関連史跡案内

天徳寺(防府市)

2020年10月12日

天徳寺・基本情報

住所 〒747-0063 防府市大字下右田668
電話 0835-22-2854
最寄り駅 防府駅、塚原バス停から徒歩8分
山号・寺号・本尊 萬年山・天徳寺・釈迦如来
宮野妙喜寺末 

天徳寺・歴史

『右田村史』によれば、開基は常延庵主という人で、源家の一族という。常延は寺内慶宗庵(要持院の地)に住んでいたといわれ、開基の本像が現存する。『山口県寺院沿革史』では開基は源頼朝であるとしている。いずれにしても、「征夷大将軍源頼朝大禅門」という位牌と、頼朝公の墓と称する五輪塔が今に伝わっている。

毛利元俱がこの地に移った時、寺院を再建し、父・元政の墓を移した。元政の法名・天徳性真禅定門から天徳寺と名を改め菩提寺とした。以来、元政を開基とする毛利家代々の位牌所となった。

明治三年、脱隊兵士の反乱による兵火にかかって、寺伝も焼失してしまった。明治二十二年に永井大暁(『山口県寺院沿革史』では大驍和尚)が再建に取り組み、良光和尚の代にいっそう完備された。慶宗庵の本尊・地蔵菩薩(木像)は廃寺となった要持院に保存されていたが、脇立不動尊・毘沙門天の二像(三尊すべて伝教大師作と伝えられる)とともに、当寺の別殿に安置し、新たに、千躰地蔵尊を加えた。

毛利元俱の右田入り以前、宍戸氏の時代には、寺号を総受寺といい、鯖山禅昌寺の末寺であった。元俱による再建後、鳴滝・泰雲寺の末となった。その後、さらに真如寺の末となったが、真如寺末となった事情は明らかにされていない(泰雲寺の末であったことに関しては、典拠となる史料がのこる。なお、真如寺が現在、妙喜寺となっているため、『妙喜寺末寺』になっているのだと思う)。明治三年に寺号が総受寺に戻ったが、 二十四年三月に、再び天徳寺となった。(以上、参照:『山口県寺院沿革史』『右田村史』)

ミル涙イメージ画像
ミル

案内立て看板を見付けられなかったの。『右田村史』と『山口県寺院沿革史』という二冊のご本からまとめたけれど、記述に相違があるから、どちらが正しいかわからない。また、出版時期が古いものなので、記述内容が古い可能性があることをご了承ください。

天徳寺・みどころ

右田毛利氏の墓所――寺院東の山麓
天徳寺のイチョウ――樹齢800年といわれる大イチョウ。市指定天然記念物。
右田ヶ岳(標高426m)登山とハイキングコースの出発点。

山門

山門の写真

本堂

本堂の写真

毛利家墓所

墓所の敷地は広大。古い石塔から、わりと新しいものまで墓碑が多数ある。

天徳寺のイチョウ

オオイチョウの写真

樹齢八百年といわれている。幹約7.15メートル、根廻り約11.5メートル。幹高10メートルのところで刈られているが、その上に四本の枝が分れ出て最長約19メートルある。空洞となっているところもあるが、秋には葉が黄色くなる。(参照:説明看板)

なお、イチョウの木に「公孫樹と頼朝塚」と書かれた札がついており、根元に見える五輪塔は頼朝の墓であるという言い伝えがある。

観音銅立像

観音銅立像の写真

『防長寺社沿革』に「天徳寺の名物」として「南に観音銅立像(三丈六尺)」がある、と紹介されていたのがこれではなかろうか。

付記・右田ヶ岳登山コース

登山コース案内図の写真

右田ヶ岳は標高426メートル。「屹立する山容を花崗岩の露岩が覆う特異な山」で、山頂からは防府市内が一望できる。岩に彫られた観音像や右田岳城跡などある。(参照:説明看板)

天徳寺はこの右田ヶ岳への登山コースの出発点の一つとなっている。

付記・観音堂

天徳寺後方片山。もとは右田ヶ岳中峯頂上にあった。周防国三十三番札所の二十五番。永正年間、大内家によって再建されたが、寛永年間に焼失。宝永年間、毛利就信によって再建された。明治五年三月、前嶽南麓に移し、岩に四国三十三ヶ所の観音を彫り、遙拝の所とした。船山と呼ばれている。頂上には、永平寺管長森田悟禅師書の般若心経が彫られている。(参照:『右田村史』

天徳寺写真集

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『右田村史』

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