人物説明

大内持世

2022年4月20日

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大内持世
作画:アイカワサンさま

大内持世とは?

大内氏第二十七代当主。父は応永の乱で敗死した義弘。義弘の後、家督を継いだのは叔父にあたる盛見だった。しかし、あくまで「繋ぎとしての役割」に徹し、後継者は兄・義弘の忘れ形見に、と考えていたらしい。よって、盛見が九州での合戦で命を落とすと、その家督を継いだ。

けれども、家督相続にあたっては、兄弟である持盛との間に争いが勃発。九州・大友氏を頼った持盛を倒して正式に当主となるまで二年の歳月を要した。兄弟相克に乗じて不安定となった大友・少弐ら九州勢を鎮圧し、ようやく分国内が落ち着きを取り戻すまでに、さらに四年かかる。

ようやく本格的に当主として政務に専念し始めてからは、将軍家との関係もまま良好。得意の和歌で名を挙げるなどした。けれども、赤松家による義教将軍暗殺事件(いわゆる『嘉吉の変』)の際、現場に居合わせたことで重症を負い、治療の甲斐もなく亡くなってしまった。

当主としての活動期間はわずかに十年ほど。最後は暗殺事件関連死という気の毒なことになった。実子にも恵まれなかったのか、後継者の座は養子としていた盛見の子・教弘に回る。兄・義弘の子に家督を「戻す」という盛見の配慮は結局無駄となった。在位期間が短いため、印象が薄いものの、家督相続と九州平定のために戦って勝利し、『新続古今集』の作者に名を連ねるなど、「武」でも「文」でもしっかりと足跡を残している。

大内持世・基本データ

生没年 1394~1441.7.28
父 大内義弘
幼名 九郎
通称 大内介
官位等 刑部少輔、左京大夫、修理大夫。従五位下 ⇒ 従四位上、周防長門豊前筑前守護(長門永享三年辛亥七月三日ヨリ御管領云々、ほか年月不明)。
安芸国東西条、石見国邇摩郡知行。
法名 法名:澄清寺殿道岩正弘大禅定門
墓地等 菩提寺・澄清寺(現在は寺の跡地が残るのみで、墓石等は伝わらない)
(出典:『日本史広事典』、『新編大内氏系図』、『大内氏実録』等)

※かつて、持世を弘世の子とする説が存在した模様。『大内氏実録』の近藤清石先生もこの説を唱えておいでだった。きちんと典拠も提示し、かなりの自信をもっておられたご様子だが、最近ではこの説は無視され、持世は義弘の子、というのが「通説」。『日本史広事典』でもそうなっている。

弟・持盛との家督争い

持世が弘世の子なのか、義弘の子なのか、ということが問題となっていて、『実録』の近藤清石先生は「系図では義弘の子となっているが誤り」というご意見で、裏付けもあげておいでになる。だとするとそれが正しいように思えるけれども、最近の系図だと、義弘の子ということになっている。どこかで典拠を見た気がするが、見付けられないので、探し出した時点で補充させてください。

いずれにしても、持世と持盛とが兄弟であることはいずれも同じ見解で、家督相続にあたり、持世が持盛を倒して当主となったところ、またしても先代に引き続き、兄弟同士の争いである。これについて、かなり詳しい研究書を読んだ記憶があるが、今、『実録』しか思い至らないので、そこから内容をまとめてみる。

盛見が筑前国深江で戦死した時、持盛は豊前に在陣していた。『実録』世家・「持盛」によると、盛見死後、持盛が家督を継いだことになっている。しかし、在国していた持世は自立して家督を領有してしまった。永享三年辛亥秋七月三日のことである。つまり「持世家督を奪へるなり」(『実録』)という事態である。その証左は以下の如く。
一宮大宮司次第記:三十四代大内刑部少輔殿持世、永享三年辛亥七月三日ヨリ御管領、三十六代大内新介殿持盛、永享四年壬子二月十三日ヨリ御管領、三十六代大内刑部少輔殿持世、重而御知行、永享四年壬子三月十五日石見ヨリ山口え御入部。
白崎八幡宮棟札:澄清寺殿、勝音寺殿、両家御弓矢之時、勝音寺殿依御家督御供仕、依負方云々。
薩戒記:持世討取兄新助某之由云々。(以上三点史料、同上)

