人物説明

大内義隆 最後の当主

2020年7月27日

大内義隆・アイカワサンさま作画

大内義隆とは?

大内氏三十一代、最後の当主。祖父・政弘、父・義興と大内氏の勢力は最大となっていったが、義興期になると戦国時代にさしかかり、山陰の尼子氏が強大となるなど西国も大内氏一強とは言い難くなってきた。足利義材の復職を助けて長期に渡り在京していた義興は帰国。尼子氏はじめ、留守の間に肥大化した連中を退治しようとしたが、志半ばで無念の病死。

揺らぎ始めた大国を鎮める暇もなかった早過ぎる父の死。ほかに競争相手となる兄弟がいなかったので、唯一の跡継・義隆が普通に後継者となる。けれども、「大国の主」という身分を満喫するだけで、周囲がまるで見えていなかった。戦国乱世にありながら、軍事を疎かにし、下向公家たちと雅な宴会三昧。見かねた家臣たちの叛乱によって倒され、琳聖太子から延々と続く大国を潰してしまった。

大内義隆・基本データ

生没年 1507~1551.9.1
父 大内義興
母 内藤弘矩の娘
幼名、通称 亀童丸
通称 周防介、大内介、左京大夫
官位等 従五位下 ⇒ 従二位、周防・長門・筑前・安芸・備後・石見守護、兵部卿、侍従、大宰大弐
法名 龍福寺殿瑞雲珠天大居士
墓所等 大寧寺に墓、位牌。菩提寺・龍福寺
(出典:『新編大内氏系図』、『大内氏実録』等)

大国の継承者

はっきり言って「無能」。この人よりダメな人は歴史上いくらでもいる。むしろ、誰かのように由緒ある寺院を焼き討ちするとか神仏をも畏れぬとんでもない悪事をいっさい働いていない分、普通に善良な人物とすら言える。けれども、「何もしないで」戦国乱世は生き残れない。

突然変異で生まれた息子

『陰徳太平記』のどこかに、あれほど有能だった先代からこのような無能な人物が生まれたことがおよそ信じられないというようなくだりがあったが、同感。本当に息子なのか DNA 鑑定をしてもらいたい。出典を忘れたが(多分フリー百科事典ではなかろうか。だとすればおよそ信用ならないが)、あまりに信じがたいので「母親に似たのだろう」と苦しみつつ結論づけた研究者がいたとかいないとか。

ただ、思うのである。あまりに「無能」扱いするのも気の毒なのではないかと。せめて「普通」くらいで留めて欲しい。お父上は人が善すぎて損をするようなお方だったから、たった一人の跡継を徹底的にスパルタ教育して苦しめるようなことはできなかったのかも。というよりも、帝王学を学ばせるべき時期、ずっと在京していたから、「管理不行き届き」になったこともあり得る。だとしたら、やや遠回りだが、これも「流れ公方」のせいでこうなったとも言える。

父が不在だった長期に渡り、才女だったなどという噂をきいたこともない母親と、大量の姉たちに囲まれて育った。よほどのことがないかぎり、溺愛されて我儘勝手な息子が出来上がる流れだ。しかも、父祖の代までの「貯金」で大帝国には何でもあった。手を伸ばせば欲しいものは何でも手に入る。こんな境遇で「努力しろ」というのが無理。

ここが西の京だとかいう「まがいもの」ではなく、本当に王朝貴族が住まいする場所であったなら、夜毎雅な宴会を開いて現世を忘れても何らかまわない。しかし、悲しい哉、「ほんもの」の都では落ちぶれ果てた貴族たちは、王朝貴族の都ならぬ、武家の守護館に逃れて来て、主とともに、王朝貴族ごっこをする毎日。平安朝くらいまでなら、格下として見下していたはずの武家の主にゴマをすりながら。このように立場が逆転したのは、歴代が武家の主として、武力で以てこの素晴らしい「都」を築き上げてきたおかげではなかったのか? もはや、そんな遙か昔のことは、この人の脳裡にはなかったと見える。

ここで、歴史好きと称する多くの方々(本当に色々の書物を読んでおられる在野の研究者といった方々ばかり)が口をそろえていうのは、「あの最後のだけはいけない」という一言。「最後の」つまりは、この人である。その後につづくのが、雅な宴会の水準をキープするために、重税を課し、庶民は悲鳴を上げていた、というもの。出典は○○と仰らなくとも、誤ったことを語るはずがない方々なので、確認をとる無礼はできない。けれども、その典拠がわからないため、いくらなんでもそこまでやったんだろうか? という思いはある。でも、それが正しいとしたら全く以て、単なる無力だが無害な人物ではなく、「有害」で「迷惑」である。

