
巷の噂は信じるな! 本当は雅な名君・大内義隆
『失楽園の武者』とか『末世の道者』などと呼ばれる。
前者は、山口県が生んだ著名な作家・古川薫先生の作品タイトル、後者は『大内義隆記』などに出てくるワード。いずれにしても、刹那的で、大内文化の爛熟記を満喫した最後の当主。
歪んだ見方に徹するならば、治世者としては確かにやや凡庸な類であったのかも知れない。しかし、自らの愛するもの(者ではない)にこれほどまで真剣に向き合って、生涯をそれに注ぎ込んだのはある意味、至上の快楽だ。誰にでもできることではない。
「戦嫌い」は平和主義ともとれるし、文化人としての教養は最高レベル。生まれた時期が悪すぎたのか、先々代までの京狂いのツケが彼に回ってきたのか。しかしまあ、家を滅ぼされた毛利家にまで手厚く扱われて、羨ましい人である。
その分、「本当の」最後の当主・義長や陶隆房が悪者にされてしまった……。
サブカルが創り出したインチキ
様々なサブカルチャーの分野で、散々にこきおろされ、多少は歴史に詳しい人からは軽蔑もしくは同情される存在。ところがどっこい、専門の歴史学者の先生方や地元の人たちには愛されている。
サブカルの人たちに苦情を言うつもりは毛頭ない。今は何でも自由に発信できる時代。それこそ、どんなイメージを抱いて、どんな作品を世に出すことも自由である。
しかし、それも度が過ぎるとたとえその対象が故人であっても誹謗中傷にあたるということを少しは考えて頂きたいのである。
日本には、BLとかいう独特の文化があり、また、かつて男色なる特異な文化も存在していた。すべての巨悪の根源はここではないかと思う。ただし、それらはあくまでも、「逸話」にすぎず、大内氏研究の権威の先生方が、殊更に歴史論文の中で言及していたのを見たことはない。
「大寧寺の変は痴情のもつれ」などという事実無根のインチキを信じさせられている人、義隆公をミメウルワシイ男性との恋愛だけの人物という歪んだ事実を信じてそれに類する創作をおこなっている方々(著名な作家先生がお書きになっても気分が悪い、その辺の趣味人にその資格はない)、私にはまるで理解に苦しむ「オネエ言葉」とやらで語る義隆公を登場させた某有名オンラインゲームなどなど、枚挙にいとまがないが、今すぐにやめて頂きたい。
美しいものを美しいと思う当たり前すぎる思想
義隆が身辺に美男美女を置いたことは、雅な文化に憧れる教養人として当然のことである。よほどの変わり者でない限り、周囲を醜男と不美人で固める権力者はいないであろう。また、織田信長に森蘭丸などのような人物がいたのと同様に、そこそこそのような人物が存在したとしても、それこそ日本独自の文化として当然のことではある。ただし、それ以上でも、以下でもないのであって、様々な政治上の問題を含む重大事件を「痴情のもつれ」などと判断する輩の存在は、インターネットなどの面白半分に歪曲された情報にしか当たっていない証拠である。
「美しいものを美しいと思う」心は、誰しもがもっている人として当然の感情である。それをある種の人間特有の変わった趣味趣向だととらえるほうがどうかしている。
戦嫌いは裏返すと平和主義者
義隆は、尼子攻めで大敗を喫した後、領土拡張の意欲を失ってしまった。寵愛していた養子・晴持(当然叔父と甥としての感情以外なにもない)の死も彼を落胆させた。「美しいものを愛する芸術家は潔癖症である」というのは、韓国ドラマ『麗』の中のある登場人物の言葉だが、恐らくは可愛がっていた跡継ぎの不幸な死は、義隆の繊細な心を蝕んだのであろう。
幸い、政治にも軍事にも通じていた有能な家来が揃っていたから、当主がやる気をなくしても、直ぐに大国が崩壊することはなかった。しかし、何と言っても、最終的な決断を下すのは当主の役割である。
