大内義隆・雅にだけ生きた最後の当主

大内義隆とは?
大内氏三十一代、最後の当主。祖父・政弘、父・義興と大内氏の勢力は最大となっていった。それらの事業が完成したのがこのお方の代。つまり、歴代最大の領地を誇るということに。しかし、すでに、義興期になると戦国時代にさしかかり、山陰の尼子氏が強大となるなど西国も大内氏一強とは言い難くなってきていた。足利義材の復職を助けて長期に渡り在京していた義興は帰国。尼子氏はじめ、留守の間に肥大化した連中を退治しようとしたが、志半ばで無念の病死。
揺らぎ始めた大国を鎮める暇もなかった早過ぎる父の死。ほかに競争相手となる兄弟がいなかったので、唯一の跡継・義隆が普通に後継者となる。けれども、「大国の主」という身分を満喫するだけで、周囲がまるで見えていなかった。戦国乱世にありながら、軍事を疎かにし、下向公家たちと雅な宴会三昧。見かねた家臣たちの叛乱によって倒され、琳聖太子から延々と続く大国を潰してしまった。
単なるお人好しで、戦に向かなかった気の毒な人ということで片付けるのもどうかと思われるが、そういうことにしておくのが一番無難だろう。
大内義隆・基本データ
生没年 1507~1551.9.1天文二十年長門大寧寺にて自害、45才
父 大内義興
母 内藤弘矩の娘
幼名、通称 亀童丸
通称 周防介、大内介、左京大夫
官位等 従五位下 ⇒ 従二位、周防・長門・筑前・安芸・備後・石見守護、兵部卿、侍従、大宰大弐、左京大夫
法名 龍福寺殿瑞雲珠天大居士
墓所等 大寧寺に墓(宝篋印塔)、位牌。菩提寺・龍福寺(こちらにも位牌)
(出典:『新編大内氏系図』、『大内氏実録』等)
大国の継承者
はっきり言って軍事的方面には不向きな人。歴史上、軍事がダメな人などいくらでもいる。そのような方々は、誰それのように由緒ある寺院を焼き討ちするとか、反抗する勢力の人々を皆殺しにするとか、神仏をも畏れぬ無慈悲な悪事をいっさい働いていない分、善良な人物とすら言える。けれども、そのような心優しい方々(悪く言えば、いわゆる臆病な方もおられるが)が、運悪く戦国乱世に生を受けてしまった場合、悲劇が起こる。「何もしないで(戦わないで)」戦国乱世を生き残ることはできないからだ。
突然変異で生まれた息子
『陰徳太平記』のどこかに、あれほど(武人として)有能だった先代からこのような無能な人物が生まれたことがおよそ信じられないというようなくだりがあったが、同感。本当に息子なのか DNA 鑑定をしてもらいたい。出典を忘れたが(多分フリー百科事典ではなかろうか。しかも、今のように出典明記などがうるさくなかった時代のことと記憶している。だとすればおよそ信用ならないが)、あまりに信じがたいので「母親に似たのだろう」と苦しみつつ結論づけた研究者がいたとかいないとか。
ただ、思うのである。あまりに「無能」扱いするのも気の毒なのではないかと。せめて「普通」くらいで留めて欲しい。お父上は人が善すぎて損をするようなお方だったから、たった一人の跡継を徹底的にスパルタ教育して苦しめるようなことはできなかったのかも。というよりも、帝王学を学ばせるべき時期、ずっと在京していたから、「管理不行き届き」になったこともあり得る。だとしたら、やや遠回りだが、これも「流れ公方」のせいでこうなったと言える。
父が不在だった長期に渡り、才女だったなどという噂をきいたこともない母親と、大量の姉たちに囲まれて育った。よほどのことがないかぎり、溺愛されて我儘勝手な息子が出来上がる流れだ。しかも、父祖の代までの「貯金」で大帝国には何でもあった。手を伸ばせば欲しいものは何でも手に入る。こんな境遇で「努力しろ」というのが無理。
ここが西の京だとかいう「まがいもの」ではなく、本当に王朝貴族が住まいする場所であったなら、夜毎雅な宴会を開いて現世を忘れても何らかまわない。しかし、悲しい哉、「ほんもの」の都では落ちぶれ果てた貴族たちは、王朝貴族の都ならぬ、武家の守護館に逃れて来て、主とともに、王朝貴族ごっこをする毎日。平安朝くらいまでなら、格下として見下していたはずの武家の主にゴマをすりながら。このように立場が逆転したのは、歴代が武家の主として、武力で以てこの素晴らしい「都」を築き上げてきたおかげではなかったのか? もはや、そんな遙か昔のことは、この人の脳裡にはなかったと見える。
