人物説明

大内弘貞 元寇の時に活躍した当主(父・弘成、子・弘家)

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大内水軍下士官見習い21世紀バージョン

大内弘貞とは?

大内氏第二十代当主。父は十九代当主・弘成、子は二十一代・弘家。父と子に関する史料がほとんどないのか、どなたも研究対象にしておられないのか、真ん中のこの人だけが辛うじて事蹟が分かるお方です。いずれのご当主さまにも事蹟がないということはあり得ない話であって、史料の欠落というのは本当に残念なことです。

弘成・弘貞父子の時代には、「元寇」という大きな出来事がありました。外国が攻めてくるという前代未聞の事態に遭遇し、もはや隣の国と揉めたりしている事態ではなくなり、幕府も朝廷も、御家人も非御家人も国家総出で防戦に務めました。

怪しい軍記物などには、大内氏はそもそも海外から移住してきた人たちなので、密かに異国と通じていたかのような記述があったようです。いくら史料的価値がないと揶揄される軍記物であっても絶対に許されぬインチキの極地で、古い時代の研究者の先生方は、これ以上ないほど立腹なさっています。むろん、そんな作り話を信じる方は現在はおられませんから、もはや無視されていて、話題にもなりません。

大内弘貞の基本データ

生没年 ?~12440818、もしくは12860711の二つの説がある
官職等 周防権介、大内介、従五位下
法名 本州別駕覚浄大禅定門
(典拠:『大内文化研究要覧』、『新撰大内氏系図』)

文永・弘安の役=元寇

何とびっくり、外国の軍隊が攻めてきた!

言葉遣いに気を付けないと、国際問題に発生しかねないのがインターネットという空間。この陳腐なタイトルには、自らも笑うしかない。しかし、○○人が……と書くとそれを見た○○国の方のご気分を害しかねないと思うと書けない。外国の軍隊に侵略されるというのは、無性に腹が立つけれども、そこは伏せるのが無難。日本とは無関係な話にすり替えてしまおう。

(オフレコ:ちなみに、『大内氏史研究』などの古い書物を参考、引用する際には注意が必要。そのまま使ったらアウトになるようなワードが頻出です。国際問題になりかねないので書けませんが、海の名前一つとっても、相手国に嫌われていたら使うのは避けるべきです。まして、国名に戦時中のものを使うなどもってのほかです。勿論、これはお書きになった先生が悪いわけではありません。そのような時代に書かれたものだからです。日本語も難解すぎて理解できませんから、文永弘安の役については、受験参考書などで見て、古いご研究の難しい解説はぶっ飛ばし、大内氏○○の部分だけ引用しましょう。なお、『大内氏実録』には、甚だ怪しいと書かれた引用文がひとつ載っているだけで、この項目そのものの解説がないので、無事です)

ここだけはいきなり日本史ではなく、世界史の話になるテーマだが、モンゴル人は史上最大とも言える大帝国を築いた人々として有名。領土を広げること=他国の領土を奪うことであるからして、被害にあった国々は数知れない。何しろ、おとなり朝鮮半島、中国大陸は元よりのこと、ヨーロッパにまで手を伸ばしたのだからとてつもない。

さすがに、イギリスまで行きました、となれば、もはや地球上すべてがモンゴル人の大帝国になってしまうが、そうはならなかった(アメリカ大陸にも行けてないわけで。たいしたことないじゃないか。何が大帝国だ)。しかし、オーストリアやハンガリーの辺りまで行っていたというからすさまじい。

これら、異民族が主人公となった中国の王朝を「征服王朝」というが、領土の面だけみれば、一番広くて強大だったのがモンゴル人の「元」だったことは、地図見りゃ分かるよ、というお話(個人的には、歴代皇帝の偉大さとか、「征服王朝」の中では清朝が最も優れていると考えている。とある参考書にも清朝の皇帝は立派な人が多かった、と書いてあったのであながち適当な意見ではないかも)。

