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仁平寺(山口市大内御堀)

2023年1月11日

仁平寺跡地
仁平寺跡地にて

山口県山口市大内御堀字菅内の仁平寺とは?

大内氏が山口で政務を執るようになったのは、一族の長い歴史の中では、ほんのわずかな時間でしかありません。しかしながら、いわば首都機能とでもいうべき山口の町は、西の都とも呼ばれるほど発展し、進んだ文化の発信地賭しての機能を十二分に発揮しました。けれども、その雅な文化の源泉は、彼らの出身地でもあった古都・大内にあったことは疑いなく、中でも、氏寺・興隆寺、重弘、弘世の菩提寺・乗福寺と並んで三大寺院として大きな役割を果たしたのが、この仁平寺です。

「仁平寺本堂供養日記」という史料が有名で、大内弘幸代に本堂が修築され、その供養が盛大に執り行われた記録が残されています。弘世期には、五重塔が建てられるなど、たいそうな大伽藍であったようですが、現在はすべて失われ、名前だけが受け継がれているのみです。

お詫び

この記事はリライト中です。暫くおまちくださいませ。

仁平寺・基本情報

〒753-0214 山口市大内御堀字菅内塩屋敷 4176
山号・寺号・本尊 日吉山・仁平寺・釈迦牟尼、脇立摩詞迦葉染尊者、阿難蛇尊者(※『大内村誌』に、『山口県風土誌』では本尊を観音とする、とある)
宗派 曹洞宗 
(参照:『大内村誌』)

仁平寺・歴史

『山口県寺院沿革史』には「正平七年三月三日大内弘幸仁平寺本堂修造す。創建は仁平元年の頃なり、開基は大内弘幸ならんか、古記錄なき爲詳かならず。當寺に開する古書記等は明治初年氷上興隆寺に移せりと云ふも判然ず、開山は伝照寺第十一世大寂絕光和尚たり」とあるだけで、ほとんど何も分らない寺院、ということになっている。

現在は発掘調査も行なわれたし、史料の整理も進んだから、このご本より後に書かれた『大内村誌』や寺院の説明看板には、もっと詳しいことが書かれている。

寺院の創建は仁平元年(1151)といわれており、創建時の年号から仁平寺となったと思われる。「京都上賀茂旧社家」に仁平二年八月の周防国留守所下文が残り、そこにはすでに「多々良氏」の名前が出ている。それだけでは、単に国衙の役人であったことがわかるに過ぎないが、『大内村誌』には「仁平寺のできたことによって多々良氏が相当の豪族であったことがうかがわれる」と書いてある。

そもそも財力がなければ、寺院の建立は無理だが、それだけではなく、この寺院が相当な規模を誇る立派なものであったのだろう。創建当時の様子はわからないが、大内弘幸の代に本堂の再建が行なわれ、その供養会が盛大に行なわれたことは史料にも残されており、よく知られている。

弘幸の時は、まだ本拠地が「大内」であったから、氏寺・興隆寺同様、本拠地にあるたいせつな寺院であったことは間違いがない。弘世の代に、山口に移った後も、興隆寺、弘世の菩提寺となった乗福寺と並んで、大内文化を象徴する重要な寺院として輝いていたことが想像できる。

本堂供養会はそれを象徴するような一大イベントであったと思われる。

本堂供養会

そもそも、本堂供養会って何ぞ? と思い調べても出て来ない。大内弘幸は仁平寺の本堂を再建した。その落成を祝うセレモニーのようなもの、という理解であっているだろうか。今後も至る所で、歴代当主たちによるこのようなイベントは行なわれていくから、これについて理解することはとても大切だ。

供養会で行なわれる様々なイベントは、寺社に対して奉納されるものということに。法楽舞として調べると「神法楽舞」とあって、神社に奉納される舞としか出て来ない。神仏習合して、山王社社頭にて行なわれたのだから、= 仁平寺に奉納された、ということでいいと思う。

じつは、法楽というのが、神仏に対する奉納のことなのであって、奉納されるものは舞でもいいし、和歌でもなんでもいいわけ。狭義の意味では奏楽を指すこともあるっぽい。

つまり、山王社社頭にて、「法楽舞」という舞が舞われたのではなくして、仁平寺に奉納された一連の舞を指している。これらの舞について、『仁平寺供養日記』という史料には詳細に書かれており、それを知ることは、興隆寺の二月会で行なわれるあれこれの舞などとも繋がる、大内氏の文化水準の高さを知ることができて貴重である。

