大内教弘 

  • 2020年4月4日
  • 2021年10月13日
  • 列伝
この記事は、下書きを誤って公開してしまった書きかけの項目です。
幼名六郎
父:大内盛見
養父:持世
新介、周防介、左京大夫、大膳大夫、従五位~従四位下、追贈:従三位
周防・長門・豊前・筑前の守護
系図、氷上山所載三重塔婆願文より、教弘法師とあり、剃髪した模様だが、ほかに所見はない。
築山館を造営したため「築山殿」と呼ばれた。

築山館の主・大内教弘

先祖伝説の継承者

謀殺の伝統もここから

面倒な安芸東条

掟書整理

キラリ反骨心

将軍家に嫌われる

嫌いなのは将軍より細川家

史上初・神となった武将

孝行息子の仇討ち

築山大明神

年譜

嘉吉元年七月二十八日、養父・持世が京にて死去。
十月、赤松満祐討伐の際、少弐嘉頼が幕命に従わなかったので、少弐討伐の命が下っており、筑前に渡り嘉頼を攻めた。この日、嘉頼は敗れて肥前平戸に逃れたので、その所頷博多宰府等の地を手に入れた。
十一月、嘉頼は平戸から対馬に渡り、宗氏に援けを求めて筑前に帰還。上松浦にてこれと戦った。嘉頼は敗れて対馬へと敗走した。

二年春、筑前国千手城を援け(古文書に三月十一日付で記述があるものの、詳細は不明)馬見にて戦った(同三月十四日に記述がある)
八月十七日、春日岳にて戦い、敵軍を破った。

文安元年二月二十八日、養父・持世の位牌を高野山・成慶院祀った。
十二月二日、居館出火。

亨徳二年、朝鮮国から通信符を送られる。(毛利家所蔵。印文、通信符の三字、朱文、材銅、側面に朝鮮国賜大内殿通信符、景泰四年七月日造の十八字が彫られている)

三年、吉敷郡上宇野令白石の宝珠山瑞雲寺を再建し、臨済宗であったのを、曹洞宗とし、山号を瑞雲、寺号を龍福と改めた。

長禄元三月、安芸国にて戦う。
二十一日、右田石見守貞俊、安富備後守行恒らが、釈迦岳城を攻め落とした。
五月十二日、己斐城を攻める。右田弘篤、城将・戸坂信成を斬って戦死する。
系図に、芸州銀山城主・武田大膳大夫信賢、と桜尾城主・佐伯左近将監親春が争い合戦に及んだが、親春は教弘に援軍を乞い、親春は娘婿であったため、教弘自身が兵を率いて芸州に向かい、信賢は敗走した、とある。

三年二月七日、教弘、亀童丸、父子、氷上山上宮に参詣。
寛正四年、氷上山興隆寺に三重の塔婆を建立する。
七月、大畠(大畠は当時大島郡だったのか、玖珂郡だったのか詳細は分からない)の守備兵が海賊を討って頚を送って来た。

五年十一月、将軍・義政は僧・承勲を寄こし伊予への出陣を命じた。また、管領・細川勝元も僧・恵鳳を私使としてこれにそえて送って来た。先に、伊予の河野通春が幕命に背いて、宇都宮及び細川の家人らがこれを討って合戦に及んでいたためである。
系図によれば、寛正四年、予州守護河野伊予守通春、と細川武蔵守勝元とが合戦になった。勝元軍が予州に攻め入ったので、通春は教弘に援軍を要請した。教弘は通春の縁者であったので、教弘は快諾し、嫡子・新介を伴い軍艦を準備して、予州に出陣した。細川軍の与党は大敗走を喫したとあるが、よりどころがない。

六年八月二十六日、陶越前太郎弘正(越前守・盛政の子)安芸国府にて戦死。
九月三日、伊予に出軍中であったが、その船中にて病に犯される。将軍は医師を遣わせて治療を施したが、効果はなく、この日、伊予国興居島で亡くなった。
 味方軍は、服喪のために帰還した。享年四十六歳。

吉敷郡小鯖の闢雲寺を菩提寺とし、大基教弘と法名した。一寺を築山に創建して闢雲院と名づけた。
旧跡は分からない。龍福寺由来書に、以成和尚が築山闢雲院に隠居し、また本山闢雲寺輪番永正十五年~十口年までと記述がある。思うに氷上山三重塔婆願文に教弘法師とあるをことから、剃髪して教弘法師と号し、築山館内にて常住の御殿をそう名付けたのか、なお熟考の余地あり。
また一社を創立してその霊を祀った。後年、社号を築山大明神とすべき宣旨を賜った。長享元年四月三日のこととする。
甲胃、太刀、弓矢、槍等の武器を揃えて、築山御所に埋めて、久しく大内家守護のとするとの教弘の遺言があり、号を築山大明神とし、春と秋に祭典を執り行った。時弘綱蒙が祭祀の職とある。

故・高橋延実は、実は兵部卿師成親王が法泉寺にて亡くなった後、教弘卿は築山館内に小社を創建し、その御霊を祀られたのだが、その社を、政弘卿が父の遺言にて従って宏壮に建て替えさせたものだという。
しかし、当時は足利氏の耳に入ることを憚ったため、武器を埋めた等々と声高に言ったのだとの言い伝えがある。証拠はないものの、あり得ぬことではないが、なお熟考の余地あり。今暫くは社伝によることとする。

さてこの社は大内氏が崇敬する社であって、壁書にもさまざまの記述が残るし、大内氏滅亡後も歴然たる社であったらしく、今八幡宮旧大宮司小方氏所蔵文書には、毛利元就卿も、改年祈念のために、八幡春日築山に来たとの記述があるし、輝元卿にも築山御神事云々の文書が残り、いかばかりの社であったのか、いつ頽廃されたのかわからない。
故多賀大宮司高橋有文が書いたものの中に、祖父右近が代、百年前までは焼残った鳥居などが野田町の方に向ってあったのだ、と父・勘解由が物語ったある。思うに、焼残ったと言っているところから考えると、永禄十二年、大内輝弘が山口に乱入した際、築山に陣を置き、この時の兵火にやられたのであろう。
旧跡は、今の築山神社の西側の築地上にあって、南面に幅五寸ほどの葛石を敷いて、これに方四寸九分ほどの石柱六本が立つ。三本は折れ、一本は前面が壊れているが、完全なものが二本ある。長さ二尺一寸六分ほど、柱と柱の間は長さ二尺二寸五分で、柱が向き合う方及び葛石に樋があって、これに厚さ二寸六分五厘、幅一尺二寸一分の石の板が入っている。石板の上面にも樋があって、凹字型となっている。この上に石の板一枚を入れてその下面凸字型をなし、これに嚙合わせていたものが失われてしまったのだろう。
故高橋延実によれば、本社頽廃の後、常栄寺の鎮守社に合わせて祀り、毎年十一月中の巳午の日、形ばかりの祭式を執行していたというが、廃観音寺、また廃凌雲寺の神牌を見ると、共にその神名中に築山大明神があり、されば大内氏の菩提寺の鎮守社には築山大明神を祀っていたこととおもわれる。
常栄寺はつまり、国清寺であって菩提寺の一つである。平素から築山大明神を祀っていたことは疑いない。そのため合殿したのは当たっているが、鎮守に築山大明神を祀ったのは合殿後のことではないだろう。
教弘は、兵部卿師成親王に和歌を学び、その御筆の李花集を賜った。連歌をよくして新撰菟玖波集の作者に列っせられた。

参考文献:近藤清石『大内家実録』世家・教弘より