家臣たちが叛乱を起こしたのも、よほどのことがあったからと思うので、恐らくは事実だろう。そうでなくとも、お金はすべて富国強兵に回さねば生き残って行かれない時代になっているのである。宴会なんてやっている場合ではないだろう。

住み着いた公家たちにはお引き取り願い、悔い改めてせめて「戦国」っぽい詰めの城でも造るべきだったろう。

戦果は家臣のおかげ・戦渦は己が愚かゆえ

お父上の代に決着が付かなかった厳島神主家と安芸武田の問題は、この人の代に解決した。けれども、それを以て、前半生はまともだった、などとは1ミリも思わない。相手が弱り切っていたのと、有能な家臣(毛利元就などの協力も含め)のおかげで勝てたのであり、本人は「何もしていない」。ただし、別に何かをする必要はないのである。主自ら戦場を駆け抜ける必要などない。その意味では、特に非難される筋合いはないだろう。

問題は尼子家との関係。お父上が成し遂げられなかった尼子家潰しを自分ならばできると思ったのだろうか。これについては、家中の意見も割れていたとされ、そもそも遠征をすべきではなかったのか、軍略がマズくて大敗北となったのかは、軍事評論家ではないからわからないけど。

でも、この戦争に敗れて散々な目に遭い、溺愛していた養子にも死なれて、その後は「完全にやる気を失った」という巷の噂が本当だとすると、あまりに「無能」すぎる。何も戦争をしろと言っているのではない。やらなくてすむのならば、平和な日々を送れるほうがずっといいからだ。しかし、弱肉強食の時代が到来しているというのに、せめて防御を固めるとか、そこら中に金銀財宝をばらまいてでも友好関係を結んで安全圏を確立するか、やれることはいくらでもあったのでは? どのようなやり方を取るべきかで家臣たちの意見が割れ、一触即発となるような不穏な事態とならぬよう、家中の様子を俯瞰し、常に注意を払って然るべき交通整理をするのは当主の役目だ。それがきちんとこなせるのなら、政治は政治家に、軍事は軍人に任せてあとはハンコだけ押していればいい。

しかし、この人はそれすらもやっていない……。相良と陶が険悪になり云々とか、もはや書くまでもないほど有名なことだろう。何やらこの一点だけが有名事項となってしまって、気の毒には思うのだが、やはり「最後が肝心」なのである。たとえ百戦九十九敗でも、最後に一勝して天下を取ればそれでいいけれど(この手の話、よく聞きますが、フツー九十九回も負ける前に滅びているのではないでしょうか……)、最後がみっともないと、ほかにあれこれと輝かしいことをやっていても、みっともない最後ですべてかき消されてしまうことになる。

とりあえず、ここまでのまとめとして、総大将として親征して無様に大敗した以上、その責はすべてこのお方にございます。

無様な最後だけ語り継がれる人

「文でもなく武でもない」

文芸関係の研究者の先生方ならば、あれこれとこの人がやったことを列挙して、これもあれもやりました、と仰るかも知れない。けれども、先々代があれもこれもやりすぎたせいで、すでにお父上の代にしてやることはなくなっていた。歌詠みとしての才能はこの人にはなかったようで、雅な宴会ですらすらと一首書き付けることに長けてはいたであろうが、残された歌はいわゆる「ネタ」がらみのものばかり。たとえば、奥方の召使い女に当てた艶書を奥方に拾われてしまい、奥方がその女のかわりに返書を書いたやりとりとか。

本人も自らを歌詠みとはみなしていなかったのかもしれないけれど、多少なりとも、きらりと光るものがあったなら、「私家集」にまとめましょうなんて花言巧語の海でいい気になりそうなものだ。そんな逸話をきいたこともないから、いまひとつだったと思われる。つまり『陰徳太平記』が言っているように「文でもなく武でもない」から、武芸がからきしであるばかりか、文芸も今ひとつだったろう、ってこと。

ただし、何にせよ、金で買える世の中。官位さえ買えるのだから、本人にその気があれば、歌集くらいいくらでも出せただろう(つまりその気はなかったか、とてつもなく下手だった)。恥ずかしい歌のホンモノをいくつか見知っているけれど、あんまりなので書かないで置く。

金に任せて何でもやった

武のみならず、文もダメだったのかどうかは、専門家じゃないから知らないけれど、何をやるにも最高水準じゃないとダメだったみたいで、あれこれ勉強会、優秀な家庭教師招聘みたいなことは山ほどやってる。お金のない公家は大喜びだから、招き放題だったろう。

これも出典忘れたけど、全然無関係な研究をなさっている先生が、偶然にもこの人の書いた「花押」(ホンモノ)を手に入れた、というようなことをご本に書いておられた。そこに、相当「文」を極めた人で云々とあった。ここでいう「極めた」というのは、祖父さまのように、素晴らしいお歌をお詠みになった、というような意味ではなく、最高級のそういう「先生」を招き寄せたって意味だったように思う。

おかげで、本人の「見る目」もかなり肥えていたらしく、それはそれで悪いことではないようにも思えるが……。目が肥えてしまうと、まがいものではなく、本当の一級品を手に入れたくなるのが世の常だから、お金はいくらあってもたりない。

困窮して即位式もままならぬ天皇に儀式費用をそっくり用立てしたのもこの人。天皇様は大喜びで、高位高官も昇殿すらもお許しになったが、それって、家来や国の民のために何かメリットあるんでしょうか?

