人物説明

築山館の主・大内教弘

2022年4月2日

大内教弘イメージ画像
教弘子息・法泉寺殿
ミル

以下は、『実録』記事をもとに基本事項を整理して、流れをまとめたものです。一部そのままイマドキ語変換の部分がありますが、基本は削ぎ落して簡略化したり、教科書的常識を多少書き加えています。これ以降のステップで、他のご本も参考にしつつ文章を組み立てますが、間に合っていないのでそのままになっています。最低限度の知識まとめ、という感じです。

基本情報

父:盛見、養父:持盛
幼名:六郎
周防介、新介(嘉吉元年十月十四日初見)、左京大夫(嘉吉二年三月十一日同)、大膳大夫(宝徳元年書写経文奥書では左京大夫なので、これより後の任官)
従五位下(文安三年二月十五日初見)⇒ 従四位下(叙任の年月日不詳)
周防、長門、豊前、筑前の守護(補任年月日不詳)
教弘法師:「氷上山三重塔婆願文」に記載あり。
築山殿:築山館を造営したことによる呼び名。

家督継承

系図が教弘を持盛の子としているのは誤りである。根拠は、義興が益田孫二郎に贈った書状に、「永享三年、筑前国深江合戦の際、兼理は曽祖父徳雄と同じ場所で討死した……」と書いていること。教弘は政弘の父、義興の祖父であるから、盛見が義興の曾祖父ならば、教弘が盛見の子であることは明らかである(『実録』)。

嘉吉元年、足利義教が赤松満祐に殺害された、いわゆる「嘉吉の乱」で、養父・持世が亡くなった。持世は教弘を嗣子としていたことから、家督を継いだ。これ以降の家督は、すべて実子相続となる。

九州での合戦(vs 少弐氏)

将軍を弑逆された幕府は、諸大名に赤松家の討伐を命じたが、少弐嘉頼はその命令に従わなかった。そのため、教弘に少弐討伐の命が下る。これをきっかけに、少弐家との合戦が始まり、結果として、勝利した教弘が九州における大内氏の勢力をさらに拡大することになった。
筑前での戦いに敗れた少弐嘉頼は、肥前・平戸へ逃れ、さらに対馬に渡って宗氏を頼った。その後も、筑前に戻って再び大内氏と戦ったが、勝利は得られず、またしても対馬に逃れて行く。
少弐の所領・博多、大宰府等の地は教弘の支配下に入り、九州はいちおう落ち着いた。いちおうと言ったのは、この後も少弐は度々騒ぎを起こしているからで、政弘 ⇒ 義興 ⇒ 義隆と、最後まで少弐との合戦は続いた。そのつど、菊池、大友云々と情勢にあわせて少弐に味方する者があったから、豊前を除いた北部九州はまさに火薬庫だった。

朝鮮との通交 通信符と『琳聖太子入日本之記』

教弘以前の当主たちも、朝鮮との通交に熱心であったが、教弘期も同様。とりわけ、亨徳二年に朝鮮が教弘に通信符を贈ったことが重要。
これは、朝鮮に赴く使節団が外交文書に押すハンコのこと。銅製で、側面に「朝鮮国賜大内殿通信符、景泰四年七月日造」の十八字が彫ってある。
朝鮮との通交を望む西国の国々は数多かったが、日明貿易における勘合のように、正式な使節にはその証が必要だった。ほかの大名たちも、それぞれ証の品をもらって通交していたわけだが、大内氏に贈られたこの「通信符」はそれらの証より強力なアイテムだった。
通信符は毛利家所蔵となり、たしか毛利博物館にあるはずである(ちょっと未確認)。

補足として、『実録』には記事がなかったので、今回は保留するが、教弘は朝鮮国王から『琳聖太子入日本之記』という文書も下賜されている。これらの事情は、大内氏の先祖伝説や、朝鮮との通交について研究なさっている先生方の論文などに詳しい。

安芸での合戦(vs 安芸武田氏)

安芸国佐東銀山城主・武田大膳大夫信賢と桜尾城主・佐伯左近将監親春との間に領地争いから戦闘が起こり、親春は教弘に救援を求めた。親春は娘婿なので、教弘自ら軍を率いて安芸に向かい、信賢は敗走した(『実録』)。

