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門山城(廿日市市大野)

大野浦駅から歩いて20分くらいの所にある。切り立った崖が続く、恐ろしく上りにくい山城(登山素人視点)。人一人どころか、足一本分がようやく通れる細い通路があったり、断崖絶壁にロープがぶら下がっていたり……と、こんなところに城を造って住んでいたのか? と上を目指すことが絶望的に思えるほど面倒な場所。
もちろん、現在の登山道(そんな名前で呼べるような整備されたものはない)は、荒れ果てた山城跡に上るために、イマドキの人たちが便宜上つくったルートなので、当時もこの道を上っていたのかどうかは不明。頂上の文化財説明プレートも泥にまみれて文字不鮮明となり、石碑も欠けたままであるなど、手を入れているように思えず、観光資源としてあまり期待されていないように感じられるのが悲しい。
山に登るというよりも、岩登りと言うほうが相応しい頂上付近を何とかクリアすると、展望はとても開けていて、無事に登れてよかった、と感動できる。
ただし、研究自体あまり進んでいないらしく、何なのか分らない岩がゴロゴロしている状態。そのうち、先生方の調査が入り、その全貌が明らかになる日を待つばかりである。

門山城跡・基本情報

所在地:廿日市市大野
最寄り駅 大野浦 徒歩20分以内。大頭神社裏手
標高:265
比高:260
立地:丘陵頂部先端
遺構:柱穴、水槽、郭
年代:①鎌倉時代末から南北朝時代(厳島神領衆大野氏)
②大永三年~天文二十三年(大内氏利用時期)

門山城跡・歴史

大永三年四月十一日、厳島神主家・藤原氏の一門、友田興藤はみずから神主を称し、大内氏と戦闘を繰り返した。義興は陶興房らを派遣して、興藤を攻撃させたが、八月五日、友田での合戦の際、興房は門山に陣をはっていた、とある。
当時、大野には城があった。名前も大野城で、城主・弾正少弼は友田方であった。大永四年五月六日、陶興房が大野城を攻撃したので、友田興藤は武田光和とともに、援軍を女滝に出した。しかし、弾正少弼が興房に内通し、城に火をかけたため、友田・武田軍は敗走した。この戦勝を喜んだ義興は、義隆を伴って自ら安芸に出陣。厳島の勝山に仮の屋形を造営し、そこを本営とした(勝山城)。
大永五年二月二十二日、義興は大野に渡り門山の地を見、二月二十六日に厳島から門山に陣を移した。友田興藤らとの合戦目的に使われたピンポイントの陣城のようなものを想像していた。しかし、山頂立て看板(後述)によれば、先の弾正少弼という人が、大野氏で、門山城主であったという。城の起源は定かではないものの、鎌倉時代から南北朝期頃まで遡るとされていて、その用途は厳島神領の防衛のためと思われる。大野氏は厳島神領衆の有力者だった(同じく立て看板)。大内氏ゆかりの文献に頻出する城で、大野氏が投降した時点で支配下に入ったものかと(『日本の城辞典』では年代が大永三年~天文二十三年となっており、興房が陣を張ってから、毛利家にぶち壊されるまでの時期を記しておられる。この間の大内氏利用期間とそれ以前の大野氏居城期間とで大改築などがなされたかは不明)。
義興はこの城で病にかかり、その後回復することなく亡くなった。無念の思いが残る場所である。
急峻で防御に優れた地形から、陸路安芸に進軍する際には、重要な拠点となり得る。それゆえのちに厳島合戦の前、「厳島におびき寄せる」計画なのに、この城を使い、陸路進軍されることを恐れた毛利方が事前に徹底的に破壊したと言われている。つまり、今あるものを見ても城として「使えない」状態である。

門山城・みどころ

城のすがた

これまで、山城は頂上を目指すばかりだったけど、二回目、三回目と同じ城を訪れるようになってようやく、下から見上げた姿(ただの山にしか見えませんが……)を確認することの大切さを知る。山頂付近、色が変わっているところ、断崖絶壁の岩かと思ったけど、拡大してもよくわからない。単に色が違う樹木のようだ。

刀掛けの岩

岩に刻まれた溝が刀掛けのように見えることからこの名がついている大岩。この溝が何のためなのか、そもそも岩そのものの用途も不明。このほかに「馬のたらい」という岩が有名なのだが、なぜか見付けることができなかった。

岩があちらこちらに

とにかく岩が多い。ゴロゴロある。毛利家にぶち壊されなければ、多少かつての面影を偲ぶことができただろうか。ただひたすら岩が大量に転がっている断崖絶壁の山、としか形容できない現状。

柱の跡?

