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月輪寺薬師堂(山口市徳地)

2022年9月19日

月輪寺寺号石碑の写真

月輪寺・基本情報

住所 〒747-0523 山口市徳地上村 572
山号・寺号・本尊 清涼山・月輪寺・薬師如来
最寄り駅 山口駅からタクシー
宗派 

月輪寺・歴史

月輪寺は「がちりんじ」と読む。聖徳太子が推古十七年(607)に鹿野町清涼寺に薬師堂を建てたのが始まり。のちに、俊乗坊重源が東大寺大勧進となって下向したとき、文治五年(1189)、元の清涼寺(徳地町串)をこの地に移築した。(参照:案内看板)

重源上人と周防国

いわゆる源平合戦の頃、奢れる平家は反平氏の旗を掲げる多くの勢力に囲まれた。その中には南都・興福寺の僧兵など宗教勢力との対立もあった。平清盛は重衡を奈良に派遣、軍事衝突となる。この時、興福寺をはじめ東大寺の大仏殿などにも火がかかり、多くの寺院や文化財が焼け落ちてしまった。治承四年四月二十八日のことである。歴史の教科書や参考書ではこの事件を平重衡による「南都焼打ち」と記している。

ミル

でもね、そんなにワルモノ扱いしないで欲しいの……。

五郎

戦の時には、周辺に火をつけることは普通に行なわれるよ。下っ端の兵士が無造作につけた火が思いの外に燃え上がり、そこら中が火の海になることだってあるんだ。それでも、総大将として、責任は自分にあると潔く認めている。むしろ立派だと思うんだ。俺たち、『平家物語』を読んでいるからさ(別にミルの先祖だから肩入れしているわけじゃないよ)。

於児丸

驕り高ぶるワルモノたちが神様、仏様をも恐れず、平然と大切な文化財を焼払うという事件は歴史上何度もあります。『平家物語』はあくまでフィクションです。平氏なんぞ美化せずに、その後、朝廷も幕府も皆で協力して東大寺を再建したことに注目してください。鎌倉幕府は我々源氏の先祖がつくった武家政権です。

新介

あのさ、君たちは重源上人のお話をしようと思っているはずだよね?

平家が滅亡し、鎌倉幕府が成立すると、朝廷も幕府も、公武協力して東大寺の復興を進めた。摂関家も氏寺・興福寺の再興に努める。この時、東大寺の再建をまるっと任されたのが、俊乗坊重源という人だった。重源は山城国出身。紀長谷雄の子孫、季重の息子で、俗名を重定といった。十三歳で出家して醍醐寺に入り、俊乗坊で真言の教義を習得。のちに、黒谷の源空に弟子入りし、専修念仏を受けて阿弥陀仏と号した。仁安二年に入宋し、翌三年九月、栄西とともに帰国。再び醍醐寺に住んだ。朝廷は最初、源空に東大寺再興を依頼しようと考えていたが、 源空が承諾しなかったため、弟子の重源を大勧進としたのであった。

ここで重要なことは、東大寺再興のために、周防国がその造営料国となったことである。当時はまだ、院政期で知行国制だった。重源は「東大寺の再興を任せるのでお願いします。周防国をあなたの知行国としますから、費用はそこからまかなってください」と言われたわけだ。知行国を与えられた公卿は、国司なんぞという低ランクの役職に自ら就くことはないから、身内や配下から適当に人選をする。しかも、国司となった人物も現地には赴かず、政務ならぬ徴税業務は現地に派遣した目代に丸投げ、というような状態が普通だった。しかし、重源は公卿ではなく僧侶である。自ら現地に赴くにせよ、弟子の誰かを国司に推薦して現地に派遣するにせよ、僧侶が国司に任官する、というのはこれまでに例がないことであった。

