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鰐石の重岩(山口市鰐石町)

2023年4月8日

鰐石橋前記念撮影

山口県山口市鰐石町の「鰐石の重岩」とは?

鰐石は「わにし」と読みます。「鰐石の重岩」とは、山口駅から大内方面に向かう途中にある奇石です。椹野川の北岸にあり、二つの大きな岩が重なっています。かつては、この巨石に川の流れがさえぎられて勢いを増し、青色の淵となる珍しい光景を見せていたようです。それゆえに「山口十境詩」にも詠まれています。古来より、ホタルの名所として知られており、現在も「ゲンジボタル発生地」の案内版が立っています。

鰐石に面した一角が「鰐石町」です。椹野川の流れはここでは鰐石川と呼ばれ、鰐石橋という立派な橋も架かっています。重岩の対岸には同じく「十境詩」に詠まれた象頭山、付近には厳島神社(宮島町)もあります。

鰐石・基本情報

所在地 〒753-0044 山口市鰐石町5−5
※ Googlemap に載っていた住所です。

鰐石・歴史

趙秩と鰐石

大内弘世公の時代、明国の使節・趙秩さんが山口を訪れ山口の景勝地十箇所を歌に詠んだ(『山口十境詩』)ことは有名ですが、その十境詩のうち、一つはこの「鰐石の重岩」を詠んでいます。「鰐石生雲」がそれです。⇒ 関連記事:山口十境詩とは?

この岩がいつから存在していたのかを明記した史料はないみたいですが、少なくとも趙秩が「山口十境詩」を詠んだ時点ではすでに存在し、しかも、名勝地であったことがわかります。

趙秩が最初に山口に来たのは、応安五年(1372)のことでした。この時は、倭寇討伐の件を日本政府に依頼する、という皇帝の命令を受けての来日でした。けれども、二回目の来日、というより山口訪問は弘世公の招きによるものでした。一度目は五ヶ月、二度目も四ヶ月も山口に滞在したというので、よほど山口の町がお気に召したようですね。

趙秩さんは字を可庸といいますが、そのほかに「雅号」を「鰐水」ともいったそうです。これはほかでもなく、鰐石川から来ています。趙秩さんをして雅号の文字に選ばしむとは。それこそ、目茶苦茶鰐石が気に入ったからにほかならないと思われます。

山口滞在中、春屋妙葩の弟子・梅岩昌霖という人が師匠の著作『雲門一曲』に序文を書いて欲しい、と趙秩を訪ねてきました。趙秩は快く引き受けて文を書いてあげました。二人は数日間交流したのち、昌霖は山口を後にしましたが、趙秩は鰐石の辺りまで彼を見送り、別れを惜しんだといいます。(参照:『大内村誌』)

その時、お二人が交わした漢詩文が有名ですが、漢字だらけでわけわからないので省略します。このような、誰それとの別れを惜しむとか、誰それを見送ってのようなもの、漢詩の世界には大量にありまくりですが、和歌にもありますね。

ところで、『雲門一曲』ですが、コレ、文芸サロン山口を研究している方々には知らない方はおられないほど有名で、漢字だらけで意味わからん、となって悩ましい上、何なのかわからなかったのですが、春屋妙葩の作品だったんですね。普通にネット検索して出てくるレベルでした。無知って恥ずかしい。

趙秩さんが春屋妙葩と交流したってことは「山口十境詩」の説明文(せいぜい案内プレートしか見てないが)に書いてあるけど、それらの交流について綴った作品らしい。こうなるともう、趙秩も山口十境詩も山口だけじゃなく、全国区に有名ということになりますね。何しろ春屋妙葩がらみなので。

ココ、鰐石は、趙秩さんと昌霖さんに限らず、山口を訪れ、そしてまた去って行く人々を見送りする定番のスポットだったようです。山口の町を出て、国府のある防府へ通じる道は、すなわち都へ通じる道でもあり、京都から来た使者、京都へ向かう者皆が、ここを通ったんでしょう。加えて、重岩のような景勝地でもあることから、数々の名場面が生まれたことと思います。

