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曾場ヶ城(広島県東広島市八本松)

2023年7月15日

曾場ヶ城「本丸」
曾場ヶ城本丸跡にて

広島県広島市八本松の曾場ヶ城とは?

曾場ヶ城は、広島県東広島市八本松にある中世の山城跡です。大内氏の安芸東西条における拠点として使用されていました。大内氏の安芸東西条支配の拠点としては、国の史跡に指定されている鏡山城、この曾場ヶ城、槌山城の三箇所が知られています。

鏡山城が尼子氏によって陥落したのち、大内氏は城を奪い返し、安芸国の領地を回復しましたが、その際、鏡山城を離れ、より標高が高く、見晴らしの良い曾場ヶ城にその拠点を移しました。曾場ヶ城は山陽本線で最も標高が高い駅・八本松からほど近い所にあります。城跡は非常に広大で標高も高いため、登山は容易ではありませんが、その分、山頂からの眺望は最高です。西条盆地をまるっと視界におさめることができ、この地に拠点を置いていた意味も頷けます。

けれども、大内氏東西条の拠点はやがて槌山に移されたため、曾場ヶ城は合戦に巻き込まれるようなこともなく、そのまま役目を終えて山城跡となりました。

曾場ヶ城・基本情報

正式名称 杣城※
別名 曾場ヶ城、仙城(原側から)、大山城、飯田城、さむらい屋敷(飯田側から)
形態 
立地 丘陵頂部
標高(比高) 570メートル(350メートル)
築城・着工開始 大永五年~大永七年頃か
廃城年 天文十二年
築城者 陶興房(普請奉行:伊香賀壱岐守)
廃城主 
遺構 郭、堀切、竪堀、土塁、石垣 
文化財指定 なし
※同時代史料にはすべて「杣城」と書かれている(『安芸国の城館』)
(参照:『安芸国の城館』、『日本の城辞典』、東広島市ボランティアガイドの会さま資料)

曾場ヶ城・概観

西条盆地の西側に位置する曾場ヶ城山に築かれた山城です。山頂は「一つ城」といい、それより先は古来より山陽道一の難所と言われた「大山峠」に続いています。

城の構造と登山ルート

曾場ヶ城(遠景)

八本松駅方面から眺めますと、右手に「一つ城」左手に「三の郭」が見えます。

城の構造は以下のようになってます(縄張り図書けませんので、位置関係だけです)

曾場ヶ城・郭配置図

ガイドさんが作ってくださった縄張り図からど素人が図式化してます。「配置図」だけはあっています。なお、○○メートルとあるのは、標高です(本当は午の段のとなりに三郭がありますがはみ出ました)。
※駅から見えている写真と郭の配置図とがまったく反対向きになって気持ち悪いんですが山の裏側には見に行けなかったのでごめんなさい。

横に長く異常に広大な城です(後で、なにゆえに廃棄されたか、というお話のところでも触れます)。

一、最も高いところにあるのが、「一つ城」で、ここが、曾場ヶ城の山頂です。標高 606メートルもあります。標高が高いゆえ、眺望が最高でして、東西南北、それぞれに、素晴らしい展望が広がっています。また、ここから下って行くと、いにしえの山陽道の難所だったとされる「大山峠」に続いています。
二、主郭群は「本丸跡」となっているところと、「二の丸跡」となっているところでして、両者の間には「小さな郭」や「堀切」があって、区切られています。
三、「一つ城」と「本丸」との間には、八本の堀切があります(図はメンドーなので二本)。
四。「午の段」というのは南の方角にある郭の意味。「午」は方角を指す昔の言い方です。古文常識の参考書などに載っています。

登山道から順番に、三の丸 ⇒ 午の段 ⇒ 二の丸 ⇒ 矢竹のトンネル ⇒ 本丸 ⇒ 八条堀切 ⇒ 一つ城

というようなコースで登っていくことになります。

曾場ヶ城・歴史

この城が史料に現われた最初は大永七年(1527)頃の「陶興房」書状です。むろん、「史料に現われた最初」= この時に城が完成した、ではありません。史料の上で確認できる最初であるにすぎません。つまりは正式な築城年月日などは不明である、ということです。

大内氏の安芸国東西条における拠点は鏡山城でしたが、大内義興が足利義材の将軍復職に付き合わされて上洛中、力をつけてきた尼子家によって占拠されてしまいました(永正13年、1516)。義興の帰国後、すぐに奪還しますが、そのご再び襲われ、陥落させられてしまいます(大永三年、1523)。大永五年(1525)、城は陶興房の活躍で奪い返されましたが、興房は鏡山城を廃止して、ココ、曾場ヶ城に新たな拠点を築きます。

陶興房イメージ画像陶興房

もともと、この場所には、源平合戦の頃に平家方が築いたといわれる城があり、それを整備したのだといいます。

鏡山城の時と同様、いかにこの地が重要拠点とはいえ、興房自身がここに詰めるわけにはいきません。かわりに伊加賀壱岐守という人が代官として城に入りました。

時代が義隆期にくだると、弘中隆兼が安芸国東西条の郡代を務めていたことが知られています。ファンの多い方ですね。大内氏と尼子氏の闘争は未だ止むことなく続いていました。この頃、安芸国賀茂郡頭崎城において、平賀弘保・興貞父子の間が内紛状態にあり、大内義隆を悩ませていました。

頭崎城の城主は、平賀蔵人大夫興貞という人でした。けれども、父である尾張守弘保と仲が悪く、弘保は二男の入野兵部少輔貞景を伴って同じ賀茂郡の白山城というところに住み、興貞とは別居していました。ところが、大永四年(1535)の正月に、弘保は息子のいる頭崎城を攻撃します。本当に、よほど仲が悪かったんですね……。二月になっていったん和睦したにも、かかわらず、八月になるとまたしても合戦に及びました。

これって、大永年間の話なので、義興代のことです。けれども、息子の義隆代になってもなお、争い続けていた、ってことになります。義隆は父子を和解させようと諭しましたが、両者ともに聞き入れなかったため、ついに武力を以て介入することにしました。杉小次郎長相、弘中下野守等を派遣して、弘保を援助し、ともに頭崎城を攻撃したといいます。興貞は財満備中守を誘い、味方に引き入れましたが、杉二郎左衛門尉隆宣、 内藤左京大進隆時らにバレてしまいます。大内方は、備中守父子が陣を移そうとしているところを、天野民部大輔に攻撃させて、これを打ち破りました。(『大内氏実録』)

さて、『実録』にはこれ以上の記述はないのですが、最初の杉小次郎長相と弘中下野守を派遣して、と、そのつぎの杉次郎左衛門隆宣、内藤左京進隆時云々の間には時間差があり、派遣された人員も交替していたのです。この時点では杉隆宣が弘中さんに取って代わっていたようです(理由は不明です。書いている人が知らないだけです)。