そもそも、この時、周防国は右近衛権中将兼蔵人頭・藤原実教という人の知行国であり、やはり本人ではなく、次男の公基が国司となっていた。東大寺再興のために周防国が重源に与えられるという事情で、藤原実教には周防国のかわりに丹波国が与えられたという。この丹波国は摂政・藤原基通の知行国だったので、この人が退かなければならなくなるけれど、運良く失脚したところだったので、ちょうど空きができたらしい。

それでも、あれこれのことにこだわる貴族たちは、僧侶が国司に任官されるという奇妙な(?)事態を憂慮したらしく、すったもんだの末、元の周防国国司・藤原公基をそのまま周防守の地位に残した。国司として、公基は名ばかりであり(そもそも目代任せで現地には行っていなかったかも)、国務のすべては重源に任されたから、じっさいには重源が国司のようなものだった。しかし、これが「我が国の寺院知行国の最初」であり、先例がなかったことから、朝廷はかくも戸惑い様々な議論が交わされたのであった。

朝廷がもたもたしている間にも、重源上人はとっとと防府に下向し、東大寺再興事業に着手した。

文治二年四月十日、拝任。四月十八日、宋人・陳和卿、番匠・物部為里、桜島国宗等と佐波川沿いを上って行き、杣山に入って「杣始め」を行う。東大寺造営に必要となる材木は、佐波川の上流域より採取されたのである。この材木の調達は、たいへんな作業であった。

徳地の杣山と佐波川

東大寺造営って、具体的にどういうことをするんだろう? と思うけれど、教科書&参考書に載っている、重源上人が中心となって、中国からきた陳和卿という技術者がこれを請負い、豪放な構造美を誇る大仏様という建築様式で再建された云々は最終段階の話。そんな綺麗事とはほど遠い。周防国は東大寺再建のための財源をまかなう場所に設定されてしまった。重源は東大寺を建てるための材料、つまり、木材の提供地として周防国の杣山に入ったのである。

木材の切り出し、東大寺再建地までの運搬、いずれもたいへんな労力をともなう大事業であった。当然、地元・周防国の人々が駆り出された。困難な作業の記録は『造立供養記』や『吾妻鏡』『玉葉』といった本に書いてある。もちろん、そんな古文書一々読めないから、それらを研究なさった先生のご本を読んだ。

まずは柱の切り出し。柱一本は短いものでも、七丈~八丈。長いと九丈~十丈もあり、口径は五尺余。轆轤(ろくろ、滑車)を二つ使い、70人の人夫が力をあわせてようやく引くことができる。柱を引くのに使う綱は径六寸、長さ五十丈もあり、 五十人がかりでもわずかに一丈しか持ち挙げられないほど重い。この綱を柱の本末に二本取り付けて引っ張る。轆轤を使わなければ、一本の柱を引き出すのに千人以上の人手が必要というから、轆轤のパワーはすさまじい。

このような材木を切り出し、運び出すために、人々は深い渓谷を埋めて平にしたり、大岩を砕いて道を開いたり、雑木林を伐採し、荊棘を取り除き、あるいは谷から谷へと橋を架けねばならなかった。また冬の寒さ、夏の暑さも人々を苦しめた。重源は人々を励まし、導いた。

そこまでして採取した木材も、中が中空になっていたり、節や枝が多くて柱として使えなかったりしたから、数百本の材木を切り出したとしても、使えるものはわずかに十本、二十本程度であったという。

そうやって集められた良木は、佐波川から出して、木津に集め、木津から海まで七里の距離を水を利用して運搬した。水が浅いため百十八ヶ所もの堰を作らねばならなかった。夏期に長時間水に浸かって作業する人夫の手足は、爛れてしまうこともあった。このような苦労が、なんと数十年間も続いたのである。

また杣山の中に、料材運送のために東西南北縦横に三百町の道を造った。河中輸送の筏を組むのに使う葛藤は、初めは周防国内から調達したが、のちにはすっかりなくなってしまったので、他国から取り寄せた。また木津付近は河の水が浅いため、船四艘を柱の本末につけて浮ばせるというアイディアを思いついた。海に出してから、和泉国・木津に到着すると大力車に載せ、牛百二十頭でこれを引いたという。

