関連史跡案内

日吉神社(山口市陶)

日吉神社石鳥居
日吉神社石鳥居前にて

日吉神社・基本情報

ご鎮座地・アクセス

〒754-0891 山口市陶4165
最寄り駅 新山口駅
※陶の史跡は1日で歩いて回るにはかなりキツい。レンタカーが使えないのならば、あきらめてタクシーにして、貸切りでまとめてすべて見てしまうのがいい気がする。観光案内所によればタクシー利用の際、出発点は新山口駅。ただし、貸切りならば山口のホテルからでも大差ない。車を使えば半日もあれば……と思うが、一つの観光スポットにどのくらい時間をかけるかにもよる。また、車道に車を停めざるを得ない、徒歩で行く必要があり、タクシーにはその間待っていただかねばならない場所もあることに注意(陶窯跡等)。

御祭神・社殿・建物等

御祭神 主祭神:大国主命、ほか二十柱配祀
主な祭典 例祭(四月十三日)、新嘗祭(十一月二十七日)
社殿 本殿、弊殿、拝殿
主な建物 鳥居、狛犬、大灯籠、灯籠、手水社、神庫、大祭記念碑
通称 さんのうさま
神紋 大内菱
(参照:『山口県神社誌』、観光案内説明看板)

日吉神社・歴史

境内入り口の説明看板には、つぎのように書かれている。
「むかしは山王大権現または山王社といっていたが、明治四年から日吉神社になった。主神は大国主命でありそのほかに二十柱の神様を合せ祀ってある。
防長風土進案には永正元年(1503)年、大内義興の時造建とあり、「当所の領主陶弘政の時江州(滋賀県) 日枝より勧請」とつけ加えられてある。社紋に大内菱を用いてあるのも大内氏や陶氏との関係が深いからであろう。
日吉神社の石造物に、元禄十年の鳥居や安永五年から次々と造られた多くの灯籠や嘉永五年の玉垣、天保五年の手洗鉢や石柱、文政四年の狛犬等江戸時代の建造である。
社殿の東側には河内社の鳥居があり社殿の後方には 「弁天御神」の祠がある。
日吉神社は沖の開作の守護神として名田島の住民も全部が氏子であった。例祭は四月十三日、十四日に行われている。」

日吉神社の総本社と言ったら、比叡山延暦寺と神仏習合した日吉大社で、その通称は山王権現。天台宗の鎮守神としてあらゆるところに勧請された。というようなことで、ここ陶の地にも「山王社」が勧請されたわけだが、のちに神と仏が分かたれたとき、日吉神社と改名された。しかし、いまなお「さんのうさま」と呼ばれているらしいことが、説明看板からもわかる。

『陶村史』によれば、「日吉神社は沢山の神々を配祀しているのが特色」とある。大国主命のほかに二十柱の神様が合せて祀られているというのは、よくあるようにいくつかの小さな神社を合祀して一つにまとめた、というよりも、最初からたくさんの神様がおいでになった、ということのようだ。

山口周辺の日吉神社は、「大同年間から享保年間までの九百余年の間に鎮座したもの」(『陶村史』)で、陶の日吉神社がその中で最も古いというわけではないのだが、神紋が大内菱であることから、大内氏、陶氏とのかかわりが深い神社であることは疑いがなく、その意味では「郷土の社としては由緒あるもの」(同上)といえる。

神社が勧請されたのはいつか、勧請したのは誰か、という最も重大な点についていくつかの意見があり、解決されていないことが残念である。

一、大内義興が永正元年(1503)年に比叡山より勧請
二、陶弘政が江州日枝より勧請
三、正護寺の住職が比叡山から勧請

一が神社庁の本に採用されている説(参照:『山口県神社誌』)。二についても、神社庁の資料に「元文元年当社再興の棟札には陶惣郷の鎮守として陶弘政の創建とあるも不詳」と書かれているそうだ(参照:『陶村史』)。陶の地が文字通り、分家・陶一族の名字の地であること、弘政代には陶にいたこと、陶氏ゆかりの正護寺が山王社の社僧をつとめていたことなどから、限りなく正解に近い気がする。三について。名田島には神社が一つもなかったので、それらの人たちが沖の開作をするために建てられたのがこの神社だという説。だから、島の人たちは皆、この神社の氏子だったのである。(参照:『陶村史』、案内看板)