そののち、杉隆宣という人は月山富田城遠征の際に戦死してしまいました。この時までの間、弘中さんは安芸東西条の郡代を外されていたのかどうか『実録』の記述だけではまったく不明ですが、杉隆宣に交替していたとしても、亡くなってしまったらどうしようもないです。再び、分郡守護に任命された弘中さんはコチラ、曾場ヶ城を棄て、新たな拠点として、槌山城を築きます。杉隆宣の戦死が天文十二年(1543)とのことですので、それより後のことであることは確かです。

単なる父子の内紛とはいえ、対立する当事者の背後には、それぞれ、大内、尼子という大勢力の後押しがありました。要は代理戦争みたいなものです。詳細はわかりませんが、どちらの側に付くべきか、などということも、父子の意見が対立した要因だったのかもしれません。

大内方が弘保を後援していたので、尼子方はそれに対抗して興貞方を援助しました(尼子が興貞を推していたから、大内が弘保を助けたのかも知れません)。これがだいたい天文五年(1536)くらいのことです。尼子家に助けられた興貞側が優勢だった模様で、大内氏は「尼子家に与する者」の拠点として、頭崎城を落とそうとしたようですが、なかなか陥落させることができませんでした。

南北朝期や応仁の乱の時、利害関係が対立する二つの勢力は互いに敵対する側に与することによって、正々堂々と鬱憤晴らしをすることができました。そんなふうに「大義名分」を得ることこそできませんが、敵対する大勢力が二つ存在すれば、互いにいずれかに属して対立することが可能です。大内一強の時代にはあり得ぬことでしたが、尼子という対抗勢力が現われたことで、日頃から大内の使い走りをさせられている感を抱いていた人々にとって、その支配勢力下から逃れられるまたとない機会です(でも、そのおかげで尼子強くなってしまったら、今度はそっちの使い走りになるだけだよね……)。

いずれにしても、肥大化した尼子家の勢力が安芸国にも及んできたことは確かです。これまでは大人しく大内氏のいうことをきいていた(聞かざるを得なかった)人々には、もう我慢できないからおさらばするよー。怒られても尼子家に助けてもらえるので怖くないからなーという新たな選択肢ができました。もちろん、彼らにとって、どちらの使い走りをさせられることも面白くはないことです。いずれは完全に自立することが目標です。でも、すぐには無理です(家によっては永久に無理だけど……)。あれこれの利害関係から、あっちについたり、こっちについたりと面倒な時代となりました。

大内氏が安芸国の守護となった時期もわずかな期間ながらありました。ですが、終始一貫して、直轄支配していたのは、曾場ヶ城があった安芸国東西条という地域です。まずは、大内氏の直轄地がどのようなところであったのかを何となくでも知っておいたほうがよさそうです。

東西条とはどのようなところだったのか?

大昔、現在の西条盆地のあたりは、「賀茂郡(もしくは賀茂郷)」と呼ばれていました。確認できる文字史料の最初は、『日本後記』延暦二十四年 (805) 8月とのことですので、古代史の世界です。その後、鎌倉時代頃に、東西に分れ、「賀茂東郷」「賀茂西郷」に、やがてそれらが「東条郷」「西条郷」と呼ばれるようになったそうです。さきほど、頭崎城のところで、「安芸国賀茂郡」とありましたので、賀茂郡という名前も消えてなくなったわけではないと思います。あくまで、現在の西条駅のあるあたり、「西条」という地名の起こりとして考察してます。

この「西条郷」という地名の初見は『伊都岐島社政所解』正治元年(1199)のことです。「賀茂郡」と言われていた時代から始まって、この地域は安芸国の中心地にあたるような重要なところでした。安芸国分寺が現在の西条駅からほど近いところにあったことでもそれは明らかです。たいてい、国分寺は国府の近くに建立されるのが普通だと日本史の参考書類等には書いてあります。必ずしもそうとは限らない例もあり、安芸国国衙跡は見付かっておりませんので、国府も「西条郷」にあったと勝手に決めつけることはできませんが。

「賀茂郡(もしくは賀茂郷)」のあたりは当初、「国衙領」でした。つーか、そもそも律令国家の時代には、最初はすべて国衙領だったわけですが。けれども、貴族や大寺院による墾田がさほど進まず、「○○荘」だらけで、国衙領が目減りするという状態が顕著ではなかったのでしょう。いつまでその状態が維持できていたのかは不明ですが、はっきりしているのは、「永仁五年(1297) 安芸国全体が東寺造営料国に指定」されてしまったことです。東寺といったら、今も京都の有名な観光資源。空海が嵯峨天皇から頂戴した教王護国寺のことですよね。周防国が東大寺の造営料国になった如く、東寺でもなにか大修理でも行なう必要が生じたのでしょうか。

著名寺院の造営領国となっても、平穏な時代は続いていた模様です。「西条郷」ら辺は「西条一族」という人々が「荘官」として管理を行なっていました。西条郷の西条氏、文字通り地元の有力者一族に違いないと思われます。以前福成寺のところでも、お名前を拝見しましたが、どのような方々なのか、現在の知識ではよくはわかりません。不勉強をお詫びします。彼らが管理する地域には、鎌倉時代になっても地頭はおらず、「泣く子と地頭には……」のようなことにはなっていなかったみたいです。

長らく安穏に過ごしてきた西条の人々でしたが、南北朝時代になると、途端に様相が変ります。戦乱のドサクサの中、西条の地も、付近の武家たちによる激しい争奪戦に巻き込まれていったのです。要は誰しも武力でもって土地を実力支配して、自らの勢力範囲を広めていきたいと欲します(逆に言うと、ここに至るまで、彼らによって分割され尽されていなかったことのほうが謎です)。土地を巡る争いに参加したのは、たとえば、小早川、平賀、天野……といった人たちです。どこかできいたことがあるお名前ばかりです。

まだ記憶に新しい福成寺などは、南朝方の拠点となっており、ゆえに後醍醐天皇だの何天皇だのの「綸旨」が残されておりました。「地頭の干渉を禁じる」とか何とかいう内容でしたが、そんなことが守られるはずもありません(でもそうやって守ってもらうお墨付きをもらっている時点で、福成寺は西条に自らの土地を持っていたということになりますよね。やっぱりすべてがずっと国衙領だったわけじゃない、ってことになるかと思うんだけど、それとも後醍醐天皇から土地を下賜されでもしたのですかね?)大内弘世さんも最初南朝でしたから、国衙領を横領する「凶徒」を退治せよ、なんて命令が出されたほどでした。地元西条一族の人たちも南朝につきました。けれども、北朝方守護武田氏信(銀山城で出てきた人ですね)や、同じく平賀・小早川といった北朝方の人々との戦いに敗れ、西条一族は滅亡してしまったとされています。それゆえに、その後の歴史でお名前をきいたことがないのですね。

