大内弘盛とは?
大内氏第十七代当主。平安時代末期から鎌倉時代にかけての人です。十六代・盛房の子で、すでに史料にも名前が現われていました。大内介という名乗りも定着したようです。
源平合戦の時に、子の満盛とともに、源氏に味方した人として知られているほか、重源の東大寺再建事業を妨害した事件でも有名です。いずれも歴史上、非常に重要な出来事と連動しているため、さまざまな研究書で言及の多い人ですが、主要な事蹟はこの二点に尽きます。
なお、子の満盛については、項目を立てることが不可能なので、親子一つにまとめます。
大内弘盛の基本データ
生没年 不明
官職等 周防権介、大内介
(典拠:『大内文化研究要覧』)
治承・寿永の乱と大内氏
源氏 vs 平家
どうでもいいけど、なんで源「氏」と平「家」なんだろう、ってずっと考えていて、高校生くらいの頃、ソシャゲ仲間の歴史マニアのおじさん、みたいな人に質問をしてみた。すると、とてつもなく軽蔑したような解説をしてくださり、平氏と言った場合、ほかにも大量に平氏いるから。平清盛の「家」だけが潰れたので平家と言ってて、平氏とは言わないんだ(そんなこともわからないのか、最近の若いのは云々みたいな)と。
でも、だとしたら、なんで源「氏」なんですか? 歴史上、皇室を離れた皇族方は、源の姓を賜ることが極めて多かったので、○○源氏は大量におられる。しかし、平氏は少ない。本を断捨離して非常に後悔しているが、皇族の臣籍降下についてのご研究をまるまる一冊ご本にまとめた先生がおられた。ほかにも○○源氏についてはさまざまな先生方が書いておられるので、ほかを見ても同じではあるが。では、なんで、一時期「平」の姓を賜った人たちが出たのか。
その理由は、平安京遷都で天皇さまも皇室の方々も心晴れやかであらせられたから。期間限定特別キャンペーンでもらえた姓のようなもの(※本をなくしてしまっているので、典拠を明記できず、読み返しもできないので、ここは読み飛ばしで)。
だとすると。平清盛の平家「だけ」が壇ノ浦に沈んでしまったので、「平家」と書くが云々という上のおじさんの説明は間違ってはいないにせよ、源氏は大量にいるため、それこそ、源頼朝の「家」が主人公なのに、清和源氏の源頼朝の一族(家)とは書かずに、敵方は「源氏」として一括りになっているのは不可思議。
そう言えば……鎌倉幕府の御家人は、実は桓武平氏だらけ。しかし皆、「名字の地」が名乗りとなっており、平清盛と遡れば一族であるということは、見落としがち。いっぽう、源氏は足利、新田、武田くらいで極めてレアだったというのはよく知られているが、後から振り返って歴史を見ている我々からしたら「頼朝の家」の源氏は三代で滅んだことや、名前が違っていても足利や武田が源氏というのは分かっている。だから「平家」対「源氏」でも誰も混乱しないからなのだろうか。
ちなみに、現在、「源平合戦」などと呼ぶのは時代遅れのようで、「治承・寿永の乱」と呼ぶのが「公式」のようなので、念のため(平氏と平家の違いなどのど素人な質問は出ない仕組みに改まっている)。
時代の最先端を行く西国には雅な一族が似合う
『平家物語』の「富士川」の章段で、西国と東国とでは武士の種類が違うみたいな比較談義をする部分があり、詳細は省くが、要するに東国は荒くれ武者が多いって話。武人である以上、戦が強いことが何よりも大切とはなるものの、ちょっと乱暴すぎる逸話の数々に総大将の維盛さまはじめ真っ青。
全国平均化されて「お国柄」とか出身地による違いのようなものはないとされている現代なので(あると信じている方もおられるので、その場合申し訳ないです)言っても差別発言にはならないと思い書いてしまうと、東国は遅れた地域で野蛮だった。今回の趣旨とは外れるが、源氏が勝利をおさめたのち、平家没官領は大勢の東国武者に分け与えられた。さらにもう一度、承久の乱で上皇さま方についた人々の土地なども没収された。要は平家の基盤は西国にあり、また、承久の乱で西国の人々は朝廷方についたケースが多かったということ。
