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恒富八幡宮(山口市黒川)

2023年12月1日

恒富八幡宮・入口

山口県山口市黒川の恒富八幡宮とは?

山口市内の平清水八幡宮から勧請された八幡宮で、創建は江戸時代です。境内神社の扱いとなっていますが、八幡宮と隣り合って鎮座している高倉荒神社は、大内氏の始祖・琳聖にゆかりがある神社です。創建は、大内茂村代と伝えられていますが、由緒看板によれば、琳聖が来朝する際に、守護神としていた神を祀ったのが起源となっています。明治時代の寺社整理で、恒富八幡宮の境内社とされました。

社殿は平成時代の火災で焼失した模様ですが、現在は新しくて立派な社殿が鎮座しておられます。

恒富八幡宮・基本情報

ご鎮座地 〒753-0851 山口市黒川 1149
御祭神 応神天皇 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命、神功皇后
社殿 本殿、弊殿、拝殿
境内神社 高倉荒神社、菅原神社、人丸社
主な建物 鳥居、注連石、灯籠、狛犬、手水舎、社務所ほか
主な祭典 例祭(九月十三日) 
(参照:『山口県神社誌』、建物については目視で確認)

恒富八幡宮・歴史

神社さま御由緒看板にはつぎのように書かれています。

「恒富八幡宮
御祭神 
応神天皇、市杵島比売命、多紀理比売命、多岐都比売命、神功皇后
当社は延宝八年 吉田平清水八幡宮の分霊を諏訪山の頂上に勧請し恒富の郷の産土の神として安置し今日に至る」

『神社誌』から補足しておくと、延宝八年は西暦一六八〇年。天保七年(1836)火災に遭い焼失。現在の社殿は天保十一年(1840)の再建物。昭和三十四年(1961)に社殿の屋根を茅葺きから銅板に葺き替えというようなことが書かれております。どう見ても、それ以後にかなり大規模な改築・修築が行なわれたと思われます。何しろ、社殿はとても真新しいのです。

なお、八幡宮よりも歴史が古いのが、境内神社となっている「高倉荒神社」です。八幡宮と荒神社の由緒看板は社殿同様、二つ並んで立っています。単なる境内社ではなく、八幡宮と同等の扱いなのかなぁ……と思ってしまいます。

「高倉荒神社
御祭神 
須佐之男神、保食神
当社は人皇三十四代 推古天皇の時代 百済国琳聖太子が、我が国渡来の節 船中守護の神として尊め奉り、高倉の地に安置し国安安泰、五穀成就を祈念して幾星霜、明治四十三年社寺統合の為に現在地に移築し今日に至る
当社の故実に年の豊凶を占う、
お例(おためし)の神事あり」

『大内文化研究要覧』に、以下のように記されていました。

伝、大内茂村創建、防府市高倉から移転、平成 14 年焼失

出典:大内文化探訪会『大内文化研究要覧』65ページ

『神社誌』は昭和時代に発刊された書籍ですので、平成時代の焼失については記述がなくて当然です。『研究要覧』にも、焼失後のことは書かれておりませんが、現在、神社さまには立派な社殿がご鎮座しておりますから、再建されたことは明らかですね。

『神社誌』に記載があるのは、あくまで恒富八幡宮さまで、高倉荒神社は境内神社の扱いです。しかし、神社さまの由緒看板は、二つの神社についてまったく同じ大きさの看板が並び立っており、社殿を見ても分る通り、高倉荒神社は単なる境内神社とは思えない規模です。やはり、琳聖太子云々の由来が貴重なのだと思われます。恒富八幡宮さまは、江戸時代に勧請された神社さまで、歴史だけ見るとかなり新しい神社さまということになります。

宇佐八幡宮でもなく、石清水八幡宮でもなく、平清水八幡宮から勧請されているところも興味深いです。⇒ 関連記事:平清水八幡宮

恒富八幡宮・みどころ

火災による焼失のため、社殿は再建物となり、文化財指定などはありません。とても立派な社殿が二つ並び立っているさまは壮観です。それぞれの社殿にお参りするよう、階段が二つついているなど、かなり珍しい構造となっております。