多くの人々に収奪され、分割支配されてしまった結果、安芸国は小領主乱立状態となってしまいました。奇蹟的にも力関係が絶妙に均衡していたのか、誰が一番エラい、ってことにはなりませんでした。そのような突出した人物(勢力)がいれば、そのた大勢は飲み込まれてしまったでしょう。逆に言うと、それぞれがそれなりに力を持っていたため、多少威張っている程度の人物では抑え込めなかったともいえます。大内弘世も安芸国に進出したけれど、安芸国の人たちをすべて被官化してしまうとかできませんでしたもんね。

けれども、息子の義弘の代に、義満将軍から「安芸国東西条」の地をもらいました(もらうといっても、『守護職を得る』ってことで土地の権利書をもらうとかじゃないけど。このあたり、現代の感覚ではホント理解に苦しむところ)。安芸国一国もらうことを考えたら、わずかに一部分ではあるけれども、古来より開けたところであり、きわめて重要な土地です。「分郡」ではあるけれど歴とした守護なので、人々に号令できる立場です(いちおう、幕府からのお達しが必要ですが)。これほど美味しい話はありません(義弘が東西条を手に入れたについては、有名な逸話がありますが、彼の記事に書いているところなので、ここでは省きます)。

その後、一瞬この地域を取り上げられたり(ホント『一瞬』)したこともあり、また、それこそわずかな時期、「安芸守護」という肩書きに就いた当主さまも出ました。ですけど、国人勢力の力が強く、横の繋がりも強固(一揆を結ぶなどして団結)な地域ですので、「守護」という肩書きを得たところで、安芸国全体を完全に支配下におけるはずもありません。その意味で、「安芸東西条」だけは、長らく安定して大内氏の支配が及んだ稀有な地域だったと言えるんじゃないかと思います。

でもって、わずかに一部分といっても、この東西条の地は、ど田舎でもらっても嬉しくないどころか、安芸国内でもかなり重要な地域。でもって、周防長門が根幹地である大内氏にとってはもらって嬉しい最高のロケーションでした。

広島県・東広島市(地図)

現在の東広島市 = かつての東西条ではないのですが、だいたいの位置関係はわかると思います。

東西条の地理的重要性

  1. 交通の要衝 :安芸津(海への最短距離)・呉・熊野 (広島湾) 方面へ向かうのに最適な場所
  2. 守護領国の東端に位置し、瀬戸内海の抑えとなる場所
  3. 山口から七日という行程にある場所

参照:東広島市ボランティアガイドの会さま解説 & 資料

最初の拠点・鏡山城

大内氏は東西条の地を手に入れたのち、早速この地に拠点を造り、支配を広げていったと思われます。飛び地ということもあり、屋形みずからが移り住むこともあり得ぬので、優雅な守護館は不要です。けれども、誰かに現地の管理を任せ、その人物が政務を執るための役所のようなものは必要となります。

鏡山城を築いてその拠点としたことは有名ですが、城の存在を証明できる文字史料は意外にも最近のものでして、それ以前はどうなっていたのか不明です(最近とか言って、寛正六年ですが)。

恐らくはこの時までにはとっくに城は完成し、防御を鉄壁にしていたと思われます。なぜかなら、鏡山城では尼子経久によって陥落させられる以前にも、何度か戦闘が起っており、防御に向かない山口守護館みたいなシロモノだったら、尼子経久の登場を待たずして、とっくに支配権を失っていたはずです。

ちょっと出典がわからないのですが、鏡山城の築城は長禄元年(1457)頃という説があります。れいの、安芸武田が厳島神社の神領を横領しようとしてボコボコにされた無様な敗戦。あのようなことが起るきっかけとなった「幕府からのお墨付き」が出たことから、万が一の時に厳島神主家を助けるための拠点となる城を築いたのだそうです。当時は大内氏と厳島神主家との関係は良好でしたからね。

歴史に残る鏡山城を巡る戦闘

  1. 寛正二年(1461)~寛正五年(1464) vs 安芸武田氏
  2. 文明二年(1471)~文明三年 (1472)  応仁文明の乱
  3. 永正十三年(1516) 尼子経久が鏡山城を占領
  4. 大永三年(1523) 尼子経久が城を陥落させた所謂「鏡山城の戦い」

一、最初の安芸武田氏との戦闘ですが……何と、幕府は「安芸東西条」を武田家にあげる、という意味不明な裁定を下しました。この時期、築山大明神さま(教弘公)と幕府とは関係が芳しくなく、いっぽう将軍はやる気のない人・義政でした。何やら背後にこの時の管領・細川勝元の影が見え隠れいたしますが、こんなわけわからん命令出たら、ただでさえ仲悪い安芸武田と戦闘にならないはずがないです。「よこせ」「やるものか」ってなりますよ。しかも、このヘンテコな命令はその後撤回され、やはり東西条は大内のものである、となりました。安芸武田的にも迷惑な話です。

ちなみに、鏡山城を巡る戦闘が終結したとされる寛正五年、管領が細川勝元から、畠山政長に交替しています。紛れもなく細川が私怨のために将軍を唆した嫌がらせ命令ですね(根拠なし)。管領が変ると、命令もころっと変ったりします。まあ、政長は勝元と親しい間柄なので、特に意味はないだろうけど。

二、応仁文明の乱で、法泉寺さまが分国を留守にしていた時、細川勝元の遠隔地攪乱戦法で、伯父・大内教幸が叛乱を起こしました。この頃、鏡山城のことを任されていた守護代は仁保弘有でしたが、この人は大内教幸に与して東軍についてしまったので、鏡山城も一瞬細川勝元派になりました(まあ、本人が城内にいたかどうかは不明だけど)。

三、これまた、凌雲寺さまが流れ公方のせいで、京に釘付けとなっていた留守を狙い、尼子経久が鏡山城を掠め取りました。

尼子経久イメージ画像尼子経久

お前ら、留守中にしか悪さできねぇのか!? と思わなくもないですね。あと、細川勝元と尼子経久腹黒いよな(個人的な意見です)。

いずれにしても、東西条は常に敵方と戦闘におよぶ最前線にある重要拠点であったため、難攻不落の拠点を築き、信頼の置ける家臣に任せるということが絶対に必要な場所でした。

帰国後、義興は鏡山城を奪還。城番として蔵田房信という人を入れます。

四、「帰国後」つまり、今回は留守ではなかったのですが、長く留守にしていた間に分国はグチャグチャになっていました。最初に、義興に従って上洛中に亡くなった厳島神主家当主(跡継がいなかった)の相続争いが起きます。加えて、尼子経久も暴れています。それらのゴタゴタを調停させるために先に帰国させた安芸武田は、争いを収めるどころか、自らも乱闘に加わる始末。れいによってれいのごとく、隙あらば荒れる九州もゴタゴタ。そこら中が戦乱の中にあり、いつ終わるとも知れぬ泥沼でした。