以前、福成寺の寺領か何かのところで書いた気がするが、大人しい西国の人々からみたら、いきなり東国の荒くれ者が大挙して押し寄せ地頭なんぞになって居座ってしまったのは、相当な衝撃だったかと。安芸国などチラ見するとわかるけれど、元は東国者という一族が多い。長の年月で地元に根を張り、同化していくであろうし、そもそも武士の世の中となっていくのだから、荒くれ者万歳ではあるのだが……。
そう考えたとき、大内氏がずっと周防長門(最初は周防の一部分だけ)に基盤があって、そこから動くことがなかったし、防長にも東国者が入ってきたとしても、彼らの天国とはならなかったことは、本当に奇蹟に思える。ご先祖さま、ありがとうございます。
では何を以て、東国は遅れているなどと揶揄するかと言えば、古代史の時代からの一大特色として、日本は西に向かって開かれた国だったから。参考書に必ず書いてある如く、五畿七道中、山陽道が最も広くて立派なのである。進んだ大陸の文化を受け入れるために。新しくて進んだ文化は、常に西国を経由してから東上していく。ゆえに、西国のほうが時代の最先端をいっていたし、文化的水準も高かったと思われる。むろん、時代が下がれば、平均化していくし、もはや大陸から学ぶこともなくなって、独自の文化が花開いているのに、いつまでも東西間の格差が続くはずはない。しかし、少なくとも、『平家物語』の世界では、やはり東国はちょっと荒くれていたようだ。少なくとも雅ではない。
平清盛のお情けのお陰で命が繋がって、伊豆国に逼塞していた源頼朝や、そのた生き残りの兄弟をかき集めた義経・範頼のような連中が雅な暮らしを送っていたとは到底思えない(ここまで読んで怒り心頭って人、少なからずおられると思いますが、これでも鶴岡八幡宮の氏子なのでお見逃しください。え、ますます腹が立った? すみません……)。皆さま大好きな源義経なんて『平家物語』の中では、「平家のなかのえりくづよりもなほおとれり」と書かれてますよ。
壇ノ浦
まあ、合戦の話をしているだから、戦に勝てばいいという話になる。雅な人々か荒くれ武者かどうかでどちらに着くかを見極めることもなかろう。しかし、何度も言うように、西国は平家の地盤だったので、どちらに味方しようかという問題は、かなり悩ましいことだったらしい。相当先になるまで、西国は平家優位のようなところがあったから。歴史の流れから考えても、平家の巻き返しが叶うことは夢のまた夢だったが。
皆、自らの家が大事なので、情勢を見極め、こちらに味方したほうが有利、という側につく。だから、最終的に全員が源氏に味方をし、沈み行く平家の船にすがりついて守ろうという人はいなくなった。だが、よほど先見の明がある人物を除けば、最初からすんなりと源氏につくという人々も稀。
平家の最後の地が壇ノ浦になったことも、必然なのか運命なのか。壇ノ浦は周防のとなり長門国だ。ここが最後の地となったということは、その周辺国の人々からの支援を取り付けることは、決戦中の両者にとって死活問題だった。平家としては、元々ゆかりの深い西国の地。圧倒的に有利と思えるが。けれども、道々敗北を重ねつつ辿り着いた先ともなっており、現地の人々の思いも複雑だろう。
源義経があれこれの軍記物で活躍している頃、周防長門の辺りで味方を募っていた兄・範頼のほうは最初、あまり上手くいっていなかった模様。人々はそのくらい慎重に、どちらに着くべきかを考慮していたのだろう。そんな状況下で、ちらほらと、船貸しましょう、兵糧の問題協力します、というような人たちが出てくる。そうなると、だんだんと我も我もということになっていき、しまいには平家に味方する人は皆無となってしまう。その後の展開は、教科書通り。
問題はその後。おかげさまで戦に勝利できました。皆さんご協力ありがとうございました! となったとき、早々と味方に馳せ参じた人と、最後の最後にあわっ、源氏に味方しておかないとまずそう……と慌てふためいて滑り込んだ人というのは、当然扱いが違う。それらの経緯はきちんと把握されている。当然のことながら、旗揚げ当初からずっとお味方しておりました云々の人々から順番に優遇されていく。