鰐鳴八幡宮で、鰐が神様との別れを惜しんだのもココ鰐石でした。もっとも、この時、宇佐の神様と一緒に着いてきた鰐は、神様が椹野川を通り、鰐石のところで船を下りてご鎮座地へ向かったのを見送っているので、当時の鰐石付近は「上陸地点」ともなり得る場所だったですね。ちなみに、鰐鳴八幡宮の創建年代が、平安時代中期、寛弘・長和の頃(1004~16)だったので、そう古くはないですが、趙秩以前からこの重岩があったことがわかります(出典が神社のご由緒になっちゃうけど)。⇒ 関連記事:鰐鳴八幡宮

鰐石川と鰐石橋

『大内村誌』につぎのような一節があります。

大大盛見の子が鰐石川で溺死して小郡の妙湛寺まで流れていった。そこで山口の俗諺に水に溺れて死するを妙湛寺にゆくという。
出典:『大内村誌』639~640ページ

ぎょっとする内容ですが、『大内村誌』は「史実であるとは思われぬ」とこの話を否定しています。これ、じつは妙湛寺のところで書いたお話ですが、大内盛見の子・豊久丸が川辺で遊んでいたとき川に落ちてしまい、その亡骸が流れ着いた場所に供養のために寺院を建てた。それが妙湛寺である、ということでした。どこの川で遊んでいたのか、というところまでは書かれていなかったのですが、鰐石川だったんですね。

妙湛寺に関して、兄・義弘の子・持世に代わって家督を相続した盛見が、後継者には持世を指名するために、のちのちの家督をめぐる争いを未然に防ぐため我が子を殺したのだ云々という伝説がありました。大内盛見が我が子を突き落としたというのはさすがにないだろうけど、水難事故としては普通にあるかもしれない、ってことでした。けれども、『大内村誌』では突き落とした云々のことには触れず、単に水難事故として書いてあります。それすらも事実無根のようですね。⇒ 関連記事:妙湛寺

さて、この鰐石川には鰐石橋があります。単純に、鰐石川にかかる橋ゆえ、鰐石橋なのだろう、と思います。基本それで間違っていませんが、この橋にも由来がございます。『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』によれば、つぎのように書かれています。

明治18年明治天皇の山口行幸の際、県内最初の鉄橋に、更に現在の橋は昭和八年に架け替えられました。その時造られた道路の石畳が鰐石側に一部残っています。
出典:大内文化探訪会さま『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』1ページ

橋じたいは古くからあり、江戸時代の史料にもその名前が見え、そもそも趙秩の時代だって、橋がなければ川を渡れなかったのですから、橋はありました。だいたい、鰐石橋のところで別れたということになっております。

けれども、「県内最初の鉄橋」ということは、大内時代とは無関係ながら、すごいことです。それだけ重要かつ有名な橋だったんですね。

鰐石をめぐるあれこれ

現在目にすることのできる椹野川は、穏やかに流れており、鰐石川と呼ばれる付近も同様です。なので、「十境詩」に詠まれたような「玉立流溪任『激』衝」とか、ちょっと想像できません。『趣味の山口』にも、「河水之(重ね岩)に激して碧潭をなし、また一奇観」を呈しているとありますけど。けれどもこの岩が「奇観」であることは昔も今もかわらず、人工的に手を加えたとは思えない以上、自然の姿がこのように珍しいものであったわけで、古来よりさまざまな伝説を生み、また趙秩を筆頭に多くの有名人がこの奇観を詩歌に詠んだりしてきました。ほとんど『大内村誌』に網羅されている感があるので、読書したついでにいくつかご紹介しておきたいと思います。詳細は図書館でご本をお読みくださいませ。