ここで、歴史好きと称する多くの方々(本当に色々の書物を読んでおられる在野の研究者といった方々ばかり)が口をそろえていうのは、「あの最後のだけはいけない」という一言。「最後の」つまりは、この人である。その後につづくのが、雅な宴会の水準をキープするために、重税を課し、庶民は悲鳴を上げていた、というもの。出典は○○と仰らなくとも、誤ったことを語るはずがない方々なので、確認をとる無礼はできない。けれども、その典拠がわからないため、いくらなんでもそこまでやったんだろうか? という思いはある。でも、それが正しいとしたら全く以て、単なる無力だが無害な人物ではなく、「有害」で「迷惑」である。
家臣たちが叛乱を起こしたのも、よほどのことがあったからと思うので、恐らくは事実だろう。そうでなくとも、お金はすべて富国強兵に回さねば生き残って行かれない時代になっているのである。宴会なんてやっている場合ではないだろう。
住み着いた公家たちにはお引き取り願い、悔い改めてせめて「戦国」っぽい詰めの城でも造るべきだった。
しかし、この人には無理な相談である。「自宅」が西の京などというニセモノの都になってしまっていたこと、軍事的には1ミリの役にも立たないが位だけは高い無能な公家たちが大量に居候していたことなどが、すべて災いした。加えて、家臣にも恵まれなかった(それは本人にも問題があった可能性大)。身を賭して現状に目を向けるよう諭してくれる真の忠臣などいなかっただろう。
叛乱家臣が国のためを思って云々の善人でなかったことは紛れもない事実である。気持ちは分るが、いきなり主君を倒そうなどと企てる前に、命を捨てても諫めてこそ真の忠臣だ。冷泉隆豊などが忠臣となっており、まあ、それはそうなのだが、果たして命を捨ててでも諫めることができただろうか。できていたなら、その後のことはなかったですよね。まあ、意見はしておられましたが、無視されたわけで。どうせ、最後の道行きにお付き合いするくらいなら、そうなる前に手を打ってもよかったのでは? 忠臣の諫死で覚醒した当主、どこかにいたと思いますよ。そんなことしても聞き入れてはもらえない=犬死にと悟っていたのなら、それ以上付き合わなければよかったのに。何はともあれ、父の代の陶興房、祖父の代の陶弘護、皆これ以上ない忠臣です。要は、主も臣下も、ともに小粒となっていたようです。
この方のためなら命を捨てられる、そう思って貰えるほどの魅力が、このお方になかったことだけは事実でしょうね。いくら一緒に宴を楽しんでくれても、そのような公家は都では食うにも食えなくなったから逃げてきた腰抜けです。先代までのように、活躍の場を与えてくれる有難いご当主さまとして、真に慕って来てくれている文人たち(雪舟さんなど)とは違います。
人に恵まれることも仁徳の賜物です。その意味ではやはり、本人にも問題があったのかもしれません。毛利元就さんのような方を見習うべきでしたね。優秀な三人のご子息とともに、いたくお気に召してはおられたようですが(嫡男隆元は人質として山口いたことがあるが、気に入られて『隆』の字と、養女ながら娘を娶せてもらった。吉川・小早川家との養子縁組の話も快諾。また、のちに、元就父子が山口に挨拶に来た際にはこれを歓待している)。
戦果は家臣のおかげ・戦渦は己が愚かゆえ
お父上の代に決着が付かなかった厳島神主家と安芸武田の問題は、この人の代に解決した。けれども、それを以て、前半生はまともだった、とは言えません。相手が弱り切っていたのと、有能な家臣(毛利元就などの協力も含め)のおかげで勝てたのであり、本人は「何もしていない」。ただし、別に何かをする必要はないのである。主自ら戦場を駆け抜ける必要などない。その意味では、特に非難される筋合いはないだろう。
問題は尼子家との関係。お父上が成し遂げられなかった尼子家潰しを自分ならばできると思ったのだろうか。これについては、家中の意見も割れていたとされ、そもそも遠征をすべきではなかったのか、軍略がマズくて大敗北となったのかは、軍事評論家ではないからわからないけど。
でも、この戦争に敗れて散々な目に遭い、溺愛していた養子にも死なれて、その後は「完全にやる気を失った」という巷の噂が本当だとすると、あまりに「無能」すぎる。何も戦争をしろと言っているのではない。やらなくてすむのならば、平和な日々を送れるほうがずっといいからだ。しかし、弱肉強食の時代が到来しているというのに、せめて防御を固めるとか、そこら中に金銀財宝をばらまいてでも友好関係を結んで安全圏を確立するか、やれることはいくらでもあったのでは?