系図などを見ると、大内氏は源平合戦の時に源氏に味方し、その功績が甚大だったので長門国をもらったかのように読めてしまうところがある。一瞬、うわっ、まさか!? と思ってしまうが、騙される人はいないだろう。長門国のどこかの領地(たぶん、ほんのちょっぴり)のことであり、当然、国一国ではない。
そもそも、大内氏は源氏に味方し、どれほどの活躍をしたのだろうか。ととても気になるところである。残念ながら、その答えは、よく分からない。系図などには単に、功績があったとしか書かれていないので。
どこか重要な先生のご研究で、「兵糧を提供した」と書いてあったのを見かけた気がするが、今ちょっと典拠を思い出せない。見付け次第補足ということで。
もしも、兵糧を提供しただけであったとしたら、大内弘盛が一族を率いて大立ち回りをしたと考えていた面々は拍子抜けするかもしれない。なんだそんなことだったのかとがっかりするのは間違いで、兵糧の問題はとても重要である上、かなり早い時期から源氏方に与することを明らかにしたらしい。これは、さまざまな本に書かれている点。なぜなら、その後の展開を見るに、大内氏は鎌倉幕府からそれなり優遇されていたと見受けられ、ここで味方したことがかなり強烈に効いていると思われるフシがあるため。
源氏方からは、早々に味方してくれた殊勝な者たちである、という認識だったのである。よって、長門に領地までもらった。わずかに一部分の土地だけど。それが、どこだったのかということは、残念ながら不明であるらしい。弘盛以降のことにはなるが、先生方のご研究によって明らかになっている大内氏の元々の領地の中に、長門国についての言及はないので、史料の欠落か、地理的な問題などから管理できず失われたかしたのだろう(そもそも、系図に書かれていることも信用ならない)。
東大寺再建事業と弘盛
東大寺を修理しよう!
悪行を働いた平家一門は退治され、平和な時代が訪れた。ということで、平家一門によって焼討ちされて焼失した東大寺を再建しよう、という話になる。幕府も朝廷も、一致団結して東大寺の再建のために力を尽した。そこまでは問題ない。都までは遙かに遠く、古都・奈良の東大寺を再建するとかきいても、そうですか、って感じ。
しかしながら、この時、周防国が東大寺再建の造営料国となってしまった。造営料国って何? 東大寺の修理をするには莫大な資金が必要です。それに関わる資金にはすべて、周防国から上がった税金を充ててください、ということ。だから? って話になりそうだが。「清盛安芸守たりしとき」厳島神社を建立(再建)した。むろん、安芸国を造営料国とした(※『平家物語』の中身しか知らないので創作だったらすみません)。
要するに、現代のように税金を集め、それをまとめて何億円だか、何兆円だかしりませんが、徴収した税金を何に使うか国会で審議し云々と似ていると言えば似ているところもあるが、違うところは大違い。例えば、東大寺の修繕は奈良県で行なってください。税金はすべて修繕費用にあててください。建築資材の調達、人材の確保そのほか、すべて奈良県でお願いします、と言われているようなもの。んでもって、東大寺は奈良県にあるのに、山口県がなぜかそれを分担させられているという。安芸守たりしときに厳島神社を改築しているのなら多少理解できるが。
当時地方には国衙があり、中央から国司が派遣されてその人が長官として政務を執っていた。これは、あるべき理想の姿であり、律令制崩壊とともに機能しなくなっていた。それでも、国司の任命は続いており、任国へ赴くこともないため「遙任」などと呼ばれ、配下の目代と言われる人たちが代わりに任地へ下向。そこで、国衙の役人たちと協力して税金の徴収などを行なった。大内氏の先祖は、それら国の役所の役人。国司は任期があるので交替するから、新しい人物が派遣されてくる度に、新しい国司(その配下の目代)にご挨拶するだけで、あとはひたすら定められた職掌内の実務を執り行っていた。「造営料国」なんてものに指名されなければ、やるべきことはただそれだけ。また、造営料国なるものが、単に、税金を寺院の修繕に充てるだけのものであれば、税金の納入先が東大寺にかわるだけともいえる。