世界史の受験参考書を見ていたら、モンゴル人は土地に執着がない、というようなことが書いてあった。なぜか。彼らは遊牧民族なので、定住しない。だから、生涯ずっとこの土地を守り続け云々というよりは、ここの牧草食べ尽くしたから、他所へ移住って感じ。どんどん移住していったら、外国にまで至ってしまったのだろうか。迷惑なのでやめてください。

また、これも同じく世界史の本に書いてあることだけれど、モンゴル人はじめ、騎馬民族というのは、馬に乗って弓を射る技術に長けているから、目茶苦茶強くて、定住型の大人しい農耕民族の人々は何だあれは!? とびっくり仰天。とても敵わなかったそうな(多分、もっと初期の頃の話だと思うけど、匈奴とかその頃かな?)。そのくだりを読んでいて思ったんですが、日本人も馬に乗ったまま弓を射る技術に長けているじゃないですか。流鏑馬とかもろそうじゃん。

さて、ヨーロッパまで魔の手を伸ばしたくらいなので、陸続きの中国、朝鮮半島が放置のはずはなく、真っ先に餌食となってしまった。むろん、彼らも国を守るため必死で抵抗するから、そう簡単にやられたりはしない。しかし、昇る勢いの化け物みたいな連中に襲われたら普通は敵わない。幾多の英雄が生まれ、多くの犠牲者を出し、それでも結局はその支配に屈するほかなかった。そうなると、次はその隣の日本ということになる。

戦わずとも服従する道もあったみたいで(相手からしても、戦争は面倒ではあるし)、元は最初、臣従しろみたいな使者を送ってきた。しかし、時の執権・北条時宗はそれらの使者をバッサリと斬り捨てて、上から目線の申し出を蹴り飛ばした。北条得宗で名前知ってるのって、この人と、御成敗式目の人と、最後の人と最初の人(親子、政子の父と弟)くらいなんだけど、この話は何度思い出しても気分爽快です。大内氏のこととか書いていると、どうしても弘世が活躍した鎌倉幕府滅亡後の話から始まる関係上、もとの(=鎌倉)幕府はワルモノ、北条氏もワルモノみたいに書かれている気がしてならない。そんなことはないと声を大にしていいたいのがこの逸話とか、ちょっとズレているような。まあ、よく分からないので。すみません。

しかし、時宗の心意気はカッコいいものの、いざ外国の軍隊を相手にしてみたら、とんでもない強さ。どうしよう!? ということになってしまったのも事実。時宗さんはいいんですよ。お屋敷まで遠いから。敵は中国や朝鮮半島の人々と仲良く取引していた通商の道である、西国ルートを侵略経路にしているのだからして。九州や中国地方(周防長門なんてヤバすぎる)に居住していて、食い止めろといわれた人々はたまったものではない。

最も外国に近い国、対馬の宗氏の方々など、壊滅的な被害に遭ってしまった。駆けつけた付近の御家人たちも同じく。せっかく、お前らなんぞに負けないくらい、馬に乗って弓を射る技術に長けてるぜ、と言ってもちょっと遅れていたようで。教科書とか見ると、モンゴル人は「集団戦法」「てつほう」とかいう火薬玉みたいなわけわからん武器を使うなど、ちょっと世界が違っていた。

未だに源平合戦の頃から続く、我こそは云々と馬上で高らかに名乗りをあげて……のような戦法ではとても敵わなかった。そもそも、通商と友好のための海路を軍事目的で攻めてくる連中なんて初めてのことだったから、遅れているとかいって自国の先祖を馬鹿にしては絶対にダメである。