一、鰐石を詠んだ方々(敬称略)

高杉晋作(鴻城偶成)、片山鳳翩(鰐石納涼)、近藤清石、梅屋宗香(鰐石観螢)、鈴木豹軒

二、伝説または創作

『後太平記』陶と大内義隆の部隊がここで戦闘を行なった(事実無根)

『朝顔日記』という浄瑠璃があるらしい(検索するとあらすじなどが出てくるので、中身などにこだわる必要はなし)。主人公のカップルは宇治川で出逢い恋に落ちたが、その後別れ別れに云々というところを、そうではなくて、鰐石川のホタル狩りで出逢ったのだとする伝説があって、ヒロインの名前をとった「みゆきの井」なるものが山口にあるという。⇒ これは、鰐石川のホタルの美しさが、宇治川なんぞに負けないぞって地元の人たちの思いからできた言い伝えのようです。

大内東山に四王寺という寺院があり、その寺院の奥には狸岩、天狗岩などと呼ばれる大岩があって、さらにその奥山に山姥が住んでいた。天文十五年九月十三日夜のこと、山姥は大風呂敷を背負って方便山のほうに向かって行く途中、持っていた風呂敷包を落としてしまった。包みが落ちたのは大内氏館で、ちょうど観月の宴を催している最中だったから、殿様一同ぎょっとして肝を潰した。この時落とした山姥の包みがつまりは重岩なのである。

⇒ ??? ちょっと意味がわかりませんが。大内氏館から鰐石まではちょい遠いと思われるので、要するに妙なモノを落とされて迷惑なことと、普通に山姥は怖いので焼却処分というわけにもいかず、館から運び出して現在地へ移したってこと? それにしても、風呂敷包と重岩はどう考えても結びつかず。これは、包みの中にこのような謎の大岩が入っていたということなんでしょうか。よくわからんけど、山姥の落とし物という着眼点が面白い伝説ではあります。

なお、「山姥の落とし物」は科学的に考えてあり得ない事件ではありますが、「天文十五年九月十三日夜」と日付までわかっている点がまた、興味深いです。滅亡間近の勢力というのは、あれやこれやと不穏な出来事が発生すると同時に奇怪な出来事も起こるもので、『平家物語』の平清盛しかりです(ex. 巻五『物怪之沙汰』)。むろん、後世の脚色と思われますが、築山大明神さまや法泉寺さまの時代の大内氏館に山姥が落とし物をする伝説など生まれ得ないのであって、いかにもこの時期って感じです。

三、鰐石を名乗った人

十八代・満盛の弟は鰐石を名乗り、鰐石小太夫といいました。つまりは名字の地でここに住んでいたからです。鰐石さんはあるいは仁戸田さんともいったようでして、その後名前が出てくるのはむしろ仁戸田さんのほうです。いずれにせよ、応安年間、興隆寺に寄進を行なったという記述を最後に、仁戸田さんという名前は見当たらなくなり、『大内村誌』には「恐らくは他氏名に改ったものであろう」とあります。

鰐石・みどころ

見るべきものはもちろん、重岩です。

鰐石の重岩

鰐石の重ね岩

とにかく目茶苦茶大きいです。注連縄があるということは、神聖なものとして扱われているということになりますね。確かになにやら神霊が宿っているとしか思えない奇石です。じつはたんなる風化した大岩だよ、とか言ったら途端に天罰が下りそうな、そんな荘厳な雰囲気がありました。

どこかに謂れを説明した看板が立っていそうな雰囲気なのですが……探すことができませんでした。二つ重なっているってことなんですが、どうなってるんだろう?