ここが理解に苦しむところだが、どうもお金の問題だけではなく、材料調達からなにから、すべてをやらされたようで。そこらの普通の下級貴族を国司に任命し、東大寺の造営料国だからな、ということでお終いではだめだったとみえる。中央では話し合いに話し合いを重ね、重源という僧侶が周防国に送り込まれた。
重源は東大寺再建のすべてを任され、建築資材をまかない、陳和卿という宋人とともに新生東大寺の建築様式をデザインしたりとあれやらこれやら、本当になんでもやった。その「建築資材をまかない」のところが、周防国とも関係大有りで、今でも徳地に行くと、重源が杣出しをした云々についての関連史跡が多数残されている。
杣とは、文字通りの建築資材となる材木のことで、重源は自ら周防国に赴いて現地で指揮を執り、東大寺再建のための建築資材を周防国から調達し、都へ運んだのである。
大内弘盛、重源の邪魔をする
重源の大事業について記されたものには、その多くで、重源が現地の人々(地頭など)の妨害に遭い、事業の遂行は困難を極めたと記している。そうした妨害行為を行なった者の中に、大内弘盛の名前もあり、なんと、幕府に訴えられてしまっている。なんで、弘盛は重源の事業を妨害したのだろうか?
教科書にもある通り、この時代には、国司が直接国衙に赴任して地方政治に関与するということはなくなっていた。かわりに目代という名代が来るには来たが、役所の実務はすべて在庁官人と呼ばれる役人たちが行なうのが普通だった。在庁官人たちからしてみたら、国衙は彼らだけの領域みたいなもので、怖いものなしだし、上から何かを命令されるということもなかった。国司は赴任すらしないのだから(任官セレモニーのために、一度だけ来た、というようなケースは除く)。
ところが、周防国が東大寺の造営料国となり、しかも、東大寺再建事業の指揮を執るため、重源という責任者が赴任してきた。さらには、名ばかりどころか、極めて積極的にあれこれの手筈を考えて、自ら先頭に立って命令している。このようなことは久しくなかった異例の事態であった。在庁官人たちが好き勝手にやっていたところに、いきなりうるさい指導者が現われたような感じで、彼らからしたら面白くない。
それでも、国衙が朝廷の役所であり、国主導で造営料国を決定し、再建事業を行なっているという手前、国の役人である在庁官人たちは心中面白くないと思いつつも、嫌々その指示に従っていたらしい。ところが、幕府も同じく東大寺再建事業に朝廷とともに賛同していたとはいえ、幕府の関係者はやや立ち位置が異なる。幕府から地頭職を与えられて現地にいたような人々がこれにあたると思うが、国の役人ではないし、そもそも「泣く子と地頭には」云々と言われたややマナーの悪い人たちだ。そのため、平然と非協力的な妨害行為を行なっていたらしい。幕府の権力を笠に着ての振る舞いなので、質が悪い。
そんな中、大内弘盛の地位は非常に微妙だった。国の役人であることにかわりはないが、先の源平合戦での活躍によるものか、彼はまた、幕府の御家人にもなっていた。その意味で、ただの在庁官人たちが、面白くないと思いつつ我慢していたことも、弘盛はへっちゃらで、ほかの幕府任命地頭たち同様、重源の事業に対する妨害行為を働いたという。勢力が大きいだけに、重源からしたらかなり迷惑だったらしく、幕府に対しこのことを訴えた。
すると、幕府のほうではなんと答えたかと言えば、この者は我々の管轄下ではなく、国の役人なので、訴えるのなら朝廷に……ということだった。その後、重源がだったら朝廷に訴えようと考えを改めたかどうかは本に書いていなかったので不明。重源はその後も様々な努力を重ね、最終的には非協力的だった者たちの妨害にもめげず、あるいは、彼らの協力をも取り付け大事業を完結させる。でも、ここでの主旨はその話ではない。