ということで、『大内村誌』にはかなり詳細にこの時の、奉納舞について説明してある。おおよそのところだけまとめておく。

正平七年(観応三)正月二十八日、二十九日、大円坊で衆徒が会合。童舞を行う。
正月晦日、舞師・八郎判官為国とその息子三人をもてなす
三月三日、山王社で法楽舞を行なう。
三月八日、供養会を盛大に執り行う。
※イベント期間の最中、六日に弘幸が亡くなったため、以後のイベントは日程変更となった(17日間延期された)。
三月十四日、十五日、十六日、大法要を行う(すでに前々から予定を組み、準備をしていたことだったため、中止はせずに延期だけで予定通りに行なわれていったが、跡を継いだ息子・弘世は出席を遠慮したという)。

このようなセレモニーを行なう際には、国衙の偉い手を招待するのが普通だったらしい。そこで、それらの来賓用の観覧場所として、「上方御座敷」を設けたものの、目代は出席せず、かわりに庁奉行が出仕した。これいがいの役人たち用の座敷までは設けられなかったが、目代、小目代からも馬の寄進があった。座敷の敷設にも寄進された馬などについても、それぞれに担当する奉行が決められ、かなりの大規模な儀式であったことがうかがえ、のちに大内盛見が行なった氏寺・興隆寺の本堂供養と双璧をなすものであったという。

なおも『大内村誌』によると、『供養日記』に書かれた「舞楽」の記事が「歌舞音曲の沿革史上特筆すべき記事であることが注目に価する。」とある。そういわれても、この時代の舞楽がどのようなものだったのかわからないから、何がどうなんだか、といった感じだけれど、言いたいことは「大内氏の文化がすごかった」ということに尽きる。当時、これほどの規模の法楽舞を行えるほどの文化水準(そして恐らく財力も)を備えた地方の豪族などほかには存在しなかったのだろう。

供養会の演目の最初は舞楽。そして、延年舞へと続いていく。

舞楽:中国から伝来したもので「唐楽」という。左方、右方の区別があって、先に左方で中国、または日本でつくられた舞曲を、つづいて、右方で高麗の舞曲を演奏する。これを「一番」と呼ぶ(ここが理解不能だったが、そのまま『いちばん』と読んでいたからで、『ひとつがい』の意味。『つがいまい(番舞)』といって、左と右とを対応させて一対、一組のようにプログラムを進行していくこと。だいたいは似たような種類の舞どうしを組み合わせる)。万歳楽・長保楽・甘洲・林歌・安藤・仁舞・太平楽・狛桙・散手・貴徳等があって、この供養会では「順序よく行われた」。
その後、「走物」が行なわれたが、すでに夕暮れ時となったから、松明がたかれたという。
「走物」:散手、貴徳等があり、普通の舞より「軽快敏速」なものを指す。
「走物」につづいて、童舞が行なわれた。
童舞:抜頭、還城楽、陵王、納曾利などで、これも「走物」だが、童児によって舞われる。陵王は大人が舞うこともあるから、演目によって決められているというよりも、子どもによって舞われる、ということを指すのだろう。

十五日巳刻、採桑老の楽が行なわれた。
採桑老:「詠」という詩のような、仏語のような詞を舞人が節をつけて唱えることがある。
楽器には横笛、笙笛、篳、篥、琵琶、箏、鉦鼓、鞨鼓等を用いたこと、舞童奉行、延年奉行などが任命されたこと、楽人や猿楽師には禄物として、馬や被物(目下の者に与える贈物)として直垂等を与えたことなどの記述もある。

延年舞:もともとは法会のあとの、僧侶たちの余興のような性格があった。だから、白拍子から猿楽まで当時流行していた様々な芸能が演じられ、演目も多数あった。古くは平安時代から行なわれ、院政、鎌倉・室町時代に盛んになった。東大寺・興福寺・薬師寺・法隆寺・延暦寺・園城寺等、錚々たる大寺院で行なわれた記録が残るこの舞が、奈良京都からは遙かに離れた大内の地で、このように早い時期からすでに行なわれていたことが、重要。
仁平寺の延年舞では、大衆(ここでは僧侶)が舞う大衆舞と稚児が舞う童舞が行なわれた。