意外にも、前回車窓から通りすがりに撮影した写真などのほうが、その大きさがわかるかも知れません。

鰐石の重ね岩(車窓から)

こんな感じで、車で通り過ぎただけでも、ナニコレ!? と気が付くサイズと形をしております。まあ、快適なタクシーの旅でぼんやりしていたら気付きませんから、きちんとガイドさんと運転手さんにご教授いただいたゆえにわかりました。

鰐石川

鰐石川(椹野川)

地図を見ても(Googlemap を見てます)椹野川としか書いておらず、どこら辺を鰐石川というのかわかりません。椹野川からは問田川と仁保川が分れ出ており、おおお、名字の地だ! と、「問田」と「仁保」という地名を冠した河川名にやけに興奮しました(どうでもいいけど、仁保 = 平子氏って桓武平氏なんだよね……。まあ、じつは鎌倉幕府創設メンバーも桓武平氏だらけ。同士討ちしてどうすんの? というよりも、伊勢平氏がやたら嫌われてたんだね……はぁ。そもそもじつは、そこらじゅうにいるよね、桓武平氏って)。

「妙湛寺にゆく」で、事実無根かどうかは別として、豊久丸ってここで川に落ちたのか……。と思って、地図を見ると……、妙湛寺まで、どんだけ遠いの!? 確かに川って流れていて、しかもこれほど大きな川なので、どこまでも流されて行く可能性はあるわけですが。でも、何もないところから言い伝えって生まれないと思うんですよね。その意味で、盛見さんには何人かのお子さんがいて、そのうちお一人が水難事故に遭われた可能性はゼロではありません。そんなことは、系図に書き込まれたりしないケースもあるわけで(そもそも不完全な系図しかない一族だし)。だって、先生方が仰るように、事実無根であるとすれば、妙湛寺の存在意義がわからないし、あそこにある供養塔も誰がなんのためにお祀りしたものなのか、途端に謎となってしまいます。

事実だとしたら、本当に気の毒なお話だと思いました。Googlemap で問題ないので、鰐石から妙湛寺がどのくらい離れているかチラ見してくださいませ。

鰐石橋

鰐石橋

何となく、付近の風景も趣がある橋です。県内最初の鉄橋とか、ご案内を読まなければまったくわからない史実ですが、橋じたいは普通の橋です。明治時代の石畳については、事前に知識がなかったため、探すことができませんでした。

山口十境詩「鰐石生雲」碑

山口十境詩「鰐石生雲」

山口十境詩の一つ、「鰐石生雲」の石碑です。山口十境詩のところで説明したので、文字起こしはしませんが、作者・趙秩と梅岩昌霖がこの場所で別れを惜しんだというようなことは知らなかったので、あれこれ考えると感慨深いものがあります。現在は、鰐石が文字通りの奇石であることを覗けば、普通に町中にある川と橋になっていますが、大内時代にはどれだけ風情のある場所だったのでしょうか。⇒ 関連記事:鰐石生雲山口十境詩とは

ゲンジボタル発生地

鰐石・ゲンジボタル発生地看板

市内、県内にはとにかくホタルの名所があちこちにあるため、このような看板を何度目にしたことかわかりません。なかでも、鰐石の蛍はとりわけ有名だったようです。説明看板に、「京の都からお姫さまを迎えた際に都をしのぶ姫君を慰めようと、宇治のホタルを取り寄せたものが土着した」とあります。あくまでも言い伝えです。

ホタルまで京都から取り寄せちゃってたんですね。何代目のどの殿様の代なのか具体的には書いていませんが、都に似せた町づくりを進めていく中での一コマでしょう。けど、ということは、そもそも山口にはホタルっていなかったんでしょうかね?