古来より延々と続く、「敵の敵は味方」ルールはこの時も有効。かつて畏れ多くも厳島神主家の神領に手を出そうとしていた安芸武田は、相続争いで大内氏と揉めている神主家の友田興藤と握手。ともに尼子家に味方します。マズいことにはこの頃、尼子家との婚姻関係を優先せざるを得なかった毛利元就も尼子家の傘下にありました。なんということか、どうみてもこれは尼子家のほうに分があると思ったのか、平賀、阿曾沼、野間、高橋、天野……と、ゾロゾロと尼子側についてしまいました。

義興は九州におり、厳島神主家&安芸武田と戦闘中の陶興房も動けず。せいぜい城番となっていた蔵田房信の親戚・直信などにも声かけし、持ち堪えてくれと望みを託すほかない緊急事態。この蔵田房信という人が、絶体絶命の中、懸命に奮戦したことや、そもそも「難攻不落」の堅城であることなどから、敵側からすると、そう容易く落ちそうには見えない。そういうときには「戦わずして勝つ」のが最善の策です。毛利元就が尼子側についていたことを忘れてはなりません。

元就は「もしも我々に味方してくれたのなら、蔵田家のすべてはあなたのもの」(こんなダサい台詞とは思わないけど)と密かに蔵田直信を誘いました。すると、直信は請われるままに敵を手引きしてしまったので、城はあっけなく落城してしまいます。『陰徳太平記』によれば……手引きした身内の人(この辺り、叔父・甥関係どっちがどっちとか、名前が微妙に違うなどで、混乱を来すためこのようにぼかすしかありません)は尼子経久に首を刎ねられてしまい、いっぽう、自らの命と引換えに妻子だけでも助けて欲しいと頼んだ蔵田房信の願いは毛利元就によって叶えられ、遺児は元就の配下で勇士となったとか。はぁ。

なんてこった! もはや安芸国でまで尼子がデカい顔をすることになるのか……と、思われますが、そうはなりませんでした。だって、最初に書いてあるように「陶興房が鏡山城を奪還した」からです。

でもそこら中が尼子家に靡いているように見えたのに、そんなに簡単に流れを変えることができるの? と思いますが、流れはあっけなく変りました。どうも尼子経久という人は、毛利元就同様、あれこれと策を弄するタイプではありますが、元就のような心遣いはできない人みたいなので、いい気になって策を巡らせすぎたようです。

毛利家では、元就の甥・幸松丸という子どもが当主の座に就いており、元就は叔父という立場で幼い「主」のために尽していました。ところが、大永四年(1524)にこの幸松丸が亡くなってしまいます。嫡男である兄の子、つまり嫡孫という順番で家督を継いでいたみたいですが、ほかに兄の遺児はいないし、ここはもう兄弟相続しか……ということで、元就が家を継ぐことになるわけですが、その時、兄の家督相続に難色を示したのが、異母弟の相生元綱でした。

元就は実の弟と、彼を推す一派を排除して家督に就くのですが、弟の背後には尼子経久がいたとかいなかったとか。こうなると、もはや不信感しかありませんので、元就は尼子経久の下を離れて、大内方につきました。大永五年(1525)のことです。すると、元就の仲介で、国人たちはまたゾロゾロと大内方に戻り、いいや俺は尼子の味方だ! と言い張る人たちも大内・毛利に攻められて結局降伏し、大永七年(1527)頃までには、大半が大内方になってしまいました。残ったのは冒頭に出てきた頭崎城の平賀興貞くらいなものです。

毛利元就イメージ画像毛利元就

『陰徳太平記』ですと、せっかく鏡山城を落とした尼子経久でしたが、大内義興が九州から帰国し救援にくるらしいと聞くと、両雄が激突するとなると決着がつかないからとそそくさと撤退してしまったような気がします。大内にしろ尼子にしろ、領国が大きくなればなるほど、隅々まで目が行き届かなくなりますから、あれやこれやの綻びが起りやすくなります。東京ドーム一つ分の領地なら完璧に守れても、百個分もあったらたいへんです。経久とていつまでも同じ所でじっとしてはおられなかったんでしょう。尼子家だって、多くの火種を抱えていたはずです。一つところにじっとしているわけにはいかないんですよ。まして、いきなり大物どうしが直接対決なんてなったら、それこそ本人が言っている通り、大がかりな戦となり、大量のモノ、ヒト、カネが必要となります。時間だってどれだけかかるかわかりません。別に怖くて逃げ出したんじゃないと思う(笑)。せいぜい、メンドーと思ったかもね。いずれは全面対決の日が来るけど、それはまだこの時ではない、という認識だったのかと。

というようなことで、尼子に味方する者はほぼいなくなり、鏡山城も大内氏のもとに戻りました。陶興房は無事に鏡山城を回復したというのに、なにゆえに修繕してより強固な城にすることをせずに放棄し、他所に引っ越してしまったのでしょうか。⇒ 関連記事:鏡山城

鏡山から曾場ヶ城へ

鏡山から曾場ヶ城移転の理由

  1. 鏡山と比べて、曾場ヶ城は標高が高く険しい地形だった
  2. 高い山頂からは西条盆地を一望することが可能。険悪な関係にあった、尼子、安芸武田をはじめ、鏡山城陥落に際して、尼子家に寝返った「前科」があり、信用できない西条の国人領主たちの状勢を探るのに最適だった
  3. 陸からの交通の要衝・大山峠と今坂峠が通っており、防御に適していた

参照:東広島市ボランティアガイドの会さま解説 & 資料

一、単純により高台に移って、敵の状勢を掴みやすくした、ということです。現在の鏡山城と曾場ヶ城を比べると、鏡山城が公園の裏山みたいにちゃちな城に見えます。築城当時はそんなことはなかったんでしょうけど、尼子家の肥大化などもあり、より睨みのきかせやすい場所に移る必要があったのでしょう。加えて、城はより大きく、さらに堅固なものとする必要もありました。

二、一と関連しますが、尼子も含め、安芸武田や尼子に寝返った連中(降伏してまたもとに戻った者も含め)に対して目を光らせる必要がありました。曾場ヶ城は鏡山城とは比較にならないほど高い位置にありますから、これらの連中を監視するのにより相応しかったのは当然です。