『大内村誌』で『供養日記』に書かれた演目などの用語解説がなされており、仁平寺(現在の)にある説明看板(後述)にも、同じものが書いてあるけれど、『供養日記』の原文を見ていない状態、舞楽に詳しくない状態で読んでも難解すぎる(元来、難しくてわからなそうな用語を解説してくださっていると思われるけれど)。
「倶舎」:大衆舞の演目の一つ。大衆舞には、開口、移、倶舎など八番ある。
「若音」:稚児舞。大人より声が高いことからこういう。
「開口 」:開口猿楽の略。祝賀の意を述べてから「縁語、懸詞等の洒落を用いて人を笑わせる」
「答返(当弁)」:「開口 」とセットで、滑稽な問答のようになったらしい。

十番 「連事(つらね)」、和漢の故事などを題材にして、それらの来歴などを問答形式で続ける。白拍子などが行なうこともあって、謡曲に似ている。十二人で行なわれた。日記には「当季題目花」という曲名も書かれていて、「連事」の曲名としては初見であるという。
十一番 「狂言」。題目は「山伏説法」。かなりの大人数で行なわれたと考えられている。
十二番 「心曲」。
十三番 「祈玉因縁」。詳細不明。「連事」の一種か?
十四番 「風流」。大風流、小風流に区分される。大風流は「大仕掛け」で仙人、天女、鳥獣などが登場し、能楽や謡曲に近いものとなる。二十三人で行なわれたと言うから、かなり「大仕掛け」だったと思われる。

鎌倉末期という初期の頃に、これほどの規模で、豪華絢爛な法楽舞が行なわれたことは稀であり、しかも、その記録が詳細に残るということが、非常に貴重である。この時の、舞楽の衣装、楽器は氏寺・興隆寺に伝えられている。(以上、参照『大内村誌』、ただしかなり端折っているので、図書館に行ってください)

多くの僧坊と幻の五重塔

『地下上申』の記述によれば、弘世の代に京都の比叡山から(多分山王社を)仁平寺に勧請し、山麓には八王字の森、仁王門、弁才天、丈六の地蔵、五重の塔が建立されたという。大内氏が滅亡するとともに、寺院は廃頽していき、当時の面影は次第になくなっていった。『大内村誌』が書かれたときには、塔の段、仁王本坊等という字が残り、わずかに当時を偲ぶよすがとなっていた。

かつて境内には五重の塔があり、朽ちかけた状態でなお、建っていたが、やがて前にあった池の内に倒れてしまった。多くの人が、池から五重塔の朽木を拾い出して器材としてしまった。本堂跡地に続く道には、左右に、本坊・東蔵坊・秀賢坊・神智坊・蓮池坊等いう地名があって、塔頭の名が残っている。東蔵坊、禅智坊、蓮池坊の名は本堂供養日記に出ているものである。「本坊」後方には御風呂屋、ほかに寺家という字もある。仁王堂という地名もあって、朽ちた仁王像が日吉山王の楼門にあったという。(『大内村誌』引用の『注進案』より)。

仁平寺跡地には五重塔の礎石だけが残った。これらの礎石は溜池を築造する際に取り除かれ、16ばかりを集めて一箇所に置いている。心礎と思われる石が溜池の中に残っていたが、溜池の水も今は枯れてしまった。附近に仁平寺の歴住の墓と思われる卵塔(台座に卵のような塔身がのった塔、無縫塔。禅僧の墓)や 開山と刻した墓がある。本堂の跡地には小庵があって、小鯖の禅昌寺から番僧が来ていた。なお、仁平寺にあった鰐口は現在、光厳寺に伝えられている。(以上、参照『大内村誌』)

その後の仁平寺

すでに、大内氏時代の面影を留めぬほど荒廃し、わずかに五重塔の礎石などを留めるだけとなっていた仁平寺だが、それでも明治時代まで存続していた。なおも、観音堂が残っていたというから驚く。しかし、その観音堂は明治三年に、小鯖村禅昌寺にひきとられていった。