どれだけ頑張っても人手は足りず、やがてお隣長門国の人たちも手伝ったりしたようだ。こうして、種々の困難を伴った大事業だが、それらについては、重源も元より覚悟の上だったらしい。それよりも、厄介なのは、やがて、鎌倉幕府の力が安定してくると、守護・地頭の横暴が後をたたなくなったことであった。力をつけた地頭たちは、年貢を滞納したり、業務の邪魔をしたりと散々であり、重源の木材採取もたびたび妨害されたらしい。

重源の里

「重源の里」看板の写真

重源の努力と周防国の人々の協力により、東大寺は無事に再建された。日本史上その功績は揺るぎないものであろう。地元には重源にまつわる伝説があれこれと残されていて、徳地の地は「重源の里」として親しまれている。重源が杣山で行なった林道開発の恩恵は後世に続くし、人夫のために造った石風呂の跡は、今も遺跡とし残されている。

重源が創立したことで有名な寺院に阿弥陀寺があるけれど、ほかにも、玉祖神社や松崎天満宮(防府天満宮)を修復している。重源が建立、修築したとされる寺社はほかにもたくさんある。ここ、月輪寺もその一つである。

この寺院は、関白・藤原兼実の協力で再建したものとされていて、薬師堂は県内最古の木造建築物と考えられている。月輪という寺号は、藤原兼実が月輪殿と呼ばれていたことによる。

細川澄之のイメージキャライラスト九条家子孫

月輪寺・みどころ

元々は聖徳太子が建てた寺院だということなので、どれだけ古いことか。創立は推古十七年なので、琳聖さまはすでに日本に来られていたはずである。

五郎

というか、聖徳太子って周防国まで来ていたのか!

ミル

偉い人は命令書一つで何でもできてしまうから、実際に現地に来ていたのかはわからないね……。

月輪寺の本堂や位牌堂は、薬師堂からはちょっとだけ離れている(というか入り口が違う)のだけれど、ガイドさんもスルーなさっておられたので、人々の目的は薬師堂なのだと思う。そもそも、全国には月輪寺という寺院は大量に存在するみたいで、薬師堂まで入れないと、ここは検索にも現われない。

「薬師堂」エリアには、国指定重要文化財である薬師堂と、県指定有形文化財である聖観音立像、木造四天王立像が、「月輪寺」エリアには山口市指定有形文化財である銅製鰐口、銅製経筒がある。

楼門

楼門の写真

文化財指定を受けている仁王像はガードがすごいですが、コチラは指定文化財ではないので、このようにお姿がまる見えです。ご案内図では、単に楼門とありました。特にご説明もありませんでしたが、仁王像と鐘があることから、仁王門にして鐘楼門ということになります。

薬師本堂

薬師本堂の写真

薬師様は秘仏なので、普段は見ることができません。厨子だけはチラと見えますが。そもそも、中にはもう一つ建物というか、お部屋がありまして、その周りをぐるっと廊下が廻らされております。なので、開いている扉から、薬師様の厨子までもとても遠いです。

観音堂

観音堂の写真

観音堂は二つあり、どちらに聖観音立像があるのかわからなかった。いずれにしても、見ることができるのは堂宇のみなので、あまり関係はない。

開山堂

開山堂の写真

なぜかこちらだけ、扉が開いていました。開山がどなたなのか、ご説明がないのですが、安置されている像は、聖徳太子にも、重源上人にも見えませんでした。

月輪寺写真集

アクセス

歩くことは無理みたいです。タクシー推奨。有名な観光資源なので、問題なく連れて行ってくださるはずです。

参照文献:三坂圭治先生『周防国衙の研究』、説明看板

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