鳥居

恒富八幡宮・鳥居

鳥居が二つ、手前に石段が見えています。

石段

恒富八幡宮・石段

見下ろすとけっこうな段数があり、ちょっとクラクラします。しかも、石段はなおも続きます。石段の手すりは地元の皆さまの寄進によって完成したものです。神社さまから「ありがとうございました。手摺りを利用して、安全にご参拝ください」との皆さまへのお礼状看板があって、ほっこり感動します。危ないので、しっかり利用させていただきました。

釣鐘堂

恒富八幡宮・釣鐘堂

石段をかなり上ってひと息ついたところに、釣鐘堂があります。そして、この釣鐘銅を挟んで左右に石段がございます。左手を上っていくと八幡宮に、右手を上っていくと高倉荒神社に出ます。といっても、二つのお社の間には特に仕切りがあるわけではないですので、どちらから上っても両社ともに参詣できます。

他県での出来事ですが、とんでもない長い石段(清水寺の石段をご想像ください。あそこまで行かないまでも、県内にはほかに見当たらないほどの長い石段でした)を上り、息も絶え絶えって上に墓所がございまして、やはり、恒富八幡宮さまの石段同様、二つの石段に分れておりました。石段が二つあるということは、墓所も二つあるということなんですが、なんとその二つの墓所、真ん中に仕切りがございました。つまり、一つお参りした後、隣にもお参りするとなると、もう一度下まで下りて隣の階段から上り直しとなるわけです。

誰ひとりおられなかったので、仕切りを跨ぎ越してしまおうかと無礼なことを考えてしまいました。だって、清水寺並に長い石段なんですよ。もう一度下りて上るとか、想像するだけで倒れてしまいます……。無礼かどうかは置いておいて、そもそも跨ぎ越すことも無理でしたので、仕方なく素直に上り直しました……。わざわざそのような構造になっているということは、このような場合、八幡宮と荒神社に参詣するためには、いちいち釣鐘堂まで戻って石段からやり直しをしなくてはならないのだろう、と思いました。けれども、釣鐘堂から社殿まではそう長い距離ではないですので、どこぞの墓所のように、嘘でしょ!? 信じられない……とはなりませんでした。先の体験で経験値もあったゆえ。ただ、絶対にいちいち下に下りて上り直す必要があるのかどうかは正直わかりません。何せ、境内には仕切りがないですから、どちらの階段からであれ、上ってしまえばいちどきに両方拝めてしまいますので。

拝殿

恒富八幡宮・社殿

新品同様。綺麗で立派です。右に見えているのが御饌所を挟んで荒神社の一部分です。脇からも拝見しました。

恒富八幡宮・社殿(脇から見た図)

高倉荒神社・鳥居

恒富八幡宮・高倉荒神社・鳥居

高倉荒神社に続くほうの階段を上っていくと鳥居がございます。これが高倉荒神の鳥居なのか、八幡宮と共通のものなのかは、定かではありません。八幡宮のほうには注連石がございましたし、わざわざ参道石段を分けているくらいなので、荒神社のものなのかという感じです。

高倉荒神社・拝殿

恒富八幡宮・高倉荒神社

八幡宮とソックリですが、こちらは高倉荒神社となります。屋根に毛利家の家紋が踊っていました……。

恒富八幡宮・高倉荒神社(脇から見た図)

脇から拝見しても、毛利家の家紋が……。始祖さまゆかりのお社なのに……。つけるなら八幡宮につけてください。

二つの拝殿

恒富八幡宮・高倉荒神社拝殿

二つの神社は、このようにして、完全に隣り合って仲良く並んでおられます。どちらが主なのかわからず、まことに不思議な気分になりました。高倉荒神はあくまで「境内神社」という位置づけですが、それにしては大きいですよね。

境内社・石祠

恒富八幡宮・石祠

火災に遭う前に画かれた『神社誌』の境内図には、八幡宮の左背後に「菅原社」と書かれており、鳥居も付属していました。現状確認できたのは、この小祠だけでして、菅原社か、人丸社のいずれかか、あるいはどちらとも違う焼け残った小祠であるのかは不明です。

恒富八幡宮(山口市黒川)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒753-0851 山口市黒川 1149

アクセス

最寄り駅は矢原か湯田温泉か、というところです。山口大学のキャンパスからほど近いところにありますので、公共交通機関が出ているはずです。今回はタクシーを使っておりますため、歩いて行く行き方はご教授できません。