最後の坊守を務めたのは、満庭和尚であったが、やがて地蔵院に移り、明治三十七年にそこで亡くなった。明治十六年に、仁平寺を再興しようという意見が出て、 人々の努力の結果、禅昌寺独住十一世・大寂絶光禅師を開山と復興された。しかし、明治二十八年の台風によって寺院は倒壊してしまい、翌年、藤井琢磨氏の旧宅に復興されたのが、現在の仁平寺となる。

『大内村誌』にはとても興味深いことが書かれている。

近藤清石に「吾家客殿記」という一文がある。山口市八幡馬場にある清石の客殿の規構を書いたものであるが、その中に戸は仁平寺の桜門の窓扇である。棚のひら戸、大柱、欄干、唐菱の板等も亦仁平寺の古き建物を利用した由が書かれている。いずれも現存している。
出典:『大内村誌』

『大内氏実録』を書いたことで有名な近藤清石先生のお屋敷に、仁平寺の建物が使われていた、ということになろうかと思う。江戸時代にはすでにほとんど跡形もなかったはずの、弘世代仁平寺だから、これはいつの建物から移築されたのであろうか。そもそも、近藤先生のお屋敷がどこにあり、現在もそのままのお姿で残っているのかどうかは調べられなかった。

仁平寺・みどころ

興隆寺や乗福寺についても言えることだが、大内氏の時代とは、かなりその姿が変ってしまっている。現在は、地元の方々や自治体などが、最新の研究成果を取り入れて往時の様子を偲ぶことができるような工夫をあれこれと行なってくださっている。「跡地」に看板を設置したり、古い時代の絵図を掲示するなどしてある。

とはいえ、単に「跡地」看板を見ただけでは「跡地」はここだった、ということがわかるにすぎず、当時の絵図を見てもそれが現在のどこなのかわかるものではない。やはり、ガイドさんや研究者の方々とご一緒してご案内をきくのがいいだろう。そのような専門家の方々すら、こうだったと思われます、としかわからないような現状を見て、通りすがりの観光客が正しい姿を想像することが可能とは、とうてい思えない。

仁平寺には「跡地」が二箇所ある。ゆえに、二箇所目に設置された看板には「二代地」と書かれている。それぞれ順番に見ていこう。

仁平寺跡地

仁平寺跡地看板

これが、元々の仁平寺跡地となる。つまり、弘幸・弘世父子が本堂供養会を行なったり、五重塔が建っていたのはこの場所だ。

「仁平寺跡(にんぺいじあと)
山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺とした仁平寺の跡である。 注進案によれば、当時は五重の塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊等があったので、その地名があったという。このことは、 本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踊が行われる等、頗る盛大であったことがうかがえる。また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。
大内さとづくりまちづくり推進協議会」(説明看板)

ミル涙イメージ画像
ミル

この看板前には、実(?)がひっつく枝が伸びていて大変だったよ。ご一緒した研究者のお姉さんに「いっぱいついちゃってる!」と言われてびっくり。郷土史の先生が車を停めてくださるのもたいへんだった。細い道だからね。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

俺にはちっともひっつかなかったのに、なんでだろう? でも、車を停める場所には注意してね。何でも写真撮る、って喚くミルだから、タクシーの運転手さんや自ら運転なさる先生方に非常に迷惑をかけてる……。

仁平寺跡地付近・日吉神社への道

とはいえ、付近はこのような田園風景ゆえ、正直どうすればいいのかわからない状態。まずはこの後、仁平寺の鎮守だった日吉神社へと向かった。神社は元この寺院にあった山王社だったのだから、「跡地」そばにあるのは当然のことである。⇒ 関連記事:日吉神社(大内御堀)

神社の参拝後、なおも進むと、このような開けたところに出た。やはりただの田園風景なので、どこが元の境内かなんてわかるはずもない。

仁平寺跡地・五重塔跡地への道

この先にある溜池が、五重塔が礎石だけを残して倒れ込んでしまった池である。

仁平寺跡地・五重塔跡

郷土史の先生がご案内くださったので、池はホンモノ。ミルたちだけだったら辿り着けなかっただろう。五重塔は池の前に建っていて、礎石を残して倒壊。けれども、残っていた礎石も溜池を造る際に失われた。その溜池も今は涸れてしまった……と、あったことから、これは「溜池」ではなくして、五重塔がその傍に建っていたといわれる池ではないのか、と思う。