永享四年二月十三日、持盛は豊前から長門に帰国。いっぽう、持世は石見にいたが、三月十五日、山口に戻った。四月二十二日、長門国守護代として鷲頭肥前守盛範(後、弘忠)が入府。六月七日、持世も長府に下向。九日、一宮に参詣。

永享四年八月十二日、持世は盛見の牌を高野山成慶院に立てた。「孝子大内介持世建立也」と記した。盛見の実子ではないけれども、その遺跡を受けたことを以て「孝子」と称した。要するに、家督後継者であるとのアピールである。

『実録』には、この間の持盛の動向が記されていない。永享四年時点で、両名とも長門に入ったわけだが、そこでは衝突はなかったのであろうか。ほかの研究書で、持盛が大友家を頼ったことを読んだ気がするので、その後の流れはそこに繋がると思う。

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ミル

ここで、ぱぱっとその本を探して一時に完成させるのがいいということは分っているの。だけど前も言ったように、一時に山と本を開いて埋もれるよりは、一冊ごとに潰していったほうがいいと思うの……。

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於児丸

そうそう。そこでまた別の先生のご説が展開していくと、もはや僕たちには収拾不能(だいたいあの本だと、はっきり分っているんだけどね)。

永享五年、持世は将軍の命を受け、豊後に出て大友中務少輔を討つ。
ここにきて、持世は将軍の命で動いている。つまり、幕府によって家督であることを認められたことがわかる。そして、持盛が頼っていた大友家を討伐しているのである。
四月八日、持盛と豊前篠崎で合戦。持盛は敗死する。

持盛の死によって、持世の家督は名実ともに確立する。しかし、九州での戦はなおしばらく続いた。大内家の家督争いに便乗して、九州の大名たちが挙兵することはよくあることだった。
永享八月~十年までの間、少弐氏らと、豊後、筑前で合戦して勝利をおさめ、ようやく九州が落ち着いた。

永享十二年四月二日、長門国一宮を修築し、この日遷宮式を執行、参詣した(日付については諸説ある)。

将軍弑逆と持世

嘉吉元年六月二十四日、赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて弑逆した(嘉吉の乱)。持世はこの日、将軍につき従っていて、重傷を負う。しかしながら、土塀を跳び越て幕府に還る。

さて、この嘉吉の乱についてだが、教科書にも載っているので、知らない人はいないだろう。持世が仕えた将軍・義教という人は、「クジ引き」にあたって将軍となり、将軍権力の強化を狙って恐怖政治みたいなことをやった人、ということになっている。やり方があまりに強引だったことから、周辺の人々(含諸大名)は恐れおののき、自らがやられる前に手を打とう、とついに将軍そのものを殺害してしまった。

恐ろしい将軍が消えてくれたら取り敢えず眼前の恐怖は消えたかも知れないが、赤松家はそのまま無事ですむはずはなく、すぐに討伐された上、その後再興されるまでお家は滅亡状態となった。将軍暗殺現場は前代未聞の出来事に騒然となったが、何しろ将軍様が一撃で即死なわけで、残された人々は慌てふためき、我先にと逃げ出した。赤松家の連中は逃げた者を追い詰めるようなこともなく、見許しにしたので、持世も逃げていたら無事であったはずである。

ところが、彼は将軍様に不届きなことをした賊徒が許せなかったのか、その場で大立ち回りをしてしまった。さすがに、斬りかかってくる相手に対しては、賊徒もやられっぱなしではないので、応戦して斬り合いとなる。そそくさと逃げ出していたらよかったのに、と思うか、それとも、天晴れ忠義の家臣だと思うかは人それぞれ。いずれにしても、大内氏にとっては、当主の死亡という不幸な結末となった。