三、山陽道を抑える峠を掌握しておくためには、曾場ヶ城の場所が最適です。だって、大山峠なんて城から繋がっているわけですので。

こうして、満を期して馬鹿でかい城を築いた大内氏でしたが、なぜか、わずかの期間で城はまたしても放棄され、新たな城に拠点を移してしまいます。それが、「槌山城」で、次回登頂予定の山城です。詳細はそちらに書くのがいいと思われますが、なにゆえにこの曾場ヶ城が放棄されたのかも気になるところですので、予習を兼ねて見ておきたいと思います。

曾場ヶ城から槌山城へ

曾場ヶ城放棄の理由

  1. 城域があまりにも広大で、管理運営していくのが困難だった
  2. 鏡山城陥落にあたり、裏切って尼子方に属した平賀(興貞を除く)・天野・野間・阿曽沼などの西条地域の国人領主たちが大内方に戻って来た
  3. 享禄三年(1530) 、尼子経久の三男・塩冶興久が叛乱を起こし、尼子経久が危機的状況となった
  4.  熊谷、己斐、戸坂などの家臣団が離れて行くなどし、弱体化した安芸武田氏は天文十年 (1541) に滅亡
  5. 天文九年(1540) 、尼子方として頭崎城で抵抗していた平賀興貞も降伏
  6. 城仏土居屋敷 ⇒ 飯田土居屋敷を使えば、大山峠と今坂峠の防衛は十分可能となり、巨大な城を使用する必要がなくなった
  7. 大永七年(1527) 、安芸武田方仁保島の白井氏が寝返り、大内方の水軍の要となった。

参照:東広島市ボランティアガイドの会さま解説 & 資料

一、デカすぎて管理するのが大変だった……。笑うしかない理由です。築城時点では、城が巨大であることも防御する上で重要項目のひとつであったなら、いた仕方のないことですが。用途に適したよりよい物件が見付かれば、そちらに引っ越すことは、現在でも普通にありますよね。個人には難しくても、企業や役所なら造作もないでしょう。おまけに、古い物件が管理するのもメンドーなほどデカいとなれば、いつまでも使い続けている意味はまったくありません。

二、そもそも、安芸国の国人たちは毛利元就の活躍で、大内氏の麾下に戻って来たはずでした。けれども、すぐには戻って来なかった人もおり、新たな城(槌山)の築城はすでに始まっていましたので、それらの「後から組」への備えとしては当初、この城の存在意義は確かにあったのです。けれども、彼らも力尽き、全員が完全に服従したとなれば、それらの人々を監視する意義も消滅します。

三、尼子家内部に内訌勃発というのはかなりインパクトのある出来事です。これについては、自らの息子が叛くとか、尼子経久にとっても本当に気の毒なことでした。大内も尼子も大勢力なので、境目を接しているところでは利害関係が対立し、犬猿の仲となりますが、ほかの地域についてはノータッチです。その意味で、出雲や備後の国人たちが絡み、それらの地域で起った事件は、この段階で大内氏とはあまり関係がありません。

そういう困っている相手につけ込んでその隙に勢力を拡大するようなあくどいことは、お父上のお人柄を受け継いでいたゆえにか、息子の義隆もやりませんでした。義隆は経久を支援し尼子と大内は同盟関係となり、亨禄四年 (1531) には、尼子晴久と毛利元就が兄弟契約を結ぶなどして、大内・毛利と尼子とは友好的になりました。

とはいえ、のちに、またしても両者は険悪な状態となり(天文九年、1540、尼子晴久が毛利元就の吉田郡山城に侵攻)、義隆が出雲に遠征してボコボコにされたことなどを考えると心中フクザツです。気の毒だから同情して一時休戦して助けた、というような綺麗事だったとしたら、単なるア×になっちゃいますね。またしても。アソコもココも敵だらけだとメンドーなので、とりあえず、今は困ってそうな尼子とは手を結んでおこう。そっち方面だけでも安全地帯になればかなり助かるので。というような打算的な思いからなら救いがある(お互いにね)。

両雄は並び立たないのだから、いずれは雌雄を決する時が来るはずです。嫌なことを先送りしたとしても。まさか、この件をもって、尼子とは未来永劫友好的と安心したほどお気楽だったとは思えませんが、何となくあり得る気もしなくはないです。お父上だったら、どんな対応を取っていたでしょうか。

結んだり叛いたりは世の常なので、どうでもよい一コマですが、義隆も晴久も互いのお父上・お祖父上から見たら、芥子粒みたいにスケールが小さいので、何だかなぁと思いますね。

いずれにせよ、尼子家からの脅威はとりあえずなくなった、と見なされ、そっち方面を監視する意義も薄れたのですが、つぎの槌山城への引っ越しが完了するのは天文十二年のことですので、それ以前に尼子への監視は再開せざるを得ない状態になっていたことを申し添えます。

四、安芸武田氏が滅亡したことで、むろん、彼らへの監視は不要となりました。

五、もはや始まりはいつのことかよ? と思えますが、頭崎城で抵抗を続けていた平賀興貞がようやく降伏したことで、面倒な問題がまた一つ消えました。

二~五はすべて、敵側の動向を探るために高台が必要であったが、敵が降伏したり、滅亡したりしたことで、監視の必要がなくなった、という点で共通しています。ただし、尼子家の例を見れば明白な通り、いったん和睦したり、降伏したりしても、その後また険悪となる可能性は大いにあるので、「監視の必要がなくなった」ということはあまり重要な理由とはならないかと。

いついかなる時も、監視は必要ですし、今後、思いもかけない新たな敵が現われる可能性だってあるからです。そう考えると、一のデカすぎて管理するのが大変、というのが最大の理由である気がします(だって、登ってみたらわかるけど、マジ無駄にデカいもん)。

六、「城仏土居屋敷」と「飯田土居屋敷」なるものがいきなり出てきて、なんじゃいこれ? ってなると思いますが、これら、発掘調査で存在が明らかとなったもので、「屋敷」となっていることからわかるとおり、いわゆる山城ではありません。平地に作られた建物で、「平城」って区分されています。

城仏土居屋敷跡:平成十五年・二十九年に発掘調査が行なわれ、十四世紀後半(南北朝時代)に築かれ十六世紀中頃まで使われていたことがわかっています。もとは 40m四方だったものが、のちに80m四方に拡大されたようです。もともとは、財満氏が城主であったと考えられています。財満氏は天文八年(1539) に、大内方であった天野氏との合戦に敗れ、以後、この地は大内氏が拡張工事を施した上で、使用していたものと推測されます。この場所は、大山峠と今坂峠が交わる要衝の地だったため、曾場ヶ城とあわせて利用していたようです。

飯田土井屋敷:平成十一年に発掘調査が行なわれ、十六世紀中頃に築かれた「県内有数の平城」であることが判明しました。「東を大手とし西端に主郭を置き、主郭の北側に幅 10m長さ15mの大型桝形虎口」があったことがわかっています。「東西 170m南北 150m」という規模のもので、大内氏が曾場ヶ城を放棄したのちに、大山峠と今坂峠の防衛のための施設として使っていた模様です。なお、この飯田土井屋敷の築城(?)により、城仏土井屋敷のほうは、その役目を終えたようです。

