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門山城(廿日市市大野)

2022年5月22日

門山城山頂説明看板と城跡碑

広島県東廿日市市大野の門山城跡とは?

大野浦駅から歩いて20分くらいの所にある山城跡で、現在この山は城山(じょうやま)と呼ばれています。大内義興代に、厳島神主家との合戦の拠点となったことがクローズアップされていますが、城の歴史はさらに遡るのではないかと考えられています。切り立った崖が続くところがあり、素人にはやや厳しい登山となりますが、山頂の展望はとても素晴らしく、達成感が得られる山城です。

城は厳島合戦の前に、大内軍に陸路を使って欲しくないと考えた毛利軍(吉川元春率いる軍勢)によって徹底的に破壊されたといわれており、当時の面影はまったく残っていません。しかし、ところどころに、人工的に手を加えられたと思われる岩などがあり、急峻な地形などからも考え合わせて、優れた山城であったことを想像させます。

付近には大頭神社や雌滝、雄滝などの景勝地もあります。

お詫び

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門山城跡・基本情報

名称 門山城
形態 山城
標高(比高) 265メートル(260メートル)
築城・着工開始 ①鎌倉時代末から南北朝時代か、②大永三年(1521)
廃城年 ②天文二十三年
築城者 ①厳島神領衆大野氏、②大内氏
廃城主 毛利氏(吉川元春が破壊)
改修者 大内氏(神領衆大野氏の城を改築か?)
立地 丘陵頂部先端
遺構 柱穴×二 、丸柱の穴と思われるもの×七、「刀掛け」の岩、水槽(通称「馬のたらい」)

門山城跡・歴史

大永三年四月十一日、厳島神主家・藤原氏の一門、友田興藤はみずから神主を称し、大内氏と戦闘を繰り返した。義興は陶興房らを派遣して、興藤を攻撃させたが、八月五日、友田での合戦の際、興房は門山に陣をはっていた、とある。

当時、大野には城があった。名前も大野城で、城主・弾正少弼は友田方であった。大永四年五月六日、陶興房が大野城を攻撃したので、友田興藤は武田光和とともに、援軍を女滝に出した。しかし、弾正少弼が興房に内通し、城に火をかけたため、友田・武田軍は敗走した。この戦勝を喜んだ義興は、嫡子・義隆を伴って自ら安芸に出陣。厳島の勝山に仮の屋形を造営し、そこを本営とした。⇒ 関連記事:勝山城

大永五年二月二十二日、義興は大野に渡り門山の地を見、二月二十六日に厳島から門山に陣を移した。友田興藤らとの合戦目的に使われたピンポイントの陣城のようなものを想像していた。しかし、山頂立て看板(後述)によれば、先の弾正少弼という人が大野氏で、門山城主であったという。城の起源は定かではないものの、鎌倉時代から南北朝期頃まで遡るとされていて、その用途は厳島神領の防衛のためと考えられている。大野氏は厳島神領衆の有力者だった(同じく立て看板)。大内氏ゆかりの文献に頻出する城で、大野氏が投降した時点で支配下に入ったものかと(『日本の城辞典』では年代が大永三年~天文二十三年となっており、興房が陣を張ってから、毛利家に破壊されるまでの時期を記しておられる。この間の大内氏利用期間とそれ以前の大野氏居城期間とで大改築などがなされたかは不明)。

義興はこの城で病にかかり、その後回復することなく亡くなった。無念の思いが残る場所である。
急峻で防御に優れた地形から、陸路安芸に進軍する際には、重要な拠点となり得る。それゆえのちに厳島合戦の前、「厳島におびき寄せる」計画なのに、この城を使い、陸路進軍されることを恐れた毛利方が事前に徹底的に破壊したと言われている。つまり、今あるものを見ても城として「使えない」状態である。

門山城・みどころ

城のすがた

遠景の写真

これまで、山城は頂上を目指すばかりだったけど、二回目、三回目と同じ城を訪れるようになってようやく、下から見上げた姿(ただの山にしか見えませんが……)を確認することの大切さを知る。山頂付近、色が変わっているところ、断崖絶壁の岩かと思ったけど、拡大してもよくわからない。単に色が違う樹木のようだ。

門山城・遠景

登山道

門山城・登山道

始まりこそ、普通の道ですが、だんだん細道となっていき……、

門山城・登山道

やがて、こ~んな風に、ロープにつかまって行くような、細くて急峻な道となります。

門山城・登山道

ですけど、二回目ということもあり、難易度が一挙に低くなっていました。さもなくば、ロープのあるような場所で写真撮影などできるはずがありません。もっとも、これより大変なところはやはり写真を撮っているような余裕はないので、この程度の道ではないと覚悟してください。

石組?

