墓があった(明治時代に廃寺となると、兒玉氏の墓は香山墓所に改葬された)。

つまり、毛利輝元の奥方は、西方寺に葬られたけれど、ほかに萩の地にも周慶寺という菩提寺があった。ところが、萩の周慶寺が寺号を廃止されて毛利秀就奥方の菩提寺となったため、周慶寺という名前を西方寺に持って来た。ゆえに、西方寺は周慶寺と名前を変えた。寺院の名前は変ったけれど、内藤興盛の墓と輝元夫人の墓は同じ場所に残った。ところが、この周慶寺が明治時代に廃寺となってしまった。その跡地に、現在の善生寺が移転してきたのである。

では、移って来た善生寺はどんな寺院であったのか?

元々は山口松木町の後面にあって、西久寺といった。創建時期は不明。天正年間、明僧・雲山活空が来住した。明・万歴三年、仁順王后が亡くなった時、その冥福のため、純金九品曼陀羅一幅、弥勒絵図一幅、地蔵三尊一幅が贈られたので、曼陀羅寺と寺号を改めた。慶長年間、賜紫声誉の時、今市に移った。のちに善生寺と寺号が変ったが、その年代ははっきりしない。

檀林であったことから、総本山・知恩院から幕府に願い出があり、一国一寺の禄所として、周防国智恩院派八十八ヶ寺のトップとなったというから、かなりの格式ある寺院だったのだろう。「住持出世の時は綸旨女房奉書を賜はった」とある。

天保十三年七月十三日の火災により、開山・声誉上人が建立して以来の記録はすべて失われ、その後堂宇が再建されることもなかった。明治時代となり、古熊の周慶寺が廃寺となったため、明治三年(1870)、その跡地に移った。

というようなことで、この地にはかつて、西方寺、周慶寺という寺院が存在したことがあり、現在の善生寺はそれらの寺院の歴史をも引き継いでいるのである。周慶寺にあった後陽成天皇の宸筆、内藤興盛の画像が今に伝わる。庭園も、室町時代の作だということは明らかになっているから、周慶寺や善生寺ではなく、西方寺の時代に造園されたものだろう。

『山口県寺院沿革史』には、常栄寺の庭園を表庭、善生寺の庭園を裏庭として築庭したと伝えられているとあるから、常栄寺(つまり当時は妙喜寺)とこちらとで、同じような時期に建てられたものなのだろう。

善生寺・みどころ

当然、伝雪舟庭園となる。

伝・雪舟庭園

善生寺庭園説明看板の写真

「池泉観賞式庭園」と説明看板にある。これが雪舟庭園として伝えられている出所は、江戸時代の『風土注進案』らしく、「後庭の泉石は西方寺の余波で、雪舟が作った」と書かれているそうだ。つまり江戸時代すでに、なごりの石くらいしかなくなっていたということにもなる。発掘調査の結果、当時の「池泉」は現在の二倍の広さだったことがわかっている。

ミル涙イメージ画像
ミル

なんで看板の写真しかないか、って? それはお庭を見ていないからだよ。

畠山義豊イメージ画像
次郎

入り口わからなくて迷子になった、ってやつね。コソコソしないで、お寺の人に聞いてみればよかったのに。

ミル涙イメージ画像
ミル

でもさ、常栄寺もメンテナンスで水抜かれたじゃん? この時は本当に戸が閉まってたんだよ。きっと何か特別なことをやっていたんだと思ふ。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ガイドさんのお話だと、いつでも誰でも見られるようになっていると。戸を開けて声をかければ入れたはずだ。ミルがトロいから、せっかくの機会をムダにした。またしても看板だけで帰ったんだ!

本堂

本堂の写真

石段

石段の写真

とても長い石段が見えているが、車で行くとこの石段は関係ない。

善生寺写真集

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。上山口駅から徒歩5分とありますので、歩けます。

参照文献:防長史談会様編『趣味の山口』、可児茂公先生『山口県寺院沿革史』いずれもマツノ書店様復刻版

五郎通常イメージ画像
五郎

俺はミルみたくトロくないから、つぎはガイドさんと一緒に電車で行くよ。

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