七、これは四とも関連しますが、白井氏が味方になったことで、広島湾での活動が可能となったことの重要性はきわめて大きいといえます。ですが、広島湾に出ようと考えた時、険しい山道を行かねばならない曾場ヶ城からのルートはメンドーなこと限りなしでした。それゆえに、引っ越し先には、「戸坂峠から瀬野・熊野経由」で、早くて便利に広島湾に出ることができる槌山城が選ばれたのでした。

というようなことで、天文十二年(1543) 、デカすぎて不便な曾場ヶ城は見張り・狼煙台的機能だけを温存し、城としての役割を終えました。もちろん、短い期間ではありましたが、このお城にもちゃんとした存在意義がありました。その時々で最も便利でかつ補修費用も安価ですむ物件が好まれるのは現在も同じです。時代の流れと状勢の変化により、新たな条件に合致する物件が見付かったゆえに引っ越した、ただそれだけのことです。

槌山城

別名 守護山城、鬼が城、桜ヶ嶽、明神山城
標高 489m・比高 260m
築城年代 不明
城郭構造 連郭式山城、天守構造なし
廃城時期 不明
東広島市史跡
遺構 曲輪、堀切、 石垣、 土塁、井戸
正平五年 (1350)  西条一族が南朝方として城を構え守護・武田氏信がこれを落城させた城といわれる

参照:東広島市ボランティアガイドの会さま解説 & 資料

※2024 年度登頂予定

曾場ヶ城・みどころ

これぞ山城! って感じで、みどころ満載です。しかし、道中かなりしんどいですので、ご案内する余裕があまりありません(写真とか撮れません)でした。みどころを満喫するための、とっておきの方法を後でコッソリ伝授いたしますので、ご参考までに。

八本松駅

曾場ヶ城「八本松駅」

JR 山陽本線「八本松駅」。なんと、山陽本線の中で、もっとも標高が高い駅となります。つまり、曾場ヶ城の標高が 600 メートル超とか聞いて悲鳴を上げていますが、じつは麓からしてすでにかなりの標高があるので、ちょいお得ですね。下は駅から眺めた曾場ヶ城の姿です。

八本松駅からみた曾場ヶ城

なお、「八本松」という長閑でローカルなイメージの駅名から、ど田舎の無人駅などを想像してはなりません。東広島市は、広島空港からのアクセスもよく、山陽新幹線も停まるなど、交通の便は超いいです。その中でも、目茶苦茶発展している西条から二つ目にあたるこの八本松は、まさに日々発展を続けている未来の大都会です。

登山道に至るまでの道も、閑静な住宅街の中といった感じでして、何もない山道(麓)で日が暮れて真っ暗……タクシーもない……というような心配はまったくもって不要です(※タクシーが必ず拾えることを保証をするものではありません)。

曾場ヶ城・登山道入口への道

曾場ヶ城・登山道入口への道

登山道入口

曾場ヶ城・登山道入口住宅地を抜けて、この橋を渡るといよいよ登山が始まります。いちおうの「目印」として、「五号横断橋」と書かれています。

曾場ヶ城・登山道入口「5号横断橋」

曾場ヶ城・登山道入口

最初はこーんな道ですが、だんだんと山道に変っていきます。

曾場ヶ城・登山道

みずき岩

曾場ヶ城「みずき岩」

この大岩は、「みずき岩」と呼ばれています。江戸時代の頃、麓の飯田村からこの岩をみることができたそうです。ミルのサイズと比較して何となく大きさがわかっていただけるのではないかな、と思います。

この大岩の傍に、戦没者供養碑があり、戦争で犠牲となった地元の方々のお名前が刻まれているほか、山中のいたるところに、石仏が置かれています。全部で八十八箇所あり、お参りのために険しい山道を上がって行かれる方々がおられます(『八本松八十八石仏の会』のみなさま)。国や県の史跡指定となっていない曾場ヶ城には、案内プレートの類がいっさいありません。八十八箇所巡りの方々が、手作りで案内版を設置してくださっています。恐らくは山道の整備などもしてくださっておられると思います。

曾場ヶ城・戦没者供養塔

山道(午の段まで)

午の段まで続く山道です。ご覧のように、ほぼ林の中状態で、木に遮られて何も見えません。ところどころに、かつての遺構があるのですが、樹木に覆われていることで素人にはとても見付けにくく、また、自然災害などで荒れるに任されているところもありますので、ただの断崖絶壁なのか、人工的に切り落として敵の侵入を防ぐために作られた壁なのかを判別するのは困難です。

曾場ヶ城・山道

曾場ヶ城・堀?

これは明らかに人工的なもの。確か堀だったと思うんですが……。忘れてしまいました。

曾場ヶ城・山道

これなども、やや人工的に思える断崖絶壁なのですが、自信ない。

曾場ヶ城・山道

何やらこのような丸っこい岩が至る所にありました。

午の段跡

曾場ヶ城・午の段跡

必死で登っているうち、三の丸のことをすっかり忘れ。帰り道で、ということでしたが、ちょい脇道に逸れてしまうアクシデントがあり、結局見られず。で、ここが「午の段」となります。「午」は南の方角の意味です。要は郭なので、ちょっとした削平地になっていますが、やはり落ち葉と木に埋もれていますので、かつての面影を偲ぶ術はなく。

曾場ヶ城・午の段

午の段の上が一段高くなっているのですが、これは特に意味はないのかな?

山道(二の丸まで)

「午の段」から「二の丸」までの山道です。この辺りとても道が険しいです。さらに、ひたすらに倒木だらけ。

曾場ヶ城・山道

曾場ヶ城・山道

曾場ヶ城・二の丸付近山道

なおも、落ち葉と倒木を踏み越え、枯れ枝をかき分けながら進む感じですが、ここはもう、二の丸のすぐそばです。プレートの裏側が見えています(黄色枠内)。

曾場ヶ城・二の丸付近山道

同行の方々をキャラ画像で隠しているため、見づらくなっていますが、ココ、ロープにつかまって登る難所なんです。この写真から、ロープがご覧いただけるでしょうか?

