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妙湛寺(山口市小郡下郷)

2023年1月15日

妙澶寺入り口にて
妙澶寺入り口にて

山口県山口市小郡下郷の妙湛寺とは?

大内盛見の子・豊福丸の墓所(供養塔)がある寺院です。応永の乱で敗死した兄・義弘にかわって当主となった盛見は、義弘の遺児が成長したら当主の座を返そうと考えていました。当然父の跡を継ぐことができると思っているであろう我が子と、義弘の遺児との間で家督をめぐる争いが起ることを危惧した盛見は、なんと自らの愛児を川に突き落として死なせ将来起るであろう諍いを事前に鎮めたといいます。父によって命を奪われた幼子・豊久丸の亡骸が流れ着いた場所に堂宇を建てて、手厚く葬ったのがこの寺院の起源とされます。

いくらなんでもこのようなデタラメを信じる人はいなかった模様で、豊久丸は単なる水難事故に遭って亡くなったと考えられています。ゆえに、地元の方は、川に落ちて亡くなることを「妙湛寺に行く」というのだそうです。研究者の間では、水難事故説も否定されており、単なる伝承と思われます。

妙湛寺・基本情報

住所 〒754-0002 山口市小郡下郷 2571
山号・寺号・本尊 不動山・妙湛寺・
宗派 臨済宗

妙湛寺・歴史

『山口県寺院沿革史』には、およそつぎのようなことが書かれている(※このご本は、昭和初期に書かれたものなので、文中に現在とか今とあるのはその当時のことです。また情報は古くなっている可能性もあります)。

「寺伝は、開基は大内盛見であるとし、つぎのような縁起がある。

応永六年、義弘は義満に叛いて戦死した。 香積寺と号したが、その子・持世はまだ幼かった。 義弘の弟盛見がしばらく防長豊前筑前の守護として国政を執った。義弘の家老鷲頭は国政に関わっていたが、ついに義弘の家を奪おうとしたので、盛見は軍を率いて鷲頭を討ち、持世に家を継がせた。盛見は心中、我が子が成長したら、きっと持世と権力を争うことになるであろう、そんなことになるのなら、子を失うほうがよい、と思っていた。たまたま河辺を歩き回っていた時、誤って水に堕とし、溺れさせてしまった。その亡骸が流れ着いたところに、一寺を建てて、妙湛寺と名づけた。(盛見の子の)法名は妙湛寺玉林常光信童。以下略。

盛見の子には教幸と教弘があって、教弘は盛見の跡を継いだ持世の養子となって家督をうけついだのだから、この縁起に根拠がないことは言うまでもないだろう。山口で水に落ち、妙湛寺に流れついたというのは、盛見の子が誤って水に落ちて亡くなったということはあるいは事実かもしれない。

防長社寺由緒に「建仁寺清住院の長老が、山口大通院・閑田周徹に伝えたことを、常栄寺節西堂が書写した。寺院の名を妙湛禅寺と書き留め、そのほかは除いて、妙湛寺住持に縁起として与えた。現在そこにある縁起はこれである」と書かれている。閑田周徹は大通院五世で、宝永七年十一月三日に亡くなっている。常栄寺七世前真如柏岩靈節は正徳五年六月二十八日に亡くなり、そののち、寺院は廃れてしまっていたのを、奉山欣和尚が再興した。これらのことから、この寺院の縁起が古くからの言い伝えではないことは明らかである。

常陸国牛久の旧藩主・山口氏はその先祖が大内教幸から出ているとしており、その家譜にこの縁起と全く同じものがあり、そのために縁起を信じる人がいるという。けれども、大内盛見が義弘の子・持世を大切に育てて家を継がせたこと、また鷲頭氏を討ったことは『応仁後記』に書かれている。これらのことから、妙湛寺のことも山口氏が俗伝を採用してしまうに及んだのであろう。

小郡町東津の厳島神社は祭神が綿津見神と三女神、仲哀天皇、神功皇后である。社伝によれば、鎮座の年代ははっきりしないという。『注進案』天保十三年の記録によれば、七百年前に建立された社であるという。妙湛寺はその坊であり、「大般若波羅密多経」全六百巻の写経があって、現在厳島神社の宝物となっている。嘉慶二年から応永三十三年まで三十九年の歳月をかけた。百一巻の奥書に「於東津厳島宮流通経也同願主祐海山門派僧衆比丘金剛仏子祐海造立供養云」とあり、七十五巻と七十六巻、七十七巻奥書には「顯信禅尼報地莊嚴願主沙門祐海同筆応永卅癸卯五月十七日於妙湛寺書之」とあり、防長史学嘉永二年に妙湛寺が存在したという証左はないけれども、古寺であることは上によって知ることができる。