嘉吉元年七月二十八日。療養の甲斐もなく、刀きずは日を追ってひどくなり、もはや起き上がれる日はこないであろう、と持世は悟った。今日に至るまで命をおしみ、いたずらに生きながらえてきたのは、逆賊をことごとく滅ぼさんと思ったからである。今にわかに朝露と先立つことはどれほ心残りであることか。速やかに兵を出して賊を討つべし。われ死するのち尸を隠して土の中に埋め、葬事を行うことなかれ、と遺言して亡くなった。

さて、近藤先生は持世が弘世の子であるとの説なので、持世が亡くなった時の年齢は弘世が亡くなった時の生まれだとしても六十二歳。いっぽう、系図では四十八歳としている。現在の、持世を義弘の子とする説からいえば、四十八歳が妥当だろう。

法名:澄清寺道厳正弘、菩提所:吉敷郡宮野村・澄清寺。今の宮野下村の字谷に旧址があり、チヤウセンジという。もしくはチヤウセンジは長泉寺で、澄清寺とは別であるというが、長泉寺、澄清寺一つの寺に二つの呼び名である。ゆえに、『言延覚書』では持世を長泉寺殿という(『実録』)。

持世と和歌

持世は位階の昇進が順調ではなく、正五位上のままで多くの年月を送った。なにゆえこのように昇進が滞っているのだろうか、と愚痴をいいたくもなり、その思いを歌に託した。

 折々は袖こそぬるれたらちねのかしらをきれは椎柴の露

将軍・義教は気の毒に思ったのか、執奏を経て従四位下を授けられたという。
近藤先生は、どこから出た話か系図以外に典拠不明であると仰っている。

この類の話は数多いようで、のちの政弘も似たような逸話を残している。

詠歌の出来栄えに関心したのか、憐れと思われたのかは別として、このようなエピソードが伝えられているのも、持世が歌人として知られていた所以であろう。

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五郎

で、この歌の意味は? 俺、よく分らないんだけど?

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次郎

うたのことなんか、俺に聞くなよ。おや、於児丸もあのヘンテコな妖精も質問されるのを恐れて逃げ出したようだな。

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九郎

……(しい)。

持世は和歌が巧みで『新続古今集』の作者である。
持世の文芸について、『実録』にはこの一文しかない。しかし、附録の『汲古集』の中にその詠歌が載っているので、興味のある方はご覧ください。

米原先生の『戦国武士と文芸の研究』によれば、『新続古今集』に採用された持世の歌は三首で、これは「大内氏歴世中一番多い」(同書)。

持世の和歌の師匠とされるのは、盛見同様、耕雲明魏で、基本は叔父・盛見代からの流れを受け継いだものと思われる。それぞれの歌風は異なっていて当然として、大きな特徴としては、持世は連歌の作品も数多く残していることで、『新撰菟玖波集』の中にも六句が載っている。

祖父・弘世が大量の金帛を手土産に上洛し、父・義弘が忠義の二文字で将軍のために戦い、叔父・盛見が仏教に傾倒して漢文だらけの禅僧たちと交流しつつ、和歌も嗜み……持世の代には祖父の財力、父の武力に加えて、叔父の代からさらに一歩進んだ文芸の才でも中央にその名を知られるようになった。

彼の文芸、つまりは和歌と連歌はすなわち「国文学」と総称されるようで、

大内氏の国文学愛好は持世に至って伝統となったとみるべきである。
米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』

これ以後の、教弘、政弘と続く文芸の家は弘世が畑を買い、義弘が種を蒔き、盛見が水をやり、持世の時に芽が出てきた。続く教弘で蕾が膨らみ、そして政弘の時に麗しい花が咲くのである。