二の丸跡

曾場ヶ城・二の丸跡

キツかった……。二の丸跡にまで、枯れ枝が写っていますね。どんだけ多いんだろ。

曾場ヶ城・二の丸跡

千手観音さまにはちょっとご無礼で申し訳ないんですが、郭の広さがわかるように、ちょっと広いところを撮影してみました。

矢竹のトンネル

曾場ヶ城・矢竹のトンネル

矢竹とは読んで字のごとく、矢を作るための竹です。山城跡には必ずあります(断言はできないけど)。ここは通称「矢竹のトンネル」と呼ばれており、曾場ヶ城の名物なんだそうです。延々と続きます。これだけあったら、どんだけ矢作れるだろうね。

本丸跡

曾場ヶ城・本丸跡

長い矢竹のトンネルを抜けるとそこは「本丸跡」であった……という感じだったのかどうか、もはや記憶が曖昧ですが、写真撮影的には、上の写真のつぎがこれになっていました。なので、ずっと同じトンネルだったか、もしくは、道が険しすぎて撮影不能であったか、どちらかです。前者ではないのかな、と思いました。もちろん、ずっとトンネルであったとも思えず、特に撮影ポイントがなかったのだと思われます。

本丸からの眺望

曾場ヶ城・本丸跡からの眺望

山城に登って生きててよかったーって感じる瞬間は山頂からの景色を眺める時。見える景色は山によってそれぞれだけれど、「高い」「見下ろしてる」感が半端ない。残念ながら、曾場ヶ城からの景色は、瀬戸内海の絶景などというものとはほど遠く、西条の町並み。それゆえに、麗しい景色を堪能するというよりは、あそこが見えてる、あれがどこそこの建物だよ、小っちゃく見えるねーという楽しみ方。ゆえに、何が見えているのかわからないと、楽しめない。

曾場ヶ城・本丸からの眺望

西条盆地を見下ろして睨みをきかせていた、という大内氏歴代(ココに入っていたのは、家臣のそのまた家臣みたいな人だし、この城を使ってた世代って三十代以降になっちゃうけど)を思うとき、ここに見えていたのはイマドキの民の平和な生活空間の風景とは違い、いつ何時心変わりするかわからない国人領主たちの城だったりしたんだろう。

山道(「一つ城」まで)

冒頭の説明図写真の通り、三の丸と一つ城との間は相当に離れています。すでに、本丸まで来ていますので、隣が「一つ城」じゃん。って思いますけど、八本もの堀切で防御していたといいますし、凄まじい岩もあり、一番の難所だった気がします(撮影する余裕がないから、写真もほとんどなし)。お気楽に登れるということは、敵さんも楽チンに攻め込めるということなので、仕方ないとはいえ、ひぇーと思うのはこういう時です。

曾場ヶ城・一つ城へ続く山道

この画面からはまったく不明ながら、これが人工的に作られた崖であるとすれば、堀切のひとつである可能性も?

曾場ヶ城・「一つ城」へ続く山道の大岩

山頂付近に近付くにつれて、このような巨石がゴロゴロし始めました。

曾場ヶ城・「一つ城」山頂付近大岩

同行者の方のお姿を隠しているため、ちょっとわかりづらくなっておりますが、この「道」は岩の隙間を通って行かねばならず、女神様の背後にある岩には亀裂があり、皆さまはそこをよじ登っておられます。

曾場ヶ城・「一つ城」へ続く山道

もうこうなると、何が何やらわからないですね。ものすごい道です。枯れ枝がとにかく多い。

曾場ヶ城・「一つ城」山頂付近

頂上まであともうひと息です。

「一つ城」頂上

曾場ヶ城「一つ城」跡

ようやく到着した「一つ城」跡。石仏巡りの方々が書いてくださった「曾場ヶ城山頂」の札と、休憩用にちょっとしたベンチがありました。

曾場ヶ城・山頂郭跡

山頂の郭と思しき削平地。意外にも狭かった。

「一つ城」頂上からの眺望

曾場ヶ城・「一つ城」山頂からの眺望

帰宅後、資料を読み直していたら、頂上からは福成寺や鏡山城が見えたらしい。これだと、どこの方角を見ているのかすらわからないけど。

大山峠

山陽道一の難所であったという「大山峠」。本当はこの道までスケジュールに入っていたのですが、道中あれこれ疲れたし、予定時刻を大幅にオーバーしており、今回は見送り。残念ではあったけれども、縁がなかったんでしょう。

曾場ヶ城「大山峠」へ続く道入口

大山峠はこっちですよ、と入口だけ教えて頂きました。でも見た感じ、木に埋もれてしまっている様子。この上埋もれたくないのと、やはり、皆さまぐったり疲れておられたのでこの先はやはり無理でしょう。そもそも、時間的に、途中で日が暮れてしまいます。

けれども、なんとなく残念な気もしたので、ガイドさんから頂戴した、「大山峠」の観光案内看板の写真から文字起こしをしておきます。

「大山峠
日本書紀崇神天皇(3世紀前半)の条に、「西道」のことがあり、これは後の山腸道のことだといわれ、 そうであればこの道もこの峠も弥生時代すでにあったことになる。その後、山陽道は京と筑紫大宰府を 結ぶ官道となり、道路区分では大道で、この付近に延喜式にいう大山駅がおかれた。 そしてこの道は、 明治17年 (1884)2号国道が新設されるまで、国の幹線道路としての役目を果したのである。
その間、九州へ派遣される防人もこの峠に立ったであろうし、元寇の急変を京へ知らせる早馬も駆け すぎていったに違いない。 また、 明治維新の志士吉田松陰や高杉晋作らもここを通っているのである。
その他、多くの人々が希望や失望を胸にしながら越えていった峠で、その時代時代の歴史をみてきた 重みをささえている峠でもある。 それに多くの人々が詩歌や紀行文を残している峠でもある。
万葉の読み人知らずの歌もあれば、応安4年 (1371) 4月、九州へ下向の今川了後も軍の先頭にたちなが らものにしを「道ゆきふり」の中の、大山峠を越える一文のようなものもある。 西から上ってくる坂を 「代官おろし」とよぶがこれは如何なる権威のある人でもカゴからおりたという難所であったことを 意味し、峠より西10メートルの大山清水は、旅人の喉をうるおした名高い清水であった。この位置は、 江戸時代のあった憩亭のあった位置で、参きん交代の大名が休憩したところであるが、 平素は村人が旅人に わらじやいり豆を売っていたという
東広島ウエストライオンズクラブ 東広島市郷土史研究会 昭和58年4月吉日建」(説明看板)

曾場ヶ城(広島県東広島市八本松)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 広島県東広島市八本松飯田原・飯田
※『安芸国の城館』に記載されていた住所です

アクセス

JR 山陽本線西条駅から二つ目の「八本松駅」から登山口までは徒歩圏です(西条わからない方へ。広島から30分くらいです。広島から来ると八本松は手前です)。駅から山は見えていますし、近付いて行けばよいだけで、時間もそんなにかからないのですが、ガイドさんのご案内つきで行っているので、そのままついていった感じでして、行き方はわかりません。おそらくは Googlemap のナビ起動で、「慰霊塔」と入力すれば「みずき岩」まで行けるはずです(202307現在、MAP をかなり拡大して調べると出てきました)。

