大内氏遺跡・凌雲寺跡

 

大内義興公菩提寺

大内義興卿墓とされるものが残されている。
現在も地道な発掘調査が続く、大内氏遺跡。

広大な敷地に復元済みの石垣のみがひっそりと佇む、
かつての繁栄ぶりを思い感傷的になる場所。

歴代最高の主が眠る夢の跡

正式名称は「大内氏遺跡・凌雲寺跡」。
凌雲寺は大内義興の菩提寺で、広大な敷地に、防御的能力も備わった豪勢な寺であったと想像できる。
大内家の滅亡とともに廃れ、当時を偲ぶものは何もない。
現在、地道な発掘調査が進められており、今の所惣門跡が復元されている。
惣門だけでこれほどのものなので、往時の規模いかほどであったのか、想像もできない。
遺跡入り口には、大内義興とその夫人、開山の僧侶とされる墓が三基ある。

大内義興卿墓


大内義興卿墓とされているもの。ほかに、夫人と開山僧のものがある。
この下に、本当に義興様らが眠っているのか定かではないが、言い伝えによればそうである。

全体図


これが、敷地の全体図。
復元された惣門跡の場所が明記されている。
この上に掲げられている「国指定史跡」の説明文は以下の通り。

 国指定・遺跡『大内氏遺跡凌雲寺跡』
昭和三十四年十一月二十七日指定
凌雲寺は、大内氏三十代義興を開基、了庵桂悟を開山として、永正四年頃(一五〇七)この地に創建されたと伝えられています。廃寺の年月は不明ですが、おそらく大内氏滅亡の後、いつの時代にか廃されたものと思われます。 寺は舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注目すべきは大地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さ約六十メートル、高さ三メート余りで、幅は二メートル余りあります。 巨岩をもって築かれた豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城塞の役を兼ねたものかと思われます。 指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。

惣門跡

 

現状、発掘調査が済んでいるのは、この石垣のみ。
これは、凌雲寺遺跡として保存されている敷地のほんの僅かな部分でしかなく、言うまでもなく門に過ぎない。
いったい、どれだけの大規模な寺院であったのか。
これほどの寺院が廃れてしまった、
その時の流れが虚しく感じられる。

発掘調査


発掘調査は続けられていて、今後の成果に期待したい。
なお、調査中でも見学は可能(常に可能かは分からないが)。
地道な調査を続けてくださっている研究者の方たちに、御礼申し上げます。

「400年祭」記念の碑


地元の方々が記念祭を行ってくださっている。

凌雲寺:創建及び廃頽の年月は不明。地元の言い伝えによれば、天文十七(1548)年焼失、また一説には天文二十(1551)年八月二十八日の夜、義隆が法泉寺より本寺に逃れてきた際、寺の僧侶は山門を閉ざして寺内に入れなかった。「天火の災ありて」焼失したという。これらの言い伝えはいずれも間違っていることは、故・高橋右文氏がお書きになったものの中に詳しく論じられている。
旧跡に壊れ残れる石垣が二ヵ所あり、外の方は高さ九尺、幅六尺あまりで、山門の跡という。残された石垣からややのぼって石をくみあつめたものが、御子様方の墓、或は火屋の跡だという。この場所から左に行った所に五輪墓が三つあり、一つは義興、一つは北方、一は開山のものだという。その下に谷川があり、鬼が原という。
寺跡よりおよそ三町ほど東方の山腰に荒神社あり、本寺の鎮守社だという。また西北の山麓に小堂があり、弥勒が安置されている。この弥勒が凌雲寺の本尊であるという。弥勒の側に開山の木像と位牌がある。また鎮守の神名を彫った位牌があって、凌雲寺が廃れた後、仮にここに移し置いたのだという。

参考文献:近藤清石『大内家実録』世家・義興より 抄訳