戦嫌いの義隆は、好戦派の家臣たちよりも、内政重視の家臣たちに肩入れした。ここで、家臣たちは両派に分かれてお家を分裂させる対立に至る。
こういう時、頼りになるのはむしろ好戦派で、武力に覚えのない内政派は臆病者が多い。内政派筆頭の相良武任など、なんども身の危険を感じて出奔したくらいだし、まさに家中は一触即発であった。
そして、重要なのは、内政派筆頭は相良武任などではなく、本当は、当主である義隆その人であった点だ。
マニアの妄想を加速させたゲーム会社の罪深さ
義隆のイメージを悪くしている巨悪の根源はゲーム会社である。とある戦国武将は、彼同様、雅な文化に憧れた名門の末裔であったが、ゲームの中に現れる姿は白塗りの公家、と決まっていた。ゲームというのは、よほどアダルトか残酷である以外、子どもから大人まで男女問わず楽しめる、日本が誇る文化である。そのような重要なカルチャーが、このような酷いことをしたら絶対にいけない。何も知らないプレイヤーたちは皆、この戦国武将のことを、ヘンテコな白塗りの公家である、と認識してしまった。以来、このイメージは、ゲームを離れ、様々な場所で、人々の共通認識となった。
ただし、見ている人はきちんと見ているのである。その戦国武将を敬愛する方々の間で、このような間違ったイメージを流すことはやめて頂きたい、との苦情が殺到し、やがて、ゲーム会社はこの戦国武将に関するゲーム内画像をいわゆる「イケメン」風のものと差し替えた。以来、紛争は起こっていないが、未だに、かつての白塗りの公家イメージが完全に消えていないことは否めない。画像がイケメンに差し代わる前に、ゲームをやめてしまった人も多いからだ。
私の確認する限り、同じゲーム内の義隆画像は、元々はそこそこまともであったのにかかわらず、むしろ、妙なBL物書きの影響からか、そのようなことを趣味としている人物のような画像へと変化した。また、先にあげたオンラインのほうは「あら、いやだ○○(敵国名)家、あたしと戦をしようだなんて。こっちから攻め込んで綺麗な男の子をもらちゃうわよ」のような言葉遣いで話す。
現在、義隆は当主として登場していないため、この会話を聞くことはできないが、単に大内家が好きなので、大内家に所属していた私は、合戦のたびにこのような台詞をきかされて気分が悪くなった。また、プレイ開始時に、プレイヤーはナビゲーターを務める小姓を選ぶのだが「男の子がおススメよ」というのである……。もう怒りしかない。なお、もう何年も前のことなので、台詞はうろ覚えであるため、完全に同じではない。だが。ほぼ、このようなものであったことは間違いない。
このようなゲームをプレイして育ったプレイヤーの中には、大内家、大内義隆に対する歪んだイメージが植え付けられ、これを拭い去ることは難しい。山口県の人たちは、ここは親切で寛容な県民性を示している場合ではない。地元の英雄が、こんなひどい扱いを受けていることに対して、声を大にして怒るべきである。
このような誤解はたいへんに迷惑である。
ホンモノの公家も驚愕!? 雅びすぎる山口館
曾祖父・教弘が建てた築山館で、幾度となく繰り返されてきた京趣味の宴も彼の代に最高水準にまで極められた。困窮したホンモノの公家より、はるかに公家らしき生活を送っていたかもしれない。
この時代、困窮した公家たちは、山口へ下向し義隆の庇護下に入ることで、なんとか体面を維持していた。おかげで、山口の文化サロンはますます京のそれに近くなった。自らも、公家が大好きな義隆は、公家の真似事をして牛車に乗ったり、衣冠束帯を身に付けたりと、ここは朝廷か、平安時代かと見紛うばかり。
さらに、大枚をはたいて官位を買い付けたため、その辺の公家顔負けの高位高官であった。