門山城・石組?このような岩を積んだみたいな場所があれこれあったり、大きな岩が転がっていたりします。けれども、これらが、積んだものなのか、何かに使っていた岩なのかを判別するのは難しいです。岩は自然に劣化して割れたりして形を変えますが、その自然に形をかえたさまが、いかにも人工的に見えたりするんです。なので、そこらに転がっている石を見て、これは城の遺品なのか、自然の岩が其れっぽく見えるのかを区別するのは困難です。

公式アナウンスとして、地元の郷土史の皆さまがこれは城の遺跡である、と区別してくださっているものは、以下のような遺跡となります。

柱穴

門山城・柱穴

崖っぷちに大きな穴が開いています。ここに柱を立てて建物を造っていたと考えられています。建物はなくなってしまい、柱もなく、今残るのは柱穴だけです。ココ、わかりやすいんですけど、「柱穴」の案内プレートは見落としがちです。

門山城・「石穴」案内プレート

このプレートが確認できれば、間違いなく「柱穴」を見つけれたとわかりますね。この柱穴からの展望も素晴らしいです。

門山城・柱穴からの展望

門山城・柱穴からの展望

展望がよくなってきているのは、山頂が近いからです。山頂看板と石碑はもうすぐです。

山頂 石碑と説明看板

 

門山城・山頂石碑と説明看板

山頂はつまりかつての廓跡。たいして広大な敷地ではないけれども、平にならしたちょっとした広間っぽい空間となっています。

「城域は城山と呼ばれている。海抜二六五・五メートルの山城で、山頂の岩を利用して諸施設をもうけていたものと思われ、山頂東端 の岩には、約一・九メートルの間隔で、柱穴と思われるもの二個 、その南にも一・一メートルから一・〇メートルの間隔で、 丸柱の穴と思われるものが七個、東西一列に並んでいる。西端の岩の斜面には「刀掛け」と呼ばれている階段状の浅い刻みがある。
さらに、南へはり出した大岩には「馬のたらい」と言われる。 縦六五センチメートル横一・九メートル深さ三センチメートルの水槽が彫られている。 雨水をためて飲料水に用いたものと思れる。
山城の城主は、平時はふもとの館に住んで領分を支配し、自らも 一族や使用人を使って田畑を作り、事ある時は一族郎党を率いて山 城にのぼり、戦闘にあたった。門山城の起源は明らかでない。 鎌倉時代の末から南北朝時代にかけ、厳島神領自衛の必要上、西部から侵入する勢力に対抗するため に備えられたのではないかと考えられる。
戦国時代 厳島神社の棚守佐伯房顕の日記に「大野城主弾正少弼」 の名が載っている。大野氏は厳島神領衆の有力な一員であり、門山城主 、大野郷の土豪でもあった。
大永四年(一五二四)五月、友田興藤が尼子、武田両氏と結び大内氏に叛した時、友田方であった大野弾正が大内氏と内応し、城に火をかけて武田、友田軍を敗走させている。
天文二十三年(一五五四)五月、宮内村合戦までに、門山 は毛利方吉川元春軍によって攻められ、城は破壊され、大野氏も滅亡した。 大野町教育委員会 Tel 0829-55-3257」(看板説明文)

門山城・山頂付近

山頂付近にもこのような岩がたくさん。かつては樹木はなかったわけで、これらの岩も何かの遺構なのかも。

門山城・山頂付近

これなんかいかにも何かに使われていたっぽい。まんまるの岩。ただし、丸くなっているのは風化したのかもなので、形は関係なしです。このような岩の下などに、昔はかわらけのようなものがたくさん転がっていたそうです。鑑定すると、紛れもなく、当時城に詰めていた兵士らが遺した遺物だったそうです。

とは言え、兵士の皆さんが、岩穴に暮らしていたとも思えませんから、かつては何かの簡易建物があって、この岩もそれにかかわるものなのかな、と思いますが、何もかもが謎に包まれています。

丸柱の穴

門山城・丸柱の穴

門山城・丸柱の穴

柱の穴と思われるものは合計七つ。七本の柱を使った建物が建っていたのだろうか。門山城・丸柱の穴

柱が立っている岩はかなりの面積があり、岩というよりも岩盤の大地みたい。ここに見張り用の建物を建てて、敵が現われたら弓矢や石などで攻撃する。この時代の山城なので、戦い方もそんな感じだそうです。敵を見下ろすことができる場所は当然、見晴らし良好。絶景です。

