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サビエル記念聖堂

2022年9月13日

サビエル記念聖堂遠景

山口県山口市亀山町のサビエル記念聖堂とは?

山口でキリスト教の布教活動を行なったフランシスコ・ザビエルを記念して建てられた聖堂です。元々は昭和二十七年、ザビエルが山口を訪問してから四百年という記念の年に創建されました。しかし、残念なことに、平成三年に火災により焼失してしまい、現在の建物は平成十年に再建されたものとなります。

市民のふれあいの場所・亀山公園内にあり、斬新なデザインから、山口市のシンボル的建物の一つとなっています。

なお、学校の授業では、たいてい「ザビエル」と習いますが、山口県では「サビエル」と濁らずに発音します。

サビエル記念聖堂・基本情報

所在地 〒753-0089 山口県山口市亀山町4−1
最寄り駅 山口駅 徒歩圏
HP http://www.xavier.jp/index.html
※所在地、HP 等は、山口カトリック教会さまのものとなります。

サビエル記念聖堂・歴史

サビエルって誰だっけ?

日本史教科書 & 参考書に必ず書いてあるキリスト教伝来。そこではフランシスコ・ザビエルという名前が太字(もしくは赤文字とか)になっていたはず。小中学生の知識です。本当は、フランシスコ=ジャッコア=アルピルクエルタ=エチェベリーアとかなんとかいうそうです。長すぎるし意味わからないしで、日本人はシャビエルとかサベリオとか呼んだらしい(参照:石川晶康先生の実況中継)。それなのに、教科書 & 参考書でザビエルとなっているのはなぜなんでしょう? いずれにせよ、山口ではザビエルではなく、サビエルと書きます。

サビエルは 1549年に鹿児島に上陸。山口を通って京都に向かいましたが、布教の許可はもらえませんでした。もう一度山口に戻り、大内義隆を訪問。ここでは許してもらえたので山口で布教を始めました(山口カトリック教会様の HP などによれば、大内義隆のところでも一度目は許してもらえず、二回目の面会で許可されたようです)。この時、義隆から布教の場として寺院をもらいました。

サビエルは 1551年に、弟子を残して日本を離れました。恐ろしいことに、この 1551年は家臣らの政変が起こって大内義隆が亡くなった年。受験参考書等では、「大内氏が滅亡」し、「勘合貿易」が終了した年とされ、年号暗記の注意喚起をしております。政権がチェンジしようとも、布教活動に変更はなく、新しく当主となった大内義長もサビエルの弟子らにキリスト教の布教を許可しています。

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ミル

小学生の知識しかないので、大慌てで復習しました。最低このくらい知ってたらどうにかなるであろうかと。

ここから本題に入ります。

未知との遭遇!? 西洋人との出会い

早くから海外との交易に目をつけ、巨万の富を築いたことで有名な大内氏ですが、それまで交流してきたのは中国大陸や、朝鮮半島がメインでした。むろん、西洋の品も、これらの中継地点を通じて流入していたと思われますが。しかし、日本に来た最初の西洋人とされている(多分)サビエルとの出逢いはさすがに面喰らったことと思います。何せ、中国大陸や朝鮮半島の人々と違って、髪の色、目の色、肌の色なども異なる方々ですから。

巷の噂によれば、サビエルは大内義隆の生活上の好みについて意見したために、義隆から嫌われてしまい、最初の面会はあまり友好的なものとはならなかったとされています(これについては、個人的に詳細を書きたくないので、検索などなさってくださいませ)。それゆえ、サビエルは二回目の訪問に際して、大量の珍しいモノを持参して、義隆の気を引くようつとめたようです。それが功を奏して、布教の許可が下りたのでしょう。