当然ながら、雅な宴はタダではない。義隆の寺社仏閣への寄進も半端ではなく、その優雅な暮らしぶりを続けていくには大量の金銭が必要であった。いかに、大内家が富裕な大国であったにせよ、座して喰らっているだけでは、そのうち蓄えは尽きる。
そして、そのツケは配下の守護代、小守護代、最終的には無辜の民に及ぶ。
反義隆派の家臣たちは遂に、主との決別を決めた。
大寧寺は悲劇であって喜劇ではない
大寧寺が一部何も知らないネット民の言うような「痴情のもつれ」だとしたら、それは本当に喜劇でしかなかったろう。だが、当然そんなインチキが通用しない以上、これは悲劇である。義隆と家臣らが真に歩み寄れなかった悲劇、雅な趣味を楽しむことも許されなかった時代の悲劇である。
義隆は謀叛の噂を聞いても信じなかったとか、当日になってもまだ能楽を見ていたとかいう。最後の最後になって、さすがに逃げだしたが、もはや間に合わなかったのである。先に法泉寺、次に……と逃げに逃げて、長門・大寧寺に辿り着く。
ここから、石見の義兄・吉見正頼を頼ろうとしたが、嵐のため船が出せなかった。
大寧寺で、有名な姿見の池に己の姿を映した義隆は、そこに何も映らないのを見て、自らの最期を悟ったという。
反乱者たちは、義隆を自害させただけではなく、その遺児・義尊(これは義隆の子ではないとの噂もある)をも探し出して殺害した。ここに、大内家の直系の子孫はとだえたのであった。
なお、この政変で山口に下向していた公家たちの多くも被害に遭ったが、彼らに対する殺害方法はたいへんに残酷で、相当に恨みを買っていたものと思われる。
ぶっちゃけ良い人ほど戦国に向かない
世は平和な時代室町から、群雄割拠する戦国の世に移りつつあった。義隆が、武勇に秀でた弓矢の道を愛する君主であったなら、全国制覇も夢ではなかったかもしれない。しかし、彼は、人が好過ぎた。そして、父祖から遺されてきた富と広大な領地とが、彼に遊んで暮らせるだけのものを提供してしまった。
とかく、意地汚くて、卑しいものほど、嗅覚が鋭い。時代に敏感で我慢強く荒波を乗り越えていく力を持っているのである。乱世とはそういう時代だ。
彼がもっと早く生まれていたら、好きなことに明け暮れて平穏な人生を送れていたかもしれない。
死後に得られた安穏
極楽浄土の蓮池の端で、今日も雅な毎日の始まりに心躍らせる義隆。生前、血生臭いことに関与していない彼は、死後に訪れた静かな日々を満喫しているだろう。
そして、自分が歪曲された変な創作やゲームに眉を顰めているに違いない。
龍福寺のしあわせの鐘
義隆の死後、義理ではあるが、婿だった毛利隆元は、その菩提寺を大内氏館跡地に再建した。
大寧寺の変でもっとも被害を受けたのは、義隆主従を除けば、後の山口の民と、現在の研究者である。あの兵乱がなかったら、どれだけの貴重な文化財が焼けずに残っていたことか。毛利家とて、きっとそれらを大切に保護してくれたはず。
しかし、もえてしまったもはどうしようもないのである。
いま、龍福寺に、義隆が氏寺・興隆寺に寄進した梵鐘のミニチュアがあり、「しあわせの鐘」と名付けられている。平和を愛した義隆に相応しいネーミングである。
大内文化が最も、雅やかになった時代に思いをはせつつ、そっと鐘を鳴らしてみるのも良いだろう。
どこかで、最後の当主がそっと微笑んでくれているかもしれない。
ポイント
それらの性格は、戦国の世には全く向いておらず、国の行く末を案じた家臣らの造反に遭って自害した。
「大寧寺の変は痴情のもつれ」のような間違った思い込みと、事実無根の造られたイメージが横行している現実を正す必要がある。
きちんとした研究者の論文その他に、そのような記述が一切ないことから、これらが「デマ」であることは明白。いい加減なネット情報しか参照しない若者文化の弊害の現れである。