必要とあれば、それこそ「武人」タイプの家臣にでも任せればよいだろう。ただし、それらの人物が、本当に「使える」人材なのか、家のため、主のためを第一に考えてくれている信頼に足る人物かどうかの見極めは必要。それが「政治力」というものである。家臣間の揉め事などに気を配り、仲裁の労を執ったり、場合によっては制裁を加えたり、とにかく家中にとってマイナスとなる状況は早いうちにその芽を摘み取らねばならない。
尼子との合戦のような国の大事に留まらず、どんな些細なことであれ、どのようなやり方を取るべきかで家臣たちの意見が割れ、一触即発となるような不穏な事態とならぬよう、家中の様子を俯瞰し、常に注意を払って然るべき交通整理をするのは当主の役目だ。それがきちんとこなせるのなら、政治は政治家に、軍事は軍人に任せてあとはハンコだけ押していればいい。それが当主としての務めであり、そのような交通整理が上手くできるかが、政治力である。
しかし、この人はそれすらもやっていない……。相良と陶が険悪になり云々とか、もはや書くまでもないほど有名なことだろう。何やらこの一点だけが有名事項となってしまって、気の毒には思うのだが、やはり「最後が肝心」なのである。たとえ百戦九十九敗でも、最後に一勝して天下を取ればそれでいいけれど(この手の話、よく聞きますが、フツー九十九回も負ける前に滅びているのではないでしょうか……)、最後がみっともないと、ほかにあれこれと輝かしいことをやっていても、みっともない最後ですべてかき消されてしまうことになる。
とりあえず、ここまでのまとめとして、総大将として親征して無様に大敗した以上、その責はすべてこのお方にございます(月山富田城のことを言っております)。
どういうわけか、この人に関する記録だけは大量に遺されており、優秀すぎる他の歴代当主を圧倒しています。いちおう、それらについてもまとめていきます。
[st-mybox title="戦争関連" webicon="st-svg-file-text-o" color="#757575" bordercolor="" bgcolor="#fafafa" borderwidth="0" borderradius="5" titleweight="bold" fontsize="" myclass="st-mybox-class" margin="25px 0 25px 0"]
【九州】享禄3年(1530) 、少弐と大友が反大内の態度をあらわにする。天文元年(1532) 、九州平定のために出陣(渡海はしておらず、たんなるデモンストレーション。戦闘は陶興房の独壇場。天文三年(1534)、平定完了。⇒ 有能な家臣にすべて任せたこと、親征もやってみせて相手を威嚇したことなどは評価できるでしょう
【厳島神主家】1541 藤原姓神主家滅亡
【尼子家関連】1541 1月安芸出兵、吉田郡山包囲の尼子軍撃退(前年9月、毛利家が尼子氏に攻撃され、救援を求めていた)1542 1月出雲遠征、6月月山富田城を囲む
1543 出雲で大敗北、養嗣子・晴持溺死
1533 大森銀山奪還、灰吹精錬開始(大森銀山は、1531年に小笠原氏に奪われていた)
1539 大森銀山奪回(1537、尼子経久に占拠されていた)
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義隆の治世
「文でもなく武でもない」
文芸関係の研究者の先生方ならば、あれこれとこの人がやったことを列挙して、これもあれもやりました、と仰るかも知れない(後述)。けれども、先々代があれもこれもやりすぎたせいで、すでにお父上の代にしてやることはなくなっていた。歌詠みとしての才能はこの人にはなかったようで、雅な宴会ですらすらと一首書き付けることに長けてはいたであろうが、残された歌はいわゆる「ネタ」がらみのものばかり。たとえば、奥方の召使い女に当てた艶書を奥方に拾われてしまい、奥方がその女のかわりに返書を書いたやりとりとか。
本人も自らを歌詠みとはみなしていなかったのかもしれないけれど、多少なりとも、きらりと光るものがあったなら、「私家集」にまとめましょうなんて花言巧語の海でいい気になりそうなものだ。そんな逸話をきいたこともないから、いまひとつだったと思われる。つまり『陰徳太平記』が言っているように「文でもなく武でもない」から、武芸がからきしであるばかりか、文芸も今ひとつだったろう、ってこと。
ただし、何にせよ、金で買える世の中。官位さえ買えるのだから、本人にその気があれば、歌集くらいいくらでも出せただろう(つまりその気はなかったか、とてつもなく下手だった)。恥ずかしい歌のホンモノをいくつか見知っているけれど、あんまりなので書かないで置く。
[st-mybox title="官位の変遷" webicon="st-svg-file-text-o" color="#757575" bordercolor="" bgcolor="#fafafa" borderwidth="0" borderradius="5" titleweight="bold" fontsize="" myclass="st-mybox-class" margin="25px 0 25px 0"]
1530 左京大夫任
1534 後奈良天皇から大宰大弐を授かる(即位料を献上した見返り)
1541 従三位
1545 正三位
1547 兵部卿補任
1548 従二位
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金に任せて何でもやった
武のみならず、文もダメだったのかどうかは、専門家じゃないから知らないけれど、何をやるにも最高水準じゃないとダメだったみたいで、あれこれ勉強会、優秀な家庭教師招聘みたいなことは山ほどやってる。お金のない公家は大喜びだから、招き放題だったろう。
これも出典忘れたけど、全然無関係な研究をなさっている先生が、偶然にもこの人の書いた「花押」(ホンモノ)を手に入れた、というようなことをご本に書いておられた。そこに、相当「文」を極めた人で云々とあった。ここでいう「極めた」というのは、祖父さまのように、素晴らしいお歌をお詠みになった、というような意味ではなく、最高級のそういう「先生」を招き寄せたって意味だったように思う。
おかげで、本人の「見る目」もかなり肥えていたらしく、それはそれで悪いことではないようにも思えるが……。目が肥えてしまうと、まがいものではなく、本当の一級品を手に入れたくなるのが世の常だから、お金はいくらあってもたりない。
困窮して即位式もままならぬ天皇に儀式費用をそっくり用立てしたのもこの人。天皇様は大喜びで、高位高官も昇殿すらもお許しになったが、それって、家来や国の民のために何かメリットあるんでしょうか?