受験勉強では、鉄砲伝来を1543年と習います。種子島に流れ着いた西洋人によってもたらされた云々かなと記憶しておりますが、大内氏にも鉄砲は伝来していました。サビエルの贈物の中にそれがあったのかどうかは知りませんが。それ以外なさそうですよね。のちに、厳島合戦で大内軍が鉄砲を使ったことで、毛利軍はビックリしてしまうのですが、ちょいと火花が出る程度のちゃちなものだったようです。種子島経由で入手した人たちのように、武器として貪欲に取り入れようという考え方などなかったんでしょうね。戦を好まぬ義隆さんなど、仮にこの時に渡されていたとしても、何ら関心を抱かなかったと思われます。これが、好戦的なオダノブナガみたいな人物だったら、その後の歴史はかわっていただろうなぁ、と残念に思います。大国の主さまはおっとりした雅なお方だったので、そんな人の家臣であったのちの叛乱者たちも、何だかんだ言って、殿様より好戦的とはいえ、その後の戦国大名等のような貪欲さはやはりなかったんでしょう。

ちなみに、義隆がキリスト教の布教を許可したについても、その教義やら何やらまで詳細に理解した上でのことではなかったと思われます。たくさん珍しいものをもらったし、大国の主として、よきにはからえって感じで好きにさせてやったくらいの認識かと。なので、布教用の場所として、廃寺となっていた寺院跡地か何かを与えたのです。つまりは、仏教の一派程度くらいにしか考えていなかったようで。……のようなことをどこかで、研究者の先生が書いておられました。そもそも、「大道寺」って寺院を与えられたことからして、後の世に大弾圧を行なった日本政府(江戸幕府)のように信仰されたら困る宗教とみなす、とかいう概念などなかったでしょう(そもそも、何も考えずに許可してるよ、多分)。

江戸時代の政権のように信者の方を弾圧するようなひどいことは一切なく、自由な布教活動を許してあげたため、当時の山口にはキリスト教を信仰するようになった人々も少なくなかったと伺いました。それらの方々が、先祖代々信仰を続けていたとしたら、江戸時代には弾圧されたと思われますが、申し訳ありませんが、大内氏亡き後のそれらはここでの主題ではありません。

400年記念に建てられた聖堂

自治体様 HP やガイド様方によれば、このサビエル記念聖堂は、サビエルが山口に来てから 400年を記念して建てられました。昭和二十七年(1952)のことです。地元の方々に愛される場所でしたが、1991年、火災に遭って焼失してしまいました。つまり、現在の建物はその後 1998年に再建されたものとなります。

ほかにもあるサビエルゆかりの場所

大内氏ゆかりの地になにゆえ、サビエルの記念聖堂が関係するのだろう? と考えてみるに、大内義隆がサビエルと面会し、キリスト教の布教を許した、という史実があるためでしょう。偉大なる先代も、先々代もさすがにまだ、南蛮人とは出会っていませんから。

さて、さきほどサビエルが大内義隆から寺院を与えられた、と書きました。これも受験参考書に書いてある内容なので、世間一般の知識です。ここまでで終わりにできないのが、山口県民や信者の方々、そして、研究者の先生方です。

サビエルが与えられた寺院は大道寺という名前でした。もっとも、史料としてその名が出てくるのは大内義長がトルレスという宣教師に与えた手紙(後で説明します)が最初です。大道寺は義隆が与えた寺院と同じものと考えられています。となると、今度はこの大道寺がどこにあったのか、ということが問題となります。

明治時代に山口に赴任したヴィリヨンという牧師さんが、古い地図から大道寺があったとされる場所を見つけました。その場所というのが、金古曽町のサビエル記念公園の辺りです。場所がわかったから、そこに記念施設を建ててしまったわけです。

しかし、古い地図だけを典拠にかつての寺院跡を決めることには問題があること、発掘調査の結果もそこが布教の拠点であった事実を示すものは出てこなかったことなどから、サビエル記念公園付近が大道寺跡地であることを証明するのは難しいようです。⇒ 関連記事:サビエル記念公園

