
広島県東広島市鏡山の鏡山城跡とは?
東広島市の中心・西条駅からほど近いところにある国指定史跡です。この地はかつて、大内氏の安芸国における直轄地でした。西条盆地の中央部分を占める要地にあることから、応仁の乱における東軍勢力との戦闘、戦国時代の尼子氏との攻防などの舞台となりました。
長らく大内氏の安芸国支配の拠点となっていましたが、後に曾場ヶ城、槌山城へと拠点が移されその役目を終えました。現在は市民の憩いの公園となっており、公園内部にかつての城跡が大切に保存されています。
鏡山城跡・基本情報
正式名称 鏡山城
別名 鏡城
形態 山城
標高(比高) 100メートル
面積 山頂・335メートルから東西南北約300メートル四方
築城・着工開始 14世紀後半頃
廃城年 大永五年(1525)
築城者 大内氏
廃城主 陶興房
改修者 大内氏
遺構 堅堀を伴う東西堀切、切岸、主郭、石垣、土塁、石段、井戸、基壇状遺構、畝状竪堀群、出丸
指定文化財 国指定「史跡」
鏡山城跡・歴史
史料に見える初見
古文書による鏡山城の初見は、寛正六年(1465)の小早川家証文であるという(東広島市パンフレット)。つまりこの時点ですでに城が存在していたことは証明されているが、いつ、誰によって建てられたかははっきりしない。遺構の調査などにより、大内氏がこの地を直轄地とした14世紀後半には拠点として築城されていたと考えられている(『安芸国の城館』)。
大内安芸国直轄領の拠点
東西条は、南北朝時代以降、安芸国内における大内氏の領地であった。ここには、分郡守護代と呼ぶ研究者もいるような「郡代(代官)」が置かれた。郡代といえども、その重責は守護代に匹敵し、文字通り守護代クラスの重臣が宛てられた。かの陶興房までもその職に就いたことがあったくらい。ほかにもお歴々が綺羅星。
むろん、彼らが現地に赴任したままということはないので、配下の「小郡代(又代官)」が政務を執った。
大内氏では直轄領とした城に城督を置いて指揮を執らせていたが、鏡山城の城督は郡代が兼任した。前述の通り、郡代は常駐しないから、大内氏に従う中小武士団・東西条衆が交替で城番にあたり「鏡城衆」と呼ばれていた。
この城が舞台となった主な合戦として、二つあげられる。
一、応仁・文明の乱の際、郡代・仁保弘有が東軍に寝返った時。
一、出雲の謀聖・尼子経久が野心満々、電光石火でこの城を落とした時。
現存最古の城掟
応仁文明の乱に際して、東西条の郡代は仁保弘有であった。文明二年(1470)に分国で大内道頓が政弘に叛旗を翻した時、弘有は道頓側についた。この時、弘有は摂津にいたが、翌年には東西条に帰ってしまった。あわよくば甥を追い落として大内氏の家督を手に入れようと企てた道頓だったが、留守を守る陶弘護に撃退されてしまう。
道頓に味方した弘有は孤立無援で、新たに赴任した東西条郡代・安富行房らに攻められて城は陥落した。
道頓らの野望は潰え、大乱が終わって帰国した政弘は「現存最古の城掟」(同上)とされる「安芸国東西条鏡城方式条々」を制定した(文明十年、1478)。
安芸国西条鏡城法式条々
法泉寺殿 御判
安芸国西条鏡城法式条々
一、当城衆当番以名代不可勤仕事、
一、当城普請、毎日不可有懈怠事、
一、仮雖為城衆知人、不可入城内事、
一、置兵糧無為之時、不可配当城衆事、
(一、博奕堅固可停止事、イ)
以上
右於背此旨之輩者、可被致行殊御成敗之由、所被仰出也、仍壁書如件、
文明十年六月廿日
法泉寺さま・「城掟」制定
近藤清石先生の『大内氏実録』「大内氏壁書」から抜き出してみました。『群書類従』とか色々なところに原文出ていますね(『イ』というのが不明だけど、原文のママ)。
※なお、東広島市のパンフレットには書き下し文が載っています。
要するに、当番は本人がキチンと勤め、普請はサボらず、知り合いでも城に入れるな、何事もない時には兵糧を食うな、博奕は御法度だ、これらのルールに従わない者は成敗しちゃうからそう思えって感じ。真面目に働いていれば、何ら問題ありません。
鏡山城攻防戦
その後、義興代には、陶興房も郡代をつとめた。大永二年(1522)のことである。『陰徳太平記』などの軍記物によると、京都から帰国した大内義興が鏡山に城郭を構えたことになっており、政弘期は無視されている。仁保弘有討伐に際して、城は落城し、そののち政弘が「城掟」を出していることから、政弘期に城の修繕が行なわれその後も使われ続けていたことは明らかなのに。