確かに当時は「官位」というものに対する欲望は限りなく、富裕となった武家はこぞって少しでも高いものを手に入れたがったとか。この人の場合もその一例と言えるし、九州を討伐するのに「大宰大弐」という「名前」は非常に役に立ったらしいことは素人でも知っている事項。
最近の研究では、単なる公家マニアではなく、高位高官を欲したことにも意義が見出せるというご研究もあり、興味がないので、読まなかったけれど、例えば、出雲で大敗したのちに高位高官をくれるよう願い出てそれが叶ったとかなんとか。つまりは、高位高官でカッコ良く見せることで、大敗北の汚点を少しでも覆い隠そうとしたフシがあるらしいんですよね。そうだったんですか。いちおう、恥じらいの意識と、それを隠そうと知恵を巡らす余裕もあったんですね。しかし、これらの高位高官が手に入るってことは、つまりその裏で流れているのは多額の金銭なので。
冒頭の重税を課して云々が事実だとしたら、高位高官もそこから来ていることになるので、いい迷惑だ。
さてしかしです。この金に任せて何でもやったお陰で、文芸面にもそれなり特筆すべきがありますので、まとめておきます。
[st-mybox title="文芸関連" webicon="st-svg-file-text-o" color="#757575" bordercolor="" bgcolor="#fafafa" borderwidth="0" borderradius="5" titleweight="bold" fontsize="" myclass="st-mybox-class" margin="25px 0 25px 0"]
1530 三条西実隆「懐紙書方」を送る
1537 「多々良問答」成る(義隆の問いに三条西実隆が答えるというQ&A形式の書物)
1539 大内版「聚分韻略」刊行(携帯に便利なポケット版仕様)「三韻一覧」と書いてある本も
1544 玉堂宗条、義隆画像に賛
1546 公家、側近たちと経書を輪読
1550 遣明使・策彦周良帰朝、山口滞在、9月サビエル来朝、布教を許される
1551 サビエル布教開始、厳島千句連歌
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[st-mybox title="寺社改修築・寄進ほか" webicon="st-svg-file-text-o" color="#757575" bordercolor="" bgcolor="#fafafa" borderwidth="0" borderradius="5" titleweight="bold" fontsize="" myclass="st-mybox-class" margin="25px 0 25px 0"]
1530 義隆の請により松崎天満宮再建綸旨、10月完成遷宮
1531 乗福寺再建供養
1532 興隆寺鐘鋳造
1533 興隆寺金皷を鋳造施入
1534 後奈良天皇に即位料献上、昇殿を許される。以後毎年銀千貫献上
1534 今八幡に鰐口寄進
1535 御所の修理費用献上
1537 筥崎宮法楽和歌興行
1542 厳島神社修築を命じる
1546 筥崎宮本殿拝殿建立
1548 今山多聞寺再建
1550 8月15日仁壁、今八幡宮例祭参詣中止
1551 白石龍福寺、兵火により焼失
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ついでに「いちおう」政治
何をしたかよくわかりません(知りたくもない)。まあ、相良武任のような人物になんでも任せきりでしょう。しかし、この相良という人は、あの相良正任の子息です。そのわりには、文芸面での業績をあまりききませんが、有能な官吏であったことは事実でしょう。さもなくば、何度出奔しても連れ戻してまで重用しないでしょう。
なお、巷の噂のような意味での「お気に入り」でけっしてないですので、くだらない情報に振り舞わされないようにしてください。それこそ故人に対して無礼にあたります。
[st-mybox title="壁書" webicon="st-svg-file-text-o" color="#757575" bordercolor="" bgcolor="#fafafa" borderwidth="0" borderradius="5" titleweight="bold" fontsize="" myclass="st-mybox-class" margin="25px 0 25px 0"]
1529 家臣の武備充実のため奢侈を禁止⇒やる気満々、素晴らしい命令です。家督相続の翌年、心身ともにフレッシュでした。
1529 段銭未進など課税に関する条々制定
1531 周防国衙にも徳政令適用
1545 奢侈を禁じ尚武の壁書を出す
1547 「渡明船法度条々」を定める
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無様な最期のみ語る継がれる人
「国難」の流れ
