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天神本地観音堂(防府市、満願寺)

2022年10月3日

満願寺・「観音十四番札所」看板

山口県防府市の満願寺とは?

満願寺は山口県防府市にある真言宗御室派の寺院です。毛利家の祈願所として、元々は根拠地・吉田郡山城内にありました。ことに、毛利元就に深く信仰された寺院として知られており、合戦のたびに戦勝祈願の祈禱を行なっていたといいます。最初は伝法山阿弥陀院という名称でしたが、元就が毎度の合戦で勝利を得られたことから「祈願満足」の意味で、満願寺と寺号を改めました。

輝元の代、毛利家が防長の地に移った時、寺院も萩に移転しました。その後も毛利家祈願所として高い地位にありました。明治維新後、毛利本家が防府に移った際に、寺院も移転。その時、廃寺となっていた末寺の霊台寺、天満宮内にあった満福寺の二寺を統合。それゆえに、現在防府天満宮内にある「天神本地観音堂」は満願寺に所属する境外仏堂となっています。

満願寺・基本情報

住所 〒747-0031 防府市迫戸町11−1
山号・寺号・本尊 霊台山・満願密寺・ 千手観音
宗派 真言宗御室派
ホームページ https://www.manganmitsuji.com/

満願寺・歴史

防府天満宮の中に、毛利元就が防長経略の際に拠点を置いた場所、「大専坊」跡地がある。名前からわかるように、これは寺院。明治維新前までは、天満宮の中に、九つの社坊が立ち並んでいたという。それらの総号を酒垂山満福寺といって、大専坊はその別当だった。(参照:防府天満宮HP)

『山口県寺院沿革史』の「満願寺」によれば、だいたいつぎのようなことが書いてある(※原文は文語調、「今」とあるのはこの本が書かれた時点のことです)。

「古くから毛利家の祈願所であった。年代ははわからないが、伝法山阿弥陀院といって、安芸国吉田郡山城内に創建された。元就公以来、唯一の御祈願所として、代々信仰され、保護されてきた。特に元就公は出征のたびに、戦勝祈禱を行った。百戦百勝の大功を収められたのは、ひとえに仏の加護であるとの信念から、「祈願満足」の御意を表されて、阿弥陀院の寺号を満願寺と改められた。

元就公の願文に曰く
一、日々不動護摩供を行なうのは天下泰平と国家安全のため
一、日々光明真言を唱えるのは戦死者や亡諸霊の菩提を弔うため
一、これらを怠ることなく行なうこと

開山覚秀、二世真澄、三世円海、四世真秀、五世栄秀、六世真勢、七世秀雅、八世宗秀、 九世玄仙、十世玄秀、 十一世良件が、安芸吉田における歴代の法印であると伝わる。十二世宥英の代、毛利輝元公が長州荻築城の際、慶長十年(1605)、指月城二郭内に移った。宥英は元和九(1623)年五月十八日に亡くなった。十三世宥雄は事相教相を兼綜する高僧であったから、防長の真言一派は悉く当寺を以て本流とすることとなった。その後、十四世宥後の代、防長の宗門の貫主として末派を管理するようにと命じられ、十五世宥興の代に大僧正に任じられたという。

三十一世文応僧正まで絶えることなく今に至る。明治初年までは八十余ヶ寺の末寺があり、また、京都本寺内の一寺を当寺住職が兼務したので、御室の別院ともいわれた。明治維新後、毛利家御祈願所ではなくなってからも、毛利家の御安泰は今なお、当寺が日々怠ることなく祈禱をつとめている。大正元年(1912)、三十一世文慶は萩城内から防府町宮市松崎神社の西北側山麓にある霊台寺という末寺が廃寺になっていたのを合併してこの地に移転した。よって山号を霊台山と改めた。

霊台寺は本尊地蔵菩薩、創立年は不明である。初め周防大島郡八代村に創建されて、長吉寺といい、宝永六年(1709)年八月、今の地に移転し寺号を霊台寺と改めたという。大正元年(1912)、牧野実禅の代に、廃寺と同時に満願寺に合併された。防府町寺の桜として名所だった。

三十二世諦巌の代、昭和二年 (1927)三月五日夜、火災のため、経蔵、山門、物置以外全焼した。直ちに再建に着手して昭和三(1928)年起工。昭和三年十二月二十三日に上棟式を挙げ、昭和五年(1930)に落成した。諦巌師がこの不況の時に当たってご苦労なさったことは言語に尽しがたい。実に仏力の加護によるものである。仏具仏像は火の周りが早くて持ち出すことができず焼失してしまったが、幸いにして、経蔵に保管していた寺宝は残った。毛利家古文書は列挙にいとまがない。櫃に十数通を一巻とするものが三十余ある。