つまりは義興はすでに存在していた鏡山城を改築したのであろう。軍記物類が「城郭を構え」としているくらいなので、かなり大がかりな改築事業だったのだろう。郡代を任された陶興房が、義興政権トップの人物であることからも、この城、この地域の重要性がわかるというものである。
むろん、政務多忙の興房が安芸国に留まることはできないから、就任セレモニー的な入城のあとは帰国。そんなときに、尼子経久が襲いかかり、城を陥落させてしまった(大永三年、1523)。興房は安芸国に出陣し、大永五年までに安芸国の敵軍を駆逐した。この時、新たに杣城が築かれ、鏡山城は廃された。以後は杣城が大内氏の東西条拠点となっていったのであった。※杣城は史料などに書かれている名称で、コチラが正しいと思われますが、ほかにも多くの別名があり、現在は「曾場ヶ城」として観光資源化されています(史跡指定はなし)。
陶興房・郡代
使われなくなった山城は、廃れて元の山にかえる。公園として整備されたおかげで、城跡は大切に守られており、東広島市教育委員会製作のパンフレットも手厚い。第一から第五郭までの郭跡、畝状竪堀、出丸、井戸など分かり易い状態で残る。案内板も充実しており、迷うことはないだろう。それでも、足元は滑りやすく、道も急なところがあるので、それなりの準備は必要。
鏡山城跡・みどころ
かなりたくさんの遺構が残っており、山城マニアにはたまらないスポットであると思われる。しかし、残念ながら、集中豪雨の被害を受けてのち、長らく立ち入り禁止となっており、現在も入れない場所が多い。
現地の史跡案内看板に載っている縄張り図。これによると、ルートがいくつかある模様。当然「鏡山公園ルート」を通ったはずなので、見落としが出たのは立ち入り禁止区域だった以外に、別ルート上にあった可能性も。とにかく、非常に広大な城跡で、公園の裏山と侮っていたらすべてを満喫できない可能性が。
ところで、公園には縁がないと思い、見向きもしなかった「公園案内図」を見たところ、城跡部分は広大な公園のごくわずかでしかないことが判明(青枠内)。これって、公園全体がもともとの城跡だったと見なしてよいのだろうか。巨大な曾場ヶ城を見てしまった後で、さすがにこの面積はないよなぁと思った。あまりに小さい。曾場ヶ城がデカすぎるのだろうか。⇒ 関連記事:曾場ヶ城
5廓・通称「下のダバ」
2廓についで大きく、東西30メートル、南北15メートルある。2廓との比高差は12メートル。東側に土塁、その北側に低い段がある。また西側には井戸の跡もある。
「ダバ」って何? って思うけれど、文化財説明看板に「段場のことか?」とあるので、建築し使っていた人々にしかわからないワードみたいです。
3郭・通称「馬のダバ」
3廓は2廓の下に位置し、防御上とても大切なところ。西側に土塁や大きな竪堀、東側に畝状竪堀群などが遺されているらしいのだが……。また3廓から突き出すような形で4廓が存在し、ここには「大手門」があったと考えられている。どういうわけか、この4廓がどうしても見付けられなかった。
「馬のダバ」という謎の「通称」から、馬小屋だのがあったのかと勘違いしてしまうけれど、馬とは無関係で3廓が「城馬の方角にある段場」という意味で、単に位置を示しているだけの名称なので要注意。
畝状竪堀群

これが「畝状竪堀群」とやらにあたるのかどうか、イマイチ分らない。だけど、説明写真にそっくりだったので。

コチラをご覧くださいませ。
「畝状竪堀群」というのは、要するに竪堀が複数集まっているモノ。見ての通り三本あります(ただし、集中豪雨の土砂崩れ跡に見えなくもない……)。
2廓・通称「中のダバ」
2廓はもっとも大きな廓で、東西50メートル、南北15メートルあり、1廓とあわせて本丸を形成している。上中下三段に分れていて、上段と中段には土塁が築かれている。また、井戸跡が二つある。
ブルーシートが嫌でしょうがない……。なんか工事現場みたいです。
井戸跡
さすがに「井戸の跡」は誰の目にも分りやすい(看板までついているし)。他にも何カ所かあり、中を覗くこともできる。当然、水はとうに涸れており、中は草で覆われていた。
井戸は全部で五つもあり、このことからも、城内でかなり多くの人々が生活していたことをうかがわせるという。
1郭(主郭)展望