よく文治派と武断派の対立が云々とかいいますが、その通りでもあり、それだけではないとも言えます。面倒なことは研究書に任せればいいので、単純にそういうことでいいでしょう。
文治派:戦争したくない人(これは武芸からきしの文官主体ですが、二派対立という意味では、武断派の親玉陶が嫌いな武人などもこっちと考えていいです。大事なのは、これの代表者が相良武任のように言われていますが、殿様自身が紛れもないこちら側の人間だったことです)
武断派:富国強兵あるのみ。あまりにもやる気の無い殿様に嫌気がさし、このままでは「乱世は渡りきれない」と気付いた人たちです。その意味たんなる好戦的な人たちというほど簡単ではないかと。
両派は事あるごとに対立。まさか、殿様本人をぶちのめすわけにはいかぬので、表向きの筆頭・相良武任に怨嗟の声が高まり、身の危険を感じた相良は殿様など放置して出奔(してみると、これも忠臣とはほど遠いかと)。
1545 肥後へ逃亡
1548 再出仕
三年間もの間、「役に立つ」官吏が不在だったことは堪えきれなかったのか、探し出して復職させています。
1549 毛利元就父子が山口に滞在していますが、この間、叛乱家臣らとの間にも行き来があり、密約を結んだ模様。相手は用意周到なのに、本人は何一つ気付いていません。
1550 8月15日仁壁、今八幡宮例祭への参詣が決まっていたものの、叛乱者たちが襲撃してくるかも知れないという噂が頻りだったため、念のため中止。同じ月の17日、これらのことについて、陶側に詰問使を送るが、上手いこと言い逃れされてしまい、空振りに。11月、若山城の補強工事が行なわれたというので、相手は抜かりがありません。
1551 8月28日叛乱者が山口に進撃、いったん法泉寺に退いたのちに長門逃亡。9月1日大寧寺で自殺、2日子息・義尊も殺害され万事休す
残虐すぎる? いいえ、頭にきてたんです
義隆が無様な逃避行を続けていた時、彼を守ってド派手に散った「忠臣」がいた一方で、やんごとなき身分ゆえ、命ばかりは助けてもらえるだろうと考えて逃走した公家たちがいたことはよく知られています。叛乱者がよく書かれるはずはないですが、それらの「逃走公家」に対する仕打ちが残虐だったことが、取り沙汰されています。
先ずは逃がしてなどもらえなかったこと。ついで、処断の仕方が非礼だったことなどで、神をも畏れぬみたいに書かれていますが、これは研究者などもたまに書いていますが、そのくらい彼らが「嫌われていた」ことを物語っています。彼らが夜毎の宴会に明け暮れていた頃、崩壊しつつある帝国を目の当たりにしつつ、何もできずにいた人々からしたら、お前ら何なんだよ? となりますからねぇ。
ここまで怨嗟の声が高まっていたのですから、もう行くところまで行ってしまってましたね。武士の情けもへったくれもないよ。だって、あんたら公家だもんね。
幼い息子まで手に掛けた? 当然でしょ。災いの根になります。記憶に間違いがなければ、取るものも取らず逃げ出したこともあり、かくも長い道を歩いた経験もない一行は足から血が流れたって。あのさ、本当に自らをやんごとなき身分のお方と誤解していませんか? 毎日、おままごとでもやってたらしいね。一日三万歩歩いてみ。申し訳ないけど、笑ってしまった。こんなのが、将来当主になっても、一兵卒の苦しみは生涯理解できないであろう。
恥ずかし過ぎる噂の数々
愛した女は野心家・男は金目当ての不忠者
何でもかんでも公家マニアなくせに、歴とした公家のお姫様だった正妻・万里小路貞子という人は離縁された。理由は自らが気に入った「妻の召使いだった女」を後釜に据えるため。いや、離縁の理由がそれかは知らないけど、結果的にそうなった。ところが、この女がとんでもない悪女。義隆はこの女「おさい」にメロメロだったから、この女を経由すれば、どんな願い事も叶う。下心をもつ家臣たちはこの女に付け届けをし、願いを叶えたとか。
こういう話も古来よりいくらでもあるけれど、大内氏でこういうことをするのはやめてください。迷惑です。
何となく、有名な研究者の先生がチラと書いていたのを見た気がするのだけど、この女は「身持ちが悪かった」。なので、あるいは、息子は実子ではない可能性がある。それこそ DNA 鑑定してください。もはやどうでもいいが。こんな母親から生まれた息子がまともなはずはない。
女にもメロメロになったが、男にまで絡まれた(というか自らが悪い)。家臣の叛乱に際して、呆れ果てた忠臣(たとえば冷泉隆豊のような人々)たちが、もはやこれまでなので、潔く館内で死んでください、と説得したのに、義隆に纏わり付いていた「お気に入り」の男たち二名は、自らが助かりたいというだけの思いから「まだまだ、再起できます、逃げましょう」と言った。そんな連中のせいにするのも何だが、「その通りだ、逃げよう」とどうやらまだ死にたくなかったらしい義隆は忠臣たちの意見を無視し、妙な男たちの言うがままに「逃げた」。
纏わり付いていた男たちは当然、「奥方」同様自らが可愛いだけ。「奥方」のほうは「跡継」の母親としての名誉を手に入れることができたかもしれないが、男たちにはそんなこと望んでも無理だから、単に「金目当て」だ。そういう連中の意見を忠臣等の意見より優先するってどんだけはずかしいの?