桜尾城主・佐伯左近将監親春とは、つまり厳島の神官である。安芸武田家と厳島神社との領地争いとは「厳島神領」がらみ。武田氏はいわゆる甲斐源氏の甲斐武田氏と同じ人々。鎌倉時代に、甲斐国と安芸国の守護職になって以来の名門だとか。安芸国には最初、守護代を置いていただけだったが、のちには下向して銀山城の城主となった。銀山城入りがちょうど南北朝時代の時期で、最初からずっと、足利氏に味方して活躍した。なので、安芸国ぜんぶを任されたのだが、ぜんぶといわれて喜んだものの、そこには「厳島神領」といって、武家が手出しできないハズの領域があった……。というようなところから、武田氏と厳島神社との間にはずっと領土問題があったのである。

教弘の孫・義興の代から、大内氏と厳島神主家との間にも争いが起こるが、ここでは神官と身内であり、味方しているから、争いの内容は少しく異なる。

『実録』に「長禄元年丁丑春三月、安芸国で戦う」以下、安芸国での合戦年譜が載るが、それがこの戦いのことだろう。右田石見守貞俊、安富備後守行恒、右田弘篤等の武将名が見える。

やや年代が下がって、「寛正六年乙酉秋八月廿六日、陶越前太郎弘正(越前守盛政の子)が安芸国府の戦いで戦死」ともあり、安芸国はなおも戦が絶えない状態であったことが分かる。

伊予での合戦(vs 細川氏)

寛正五年十一月、将軍・義政は、僧・承勲を派遣し、教弘に伊予へ軍を出すように命じた。伊予の河野通春が幕府の命令にそむいたので、宇都宮家や細川家臣等が河野家を攻撃し、合戦に及んでいたためであり、幕府方を援助するよう求めたのである。
ところが、教弘は幕府の命令に反して、討伐対象であるはずの河野通春のほうに味方した。通春との間に婚姻関係があったからだとされるが、それ以外にも、細川家との関係が険悪だったから細川家と対立していた側の通春に肩入れした、という事情もあった。
大内家と細川家が犬猿の仲であり、つづく応仁の乱でも、教弘の子・政弘が反細川側の山名家に味方したことは有名だけれども、そもそもいつ頃からかくも仲が悪くなったのかと遡ると、はっきりしているのはここのようである。それ以前の当主たちは、家督相続のゴタゴタなどで、幕府に正統性を認めてもらうことがまず先決という状態だった。瀬戸内海の利権衝突という意味では、とっくの昔に細川家と対立していたであろうが、顕著になったのはこの事件からで、その後も融和状態になったことはない。
寛正六年九月三日、伊予に出陣中だった教弘は病にかかり、この日、伊予国・興居島で亡くなった。
義政将軍も医師を派遣して治療させたけれども効果はなかったという。幕命に背いていたはずなのに、将軍から医師が派遣されてきたというのも奇怪なことだが、経済的にも大内氏の援助をアテにしていた幕府としては、細川勝元の私怨的な合戦どうのこうのより、教弘の寿命のほうが重要事項だったのかもしれない。

文芸のこと

合戦事項ばかり並んでしまったが、教弘はけっして武辺一辺倒の人ではなかった。息子の政弘の業績が輝きすぎているせいで霞むが、山口に雪舟を招いたのは教弘だし、正徹とも交流した。正徹が周防に来ることはなかったが、その弟子・正広は下向している。

教弘は兵部卿師成親王に和歌を学び、その御筆の李花集を賜った(『実録』)。兵部卿師成親王については先生方のご研究が諸説あるので、ここでは保留する。

政弘同様、教弘も連歌を善くして、『新撰菟玖波集』に作品が収録されている。このように書くと何やら父が息子の付属品みたいだが、息子が父に学ぶのが正しい順序。政弘という文武両道に秀でた類まれなる雅な当主が誕生したのは、同じく文武両道で優秀な父・教弘の血を受け継いでいるからである。