門山城・丸柱の穴唐の展望

刀掛けの岩

刀掛けの岩

門山城・刀掛けの岩

岩に刻まれた溝が刀掛けのように見えることからこの名がついている大岩。この溝が何のためなのか、そもそも岩そのものの用途も不明。写真だとわかりにくいのですが、溝というより段々がくっきりついています。上のほうにも、詰所(?)的に思えるいくつかまとまった大岩が見えていますし、とても興味深いところです。

門山城・刀かけの岩

 

黄色の線を引いてみたところが段々。階段状になっているので、文字通りの階段なんだろうか? 刀掛けとうよりも、刀置きという感じで、この段ごとに刀を置いたとしてもあまり意味がないような……。そもそも、数本しか置けませんし。いったいこれがなんであったのか、実態は不明でさまざまなご意見があるそうです。「刀掛け」というのはあくまで、そんな風な形、という意味で、実際に刀を置いていたかどうかの証拠はありません。

馬のたらい

いよいよ前回辿り着けなかった「馬のたらい」に向かいます。ちゃんと順路看板もあるのになぜ見付けられなかったんでしょうか。馬のたらい手前にもすごい大岩がありました。

門山城・馬のたらいへの入り口

ここを抜けると……あった!!

門山城・馬のたらい

長方形の水溜まり、って感じです。「馬のたらい」なんていうので、馬が行水できるようなものを想像しましたけど、そこまで大きくはありません。水を溜めておいて、生活の中で使っていたことは間違いないですが、具体的に何に使っていたのかは、かつての兵士さんたちに聞かないとわからないですね。

門山城・馬のたらい

だいたいの大きさは五郎を見て想像してください。「馬のたらい」って案内プレートがちゃんとついています。

門山城・馬のたらい案内プレート

 

岩があちらこちらに

 

とにかく岩が多い。ゴロゴロある。毛利家に破壊されなければ、多少かつての面影を偲ぶことができただろうか。ただひたすら岩が大量に転がっている断崖絶壁の山、としか形容できない現状。

門山城・大岩

柱の跡?

(門山城)柱の跡らしき穴の写真

人工的に穿ったと思われる長方形の穴が見える。大量にある岩のいくつかがこのようになっていて、遺構として認められているのは、柱穴、丸柱の穴、馬のたらいの三つとなるけど、これも馬のたらいの小型版みたいに見える。ただし、とても小さいので、水を溜める用途とは思えない。この穴は前回見付けたものなので、郷土史の先生のお話を伺えなかったけど、風化した岩が、きわめて人工的な形に割れることはよくあるケースみたいで、専門の先生方が認めていないものは、残念ながら、柱穴ではなく、自然にできた穴だと思われる。そもそも、柱の穴は皆、丸い形をしていたはず。世紀の大発見(?)かと思ったのに残念。

 

 

展望

(門山城)山頂からの展望の写真

道中が急峻な崖だったことも、すべて忘れて眼下を眺めた。展望はとてもよく、心洗われた。どんなに道が険しくとも上を目指すのは、それが大内氏ゆかりの地であることと、上からの眺めが心地良いことから。達成感半端ない山城でした。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』、大野町教育委員会様制作山頂立て看板(目茶苦茶詳しい)、標高、比高、遺構:柱穴、水槽は小都隆先生編『安芸の城館』ハーベスト出版を参照。年代(②)、立地、遺構:郭は日本城址研究会様編『日本の城辞典』新星出版社を参照。

門山城(広島県廿日市大野)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地:廿日市市大野
最寄り駅 大野浦 徒歩20分以内。大頭神社裏手

アクセス

大頭神社の裏手にあり、神社まではとても分りやすいのですが、城への登り口はきわめてわかりにくいです。一度目で「馬のたらい」を見落としていたので、二回目訪問してみましたが、登り口を忘れてしまったことと、あの断崖絶壁に二度も上るのはこりごりと思い、滝と神社だけ見て帰宅。

どうやらそもそも入口を間違えていた可能性がでてきた(地元の方のお話では、かようにわかりにくい入口ではない模様)ため、確認するまでお待ちください。

門山城の観光写真

門山城(広島県廿日市市大野)ついて:まとめ & 感想

門山城(廿日市市大野)・まとめ

起源は厳島神領防衛のために築かれたと考えられるがさだかではない
元の城主は厳島神領衆の有力者・大野氏
大内義興期に厳島神主家との合戦の舞台となる
大野氏は厳島神主家&安芸武田氏に叛き、大内方に内通。以後、この城は大内氏安芸侵攻時の重要な拠点とされた
厳島合戦の直前、大内軍の進軍を阻むため毛利氏が徹底的に破壊したため、城としての原型をとどめていない
柱を建てた跡と思われる岩、水槽として使われていたと思しき大岩などのわずかに残る遺物から、辛うじてかつて城として使われていたことがうかがえる
急峻な地形から防御に優れた城であったろうと思われ、山頂からの展望も素晴らしい