鰐石の重岩(山口市鰐石町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒753-0044 山口市鰐石町5−5

アクセス

山口市内からタクシーを使ってしまいました。もちろん、ほかにも色々と回る所があったためです。ですが、普通に歩けます。山口駅から大内方面に向かって歩くだけです。椹野川を目印にすれば、迷うこともないと思います。不安な場合、ナビゲーション起動で歩けば、全く問題ないです。ただし、ながらスマートフォンにならぬよう、じゅうぶんにお気を付けくださいませ。

参考文献:『大内村誌』、『大内文化探訪ガイド No.2 中世文化の里』、『趣味の山口』

鰐石の重岩(山口市鰐石町)について:まとめ & 感想

鰐石(山口市鰐石町)・まとめ

  1. 「鰐石の重ね岩」と呼ばれる二つの岩が重なった珍しいかたちの大岩がある
  2. 古来より、多くの著名人、文化人がこの岩を詩歌に詠んだ。もっとも有名なものは、「山口十境詩」を書いた趙秩の「鰐石生雲」である
  3. 趙秩は鰐石の景観を気に入り、自らの雅号を「鰐水」と名乗った
  4. 椹野川の鰐石付近を鰐石川といい、鰐石橋と呼ばれる橋が架かっている。明治時代、天皇御幸に際して、県内最初の鉄橋に架け替えられた
  5. 趙秩は春屋妙葩の弟子・梅岩昌霖とこの場所で別れを惜しんだ。山口から防府へと通じるこの道は、山口へ来る人、山口から去る人が行き来する道だったのである
  6. 鰐石はホタルの名所としても有名

ただの面白い岩だという認識でしたが、調べるとあれこれあって驚きました。そもそもは鰐鳴八幡宮のところで、この岩について教わりました。その時は時間がなく、数ヶ月後の再訪問できちんと岩を確認できました。そもそも、出発点が鰐鳴八幡宮の「鰐が神様との別れを惜しんで云々」だったので、あ、鰐の石だ! と思ったんですけど、その後山口十境詩に読まれているだとか、詩を詠んだ趙秩さんもここで友人(?)との別れを惜しんだとか、調べていたらあれやこれや出てきて、鰐の話は消えてしまっていました。

しかし、なにゆえにここにポツンとこのような石があるのかがとんでもなく謎です。スピリチュアルとかなんたらいうの、1 ミリも興味ないのですが、なんとなく神がかっているように思えたのは注連縄のせいでしょうか。単に面白い石だ! ではなく、荘厳な石が鎮座しているというのが素直な感想です。

ところで、ここからほど近いところに、山口十境詩「象頭積雪」の碑があり(橋を渡った向かい側)、つまりは象頭山もすぐ近くにあるのですが、帰宅後写真を見てもどれがそうなのかわかりませんでした(そもそも写真に写っていない可能性も)。さらに言うと、象頭山の麓に厳島神社があり、厳島神社があるところが宮島町という地名でびっくりでした。というより、なんで見落としたんだろうとがっかりでした。なぜならこの神社、盛見さんが勧請した思いっきりゆかりある神社だったからです。

唯一の救いは、鰐石は山口駅からすぐそこなので(感じ方には個人差があります)、何度でも再訪できることです。つぎは見落とさないようにしたいです。まあ、大内もまだほとんど見たりないので、あと何回訪れるかわからず、その意味では必ず通る道ですね、ココは。

こんな方におすすめ

  • 珍しい岩が大好きな人(多分、このような方も少なくないでしょう。多分)
  • 山口十境詩、趙秩、春屋妙葩とその弟子、とにかく漢文スラスラで文芸大好きな人(そういう方面のゆかりある場所を好む人)

オススメ度


単に岩があるだけだし、岩に関心がある人でもないし、まして文芸(特に古文や漢文)など聞くだに恐ろしいのですが、それでもなぜかとても気に入ったので、見る人を惹き付ける謎の岩だと思います。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

俺さ、こういうの見たんだよね。これ見たのに、厳島神社と象頭山行かないとか、普通にないよな?

厳島神社矢印看板

ミル涙イメージ画像
ミル

えーと、でもさ、君も見たわけだよね? 教えてくれればよかったのでは?

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

(……)

20240123 追記:その後、無事に厳島神社には行けました。⇒関連記事:厳島神社

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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