郷土史の先生から詳しいお話をお伺いしたのに、忘れてしまった……。

仁平寺跡地付近削平地

このような削平地が、元々の寺地だったのではないかと思うのである。裏の山には下のような古墓があった。

仁平寺跡地・後山の古墓

これはいつの時代の、誰の墓なのかは不明という。墓があることも、寺院の墓地だったのではないかと思われ、確かにここらが跡地だったのかという思いをますます強くした。

仁平寺跡地(二代地)

仁平寺跡地(二代地)

二代目の跡地は地元の方々の交流の場としての役割も担っていたように書いてあり、力を合わせて再興し、守って来られていたことがわかる。しかし、自然災害により、二代目・仁平寺も荒廃してしまった。

看板本文は長文すぎるが、この寺院の変遷(明治時代以降)を知るにはまたとない史料なので、そのまま書き写しておく。

「仁平寺跡(二代地)
仁平元年(一一五一)創建で山口市大内御堀字河内四四二五番地に有って、 明治初年頃から(一八六八) 荒廃し、其の後、明治二十八年(一八九五)の大風害によって修理容易ならざる状態となり、檀家、集落民は失望に打ちひしがれた。
再度再興の意を固め協議を重ねたが、資材財源等の事情から不可能な形勢になりながら、 特に数名の熱烈なる再興論者の意に動かされ、遂に衆議が統一されることとなった。 其の結果、禅昌寺より境内末寺 円通院を無償提供せられ、また、氷上、古屋国蔵の多 大なる私財を喜捨受け、此処大内御堀字道巾四二〇一番地に移転し、集落集会所に兼用の故を以って集落民総出数十日に及ぶ長期間辛苦の奉仕を得て遂に再建の大願を成就した。 以来六十有余年、年三回の三度の仕講、正月六月二回の念佛百万遍大珠数操り行事、 十年目行われる馬頭観世音出開帳所等を始め、集落内の大小あらゆる行事、集会等昼夜を分たず、老若男女を問わず常時使用した。
今はなき梵鐘(先の大東亜戦争に徴用された)の呼音に誘われ相集い、礼拝堂として修 行修養の場となり、或いは研究発表の場となり、また、村つくり話合の場となり、時に娯楽・慰安の場となり終始和気あいあい、集落の集いの場として深く愛され、その維持修理等も集落より多額の援助を受けていた。
昭和七年(一四九二)風害の際、本堂の柱、畳替等、修繕を行い其の後、年数と共に修繕の効もなく危険を感じる程になった昭和二十五年(一九五〇)春、住職前原博愛氏 改築を志拾葉人講を発願して是に精進し改築の資金収集に努力され、此の間数次の檀家集 会を開いて相談されていたが昭和二十六年(一九五一)五月、最早修理不可能までに老朽が進行しており移改築することを決意された。
移改築先として藤井淳氏の旧宅を適当として交渉することとなり、其の結果、同氏宅地大内御堀塩屋敷四一七六番地に決定した。
なお、移改築起工式は昭和二十八年(一九五三)八月二十五日に挙行された。
仁平寺由来(概要) 参照 仁平寺 山口市大内御堀塩屋敷四一七六番地
資料 仁平寺沿革略縁起」(説明看板)

現在はご覧のように、歴代ご住職のお墓を安置する場所となっている。

仁平寺跡地(二代目)・歴代住職の墓地

現代の仁平寺

仁平寺・由緒看板

説明すべきことが多く、どの看板も詳細すぎるのが仁平寺の特徴。同道くださった研究者のお姉さんも絶句。じつはこのほかに、本堂供養会について解説したものがある。それにいたっては手前に木の枝があることなどもわざわいし、そもそも一枚の写真内に全文をおさめることが不可能。

仁平寺・説明看板

五郎涙イメージ画像
五郎

字も小さいし、これじゃ、タイトルすらわからないじゃん。

ミル涙イメージ画像
ミル

いろんな角度からとって後で貼り合わせる気持ちで読もうと思ったけど、全然繋がらなかった……。

ただ、本堂供養会についての看板は『大内村誌』を参照していること、本堂供養会そのものを活字化した自治体発行郷土史などは多くあることなどから、図書館に行けば看板に書かれているのと同じ内容を確認できる。