弘盛が、在庁官人であり国衙の役人でもある、という二重登録のような地位にあったという点が言いたいだけ。このような特別な身分にあった者が弘盛一人だけだったのか、ほかにもいたのかについては言及されているのを見たことがないので、彼ひとりが特別であったと断言することはできない。
その後も続く東大寺との関係
重源が無事に大業を成し遂げた後も、周防国に下向してくる国衙のボスは僧侶ということが続く。以後、国衙の存在はますます形骸化していくが、僧侶が国司? という謎の役所は、全国見回して、ほかにもあったのだろうか。そこはちょっと調べていないので分からないけれども。
ただし、重源が赴任した当初は、このこと(僧侶を国衙の指揮者として下向させる)は前例がないとして揉めたらしいから、それ以前にはなかったのだろう。ちなみに、重源が下向した当初、国衙にはまだ、ちゃんと国司がいた。むろん、当人が現地にいたわけではないだろうが。しかし、確かに二人もいらないから、以後は僧侶だけとなり、「国司上人」などと呼ばれた。
彼らもまた、現地に赴くことはなく、目代が派遣されてきたので、特別なことがない限りは在庁官人たちとの間に摩擦が起こることもない。ただし、いったんこれまでとはかわったことをやらかそうとすると、そこには恐ろしい報復が待っていた。
弘盛の事蹟と子孫
弘盛という方が何をされたかということも、史料はほとんど何も語っていないらしい。ゆえに、源氏に味方し功績をあげた、重源と対立し杣出しを妨害したという二点が唯一分かっていること。
もう一点として、流刑に遭い、恩赦によって帰国したということがあるが、それについては、一緒に流された先祖のところで。
では彼の子孫はどうかというと、子の満盛については、父・弘盛と同じく、源氏方に与して活躍したということのほか、瑞雲寺を建立したことが記されている(参照:『大内文化研究要覧』)。
二人ともどもに、これ以外のことは不明。満盛が源氏に味方したという一件は父の弘盛と被るため、この人だけで項目を立てることは不可能。二人ともに言えることだが、鎌倉幕府や重源といった国家権力や歴史上も重要な役割を果たした人と深く関わったゆえに記録が残っているのであり(むろん、国衙関係のどうでもいい文書に彼らの署名は大量にあるだろうが)、中央の権力と直接関わることができるほどの勢力となったことは重要である。
また、弘盛の杣出し妨害の一件のところで、
弘盛の頃、大内氏は地頭や小武士団を配下に組み入れて有力豪族となっていたことがこの事件からわかる
出典:『大内文化研究要覧』年表「注」 8ページ
とあるのは、極めて重要。
弘盛と満盛に関わる年表
治承二年(1178)弘盛流刑地から周防に召還
元歴三年(1184)周防権介任官、「大内介」と称す
建久三年(1186)重源に杣出し妨害を訴えられる
正治二年(1200)「国庁官人連署」に権介多々良弘盛の名が見える
建永元年(1206)多々良満盛、瑞雲寺建立(現龍福寺)
(参照:『大内文化研究要覧』)
子・満盛(十八代当主)
生没年 不明
官職等 周防権介、大内介
(典拠:『大内文化研究要覧』)
参照文献:受験参考書、『大内文化研究要覧』、『大内義弘』(松岡久人)
壇ノ浦の英雄は能登守教経。源義経は一騎打ちになったら勝ち目がないと思って逃げたのを、俺見逃してない(『平家物語』曰く)。平家の水軍は最高にカッコいい。源氏は馬乗ってればって感じ。それでも海戦に敗れるなんて。やはり時代の流れには勝てなかったんだね……。
壇ノ浦に散った文武の人たちの儚さと、厳島神社の社殿の麗しさが被るね……。
うん。滅びの美学とか信じないけど、なんか感動した……。俺は大内水軍を最強にして、能登殿よりも強くなるのが夢だよ。無敵艦隊を作るんだ。へへへ。
君たちの感想文はどうでもいいから、ご先祖さまの活躍に主眼を置いてくれないかな。苦情が殺到して父上に叱られるのは僕だからね。
誰も読んでないから苦情なんか来ないよ。