もっとも高いところにあるのが1郭で、「御殿場」と呼ばれている。2郭とあわせて主郭を構成し、高い切り岸で囲まれた堅固な造りになっているという。1廓には石垣だの岩だのがあって、ほかにも様々な遺構(専門家の先生ならわかる)があって、かなり多くの建物があったことが推測されるという。
「御殿場」という呼び名は建物の礎石が遺されていたことによる。最も高いところにあるというものの、さほどではなく、この後、より高く見晴らしのきく杣山城などに拠点を移していったのはそんなところに理由があるのかもしれない。
石垣
東出丸
出丸というのは、出城、本丸から突き出すようにして築かれた廓のこと。「藤の丸」と「東出丸」という二つの出丸が残っている。なお「仮称」と書いてあるので、便宜上つけられた名称と思われる。
鏡山城(広島県東広島市)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 東広島市鏡山二丁目(鏡山公園内)
最寄り駅 バス:西条駅から 徒歩:西条駅から45分
アクセス
広島大学へ行くバスを使うと便利なのですが、歩いても45分(これを長いと思う人にはおすすめしません)であり、西条駅からほぼ真っ直ぐな道なので、絶対に迷うことはありません。
参照:東広島市様ホームページ、東広島市様作成パンフレット、文化財説明看板、小都隆先生編『安芸の城館』ハーベスト出版。東広島市ホームページ(https://www.city.higashihiroshima.lg.jp/index.html)で「鏡山城」を検索してください。非常に懇切丁寧なご紹介とともに、歴史書レベルのパンフレットがダウンロード可能です。また、進入禁止箇所についてのご案内もありますので、訪問の際には、必ず目を通してください(202105時点での情報ですので、現在もダウンロード可能かどうかはわかりません)。
鏡山城の観光写真鏡山城(広島県東広島市)ついて:まとめ & 感想
鏡山城(東広島市)・まとめ
- 大内氏安芸国直轄領における本拠地だった城跡
- 現在は「鏡山公園」となっており、公園内に城跡遺構がある
- 応仁の乱当時や、戦国時代に合戦の舞台となった
- 戦国時代となり、尼子氏との攻防激しくなると廃城となり、拠点は杣山城などに移された
- 国指定史跡となっている
西条駅から歩いて行くことができ(45分かかりますよ)、とてもわかりやすい道のりで非常に有り難い城跡です。公園になってしまっている、ということで何も残っていないだろうとほとんど期待していませんでしたが、じつはあれこれと残っていて、非常に貴重なゆかりの城跡となっています。
集中豪雨の後、しばらく立ち入り禁止でしたが、今は入ることができると大喜びですが、実際には未だにブルーシートだらけで、なおも入れないところもあるなど、ちょっと残念な部分もあります。けれども、法泉寺さまゆかりの城跡でこれほど遺構が残っている例はほかにないですので、いわば聖地であります。
公園入り口に「毛利元就ゆかりの地」みたいな幟旗しか立っていなくてとても悲しいですが、文化財説明看板にはきちんと大内氏ゆかりの城跡と明記されています。広島県の人は毛利元就さん大好きなので、ここら辺は致し方ないですね。
なお、こちらは非常に歩きやすい山城でして、初心者にもオススメです。むろん、山城跡地ですので、平地のようにラクに歩くことはできませんが、ロープやチェーンにつかまりながら登っていく恐ろしい山城跡とは違い、公園に遊びに来た家族連れがフツーに入れるレベルです。とはいえ、「未整備です」という自治体さまの注意書きもあるくらい、足元に気を付けなくてはならないことは事実。案外と、ラクに思えるところほどいい加減に登っていって足を踏み外す事態になりかねない傾向ですので、その辺りは十分にお気を付けくださいませ。
こんな方におすすめ
- 中世安芸国のゴタゴタ歴史が大好きです(大内、尼子、毛利とか聞くだけで胸躍る……)という方
- この城は法泉寺さまが(現存)最古の「城掟」を定めた城だ! 行かねばならないと感じた方

父上が大活躍した城だよ!

そうだね。お父上はホント大車輪の活躍だ。大内家になくてはならないお方だね。
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五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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