サビエル記念公園

所在地:山口県山口市金古曽町 4番地
サビエル記念碑、ビリヨン神父像、大内義長の裁許状碑がある。

サビエル記念聖堂・みどころ

聖堂

サビエル記念聖堂

再建前の聖堂と、再建後の聖堂は微妙に姿が違います。前のほうがよかったという方、今のほうが好きだという方、意見は割れたようです。焼失前の古い聖堂の写真をガイドさんにみせていただきました。いずれがよいとは決めがたいですが、以前の聖堂は普通に教会っぽい建物、現在のものは斬新な感じです。いずれにしても、現在は山口市のシンボル的な建物の一つとして、やはり人々に愛されています。

この特徴あるフォルムですが、三角形の屋根のところはテントを、上に伸びる二つの塔はそれぞれ光と水とを表しているそうです。なにゆえにテントなのか、と言えば、キリストの先祖たちはかつて、遊牧生活を送っていた民族だったので、テントで生活をしていたからとか。光も水も生きていくために必要なものです。テントも含めて、これらはすべて聖書に書かれていることを元にこのようなデザインとなったようです。ガイドさんからの詳細な解説を拝聴したのですが、具体的なことは忘れてしまいました。ごめんなさい。なお、現在の建物はイタリア人の設計によるものです。

定時に教会ならではの鐘の音が聞こえますが、じつはこれ、コンピューターで管理して鳴らしているらしい。奥ゆかしい音色も、今は最先端の技術で再現されてしまう世の中なのですね。

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五郎

「忘れた」ってどういうこと?

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ミル

ごめん……。ガイドさんのご案内は素晴らしかったのに、ミルの頭からは感動したと同時にもう、すっかり抜け出してしまったの。思い出せる範囲で書くしかないので、内容が中途半端なのです。

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五郎

ちゃんと調べて書けばいいじゃないか。資料見たら思い出すのでは?

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ミル

教会や市役所の HP を見て書く意味はまったくないと思うの。だって、みなさんは直接教会や市役所のHPを見ているわけで。誰がこんなボロいところを読みに来るの?

なお、『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』によれば、聖堂の内部は以下のような構造になっているそうです。

一階 サビエルや日本におけるキリスト教の歴史についてなどを学べる資料館
二階 祭壇があって、信者の皆さまが祈りを捧げる場所。文字通りの聖堂
三階 パイプオルガンがある、聖歌隊の皆さんのためのお部屋

つまりは、「サビエル記念聖堂」は単なるモニュメントではなく、普通に教会の聖堂としての役割を果たしているということです。信者ではない方も、資料館には足を運んで、サビエルの事蹟やキリスト教徒大内氏の関係について学ぶのがいいかも知れません。

大聖年の鐘

サビエル記念聖堂・大聖年の鐘

「キリスト生誕 2000年 アジアに平和を祈る 大聖年の鐘」と説明看板に書いてあります。ローマ教皇が広島平和記念公園で「平和アピール」をした縁で、広島に送られました。その後、サビエルゆかりの地である山口に設置することになったといいます。

鐘の鳴らし方にはルールがありまして、看板に書かれている平和の祈りを唱えてから(心の中で)、鐘を押さずに振り子を自分のほうに引っ張って一回鳴らします。鳴らしていいのは、9:00~17:00 の間のみ。仏教寺院の鐘とはまるで違うので、押して鳴らす人はいないかも。しかし、平和の祈りを読まずに鳴らしてしまっていました。

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ミル

ごめんなさい……。だって、鐘あったらまず鳴らすでしょ? 後から看板見た……。

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五郎

どんだけ恥ずかしいことしてるんだ!