昔はこの地で寺領百石余を寄附され、脇坊も二三ヶ寺あったうち、明治改正までは厳島神社、中領八幡宮の社坊であった。いったん廃寺となって、宝勝院といった。この宝勝院は明治二十八年にこの寺が引寺したもの。同三十九年に更に寺号を妙湛寺と改めた。」(原文・文語文)

まとめ

寺院縁起・大内盛見は兄の子・持世を後継者としたため、将来実子と持世が家督争いを起こすのではないかと懸念して、我が子を水に突き落として死なせた。そのご遺体が流れ着いた場所に寺院を建てて供養した。

盛見が我が子を手にかけたという縁起は、事実無根の言い伝えにすぎないが、盛見の子が水死したことは事実かもしれない。

この縁起の出所は江戸時代に言い伝えを書き留めたものであるから、古い時代から伝えられてきたものではない。しかし、寺院じたいは、14世紀に書かれた写経が残されていることから古寺であることは間違いない。

寺院は厳島神社の社坊であったと思われ、寺領の寄附や脇坊もあったが、明治時代にいったん廃寺となり、その後宝勝院となって、のちに再び妙湛寺と名を改めた。

参照:『山口県寺院沿革史』

大内盛見は応仁の乱で戦死した兄・義弘から後事を託され、兄の遺言に従って国を治めた。あくまでも、亡き兄のかわりをつとめている、という認識だったから、兄の子・持世が大きくなったら家督は持世に継がせるつもりであった。つまりは、嫡流である兄の子がまだ幼すぎたために、しばらく「後見」していたにすぎない。

だから、盛見には、自分の息子を跡継とする思いはまったくなかった。のみならず、盛見の立場が「後見」であることをわきまえず、大きくなったら父の跡を継いで国の主となるのは当然と思い、我が子が持世との間に争いを起こすのではないかと心配した。

いかにもありそうな展開ではある。しかし、事実は持世に跡継となる子がいなかったため、結局は盛見の子が跡を継ぐことになった。さらに、家督をめぐる争いは確かに勃発したが、それは持世と盛見の実子との争いではなく、同じ義弘の子である持世と持盛との兄弟間の争いであった。

もしも、寺院の縁起にある、盛見が将来起こり得る家督をめぐる争いを心配して云々による子殺しが本当だったならば、それがともに義弘の子である持世・持盛兄弟の戦闘として現実化したと知ったらどれほど無念なことか。そもそも『寺院沿革史』に書いてあることそのままで、実際に盛見の子は健在で、持世の養子として家督を継ぐことになるのだから、残念ながら縁起はやはり単なる伝承だ。もしも、盛見がそこまで思い詰めていたとしたら、何人いたかわからない息子たち全員が父親に殺されていただろう。

ただし、盛見に教幸・教弘兄弟以外の息子がいて、その子が不幸にして水難事故によって命を落としたことは十分にあり得ることなので、諸々変遷しつつもこの寺院が盛見によって建立されたものであり、幼くして亡くなった我が子を供養したというのは本当なのだろう。

しかし、『沿革史』にある「大般若波羅密多経」に書かれていることが事実だとしたら、盛見の時代より早くから存在していたことになるから、創建した寺院というよりは、再建した寺院のように思える。

妙湛寺・みどころ

車道から少しだけ奥まった所にある。ちょっと奥に入るだけで、こんなに奥ゆかしい風情になるのかと心洗われる気持ちになった。この寺院が、盛見の子が祀られた場所であると知っていて訪ねてくる方は多いらしく、ところどころに案内矢印が着いていた。

説明看板によれば、盛見の子は「豊久丸」といい、法名は『寺院沿革史』にある通り、妙湛寺殿玉林常光信童。本堂左手にその墓がある。

参道

妙湛寺・参道

参道入り口のところに看板があり、寺院の縁起が書かれている。

山門

妙湛寺山門

山門には「妙湛禅寺」の文字が。少し遅れた紅葉が美しく、悲しい寺院縁起との相乗効果で、何とも言えない感慨を抱いた。

本堂

妙湛寺・本堂

豊久丸の墓

妙湛寺・豊久丸の墓

ご覧のように、いくつかの墓があって、左側の宝篋印塔などいかにも何かのゆかりがありそうに見える。しかし、豊久丸のものとされるのは、中央の木札が立っている背後となる。元々は妙湛寺の裏手にあったが、現在は境内の中、と看板に書いてある。