こういう話、正直あまり好きじゃないのでかかわりたくないのだけど、オダノブナガにも森なんたらとかいうのいましたよね? けど、その家臣は一応、忠義の人ですよね(知らんけど)。本能寺で一緒に死んでるじゃん。ところが、このお方に纏わり付いていたそれらの男どには、そんな「忠心」など、欠片もなかった。彼らは隙を見て、そそくさと逃げ出してしまったのである。本当に恥ずかしい。
あまりの愚かさに、却って作家先生たちが題材とするに相応しかったためか(どれほど愚かだったのか、ということをわかりやすく読者に伝えるのに都合がいいからと思われます。それゆえここにも不愉快だけど書いてます)、あまり気分がよくないこの逸話は『陰徳太平記』にも、かなり古い部類には入るけれど、現代の作家先生が毛利元就について書いた小説にも出ていた。
大寧寺に墓あります
逃げに逃げて長門国まで行き、そこからお船に乗って、なおも逃げようとした。どういうわけが風波高く、船はどうしても吹き戻されてしまい、先に進むことができなかった。この時には妙な男たちはとっくに逃げ去っていたから、もはや「逃げましょう」という人はおらず(というより、船が吹き戻されたんだから逃げようにも逃げられない。『天命』ってやつですね。漸く悟ったか)、付近の大寧寺に入った。
ここで「ようやく」死のうってことになり、「討つ人も討たれる人も」なんて偉そうな歌を残してお亡くなりに。これほど無様なお人に、最後の瞬間に突然に未来を見通す神通力が備わって自らを死に至らしめたお前らも同じことになるぜ、なんて予知能力芽生えるわけないじゃん。
ちなみに、この歌以外に、最後まで付き従った忠義の家臣らの歌もあったが、本人のものも含め、なぜか煙のように消えてしまって何も残らなかったという(残らなかったなら、なんで今の世に伝わっているのか理由が知りたいです)。
ほかに取るべき道はなかったのか?
こんだけ散々に書いて、よほど頭にきてるみたいだ、相当嫌いなんだろう、って思った方。確かに好きじゃありません。でも、どういうわけか、どことなく人のよさそうな横顔がチラ見えるんですよ。彼の人が父、彼の人が祖父です。そんな方々の息子や孫をそこまで貶めたくはありません。
もっとほかにまともな解決策はなかったんだろうか、と常に思います。たとえば、隠居でもして、後は家臣の合議制で何でも決めてください、毎月一回だけ、公家の宴会できるようにお小遣いくれればそれでいいので、とか。じつは、最後の最後に実際に隠居するからという申し出はしてますが、すげなく断られてしまっています。
一番話が通じそうな内藤興盛に偉すぎる公家を派遣して仲介してもらったんですが、「今頃なんですか(もっと早く申し出ていたらあるいはなんですけど)」のような応対。叛乱者の側に立った場合、事ここに至り、今更って感じは確かにします。だってもう、大友宗麟の弟を後釜に据える約束を取り付けてあるし、今更後には引けないでしょ?
だいたい、山口の館から逃げ出して、長門くんだりまで逃げ、あわよくば船に乗って九州なり、石見の吉見なりのところに逃げ、上手く逃げおおせたら兵を整えて一矢報いてやろうなんて考えたわけだよね? そこまで断絶してんのに、今更何なの? わけわからん。そも、己が隠居ってことは、「おさい」ってのの息子をつぎの当主にってことですよね? その女、叛乱軍からは嫌われているからね。だいたい、お前らの無礼のせいで父上は隠居させられたなんて考えるかも知れない息子を後釜になんてできますか?