井戸端で説教するサビエルの像

サビエル記念聖堂・井戸端で説教するサビエル

サビエルは大殿小路にある井戸端で、フェルナンデスという修道士と一緒に布教活動をしたのだそうです。物珍しさもあったかも知れませんが、多くの人々が説教をききにやってきた模様です。話をきいて信者となった人も少なくありませんでした。もちろん、誰にでも受け入れられたわけではありませんから、時には非難の言葉をあびせかけられることもありました。それらのエピソードを記した説明看板が傍らに立っていました。観光スポットの看板説明文としては、かなりの長文ですが、当時の事情がよくわかるので、ぜひお読みください。なお、龍福寺前には、サビエルがその端で布教したという井戸の複製品があります。⇒ 関連記事:サビエルの井戸龍福寺

大内義長裁許状

サビエル記念聖堂・大内義長裁許状

大内義長がトルレスという宣教師に与えた手紙。キリスト教の教会を作ってもよろしい、と許可を与える内容です。(大内義隆がサビエルに与えたと思われる)大道寺の名前が出ている史料として、研究者の先生方の間で「大道寺裁許状」とよばれているものです。この手紙を書き写したものがヨーロッパに送られて、「東洋イエズス会書簡集」に載せられました。この碑文はそのヨーロッパの書物から複製されたものです。

大内義長は大友宗麟の弟なわけですが、兄がやがて有名なキリシタン大名になっていることから、弟も関心を抱いていたかもしれない、というようなお話をガイドさんからお伺いし、そうなん? と思いましたが、なんと、この碑文についての説明看板によれば、大内義長は「九州でサビエルに会っていた」とあります。

思いがけないところで受験参考書の復習が役に立ちます。上述したように、サビエルは 1551年に弟子を残して日本を離れ、豊後に渡りましたが、のちに豊後府内から中国へと旅立っていきました(これも参考書に書いてある)。この時点ではまだ、1551年の政変は起こっていなかったので、のちの大内義長もまだ豊後にいたのでしょう。サビエルに会うことは可能です。海外からの客人の来訪という物珍しさから、当主の弟という立場で、面会していたことはじゅうぶんにあり得ることです。政変首謀者らに招かれて大内家の当主となり、サビエルの弟子たちに裁許状を出した時、サビエルと会っていたという体験がどのように作用したのか、本人に聞いてみることができないからわからないけど。

いずれにしましても、この義長の裁許状はとても重要なもので(だから記念碑になっている)、ザビエル記念公園にもまったく同じものがございました。そちらに裁許状の文面などについて記しておりますので、ご参考になさってくださいませ。⇒ 関連記事:大内義長の裁許状サビエル記念公園

付記・初めてのクリスマス

クリエイティブ・スペース赤れんが

この場所は、いわゆる日本で初めてのクリスマス、とやらが祝われた場所です。ガイドさんのご説明によれば、サビエルの弟子により、ミサが行なわれた、ということです。現在のように、クリスマスツリーを飾ってパーティーを行なった、というのとは少しく違うかも知れません。なお、背後に見えている赤レンガの建物ですが、これは最初のクリスマスが行なわれた場所ではありません。この辺り、という目印です(この建物じだいも、歴史あるものですが)。

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ミル

疲れた……。神社や寺だけでもわけわからないのに、その上南蛮の宗教まで……。どんだけ大変なの?

サビエル記念聖堂(山口市亀山町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒753-0089 山口市亀山町4−1

アクセス

山口駅から徒歩圏。なんでもかんでも歩いてしまうので、公共交通機関による行き方がわかりません。街を歩くことが楽しいので、徒歩ばかりオススメしてしまいます。パークロードから行きます。記念聖堂がある場所から、亀山公園山頂広場に上っていくことができるので、毛利敬親公の騎馬像も一緒に見学して帰りましょう。

参照文献:『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』、山口キリスト教会様 HP、山口市様観光情報サイト「西の京やまぐち」、山口市様編纂『山口市史 史料編 大内文化』

サビエル記念聖堂(山口市亀山町)について:まとめ & 感想

サビエル記念聖堂・まとめ

  1. 大内義隆代、キリスト教布教のために来日したサビエルの功績を称えるために造られた記念聖堂
  2. 義隆は、サビエルの布教を許し、布教活動のための寺院を提供したとされるが、家臣の叛乱によって倒れたので、それ以上のかかわりはない
  3. 義隆の跡を継いだ義長も、先代同様、サビエルの布教を許した。その「裁許状」のモニュメントが聖堂付近と、サビエルを記念して建てられた記念公園とに展示されている
  4. 聖堂は、文字通りの聖堂としての役割を果たしているほか、サビエルの事蹟や日本におけるキリスト教の歴史などを学べる資料館や、パイプオルガンや聖歌隊のための部屋なども併設されている
  5. サビエル来日四百年という記念の年に建てられた建築物だったが、平成時代に火災で焼失してしまい、現在の聖堂は二代目となる