『陶村史』によれば、もともとこの神社の例祭は十一月十九日に行なわれてきたが、大正五年以降、現在の四月十三・十四日に変更されたという。また、かつて名田島に六つの摂社があったが、大正七年にはそれぞれ独立してしまった。

日吉神社・みどころ

『陶村史』には、神社の「石造物」について、非常に細かく記されている。残念ながら昭和時代に書かれた書籍であるため、その後神社の景色も変ってしまった可能性はある。しかし、それよりは新しい『山口県神社誌』と重なる記述も多数あるので、おおよそのところをまとめておく。

鳥居(元禄十年、天保十年)、灯籠(明和六年、安永五年、文化八年、文化十三年)、狛犬(文政四年)、手洗鉢と石柱(天保五年)、「四百十五年記念碑」(大正七年)、「四百六十五年式年大祭記念」(昭和四十二年)
「弁天御神」の小碑(社殿の背後にある)、「河内社」鳥居(社殿の東側にある):社地背後の河内様の鳥居。元は山田にあったものを移築してきた木造の祠を、経年劣化に伴いコンクリート製に改築した。毎年祭りが行なわれているという(『陶村史』)。

「一の鳥居近くの狛犬は特別大きくて珍しい形をしており、境内の灯籠の一つはこれ又柱の高い点で珍しい」(『陶村史』)とあり、鳥居の近くには確かに大きな狛犬があるけれど、鳥居には元禄十年と天保十年のものとがあるらしいことは『陶村史』『山口県神社誌』ともに同じ記述。でも、鳥居は一つしか見付けられなかったので、これが一の鳥居なのかどうかはわからない。鳥居から境内までは長い参道が続いており、参道脇にじつに多くの灯籠があった。このうちのどれかが、『陶村史』に書かれた「年代物」の灯籠なのだと思う。なお、「弁天御神」の碑と「河内社」鳥居も見付からなかった。

なお、神紋が大内菱ということだけれど、これは間違いなくそうなのだが、社殿はじめ境内の建築物にそれとわかる大内菱は特に見当たらなかった。

鳥居

日吉神社鳥居

かなり真新しく見えるのだが、きちんと「元禄十年」と刻まれている。両脇の狛犬、台座が巨大であることにびっくりで、『陶村史』にある「特別大きくて珍しい形」の狛犬は、いかにもコレなんじゃないかと思われるが、確定はできない。

手水舎

日吉神社手水舎

石柱

日吉神社石柱

意識して撮影したわけではないので、見づらいけれど、拝殿の手前、石段の先にある一対の柱が『陶村史』にある天保五年の石柱。

拝殿

日吉神社拝殿

大灯籠

日吉神社大灯籠

『山口県神社誌』の境内案内図によれば、これが「大灯籠」ということになって、嘉永五年製。『陶村史』にある「柱が高い点で珍しい」という灯籠がどれを指すのかわからないけれど、製造年代からこれではない。石柱後ろにチラ見えている灯籠はやや柱が高いような気がするけど。

四百十五年記念碑

日吉神社四十五年記念碑

日吉神社祠

なんだろう、これ? もしやして、河内様の祠というのはこれのことなのだろうか? ただし、鳥居はどこにもなかった。ほかに考えられることは弁天御神だが、これは石碑でしかないようだし。摂社なのかな? と思った次第。

日吉神社写真集

参照文献:『陶村史』、『山口県神社誌』、案内看板

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。

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