確かに当時は「官位」というものに対する欲望は限りなく、富裕となった武家はこぞって少しでも高いものを手に入れたがったとか。この人の場合もその一例と言えるし、九州を討伐するのに「大宰大弐」という「名前」は非常に役に立ったらしいことは素人でも知っている事項。

最近の研究では、単なる公家マニアではなく、高位高官を欲したことにも意義が見出せるというご研究もあり、興味がないので、読まなかったけれど、例えば、出雲で大敗したのちに高位高官をくれるよう願い出てそれが叶ったとかなんとか。つまりは、高位高官でカッコ良く見せることで、大敗北の汚点を少しでも覆い隠そうとしたフシがあるらしいんですよね。そうだったんですか。いちおう、恥じらいの意識と、それを隠そうと知恵を巡らす余裕もあったんですね。しかし、これらの高位高官が手に入るってことは、つまりその裏で流れているのは多額の金銭なので。

冒頭の重税を課して云々が事実だとしたら、高位高官もそこから来ていることになるので、いい迷惑だ。

愛した女は野心家・男? はクズ

何でもかんでも公家マニアなくせに、歴とした公家のお姫様だった正妻・万里小路貞子という人は離縁された。理由は自らが気に入った「妻の召使いだった女」を後釜に据えるため。いや、離縁の理由がそれかは知らないけど、結果的にそうなった。ところが、この女がとんでもない悪女。義隆はこの女「おさい」にメロメロだったから、この女を経由すれば、どんな願い事も叶う。下心をもつ家臣たちはこの女に付け届けをし、願いを叶えたとか。

こういう話も古来よりいくらでもあるけれど、大内氏でこういうことをするのはやめてください。迷惑です。

何となく、有名な研究者の先生がチラと書いていたのを見た気がするのだけど、この女は「身持ちが悪かった」。なので、あるいは、息子は実子ではない可能性がある。それこそ DNA 鑑定してください。もはやどうでもいいが。こんな母親から生まれた息子がまともなはずはない。

女にもメロメロになったが、男にまで絡まれた(というか自らが悪い)。家臣の叛乱に際して、呆れ果てた忠臣(たとえば冷泉隆豊のような人々)たちが、もはやこれまでなので、潔く館内で死んでください、と説得したのに、義隆に纏わり付いていた「お気に入り」の男たち二名は、自らが助かりたいというだけの思いから「まだまだ、再起できます、逃げましょう」と言った。そんな連中のせいにするのも何だが、「その通りだ、逃げよう」とどうやらまだ死にたくなかったらしい義隆は忠臣たちの意見を無視し、妙な男たちの言うがままに「逃げた」。

纏わり付いていた男たちは当然、「奥方」同様自らが可愛いだけ。「奥方」のほうは「跡継」の母親としての名誉を手に入れることができたかもしれないが、男たちにはそんなこと望んでも無理だから、単に「金目当て」だ。そういう連中の意見を忠臣等の意見より優先するってどんだけはずかしいの?

こういう話、正直あまり好きじゃないのでかかわりたくないのだけど、オダノブナガにも森なんたらとかいうのいましたよね? けど、こういう関係じゃないみたいですよね……。本当に恥ずかしい。

しかもこの男二名は、それぞれ隙を見て逃げ出してしまった。あまりの愚かさに、却って作家先生たちが題材とするに相応しかったためか(どれほどア×だったのか、ということをわかりやすく読者に伝えるのに都合がいいからと思われます。それゆえここにも不愉快だけど書いてます)、あまり気分がよくないこの逸話は『陰徳太平記』にも、かなり古い部類には入るけれど、現代の作家先生が毛利元就について書いた小説にも出ていた。

大寧寺に墓あります

逃げに逃げて長門国まで行き、そこからお船に乗って、なおも逃げようとした。どういうわけが風波高く、船はどうしても吹き戻されてしまい、先に進むことができなかった。この時には妙な男たちはとっくに逃げ去っていたから、もはや「逃げましょう」という人はおらず(というより、船が吹き戻されたんだから逃げようにも逃げられない。『天命』ってやつですね。漸く悟ったか)、付近の大寧寺に入った。

ここで「ようやく」死のうってことになり、「討つ人も討たれる人も」なんて偉そうな歌を残してお亡くなりに。これほど無様なお人に、最後の瞬間に突然に未来を見通す神通力が備わって自らを死に至らしめたお前らも同じことになるぜ、なんて予知能力芽生えるわけないじゃん。

ちなみに、この歌以外に、最後まで付き従った忠義の家臣らの歌もあったが、本人のものも含め、なぜか煙のように消えてしまって何も残らなかったという(残らなかったなら、なんで今の世に伝わっているのか理由が知りたいです)。

ほかに取るべき道はなかったのか?