何もかも、遅すぎなんですよ。だから、相良と陶が一触即発でたいへんです、って時に何で手を打たなかったのか、って言ってるんです。もっと早く気付けよ。相良なんて自らが危ういと思って何度も逃げ出してるよね? つまりは相良のほうがまだ頭マシなわけよ。それをしつこく呼び戻してまで使ってるって何? 本人が逃げたいって言っているのに。気付けよ。
あまりにも自分の世界に引き籠もってしまってて、何も見えていなかったんだろうなぁ。「空気が読めない」これに尽きるよ。家中の空気も読めない人に、世の中の大きな動きなどわかろうはずはない。歴史の必然として、ここでなくとも、いずれは淘汰されてしまったんだと思います。残念ながら。
この話、色々な人に意見を求めて回りました。家臣との間の意思疎通をもっときちんとやれてたら、もっとしっかりしてたら、たとえ周防一国になっても、明治維新迎えられたかなぁ……って。そうかもしれないなぁって意見が大半なんだけど、歴史には「もしも」はないんだよね。
叛乱者になった家来はワルモノにされ、ぱっとしない殿様は気の毒なお方として、「真に」この家を滅ぼした毛利家の人たちに菩提寺を建ててもらい、地元の人たちからも大切にされています。羨ましいお方です。
毛利隆元さんの奥方は単に「養女」ってだけで、内藤興盛の娘です。にもかかわらず「舅」の仇討ちとかで、叛乱を起こした家来たちを淘汰することが「義戦」みたいになりました。大内家を滅ぼしたのは毛利家だと思うのですが、なにゆにか、そうではなく、叛乱を起こした家来たちがワルモノ、家を滅ぼした毛利家はその悪い家来たちを倒して殿様の仇を討った、ってことになっています。この点が、とても不思議でなりません。
もちろん、毛利隆元さんが、ここで誰かに「大内」と名乗らせてお家再興するとか、そういう無意味なことはしなくてけっこうです。戦国乱世、これが普通です。あわよくば、毛利家が西国だけでなく、天下を統一して欲しかった、そう思います。そうなったら、「仇討ち」してもらった殿様も、「仇討ち」されて犠牲となったワルモノ家来たちの死も無駄にはならなかった気が。
しかし、「天下取りなど望むな」というのが、元就さんの思い(遺言なの、これ?)だとするのなら、それもまたけっこうです。どうにせよ、この家はもう滅んでいて、その後がどうなろうとも、もうあずかり知らぬことです。
附・対外貿易
日朝交易
天文3、6,7(二回)、16、20
すでに、先代の段階で、朝鮮との交易ではあまり儲けを見込めなくなっていた。この人は、金儲けよりも、珍しいモノや先祖代々同様、大蔵経などを手に入れることを目的として交易したらしい。「五経正義」(天文三年)、「大蔵経」、「朱子新註」漏刻器(天文七年、1538、大願寺尊海渡海)など。
なお、天文十三年(1544)蛇梁の乱と呼ばれる、日本の船による慶尚道・蛇梁鎮襲撃事件が勃発。交易は中止に。その後、再開していたが、かなりのブランクがある。先代までのように、両国関係を修復するための働きかけは一切なされなかった。
日明貿易
こちらも、先代までの努力の積み重ねにより、勘合船貿易は大内氏の勘合符独占状態。
天文八年、遣明船四艘派遣、正使。湖心碩鼎、副使・策彦周良
天文十六年、遣明船四艘派遣、正使・策彦周良(天文十九年、1550、帰国)
附・文芸面での事蹟
『大内文化研究要覧』から、「文化事蹟」について学ばせていただいた成果についてまとめておきます。心優しい研究者の先生方のこの方についての評価は、ほぼ同様なものであり、もっともスタンダードかつ信頼できるご意見だと思われます。※なお、私見(悪評)は挟んでおりませんが、自らの理解度に合わせてあるため、敢えて引用の形をとらず、平易な内容に書き換えています。よって、評価というよりも、現状羅列に近いです。「 」は原文のままです。
一、公家との交流に偏重。多種多彩な下向公家の存在により、「経学・詩文」「神道・歌道・医学・管弦」などなど様々な識者が山口に集住。「大内文化の最盛期」に寄与
一、下向公家と経書を論読、近習に四書五教を講義
一、山口には唐本屋もできる。
一、大内版も発行される
一、医学:明人・張忠が山口に在住
一、神道に傾倒する
一、有職故実を学ぶ(『多々良問答』)
一、南村梅軒(土佐南学の祖)に朱子学を学ぶ
一、乗福寺梅屋宗香、龍福寺玉堂宗条、策彦周良なだの禅僧とも交流
一、「聚分韻略」出版
一、「大内文庫」設立(歴代が蒐集した貴重な書物を集めたもの。滅亡後、大半が失われた)
一、サビエルにキリスト教布教を許可