距離的に考えると1時間半もあれば登って下りて来られる初心者レベルの山です。けれども、何カ所か断崖絶壁としか形容できないすさまじい崖があります。このようなところはロープやチェーンにつかまって登るのですが、何かの間違いで切れたり外れたりしたら? と思うとちょっと背筋が凍ります。そんなことがないように、地元の皆さまが定期的に点検をしてくださっておられるので大丈夫ですが、高所恐怖症の方(そういう人はそもそも登らないだろうと思いますが……)は目眩を覚えるかも知れません。

『安芸の城館』というご本をお読みしていて驚いたのですが、この城には廓と城壁がないのだそうです。そういえば、山頂も目茶苦茶狭かったですし、いわゆる本丸っていう広くて平坦な部分が見当たらなかったですね。そこが城跡だったのか、ただの山なのかを専門家の先生方が調査なさるとき、廓と城壁のあるなしがたいへんに重要となるため、廓も城壁も見当たらないこの城は本来ならば、城ではない、ってことになってしまうとか。けれども、中世以降、数々の史料に登場した有名な城であること、人工的に手を加えたとしか思えない遺構が見付かっていることなどから、城であることは確実で、先生方からご覧になってもかなり稀有な例であるようです。

ちなみに、城壁のほうは、それこそ周囲が急峻な崖であることから、その天然の地形をそのまま城壁と見立てたということも十分にあり得ることで(ものすごく納得できる……あれは登れないよ)そこは問題ないようです。要するに、吉川元春が破壊したせいで、跡形もなくなっており、先生方のご研究もはかどらない状態。まったくどうしてくれるんだよ? と思うわけです(毛利三兄弟の中ではこの人が一番好きだけどね。かなり強引に言えばだけど)。

謎だらけの城跡ですが、本当に達成感半端ないので、体力と情熱に自信がある人はぜひ訪れて欲しいと思います。人生観変るかも(笑)。

こんな方におすすめ

  • 城跡巡りが大好きな人(近世天守閣じゃなく、中世山城)
  • そこが大内氏ゆかりの地であるならば何としてでも行く人
瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル笑顔イメージ画像
ミル

地元のガイドさんにご案内いただいて、もう一度登る予定です。大事なものを見落としたり、道を誤ることもなく、おまけに貴重なお話もたっぷり聞けるはずです。お楽しみに。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

この山ってさ、登る道と、下りる道とが違うんだ。つまり、一方通行なんだよ。それなのに、ミルときたら、下りる道を探すことができず、「登る道」から下りてしまったんだ。おかげで、俺たち、「自ら崖を滑り落ちる」ことになった。だいたい、もしも、登ってくる人と行き合ったらどうするつもりだったんだよ?

ミル涙イメージ画像
ミル

そのときは、もう一度回れ右してその人たちと一緒に登って、そのかわり、下りる道を教えてもらうつもりだったの。誰ともすれ違わなかったから許して欲しいの。

五郎通常イメージ画像
五郎

きっと、下りる道は登る道みたいにたいへんじゃないと思う。つぎは「滑り台」にならなくてすむと期待しているよ。

ここでいう「滑り台」とは、文字通り滑り台から滑るようなかっこうで山を下りることを言ってます(※そのような専門用語があるわけじゃなく、ミルたちが適当に作った言葉です)。二足歩行をしていて滑落したらけがをしてしまいますが、最初から座った状態で下りれば滑落するよりは安全、ということ。こちらの山に限りませんが、本当に滑り台のごとく下りれるほどの急斜面ってあります。ただし、そのやり方を使う際には段ボールが必要になるね、とほかの山でガイドさんに笑われてしまいました。滑り台と違って山道なので、洋服がたいへんなことになってしまうからです(涙)。子どものころ、段ボールを使ってちょっとした丘を滑り降り、「そり遊び」をしたことがあるけど、あんな感じ。

つまり、こんなド素人が登山とか、およそ危険ということですね。折敷畑山ですら滑り台になった、と言ったらもはや誰もガイドしてくれないだろうなぁ。

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