そして「神風」が吹いた

外国人が攻めてきた、しかも変な道具を使ったりして、とても手強く敵いそうにない……どうしたら!? 幕府も朝廷も、御家人であろうとも、ただの荘園領主だろうとも国を挙げてこの問題を何とかせねばと一致団結した。そりゃそうだろう。よくある話だけど、この世界にはいつの世にも戦争が絶えないが、万が一、どこかの星系から目茶苦茶発展した宇宙人の艦隊が攻めてきたら、地球人という括りになって一致団結するであろう。内輪揉めなどしている場合ではない。

時宗の頃なら、まだ幕府はそれなりきちんと機能していただろう(知らないよ)。ただ、技術の進歩は一朝一夕ではいかないから、相手の兵器が何やら怪しげなものであり、戦法も見たこともないものだったら、ちょっと怖じ気づくのは当然のこと。そのくらいでやられる我々ではないけど。だって、見事に撃退して、領土に組み込まれたりしてないもんね。これは、とっても自慢できる。

ただ……では、なにゆえに勝利したのですか、という問題には何と答えるべきかつまってしまう。中学生の時、四択で、もろこの問題が出て、ほか三つの選択肢は忘れてしまったが、その中の一つに「神風が吹いたから」というのがあった。どう考えても間違いだろうと分かっていたけれども、ほかの三つの選択肢がどれも違っていた(理解できない内容だった)ように思え、これ、台風のミスプリントじゃないだろうか、まさかなぁ……と思いつつ、その選択肢を選んだ。当然、間違っていたが、台風が吹いた以外に、勝利できた要因ってあるんですか?

わけわからん外国が攻めてきて、やたら強くて、準備も間に合っていないのに必死で抵抗して、でももはやこれまでなんでは……と天を仰ぐしかなかったところ、一晩寝て起きてみたら、敵の船はすべて沈んでいた。暴風雨のためという。まさに奇蹟というよりほかない。これが世に言う文永の役ってやつ(1274年)。

手許の参考書には二つの説が書いてあって、一つ目は、船の製造を任されていたのが先に占領されてしまった高麗の人々で、誰がきちんと働くかよ、って感じで適当に作業していたので、船がボロかった(こんな書かれ方はしていませんよ)。もう一つは、最初は様子見、二回目に本腰入れて攻め寄せる予定だったので、一回目の襲撃は適当だった(船も人も?)。日本人ってこんなものかよ、ということがわかればよかったので、目的は達成。

日本を倒すことができなかった元はまた攻めてきた。二回目は本気だとしたら、さらに手強いだろう。これまた、どうすんの!? となるが、またしても台風が来て、敵の船はすべて沈んでしまった、と。これが弘安の役(1281)。

一回目と二回目との間にタイムラグがあるのは、最初は高麗だけを服属させるのに成功していた段階で、二回目は南宋をも服属させてからやって来た。先に支配下に置かれてしまった高麗の人たちが船を造らされたと書いたが、それだけではなく、侵略戦争にも駆り出されている。ゆえに、一度目の襲撃は高麗軍を二回目は南宋の軍勢をも伴っていた。二度目は二手に分れて攻め込むとか、より強力になっていた。

いっぽう、日本のほうでも、この時間差のお陰で、多少は準備ができた。まずは博多湾岸に防塁を造った。大慌てで石を積み上げた堤防みたいなものだったらしいけど(元寇防塁)。さらに長門探題という役所を作ったり、異国警固番役なる制度を始めたりした。果たして、これらがどれだけの効果を発揮したのかは不明。相手は本気だし、兵力も増えているし、どう見ても風向きが悪い。「が」またしても、台風が直撃し、敵の船は海の藻屑となってしまった。

先程と同じご本に書いてあったが、長らくお付き合いのあった中国・朝鮮半島の人々とは特に顔見知りでなくとも、なんとなく、モンゴル人ではないな、ということがわかったらしい。よって、溺れかけているのを見たら救いの手を差し伸べたとか。そうじゃない人々が、見付け次第倒されたことは言うまでもない。