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新介

父上、桜の花が満開でございます! 散ってしまう前に花見の宴を

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五郎

ふふん。咲いたら後は散るだけだもんね。

持世が政務を執っていた期間はわずかに十年ほど。存在感がイマイチなく、いきなりのアクシデントで突然に消えてしまった人、という印象であるのも無理からぬことだ。さらに、そのわずかに十年しかなかった治世のうち、永享三年からの弟・持盛との家督争い、つづく九州での少弐大友との争いがいちおう落ち着いたのが永享十年とするならば、落ち着いて政務に専念できた期間はもっと限られる。

もしも、もっと長い時間が与えられていたとしたら、歌人としての持世はもっと多くの作品を残すことができたのかも知れない。

残念ながら、国文学の素養がないため、文芸については上っ面になるので、活動期間が増えようとも理解が深まるわけではないけれども、本人の無念はいかばかりかと思うのである。

実子がなかった持世の家督は甥である教弘へと受け継がれていく。教弘の子・政弘の生母は山名宗全の養女であるが、実父は山名一門の時煕。嘉吉の乱で、命を落とした人の一人だ。どうでもいい偶然に運命を感じつつ、今回はここで終わり。

追記・菩提寺と墓

2022年12月、地元郷土史の先生方が「持世の墓」にお連れくださる、という幸運が舞い込んだ。菩提寺が澄清寺であろうことは、法名からも明らか。しかし、この寺院がその後どうなったのか、まったくわからず、つまりは持世の墓がどこにあるのかも不明だった。けれども、観光協会の地図には「墓」が載っているから、歩いて探すしかないと思っていた。まさしく、ちょっと早めで最高のクリスマスプレゼントであった。

大内持世の墓案内版

この案内看板を見たら、おおお、つまりはここにお墓があるのだろう、と思われるに違いない。だが……。

大内持世の墓石碑

あるのは後世に建てられたこのような墓標のみである。ここら辺りが元澄清寺跡地と考えられ、そして、もしかしたら何らかの墓か供養塔のようなものが当時はあったのかも知れないし、何もないけれどこの辺りではなかろうかと考えられたのかもしれない。とはいえ、歴代当主の墓(含供養塔)は堺にある義弘公を除き、県内のものはこれですべて、お参りしたことになる。

郷土史の先生のお話をたくさん拝聴したが、興奮のあまり半ば忘れてしまった。記憶をたぐり寄せてこれから整理していくところ(20221231現在)。ご案内、ありがとうございました。

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻七「持世」巻六「持盛」より
参考文献:米原正義先生『戦国武士と文芸の研究』

総括

大内持世という人は悲劇の人である。合戦で命を落とすことも、家臣の謀叛によって自害に追い込まれることも、悲劇であることに変わりないが、将軍暗殺という前代未聞の大事件に巻き込まれて亡くなった、というとんでもない亡くなり方をした人だ。将軍には常に取り巻きが多数いる。暗殺現場に居合わせて巻き込まれた人は彼一人ではなかった。ただし、大半は将軍をほったらかして逃げ出してしまった(実際にはそう単純ではないが)。にもかかわらず、何人かは完全に巻き込まれ、命を落とした。その何人かに入ってしまったのがこの人である。運が悪いとしか言いようがない。

このようなショッキングな亡くなり方をしているがゆえに、それ以外の功績はかすみ、そもそも短命に終わったかの印象がある。しかし、実際にはそんなことはない。長生きできていれば、やれたことはもっとたくさんあっただろうが、存命中にも実績はある。

何よりも、持世は文芸の人であり、勅撰集に名を連ね、新撰菟玖波集の作者の一人でもある。実子はいなかったが、養子となった教弘が養父の薫陶を受け、立派な文武の将に育ったこと、その息子・政弘が史上稀に見る文武の名将となったこと、それが持世の最大の功績といえるかもしれない。

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ミル@周防山口館

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