というようなわけで、教弘については(というよりも、この家の当主は全員そうだが……)文芸関係の業績が山とあり、混乱するので一巡目(リライトするから)はアウトラインだけ。米原正義先生の『戦国武士と文芸の研究』は素晴らしいご本で、大内氏についての記述に大分を割いておられ、これさえあれば何もいらないのですが、文学的教養がない人間には難解な内容であるため、混乱を避けて初回は素通りです。

メモ

正徹:しょうてつ、室町中期の家人。冷泉尹と今川了俊に和歌を学ぶ。足利義教に嫌われたため『新続古今集』に和歌が載っていない。義教死後の歌壇で活躍。藤原定家を崇敬し、独自の幽玄な歌風を創設。門下、心敬。『正徹物語』ほか
雪舟:せっしゅう、室町中期~戦国期の画家。雪舟は道号、諱は等楊。備中国の人。京都相国寺で修行するかたわら周文に絵を学ぶ。明に渡り、李在らに学んだ。大内氏の庇護を受け、山口を拠点に活動。宗元の画に学んだ幅広い作品を残した。
李花集:りかしゅう、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の歌集。後村上天皇、懐良親王、北畠親房、二条為貞などとの贈答歌を含む。二条派の平坦な歌が多く、感懐歌が特徴。

氷上山参詣

三年己卯春二月七日、教弘は子・亀童丸(政弘)と氷上山上宮に参詣した(『実録』)。
寛正四年癸未、氷上山興隆寺に三重の塔婆を建立(同上)。

まあ興隆寺は氏寺ゆえ、治世の間にこの寺院に参詣しなかった当主などいるはずがない。毎年二月会もあるわけで。
教弘期で注目されるのは、息子・亀童丸とともに参詣したことであろう。
大内氏の嫡男は幼名を亀童丸という、といたるところに当たり前のように書いてあるけれども、これは先祖代々そうだったわけではなく、おそらく教弘代からではないだろうか。系図が信頼できない、ということもいたるところに書かれているためにどうでもいいことを但書しているのだが、その信頼できないところの系図によれば、これ以前の嫡男で亀童丸という名前はない。
そもそも、盛見は弘茂と、持世は持盛との戦いに勝利して家督を手にしている。代替わりのたびにこうだったわけで、最初から絶対安定な嫡男の地位なんてなかったに等しい。教弘代になって、家内も落ち着き、幕府内での地位も確定し、周辺諸国もその威厳に平伏すようになって、ようやく安定した家督相続を祈る余裕ができてきたのではなかろうか。
政弘期にも叔父の教幸が、義興期にも弟(兄かも)高弘が反抗したけれども、それらはねじ伏せられてしまい、家がガタガタになることはなかった。当主が生前につぎの当主を指名し、無事にその跡継ぎに家督が譲られる決まり、それを国内の人々にアピールするためのイベントとしての父子参詣。これは教弘から始まり、政弘 ⇒ 義興と続いたが、最後の義隆はそれを完遂できなかった。教弘らが永遠に続いていくであろうと信じて疑わなかった家門の繁栄は、じつはわずかに三代で終ってしまったのであった。

築山館と築山大明神

現在山口市内築山神社が鎮座する辺りは、もともとの大内氏築山館の跡地であるという。
昨今は歴史学と考古学とは密接に連携し合い、史料に書かれていることが、発掘調査で次々に確定されたり、ということが多い。
元大内氏屋形があった場所付近は土塁跡や復元された門などがあって、観光スポットとなっているけれども、その旧屋形とともに、こちらの築山館もかつて、存在していたのである。そのことは、やはり考古学的発掘調査であれこれ判明している。今ここでその資料を読み直すことは割愛するが(そのうち書くけど)、たしか、ある時期屋形として機能していた建物が、その後いったん建て替えられてその用途が一新されたらしきことが分かる、といったような内容だった。
つまり、史料界隈だと、この築山館は、教弘が建設し、それゆえに彼は「築山殿」と呼ばれた。この館は、客人をもてなすための施設のような役割を担っており、宗祇が「池はうみこずゑは夏のみ山かな」と詠んだり、下向公家たちが雅な宴に招かれていたのもこの館らしい。
教弘が「築山殿」と呼ばれた理由には、この建物を建てたからということのほかに、のちに隠居してこの館を居所としていたことも含まれる。もっとも、隠居した(生前に政弘に家督を譲った)ということについては、先生方によって意見が異なり、ここであれこれは決められない。