参考書などには「暴風雨」のように書かれていますが、一度目も台風ですよね。そういや、何月に来たんだろう? 敵の脳内もまるで進化してないなぁと思う次第。夏から秋にかけての台風シーズンを避ければ、暴風雨の被害はなかったろうに。二度も同じ手でやられているというのは、かなり頭が……いえ、国際問題になってしまうので。

今のように科学の発達していなかった時代の人々でも、毎年この時期には台風が来るということはわかっていたとおもわれる。狙ったように、その日その時に来てくれるかは運次第だが。先に、朝廷から幕府から国を挙げて……と書いたのにはわけがあって、幕府が御家人たちを集めて敵を迎え撃つことをやらされるのは当然として、朝廷は何すんの? というところで、大寺院などに命じて「異国討伐」の祈祷をやらせたりしていた。そんなものに効果があるはずがないと分かっているのは、近現代の人だけ。無意味なことにお金をかけるわけがない。当然、その効果を信じていた。すると、軍事力対軍事力の戦闘では手を焼いていたのに、暴風雨という自然災害のお陰であっけなく片付いてしまった。これは、祈祷のお陰に他ならない、そういう思想に流れて行く。これは嘘のような本当の話で「神国思想」といって、ずいぶん長いこと信じられていたようです。

元寇と大内氏

大内氏が西国在住の勢力ではなかったら、少なくともこの、モンゴル人が云々とは無関係でいられたろう。しかし、いかんせん、外国からの勢力が襲撃してくるルートに近かった。博多に上がって大宰府でご挨拶してからって友好使節団でなくとも、先祖の琳聖がいきなり防府に流れ着いたくらいだから、赤間関がある長門国なんて異国の船が到着する可能性大の場所だ。

これが、もっと長期戦になったり、この後も何度も繰り返し攻め寄せられたりしたら、遠隔地の勢力も順番に警固にあたらされたりしたかも知れないが、普通に考えて近場が対応させられる。もっとも、自らの領地も敵の攻撃にさらされる可能性があるわけだから、西国の人々にとっては死活問題でもある。

大内氏の一族は国衙の役人という職についていたから、朝廷サイドの人ということになろうが、弘盛やら重弘についての項目で明らかになるように、鎌倉御家人としての立場にもあった。国の役人としても、幕府の配下としても、いずれの側からもこの国家の危機ともいうべき大問題に取り組んで行くべき立ち位置にあった。

そして、見事にその役割を果たしたであろうことが史料として残されている。

大内氏にしても、それ以外の人々にしても、本当に国中の人々が皆、力を合わせて国難を乗り切った。このことには誇りを持っていいと思う。逆に言うと、一つの目的のために、国中が一つにまとまった、歴史上稀に見る感動的なシーンでもあった。

『大内文化研究要覧』の年表、弘安四年(1281)条に弘貞が元寇に出陣したとあり、その出典が『萩藩閥閲録』の「江木次郎右衛門家譜」とあるので、恐らく以下のもの。結局のところ、史料的にはたったこれだけなのである。

『大内氏史研究』曰く

萩藩譜録江木次郎衛門家譜に「弘安四年大元国の兵数百艘の船に乗って日本を撃たんとす、太宰府に著す。九州諸将戦負け、大内介弘定(貞)厚東弥太郎武仲を先鋒とし、陶八郎弘貞右田八郎太郎重俊を率いて赤間関を渡り小倉に陣す。菊池肥後守武連大友豊後守太宰大弐と牒し合せて戦う。弘定大いに利を得給い異賊早速征伐の旨江木六郎弘房を以て京都六波羅に注進あり云々」とある。 人名にも錯誤があって、史料としての価値は甚だ低いが、江木弘房は大内弘貞の弟で、その家にそんな古伝があった ものであろうと思われるのである。
出典:『大内氏史研究』

大内氏を侮辱したインチキ軍記物類、先生方に成敗される

じつは、この時の騒動について触れた軍記物の中に、あろうことか、大内氏の先祖が(先祖と言ったって、もう文字史料も残されている時代なので、名指しということになり、誹謗中傷ですよ)侵攻してきた異国軍と繋がっていたとするものがあったという。