人工的に穿ったと思われる長方形の穴が見える。大量にある岩のいくつかがこのようになっていて、これがそうかどうかは保証できないが、立て看板や城廻の本によれば、このような穴は柱を立てていた跡であるらしい。

山頂立て看板

ご覧の通り、汚れている……。しかし例によって立て看板の解説文は秀逸。

「城域は城山と呼ばれている。海抜二六五・五メートルの山城で、山頂の岩を利用して諸施設をもうけていたものと思われ、山頂東端 の岩には、約一・九メートルの間隔で、柱穴と思われるもの二個 、その南にも一・一メートルから一・〇メートルの間隔で、 丸柱の穴と思われるものか七個、東西一列に並んでいる。西端の 岩の斜面には「刀掛け」と呼ばれている階段状の浅い刻みがある。
さらに、南へはり出した大岩には「馬のたらい」と言われる。 縦六五センチメートル横一・九メートル深さ三センチメートルの水槽 が彫られている。 雨水をためて飲料水に用いたものと思れる。
山城の城主は、平時はふもとの館に住んで領分を支配し、自らも 一族や使用人を使って田畑を作り、事ある時は一族郎党を率いて山 城にのぼり、戦闘にあたった。
門山城の起源は明らかでない。 鎌倉時代の末から南北朝時代にかけ、厳島神領自衛の必要上、西部から侵入する勢力に対抗するため に備えられたのではないかと考えられる。
戦国時代 厳島神社の棚守佐伯房顕の日記に「大野城主弾正少弼」 の名が載っている。大野氏は厳島神領衆の有力な一員であり、門山城主 、大野郷の土豪でもあった。
大永四年(一五二四)五月、友田興藤が尼子、武田両氏と結び大内氏に叛した時、友田方であった大野弾正が大内氏と内応し、城に火をかけて武田、友田軍を敗走させている。
天文二十三年(一五五四)五月、宮内村合戦までに、門山 は毛利方吉川元春軍によって攻められ、城は破壊され、大野氏も滅亡した。 大野町教育委員会 Tel 0829-55-3257」(看板説明文)

山頂石碑

こっちは石碑だけど、これも右上が欠けてしまっている……。せっかくの詳細に書かれた看板と、大切な石碑がこの有り様だと、本当に悲しくなる。

展望

道中が急峻な崖だったことも、山頂の看板が汚れていたことも、石碑が欠けていたことも、すべて忘れて眼下を眺めた。展望はとてもよく、心洗われた。どんなに道が険しくとも上を目指すのは、それが大内氏ゆかりの地であることと、上からの眺めが心地良いことから。達成感半端ない山城でした。

参照箇所:近藤清石先生『大内氏実録』、大野町教育委員会様制作山頂立て看板(目茶苦茶詳しい)、標高、比高、遺構:柱穴、水槽は小都隆先生編『安芸の城館』ハーベスト出版を参照。年代(②)、立地、遺構:郭は日本城址研究会様編『日本の城辞典』新星出版社を参照。

ミル

上の地図に山白浜神社(宮島)が載ってる……。無関係だけど、ここからのほうが辿り着けるんだろうか? まさかね。

ご注意

大頭神社の裏手にあり、神社まではとても分りやすいのですが、城への登り口はきわめてわかりにくいです。一度目で「馬のたらい」を見落としていたので、二回目訪問してみましたが、登り口を忘れてしまったことと、あの断崖絶壁に二度も上るのはこりごりと思い、滝と神社だけ見て帰宅。一回目は、いずこかのサイトオーナー様のご案内をプリントアウトして出かけたので迷いませんでしたが、いきなり行くとどこが入り口なのかはまったく分りません。看板、矢印の類は一切ないです。

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