本堂 、後堂は昭和四年(1929)再建。庫裡は昭和五年(1930)再建、仏具そのた工費二万余を要した。 経蔵、本門(小門二つ付)、 物置の三棟は年代不明。境内に稲荷堂があり、天満宮内の観音堂は当寺の受持仏堂である。桜が数十本あって、花の時期は防府名所の一つである。

 境外仏堂: 元霊台寺観音堂(即ち天満宮内)。向拝あり、建立年代不明。」

まとめれば、こんな感じ・・

満願寺の変遷

元々毛利元就ゆかりの満願寺(初名は阿弥陀寺)であったものが、毛利家の防長移転とともに萩に移る。大正年間に萩から防府に引っ越し。その際、末寺であった霊台寺(廃寺)を合併してその場所に移り、霊台山と山号を変更した。

満願寺跡地(吉田郡山城跡案内看板)

このように、吉田郡山城跡には、きちんと満願寺跡地も残されています。黄色枠で囲った部分です。毛利家代々の祈願所、特に毛利元就に深く信仰されただけあって、案内看板の地図を見ただけでも広大な敷地であることがわかりますよね。萩に引っ越ししてからも、城内に移築されたってことなので、どれだけ毛利家と密接な関係にあった寺院さまかということがよくわかります。
※吉田郡山城跡にあった案内図看板の一部をお借りしています。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ここまで調べたところで、満願寺さまには素敵なホームページがあることを知ったの。そこで、上に書いたことを確認したけれど、『満願寺の変遷』内については特に間違ってはいなかった。

毛利元就公願文の出所とか、歴代ご住職のお名前とか、本に典拠がないからわからないのだけど、ホームページにもお名前が出ている方がおられ(玄仙さまのお名前あり。全員書いてあるわけではないので、すべては調べられない)るし、そもそもご本はインチキではないはずなので、細かい名前とかは気にしないこと、ってくらい。

しかし、どうしてもわからないのが、移転先となった霊台寺と天満宮にあった満福寺の関係。満願寺と満福寺の名前が似ていることもややこしくなっている原因だけれど、現在も天満宮内に残っている観音堂は、満福寺が廃寺となったので霊台寺(現満願寺)の抱えになった、とどこかで見た(どこで見たか思い出せなくて気持ち悪い)。もともとは霊台寺の抱えになっていて、そこが廃寺となってしまった関係で、抱えだった観音堂ごと満願寺の所属になった、というような理解でよいのだろうか? 『寺院沿革史』には、「元霊台寺観音堂(即ち天満宮内)」とさらりと書いてあるけど。

満願寺さまのホームページにつぎのようにあります。

元々は毛利家の祈願寺でしたので、毛利本家が防府に移転に伴い満願寺末寺の霊台寺に満願寺として参りました。その時霊台寺と防府天満宮に有った満福密寺を統括して現在に至ります。それ以降 山号を伝法山を霊台山に、寺名を満願寺を満願密寺としました。(法人名は満願寺)
出典:満願寺 HP https://www.manganmitsuji.com/ (一部引用)

ミル吹き出し用イメージ画像
ミル

これをお読みする限り、霊台寺は満願寺の末寺だったから、霊台寺を吸収してその寺地に移転した、って感じかな? 満願寺と満福密寺の関係はわからないけれど、二つの寺院は同時に、満願寺さまに統合された、ということになります。霊台寺の名前を山号として、満福密寺の名前を満願寺の寺号に「密」の字を加えることで残して差し上げたんですね。

満願寺・みどころ

天満宮の中に観音堂があった、と単にそれだけで帰ってしまう人がいそうだけれど、満願寺は観音堂だけの寺院ではないので、気を付けましょう。天満宮に説明看板がある、防府市指定文化財の「金剛毘盧遮那仏坐像」と「金銅菩薩形立像」も、天満宮ではなく、満願寺に保管されている。

移転先で山号にもなっている霊台寺が桜の名所として有名だったとあるから、満開の季節に訪れたら素晴らしいと思うのである。

天神本地観音堂

満願寺・天神本地観音堂

とても古い観音堂で説明看板によると、今から千数百年前の創建。防府天満宮の「本地仏堂」として信仰を集めた。天満宮に来た人は普通に天神様と観音様を一緒にお参りしていたのである。「管公の母君」と「管公ご自身が厚く仏教に帰依さられ特に観音を信仰されたのによる」ものだと説明がある。

こちらは「周防国三十三観音霊場」の第二十四番で本尊は十一面観音菩薩。この「周防国三十三番観音巡礼二十四番札所」が定められたのは大内弘世代である(これも、典拠がわからなくなって気持ち悪い。同じく典拠がわからなくなっているけど、この観音堂を建てたのは重源であると伝えられている)。

日切地蔵尊

満願寺・日切地蔵尊

南無日切地蔵尊、南無大師遍昭金剛と書いてある。「南無」はオンリーユーだって石川先生の実況中継で習った。お地蔵様、あなただけをたよりにします、という意味。で、「遍昭金剛」というのは弘法大師さまのことです。なるほど、真言宗ですね(ちなみに、こちらも防府天満宮の中にありました)。