さて、上述の考古学的発掘で、用途が変わったらしいと見なされている点だが、歴史学系の研究者の先生方いうところの、「築山大明神」という神社が、どうやらこの築山館が改築されたものであるらしい。
つまり、もともとは接待用の、あるいは、教弘隠居所として使用されていた館が、神社に造り替えられ、信仰の対象に姿を変えたということである。
やがて、息子・政弘は父・教弘を神格化し(政弘の項目で説明予定)「築山大明神」というカミサマとなるのだが、この神をお祀りした神社がそれらしい。

以上のようなことが、『実録』にも書かれているのだが、ここは明治時代の近藤先生がのちの考古学的発見の成果を耳にしたら狂喜して驚かれるところである。当時は丹念に史料を調査する研究方法だったろうから、まだ遺跡の発掘調査など行われていなかったのだろう。典拠として一部抜粋します。

「(菩提寺・闢雲寺についての記述に続けて)築山に一寺を創建して闢雲院と名づけた。旧址不明。龍福寺由来書によれば、和尚と成って後、築山闢雲院に隠居した、……中略……氷上山三重塔婆願文に教弘法師とあることからも、祝髪して教弘法師と号し、築山館内で常住していた殿舎をそのように名づけたのではないか、なおよく考えてみなくてはならない。また一社を創立してその霊を祀った。後年、社号を築山大明神とする宣旨を賜った。……下略……」

なお、同じ『実録』内に、故高橋延実氏が語った言い伝えとして、「築山大明神」についてもう一つの意見が挙げられている。

「兵部卿師成親王が法泉寺で亡くなられた後、教弘卿は築山館内に小社を創建した。その御霊を祀っていた小社を、政弘卿が父の遺言に従って宏壮に造替させたものである、……中略……当時は足利氏の耳に入ることを憚って、武器を埋めた云々と言っていたのだという。典拠はないものの、李花集奥書に、「この書物は、先師兵部卿師成親王が出家して恵梵と号した筆跡である。教弘はこれを相伝した。時享徳改元仲冬日、多々良朝臣」とあるので、そのようなことがなかったとも言えない。なお考慮すべきだろう。今しばらくは、社伝に従っておく」

いずれにしても、この「築山大明神」は大内氏家中で非常に崇拝された神社であったことは間違えなく、「壁書」の中にこの神社を掃除する決まりが記されていたり(文明十九年三月卅日の壁書)相良武任が「申状」で「殊氷上山妙見大菩薩、築山大明神御罰、至子々孫々可罷蒙候」と書いたりしている(『実録』)。
のみならず、大内氏滅亡後は毛利氏にも珍重された。しかしながら、現在のようにほぼ何もない状態となってしまった理由を、近藤先生は「永禄十二年、大内輝弘が山口に乱入し築山に陣をはった。この時の兵乱による火事にあったものだろう」とする。
ほかのさまざまな寺院らも含めて、大内輝弘は豪快に燃やしたものだな、と残念に思うのである。それ以前に、弘治年間に内藤弘世が杉重輔と争って山口を燃やしたことも。

菩提寺

吉敷郡小鯖の闢雲寺を菩提寺とし、法名を闢雲寺大基教弘という。

参照箇所:近藤清石先生『大内家実録』巻八「世家・教弘」、山川出版社『日本史広辞典』
参考文献:米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』、『日本史広辞典』

新介

以下は、お祖父様の記事を書こうとしたときに作ったアウトラインのメモみたい。文章ができていないのに、見出しだけ存在している状態だったので、外しました。書き上がった時に、同じ見出しになるかどうかはわからないけどね。

築山館の主・大内教弘
先祖伝説の継承者:謀殺の伝統もここから/面倒な安芸東条/掟書整理
キラリ反骨心:将軍家に嫌われる/嫌いなのは将軍より細川家
史上初・神となった武将:孝行息子の仇討ち/築山大明神
年譜

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