以下は私見です。確かに、このように羅列するとあれもこれもやっています。しかし、これを以て公家たちの功績だとか、大内文化の最盛期を作り出したのはこの人だとかは1ミリも思いません。こんなの、歴代が長の年月かけてやってきたことです。これが集大成された(もしも、彼のあとにも当主が続いたら、その業績はその人に付せられたでしょう)というだけのことです。本人は確かに好学の方であり、そうであるがゆえに、あれもこれも吸収しようとしたのでしょう。そこは立派ではあります。
でも、そんなことに時間を費やしている場合か!? というのが現実なんですよ。生まれた時期が悪かったとしか言いようがありません。その意味で、気の毒と言えば気の毒です。前述のように、叛乱家臣らも、やることが乱暴すぎで、何も命まで取らずとも和解できなかったのだろうか、と思わなくもありません。しかし、彼らも必死です。中途半端なままでは、反撃に遭って、自らの身が危うくなるからです。
もっと腹を割って話し合い、この先どうなるか、何をしなくてはいけないか、考えて欲しかったと思います。これほど、学問好きな人のところに、山ほど知識人が来たら、あれもこれも勉強したくなるのはわかります。でも、周囲はそんなに平穏無事で過ごせる時代ではなくなっているんですよ。これは単なる推測ですが、叛乱家臣らが蛮行に及ばざるを得なかったのも、彼が当主として絶対権力を握っている以上、否と言われれば、最後は武力に訴えてでもお勉強会をやめてもらわざるをえない事態になっていたからだと思うのです。その意味では、この人にも、傲慢不遜なところがあったのでしょう。立派な人物のもとには、自然と立派な家臣が集まるものです。
毛利家を見てください。他家に養子を入れて見た目には乗っ取りにしかみえないような状態でも、他家の人々から歓迎されたくらいなんです。博奕尾の尾根から大博奕を打った時、周囲にはこの人にならばどこまででもついていけるという忠義の家臣が溢れていました。それに加えて、この人は、奥方すらもまともな人を選べなかった。やんごとなき公家の姫君を迎えておきながら離縁するなんて、きいたこともありません。たんなる我儘か、もとより、先にその召使い女にそそのかされていたためでしょう。
まあ、こんなくだらない逸話の一つ二つ、有名人には誰にでもあることです。でも、まっとうな生涯を送っていたら、立派な功績で上書きされて自然に消えてしまいます。なのに、なんで、今に至るまで、ヘンテコな噂のネタにされ続けねばならないのでしょうか。この現状、気の毒でなりません(自らも噂のネタにしてるが)。
心優しい地元の方で、あなたを悪く言う人は少ないです。もしかしたら、ほとんどいないかも知れません。部外者なので、好き放題書かせていただきましたが、それでもなお、どことなく人の良さそうな一面がチラ見えるんです。これは完全に幻影でしょうけど。彼の人が父、彼の人が祖父です。そんなに悪く書きたくはないんです。ひょっとして、本当に母親似だったという、単純な理由なんでしょうか? 最後に一言でまとめます。あなた、「欲張り」です。そんなにたくさんのこと、一度に学べるはずがありません。結局、どれも中途半端になった上、国政を顧みる時間がなくなったんですよ。自業自得ではありますが、ローマは一日にしてならずです。父祖の遺してくれた帝国を守るべき人はあなた自身です。努力なくして国は保てません。
武家の当主に生まれた以上、究極必要なのは「武」です。のちに現われる著名な戦国武将たちも皆、教養ある人々です。ですけど、それ以前に彼らは「武人」でした。公家の真似事はできても、官位の上では公家と同列になれても、あなたは「武家」です。究極、戦わねばならないんですよ! 武断派の人に丸投げして自らは宴会三昧でもいいけど、限度というものがあるのです。お小遣いの範囲内でおやりください。
参照文献:『日本史広辞典』、『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』(年表、、外交・交易、文芸事蹟等)、各種日本史通史 & 伝記、『大内義隆記』ほか
ミルと於児丸による、歴代当主さまについての、テキトー駄弁りはこれにて終了致します。ご静聴ありがとうございました。毎度長すぎて、離脱していない人などいないと思うけど。ん? まだ、二人抜けている? そうですねぇ。お一人は、畏れ多くて書けず、お一人は、訳分んなくて書けませんでした。お二方については、いずれの日にかまた。皆さま、とうぞお元気で。リライト? 無論、続けますよ。何せ、文化研究要覧とかが典拠になっていますから、雅なお話はあっても、合戦についてはほぼ書かれていません。年代くらいしか。でも、それ、書き込んじゃうと、フリー百科事典みたいに、書いた人しか分らない難解なものになってしまうので。あれこれイメージが違うところもあったと思いますが、関東の輩の理解なんてこの程度です。ではでは。
※この記事は20240730に加筆修正されました。なおもリライトは続いています。