満願寺(山口県防府市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

満願寺・所在地 〒747-0031 防府市迫戸町11−1
満願寺・天神本地観音堂 〒747-0029 防府市松崎町14−1

アクセス

天神本地観音堂しか辿り着けていませんが、防府駅からタクシーを使いました。防府市まるっとタクシー貸切り観光のようなことをしたためです。防府駅から普通に歩けます。もちろん、バスも出ておりますし、防府駅からタクシーでも問題はないです。要は歩きたいかあまり歩きたくないか、の問題です。

住所も違いますし、縮小された地図を見ると、天神本地観音堂がある防府天満宮と満願寺とは別の場所、という感覚ですが、じつはこれ、繋がっています(満願寺に辿り着けていない状態で書いておりますが)。防府天満宮の敷地がとてつもなく広大なので、天神本地観音堂と満願寺は離れていますが、防府天満宮の「茶釜塚」辺りまで行くと、そのすぐ後ろが満願寺です。ただし、航空写真を見てみると茶釜塚の裏手は山です。どうりですぐ近くまで行っていたのに、寺院を見落としたわけです。山を越えて行くことができるのかどうかは不明ですし、そもそも航空写真からも地図からも道がよくわからないのですが、防府駅から徒歩10分(寺院さま HP)とあるので、徒歩圏内です。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、満願密寺様HP、防府天満宮様HP

満願寺(山口県防府市)について:まとめ & 感想

満願寺(山口県防府市)・まとめ

  1. 満願寺は防府市にある真言宗御室派の寺院
  2. 毛利家代々の祈願所で、特に毛利元就に深く信仰され、所在地も吉田郡山城内だった
  3. 元の寺号は伝法山阿弥陀院といったが、出陣のたびに戦勝祈願の祈禱をしていた元就が、毎回勝利を得られたことから「祈願満足」の意味で満願寺と寺号を変更した
  4. 毛利家が萩に移ると、満願寺もその城内に移転した
  5. その後も明治維新に至るまで、毛利家の祈願所として大切にされた
  6. 維新後、毛利本家が防府市に移った際、満願寺もともに移転
  7. 末寺だった霊台寺、天満宮の中にあった満福密寺とを合併するかたちで、霊台寺の寺地に移った。山号を「霊台」山、寺号を満願「密」寺と改め、統括した二寺の歴史も引き継いだ
  8. 天満宮内にあった天神本地観音堂は、神仏習合していた時代、天満宮の「本地仏堂」だったが、現在は満願寺の境外仏堂である。
  9. 吉田郡山城跡に行くと、現在も「満願寺跡」がある

なかなかどうして、複雑摩訶不思議な神仏習合の結果、なにゆえに天満宮の中に観音堂? とかわけわからない頃に訪問しました。よって、謎なまま帰宅しただけでしたが、現在ならば多少は理解度がマシになっておりますので、満願寺さまに立ち寄らずに帰ってしまったことが非常に悔やまれてなりません。防府に行く機会もなかなか取れない中、現在の満願寺さまより先に、安芸高田市の「跡地」を見ることになりました。

中世山城しか興味ないので、城内に寺院があったということにまず驚きです。ほかの山城がどうだったのかなんて知らないので、フツーに山城跡に寺院があるものだったら無知って恥ずかしいって話にしかならないですが、そもそも大内氏歴代には「住むための城」なんかなく、あるのは館だけだったわけで。城は家臣が詰めるもの、という認識です。そんなところに、寺院などあろうはずがない、という感覚。けれども、吉田郡山城は中世~近世に移行しても存続し続けたゆえにか、戦国期のもうどうせ年がら年中戦争中なので、城の中に住んでおこう、って感覚が芽生えてた模様。だから、目茶苦茶広大で、菩提寺も祈願所も城跡内に……。衝撃でした。

で、あ、満願寺だ! と見付けてしまったわけです。ほかの寺院もあれこれあってさらに驚いたけど。でも「跡地」をみたところで、現在の寺院さまをご訪問したことにはならないので、やはりもう一度防府に行かねばならないのか……と。けれども、跡地見ただけで、毛利家がどれほど満願寺さまを大切にしていたかわかりますし、毛利家の引っ越しとともに常に移転していることも、深い繋がりの表れですね。

こんな方におすすめ

  • 「周防国三十三観音霊場」巡りの方
  • 毛利元就好きな方

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像(怒る)
五郎

結局のところ、ミル自身が、満願寺に行きもせず書いてるじゃないか。

畠山義豊イメージ画像
次郎

ま、いいってこと。行きもせず書いちゃうのがイマドキの民なわけよ(前にもどこかで言ったけど)。それに、観音堂はちゃんと見てるじゃん?

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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