その理由・中身は、彼らが異国出身者なので、日本よりも異国のほうに靡いただとか、言うとおりにしないと異国に内通するぞと幕府(?)を脅したとか。だからびっくりした幕府が周防国を与えたとか(笑える)。当然のことながら、根も葉もない嘘である。もし本当ならば、敵が台風ならぬ神風で天罰を受けた後、処罰されてしかるべきであり、その後の歴史はなかっただろう。

いったい、どこの何者が、このような嘘を垂れ流し、先生方を怒らせてしまったのだろうか。

またやってしまった『陰徳太平記』

その筆頭にあげられたのが、『陰徳太平記』。前に紹介したことがある「大内先祖之事」の章段で、この目で見たので承知済み。東広島の先生は、この本は七割くらい嘘だと仰っておられた。よく、軍記物には数の上で誇張が多い云々などと言われるが、問題が数だけなら、大したことはない。ちょっと引き算して考えればよいだけなので。

しかし、この本のように、史実をねじ曲げて書いている場合はもはや、引き算だけでは対処できない。最初は、単に当時はまことしやかに囁かれていた噂を書いたんだろうと思っていたが、それだけではなく、意図的に嘘を書いているから。ただし、『陰徳太平記』の嘘は、陰徳思想によって毛利元就を輝かせるための嘘であるので、元寇の時大内氏がこういう態度をとった、ああいうことを言ったということはいじる必要がない箇所のように思える。

ゆえに、それこそ、当時流れていた根も葉もない噂をそのまま書き留めたに過ぎないのではないかと。なぜと言うに、同様の説を書き留めている軍記物は数え切れないほどあるらしく、『陰徳太平記』だけではないから。言い出しっぺが誰なのかは不明ながら、国を挙げて外敵に立ち向かうという麗しい物語を台無しにするこの間違いだか、インチキだか分からないエピソードの挿入は『大内氏史研究』を怒りのあまり読むに耐えぬものにしてしまうほど、先生をご立腹させた。

渡来系の人を敵に回したら生きていかれません

問題は、よくもこのような嘘を平然と書けたものである、ということ。先に述べたとおり、国を挙げて外敵に対処したのである。そんな中で、こっそり異国と誼を通じるなど先ずあり得ないことだし、その理由が彼らの先祖が異国から来た者であり、純粋な日本人でないから、のような思想がどうやったら生まれるのだろう。そもそも、日本人はどこから来たか、なんて問題の答えは未だに出ていないのでは? それをこの時代の人(軍記物は元寇よりもっと後に書かれたと思われるが)が分かっていたのでしょうか。

桓武天皇のお母上は高野新笠という渡来系の方です。これは、普通に受験参考書にも書かれている基本中の基本なんですよ。だとすれば、桓武平氏といわれる人々は、全員渡来系の血を引いていることになります。北条得宗もしかりなんです。他にも著名な渡来系氏族は数え切れないほどおられたわけで、何千年の時が流れた今、混血が繰り返された結果、純粋な日本人なんてそもそもいないでしょう。だいたい、何を以て純粋な日本人というのかすら不明だというのに。

まあ、軍記物が書かれた時代と現代とはまるで思想的にも違いますから、それをもって来て、烈火の如くお怒りになるのもどうかと思うんですが……。へぇ、こんなこと考えていたんだ!? で終わりじゃないんですかね。そのあたりが、研究者の先生の大内愛の深さによっても違うのかもですが。もしも、すべての人が先生と同じだとしたら……たいへんですよ。私には渡来系の血は一滴も流れていません、などと胸を張って言える人は皆無だと思われるので。