クリスチャンではないので、教会とは無縁な人間です。またザビエル(サビエル)についても、1 ミリの興味もありません。なので、大内氏関連史跡として認知されている史跡・伝承地の中に、サビエル記念聖堂が含まれているのを拝見した時、正直ビックリでした。

日本で初めてクリスマスを祝ったのはどこか(何県か)というようなことは、けっこうクイズ番組などで見かけたことがあったので、それが山口県だということはかなり前から知っていました。ですが、大内義隆とザビエルというと、巷の噂を喜ぶ人々が面白おかしく語る逸話ばかりが先行してしまい、そういった先入観から、あれこれ連想してしまい、あまり好ましい印象を持っていませんでした。

キリスト教に限らず、困ったときの神頼み(受験前など)、法事の時だけ寺院さまという生活を送っていると、敬虔なクリスチャンであらせられる云々の自己紹介などが耳に入る度、珍しいお方だ……と心中密かに思ってしまいます。けれども、これだけ大量の寺社仏閣巡りをするうちに、信仰の対象は人それぞれであれ、精神的な拠り所として宗教の存在って大切なんだな、ということを身に染みて感じるようになりました。

天草四郎(よく知らんけど)とかの時代よりずっと早くに、キリスト教が山口の方々の間で受容されていたことには素直に驚いています。まるで考えたことなかったので。弾圧したりせず、宣教師たちに便宜を図ってあげた当主さまたちの寛容さ。洗礼受けといたら安く鉄砲買い付けられるんじゃなかろうかとかいう打算的な意味もありそうな雰囲気がぷんぷんするのちの戦国大名たちのキリスト教受容ラッシュとはまったく違い、何の下心もないところがスゴいと思うんです。色々な意味で、考えさせられる記念聖堂でした。

でも、己も結局は「和」の人である、ってこともはっきりしました。どんなに光り輝く美しい聖堂を見ても、やはり、厳島神社の大鳥居を越えることはできません。無宗教なので、宗派はないのですが、教会よりは寺院が落ち着くなという思いも変りませんでした。ごめんなさい。西洋かぶれだった反動から、西洋系のモノには拒絶反応があるんですよね……。こんなに異文化ギャップがあるなんて、先進的な大内氏歴代たちに笑われてしまいますね。

こんな方におすすめ

  • 山口県におけるキリスト教の歴史に関心がある方
  • ザビエルが好きな方

オススメ度


キリスト教信仰している方や、サビエルさん好きな方にとっては文句なしに最高の訪問先です。ですけど、そうでない方にとっては、普通に地元の信者の方々のための教会さまです。清潔感溢れて、明るい雰囲気なのがとっても魅力的です。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

家中の人にも、意外と「改宗」とやらしてしまったケースがあるらしいんだよね。俺が改宗したら、父上にぶん殴られるだろうけど。

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五郎の兄

何を言うのだ。父上は子どもに暴力を振るったりはなさらないぞ。それに、信仰の自由はなんびとにも認められている。

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五郎

兄上いつのまにか、イマドキの「掟書」に精通してしまってる……。まさか、南蛮の宗派になっちゃいないよね?

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五郎の兄

残念ながら、イマドキの法律を五百年前に適応させることはできない。それがどれほど優れていたとしてもな(早死にした私は、キリスト教伝来を知らずに世を去っているのだ、弟よ)。兄が言いたいことは、世の中には色々な人がいて、信仰はじめ人それぞれであるということだ。己と異なる意見の者がいても、素直に耳を傾ける寛容さを持ちなさい。それがお前のためでもある。

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ミル

……。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
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