仁平寺・手水鉢

現在の寺院には、本堂と庫裏くらいしかないが、境内は奥ゆかしく、どことなく雅であった。

ともあれ、現在の寺院は元々の寺院とは場所も異なる上、かつてのように多くの僧坊や五重塔まであるような大寺院ではなくなっている。その上、建造物や古文書、法楽舞に使われた衣装などもほかの寺院に移されてしまっている。なので、仁平寺に行きたいです、とお願いすると、見るからに普通の寺院ゆえ、時間の関係などから、訪問箇所から外されてしまう場合が多い。

「跡地」のほうも、単に看板があるだけなので、大内氏の仁平寺を見たい、ということをお話しても「?」となるケースが十分に考えられる。しかし、仁平寺は興隆寺や乗福寺同様、大内氏のふるさと・大内の地で非常に大切にされていた大寺院だったのである。もしも、滅亡後の荒廃がなく、現在にも五重塔が残されていたら、山口には二つもの五重塔があるという稀有なことになっていたはずだ。大内文化に関心を持つ人ならば、たとえ「跡地」だけになっていたとしても、何とかその場所に辿り着いてみたい、と思う気持ちは強烈だろう。

しかし、それが寺院ごと跡形もなくなっているという現状を見ると、またしても荒涼たる風景を前に、心に寒風が吹き荒ぶ気分となった。

最後に、『大内村誌』の一文を引用しておく。

乗福寺の五山文学、興隆寺の二月会、仁平寺の舞楽舞踊は大内文化の最大の誇といわねばならぬ。大内村の寺社の中から特にこの三ヶ寺を抜き出したのはかかる縁由があるからである。
出典:『大内村誌』

仁平寺(山口市大内御堀)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0214 山口市大内御堀字菅内塩屋敷 4176

アクセス

山口市内のホテルから車に乗せていただきました。

参照文献:『大内村誌』、説明看板

仁平寺(山口市大内御堀)について:まとめ & 感想

仁平寺(山口市大内御堀)・まとめ

  1. 仁平年間に創建されたゆえ、仁平寺という
  2. 大内弘幸代に再建され、本堂供養が盛大に行なわれた。そのことは「仁平寺本堂供養日記」という史料に詳しい
  3. 弘幸は供養会終了前に亡くなったため、子息の弘世が継続して執り行った
  4. 供養会で行なわれた法楽舞は、その規模、豪華絢爛さなどから当時としてはたいへんに珍しく、その記録が残されている点も貴重。舞衣装などは興隆寺に伝えられている
  5. 弘世は仁平寺に京都から山王社を勧請、仁王門や五重塔などを建立したという。かなりの大伽藍だったと思われる。しかし、滅亡後、寺院は廃れ、五重塔も朽ち果ててしまった
  6. 五重塔の礎石は、塔が傍らに建っていたとされる池の側に残っていたが、やがて付近にため池を造る時に失われてしまった
  7. こうして、仁平寺は単なる「跡地」となってしまったが、再興を願う声は大きく、明治時代になって再建された。しかし、その二代目・仁平寺も風害などのために倒壊の危機となり、現在地に移って再建された
  8. よって、仁平寺には「一代目」「二代目」という二つの跡地が存在する

ああ、何もない……。その一言ですね。しかし、寺院の由緒は現在の仁平寺さまに受け継がれているわけなので、現在地をお参りした後、跡地を巡ってあれこれと当時の姿に思いをはせるしかないでしょう。ただし、場所はかなりわかりにくいです。車で行くなら現地の方のご案内があったほうがよいですし(通り過ぎてしまうかもしれないので)、歩いて行けば通り過ぎることはないですが、けっこうたいへんかと思います。

もしも、五重塔が今も残っていたら、山口には二つの五重塔が存在したということになります。惜しいことですが、あれもこれも地元の方や、毛利家の人々にメンテナンスを望むのは無理というもの。致し方なかったのでしょう。

こんな方におすすめ

  • 寺院巡りが好きな方(含跡地)
  • 大内文化ゆかりの地を巡っている方(跡地でもかまわない方)

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

なんであれもこれもなくなってしまったんだろう?

ミル涙イメージ画像
ミル

これも時代の流れというものだよ。見たかったね、五重塔。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
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