「が」ガイドさんからもお言葉を頂戴しておりますが、知らない山にひとりで入っては絶対にダメです。ですので、ご訪問したい方は必ず事前に、東広島市観光協会にお問い合わせくださいませ。

参考文献:東広島市ボランティアガイドの会さま解説 & 資料、『大内氏実録』『安芸国城跡』ほか

曾場ヶ城(広島県東広島市八本松)について:まとめ & 感想

曾場ヶ城(東広島市八本松)・まとめ

  1. 大内氏安芸東西条の拠点だった城
  2. 大内義興が足利義材のために上洛していた留守中、尼子経久に東西条拠点だった鏡山城を占領された。義興の帰国後、尼子家を駆逐するも、九州平定で留守にした隙にまたしても尼子経久の襲撃を受け城は陥落。陶興房は城を奪還したが、放棄。鏡山城に代わる拠点として、新たに曾場ヶ城を築いた
  3. 鏡山城同様、大内氏の安芸東西条支配の拠点として機能。その地理的重要性から守護代クラスの重臣が分郡守護代を任されることも、鏡山城時代と変らなかった
  4. 鏡山城より高台にあり、西条盆地をすべて眼下に収めることができ、睨みをきかせるのに役立ったが、その規模が異常に巨大であること、敵方として監視する必要があった尼子氏や、毛利元就、西条の国人衆などとの関係の変化などにより巨大な城を維持する意義が薄まったため、わずかに18年でその役割を終えた
  5. 曾場ヶ城を破棄した大内氏は槌山城に拠点を移すが、やがて毛利氏に滅ぼされて滅亡し、城もろとも歴史から消えることになる

今回、東広島市ボランティアガイドの会の皆さまとご一緒させていただき、リーダーの男性ガイドさん一名、女性ガイドさん四名とでたいへん心強い道のりでした。むろん、城跡にまつわるあれこれや、西条の歴史についてもバッチリ名調子のご解説を拝聴できました。が……。悲しいことには、せっかくの貴重なお話も、時間が経つと煙のように消えてしまって、あれ、確かこんなようなご説明をお伺いしたはずだが……となります。

ですが、今回はなんと、ご説明くださった内容を詳細にまとめた資料も大量に頂戴しております。ならば、それを読み直せば……と思いながらも、あまりに高尚な内容ゆえ、濃厚な歴史書を拝読している感じとなって難しく、あああ、ここに書いてあるお話はすべて、お伺いしたはずなのに……という状態です。

プライバシーに配慮し、お名前はお出ししないお約束ですが、ご教授くださった内容や資料については所属する探訪グループの会報にも公開可能とのご許可を頂戴しております(でも、こんなサイトに公開するという恥ずかしいことは打ち明けてないんだけど、大丈夫なんだろうか。何でも OK とは仰ったものの、恐らくは探訪グループの真面目なレポート提出だとお考えになっておられるはず……心配。むろん、そっちもやります。それが完了したら、会報誌を進呈予定)。そもそも難解で消化不良となっている部分が多々あります。なので、とってもざっくりと、ど素人でも理解可能な範囲で復習したのがこのページのご案内となります。元のご説明は、けっしてこんな薄っぺらなものではありませんでした。また、万が一、誤っている箇所があったとしたら、それはガイドさんのお話や資料ではなく、観光客の記憶違いと、ご説明、頂戴した資料類に対する消化不良によるものです。

ことに「鏡山から曾場ヶ城移転の理由」と「曾場ヶ城放棄の理由」については、ガイドさんオリジナルの推論を知識が薄い素人がア×でもわかる己用レベルまで噛み砕いた結果、原文とは似ても似つかぬものになりました(見出しタイトルも敢えて、ガイドさんのものとは変えています)。原文はほとんど学術論文です。このサイトレベルにかくも高尚なものは不釣り合いなので、多分に簡略化してしまいましたことをお詫びします。大切なのは、サイトがテキトーに想像したのではなく、いちおうは専門家のご意見をもとに学習した成果(『学習』としたのは、自らの理解度によって脳内変換されてしまっているため)である、という点です。

本文にもアクセスのところにも書きましたが、この城跡について100%満喫したいと望むのならば、知識豊富なベテランガイドさんのご案内が不可欠です。また、経験の浅いただの歴史マニア的な人がひとりで入るのは危険な山でもあります。道中、石仏を参拝するために回っておいでの方々御一行と城跡マニアと思しき若者と行き違いました。日々仏さまを拝みにいらしている方々は、ご高齢でも皆さま矍鑠としておられ、道にも詳しくておいでです。また、城跡マニアの若者も、道なき道を行くことには慣れているのでしょう。ですが、それいがいの普通の観光客、たとえば、寺社仏閣巡りの人などには無理な相談です(そのような方が、この山に行きたくなる意味がわからないけど。それゆえに、ガイドさん協会には最初、とても不可思議な印象を与えてしまったようです。山城マニアならご案内は不要なはず、マニアじゃなければ城跡なんて興味ないはず、ってことで。いいえ、興味あるのは『大内氏ゆかりの地』です、神社仏閣巡りの人にも、墓マイラーにも、城跡マニアにも何にでも変身しますが、どれもど素人です、ってご説明もますます奇怪)。

というようなわけで、この城跡行ってみたい、だけど、ひとり(ふたりでも)じゃ無理そう……道もわからないし……というような方は、必ず東広島市の観光協会さまにお問い合わせくださいませ。くれぐれも思いつきでふらっと山に入ったりはしないように。お時間さえあえば、生涯忘れられない貴重な体験ができるはずです。

ミルたちは皆さまと過ごした曾場ヶ城での一日を生涯忘れません。本当にありがとうございました。

こんな方におすすめ

  • 城跡マニアの人
  • 大内氏関連史跡を回っています(城跡マニア以外のそういう人は、観光協会さまへのお問い合わせ必須です)

オススメ度

ガイドさんの解説付きならば+2
キツいです……。もう二度と嫌だ……。あと、自治体公認史跡になっていないため、頂上には案内看板の類はないです(これ、御朱印集めている方と同じくらい城跡行く人にとっては重要事項なので。この点がとてもショック……)
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎吹き出し用イメージ画像
五郎

この城がなんで「曾場ヶ城」っていうか、知ってる?

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

え? 何でだろ? 本来は杣城とか本にあったよね。でも……。

五郎吹き出し用イメージ画像(笑顔)
五郎

敵が登って来れないように、地元の人が城の周りに蕎麦を植えたから。俺、ガイドさんの資料ちゃんと読んだよ。ミルはほとんど読み飛ばしてるよね。

ミル吹き出し用イメージ画像(涙)
ミル

ごめん。試験の準備……いや、ちょっと忙しいの。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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