参道入り口から始まって、境内にも大きな「供養塔」という矢印がついているので、探すのに迷うことはないと思われる。説明看板にも豊久丸のものと「伝えられる」とあり、この幼子がなぜ亡くなったのか、本当にここに葬られているのかも含めて、すべては伝承の域を出ないのかもしれない。

妙湛寺(山口市小郡下郷)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒754-0002 山口市小郡下郷 2571

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。map を拡大すると、周防下郷駅から東津橋を渡って対岸に行き、そこから行けそうには見えます。

五郎涙イメージ画像
五郎

だからさ、行けそうに見える、っていうのは無責任。最寄り駅と徒歩での行き方は調査中です。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、説明看板

妙湛寺(山口市小郡下郷)について:まとめ & 感想

妙湛寺(山口市小郡下郷)・まとめ

  1. 大内盛見が我が子を供養するために建てた寺院だとの言い伝えがある
  2. 盛見は兄・義弘の遺児に家督を譲るつもりだったため、将来実の我が子と、兄の遺児との間に争いが恐れることを恐れた。ゆえに災いの種となりそうな我が子を自ら手にかけたと言われる
  3. ありもしない作り話と否定されているが、寺院内には盛見の子・豊久丸の墓なる供養塔が存在する
  4. 豊久丸は、盛見によって川に突き落とされたことになっており、その亡骸が流れ着いた先が、現在寺院があるところだった。寺院の建立はその供養のためとされる。
  5. ほかに、豊久丸は盛見に命を奪われたのではなく、水難事故にあって亡くなったという説もあり、そのために地元では、川に落ちて流されることを今でも「妙湛寺に行く」と呼ぶ
  6. 豊久丸という名前は流布している系図には載っておらず、水難事故の件も真実かは不明。しかし、盛見の子・教弘が、義弘の遺児・持世を間に挟みつつも、しっかり家督を引き継いでいることからも、盛見が我が子を亡き者にしようとした説には説得力はない

なんともびっくりな由緒をもつ寺院さまで、到底信じる人はいないだろうと思われます。あくまでも亡き兄の代りを務めていたに過ぎない、兄の遺児が立派に成長したら家督は彼らに譲ると盛見が考えていたのは、恐らく事実でしょう。きちんと、兄の遺児が家督を継いでいますから。しかし、家督相続以前に、盛見は九州で戦死しており、その後、義弘の二人の遺児どうしが激しく家督を争ったことは知りません。

万が一、盛見が兄の遺児たちのために、我が子を犠牲にしたというのが本当ならば、そうまでして譲ってもらった家督の座を巡って兄弟同士が血で血を洗うことになるとは、何とも皮肉なことです。しかし、親子、兄弟が相争うことが普通だった時代ですから、如何ともしがたいです。盛見が実の子を手にかけた云々は眉唾です。誰かが「美談」としてでっち上げたのかもしれませんが、もしそこまでして、兄の遺児を立てるのならば、豊久丸だけでなく、後に家督を継ぐことになる教弘も含めて、すべての子らを始末する必要があったでしょう。当然、そんな惨いことはしていないので、結果的に教弘に家督が戻って来たのです。

持世に跡継となる子がいなかったことで、教弘が持世の養子となっていたことが大きいですが、もしも、持世に跡継となる息子がいたらどうなっていたでしょうか? 教弘たち盛見の子らからしたら、父が我が子をほっておいて、亡き伯父の子に家督をやったことは面白くなかったかも知れませんし、嫡流が伯父の一類に流れて行くのは許せなかったかも知れません。確かに、盛見の考えたことはこの時代の人が好みそうな「美談」ではありますが、普通に考えてありえないことです。

しかし、『大内村誌』などでは、豊久丸が水難事故に遭ったことも否定しています。だとしたら、この寺院で供養されている豊久丸なる子はいったい、どこの誰の子なのでしょうか。そもそも、実在の人物なのでしょうか。「妙湛寺に行く」なる言葉が伝えられていることや、もしも、豊久丸が実在しなかったら、寺院さまの存在意義がなくなってしまうことなどから、水難事故説には多少の説得力があるように思えてなりません。系図に名前が出ていない息子や娘などいくらでもいたでしょうからね。

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

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五郎

俺も『陰徳太平記』の父上が兄上を……という嫌な作り話を思い出してしまったじゃないか。

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ミル

もしも本当ならば、どれだけ悲惨な物語なのか……。

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宗景

伝承は史実とは違う。しかし、本当に違うのかということを証明するのは難しい。とらえ方は人それぞれ。素直に涙するお前たちの優しさが麗しく思えるぞ。

※この記事は、20231208 に加筆されました。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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