参考文献:神社さま御由緒看板、『大内文化研究要覧』、『山口県神社誌』

恒富八幡宮(山口市黒川)について:まとめ & 感想

恒富八幡宮(山口市黒川)・まとめ

  1. 江戸時代に平清水八幡宮から勧請された、比較的新しい神社
  2. 明治時代に八幡宮境内に移転してきた「高倉荒神」のほうが、始祖・琳聖太子ゆかりの由緒あるお社
  3. 大内茂村創建との言い伝えもある(高倉荒神)
  4. 参詣用の石段が、八幡宮と荒神それぞれに分れており、拝殿のほうは二つ並び合って建っているという、非常に興味深い配置
  5. 高倉荒神はあくまで、八幡宮の境内社という扱いだが、神社由緒看板も荒神社のほうが詳しいなどどちらが主なのかわからないところがある
  6. 平成時代の火災で荒神社は全焼したという。そもそも、他所から移転されてきたものだったが、建物そのものも真新しい再建物
  7. 長い石段の手摺りは地元の皆さまの寄進によって完成したもの。現代に至るまでの深い信仰がうかがえる

ゆかりの地巡りで絶対に手放せない『大内文化研究要覧』。その名も大内文化探訪会という地元郷土史研究者、歴史愛好家、大内氏を愛する人々の手になる小冊子形式ながら、中身はギッシリという貴重なご本。そこにある「大内茂村創建」なる言い伝えを元に参詣しました。「が」着いてみてびっくり、恒富八幡宮と引っ付いているため、二社同時に参詣できたり、なんと、琳聖太子ゆらいの云々の由緒看板があったりで。

さらに、二つの神社は仲良く並び合って建っており、拝殿のお姿もそっくり。さらにさらに、参詣用の石段が、両社で分れているなど、あれこれとかわっていました。本文中に愚痴ってしまいましたが、この、石段が分れているという現象は他所にもあり。二つあるということは、きちんと分けてお参りしましょう、と言いたいのだとは分るのですが、目も眩むような石段を二回上り下りすると思うとぞっとします。ところが、こちらの恒富八幡宮さまは、釣鐘堂までは階段を共通にしてくださってあるため、上り下りする苦労はたいしたことありません。さらには、許されるかどうかわかりませんが、何ならば境内からとなりの拝殿に行くことも普通に可能です。つまり、階段は一度だけ上って、どちらかの神社さまは省略してしまうことも可能です。やっていいことかどうか、責任はとれませんが。

高倉荒神は元は防府にあったといいますから、在庁官人してた時、国衙の近くに建てたんだろうと思えば納得がいきます。ただし、『研究要覧』の記事だけですと、現在地に移転したのがいつなのか不明です。明治時代の寺社整理まで防府にあったのかととれなくもありません。しかし、その場合は防府のどこかの神社に吸収されていそうなものですので、いずれの御時にか山口に移っていたのではなかろうか、そして、それは恒富八幡宮の傍だったんだろうと推測します(根拠なし)。いずれにしても、琳聖ゆかりの神社なのかどうかも、怪しいと思い始めれば怪しいですし、ここは由緒看板を見て普通に納得して喜ぶのがいいと思います。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きなすべての人
  • 琳聖ゆかりの……と聞くと必ず行く人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

琳聖太子って本当はいないんだろ? つい最近、聖徳太子すらいないんじゃないかって SNS で流れてたぞ。

新介不機嫌イメージ画像
新介

聞き捨てならないな。始祖さまがいなければ僕たちもいないことになる。父上がまとめた『家譜』がデタラメだとでも?

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次郎

お前まさか、本当に空から星が降ってきたとか信じてないよな? そこいくと、俺らは、謎の渡来人ではなく、歴とした清和源氏なわけ。於児丸から習ったとか癪だけどさ。

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於児丸

僕はそんな無礼なことは言ってません。先祖伝説は尊重すべきです。ですけど、清和天皇の子孫である我々と比べると史料に乏しいと……

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新介

父上の『家譜』を信じない人には出て行ってもらうよ。仲良しでも容赦しない。

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法泉寺さま

……。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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  • この記事を書いた人
ミルアイコン

ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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