こんだけ散々に書いて、よほど頭にきてるみたいだ、相当嫌いなんだろう、って思った方。確かに好きじゃありません。でも、どういうわけか、どことなく人のよさそうな横顔がチラ見えるんですよ。彼の人が父、彼の人が祖父です。そんな方々の息子や孫をそこまで貶めたくはありません。

もっとほかにまともな解決策はなかったんだろうか、と常に思います。たとえば、隠居でもして、後は家臣の合議制で何でも決めてください、毎月一回だけ、公家の宴会できるようにお小遣いくれればそれでいいので、とか。じつは、最後の最後に実際に隠居するからという申し出はしてますが、すげなく断られてしまっています。

一番話が通じそうな内藤興盛に偉すぎる公家を派遣して仲介してもらったんですが、「今頃なんですか(もっと早く申し出ていたらあるいはなんですけど)」のような応対。叛乱者の側に立った場合、事ここに至り、今更って感じは確かにします。だってもう、大友宗麟の弟を後釜に据える約束を取り付けてあるし、今更後には引けないでしょ?

だいたい、山口の館から逃げ出して、長門くんだりまで逃げ、あわよくば船に乗って九州なり、石見の吉見なりのところに逃げ、上手く逃げおおせたら兵を整えて一矢報いてやろうなんて考えたわけだよね? そこまで断絶してんのに、今更何なの? わけわからん。そも、己が隠居ってことは、「おさい」ってのの息子をつぎの当主にってことですよね? その女、叛乱軍からは嫌われているからね。だいたい、お前らの無礼のせいで父上は隠居させられたなんて考えるかも知れない息子を後釜になんてできますか?

何もかも、遅すぎなんですよ。だから、相良と陶が一触即発でたいへんです、って時に何で手を打たなかったのか、って言ってるんです。もっと早く気付けよ。相良なんて自らが危ういと思って何度も逃げ出してるよね? つまりは相良のほうがまだ頭マシなわけよ。それをしつこく呼び戻してまで使ってるって何? 本人が逃げたいって言っているのに。気付けよ。

あまりにも自分の世界に引き籠もってしまってて、何も見えていなかったんだろうなぁ。「空気が読めない」これに尽きるよ。家中の空気も読めない人に、世の中の大きな動きなどわかろうはずはない。歴史の必然として、ここでなくとも、いずれは淘汰されてしまったんだと思います。残念ながら。

この話、色々な人に意見を求めて回りました。家臣との間の意思疎通をもっときちんとやれてたら、もっとしっかりしてたら、たとえ周防一国になっても、明治維新迎えられたかなぁ……って。そうかもしれないなぁって意見が大半なんだけど、歴史には「もしも」はないんだよね。

叛乱者になった家来はワルモノにされ、ぱっとしない殿様は気の毒なお方として、「真に」この家を滅ぼした毛利家の人たちに菩提寺を建ててもらい、地元の人たちからも大切にされています。羨ましいお方です。

毛利隆元さんの奥方は単に「養女」ってだけで、内藤興盛の娘です。にもかかわらず「舅」の仇討ちとかで、叛乱を起こした家来たちを淘汰することが「義戦」みたいになりました。大内家を滅ぼしたのは毛利家だと思うのですが、なにゆにか、そうではなく、叛乱を起こした家来たちがワルモノ、家を滅ぼした、毛利家はその悪い家来たちを倒して殿様の仇を討った、ってことになっています。この点が、とても不思議でなりません。

もちろん、毛利隆元さんが、ここで誰かに「大内」と名乗らせてお家再興するとか、そういうアホなことはしなくてけっこうです。戦国乱世、これが普通です。あわよくば、毛利家が西国だけでなく、天下を統一して欲しかった、そう思います。そうなったら、「仇討ち」してもらった殿様も、「仇討ち」されて犠牲となったワルモノ家来たちの死も無駄にはならなかった気が。

しかし、「天下取りなど望むな」というのが、元就さんの思い(遺言なの、これ?)だとするのなら、それもまたけっこうです。どうにせよ、この家はもう滅んでいて、その後がどうなろうとも、もうあずかり知らぬことです。

※この記事は 20230630 に改訂されました。参考文献の類は特になく(基本データ除く)、単なる一人の人物に対する感想文みたいになっております。当然、リライト必至です。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

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ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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