正直、誰も気にしてないと思われ、大内氏が云々に至っては、ほとんどの人が知らない世界です。ほっときましょう。先生、熱くなりすぎていて疲れます。

年表から見る弘貞あれこれ

熱すぎる先生のご本を離れ、『大内文化研究要覧』の年表から、弘貞にかかわる事項を二つ見付けたので、書き加えておく。

興隆寺の名前が史料に現われた最初

今でこそ大内氏の氏寺として、誰もがその名を知る興隆寺。琳聖創建というのが、嘘か誠かは不明ながら、妙見社が移された頃から存在していたことは事実だろう。しかし、「興隆寺」という名前が史料に出てきたのは、意外に新しいらしい。正嘉元年(1257)に、弘貞が、興隆寺に搥鐘(ついしょう、どんな鐘なのか不明。検索にはでません)を寄進し、その銘文に「吉敷郡大内村氷上山興隆寺」とあり、それが興隆寺の名前が史料(銘文)に現われた最初だとある。

弘貞妹、興隆寺に土地を寄進

弘安五年(1282)の『興隆寺文書』に「多々良氏女」が、興隆寺に寄進をしたことが記されており、先生方のご研究から弘貞の妹と考えられているという。

附・弘貞の父と子

どう頑張って文字数を増やしても、一行にしかできないご当主さまたちという方々が存在する。『大内氏実録』の近藤清石先生も、大内弘世から書き始め、それ以前の人々は弘世の父・弘幸の項目にまとめて押し込んでいる。こればかりは仕方のないことで、如何に先生方のご研究が優れていても、史料がない人については項目を立てることは不可能である。

近藤先生は明治時代のお方なので、その後、長い年月を経て新しい史料が見付かりでもしたか、最近は弘世以前のお方でも、強引に項目を作れなくもない状態になっている。それでも、琳聖太子など、実在したかどうかすら不明なわけで、系図に欠落があるとか、史料がまったくないとかいう理由で、どんなに権威と呼ばれる先生方にもお手上げという事態は起こっている。

で、この大内弘貞も実は、かなり際どいところがあり、父の弘成と混同されていたりするから実際のところはどうであったのか甚だ疑わしい。ここでは、すべて弘貞の功績にしてしまったせいで、弘成があぶれてしまった。また、弘家については、伝承ながら墓であるとされる石塔まで存在しているにもかかわらず、事蹟については闇の中である。墓の写真だけ載せて一項目というわけにも行かなかったので、取り敢えずお二人には、こちらに同居していただくことにした。

そのうち、何か書くことが見つかれば、分割もあり得るということで。

父・大内弘成

第十九代当主
生没年 ※弘貞の没年二説のうち、早いほうが弘成の没年ではないかと考えられているが、決定打に欠け証明に至っていない。
官職等 周防権介、大内介、従五位下
(典拠:『大内文化研究要覧』)

『大内文化研究要覧』に弘成の業績として、「下松の妙見社の庇護に努む」とあり

子・大内弘家

第二十一代当主
生没年 ?~13000318
別名 矢田太郎
官職等 大内介、周防介
法名 大宮寺殿円淨大定禅門
墓所等 大内矢田高円寺の墓碑が弘家のものと伝わっている
(典拠:『大内文化研究要覧』)

参照文献:受験参考書(世界史、日本史)、『大内文化研究要覧』、『大内氏史研究』

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五郎

高野新笠って母上さま、百済王の末裔みたいなんだよね。

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ミル

そんなものすごい情報どこから探したの? 君は古代史に情熱を傾けているのね。

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五郎

俺は普通にネット検索しちゃうから。ウィキペディアに書いてあったよ。桓武平氏が母方とはいえ百済の末裔ならば、ミルも俺も、先祖は一つだったのかな、なーんて考えてた。

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ミル

……そうだったの! じゃ、周南市のスピリチュアルな先生が言っていた、実は縁者の子孫とか、きっと前世に由来が云々って、嘘じゃなかったのね……✨

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします
【取得資格】全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力
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