山口県山口市八幡馬場の神福寺とは?
神福寺は山口市内にある真言宗寺院です。大内弘盛によって建立されたといわれています。元々は神光寺といい、仁壁神社、祇園社(現在の八坂神社)、今八幡宮の別当職をつとめるなどたいへん由緒ある大寺院でした。それゆえに、足利義稙が大内義興を頼って周防に下向してきた際には、将軍の宿所となったほどです。
大内氏、その後の毛利氏にも篤く信仰されてきましたが、明治維新後はそれらの保護を失って一時期衰頽していました。大内氏末期の政変、毛利氏時代の大内輝弘の乱などの戦渦にも遭っていますし、当時の大伽藍は失われています。
国指定重要文化財となっている「木造十一面観音立像」が有名です。
神福寺・基本情報
住所 〒753-0092 山口市八幡馬場 813
最寄り駅 山口駅
山号・寺号・本尊 西高野山・神福寺・五智如来
宗派 真言宗
神福寺・歴史
『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれています。
「そもそもこの寺院はもと神宮寺といい、今からおよそ 750 年あまり前、大内弘盛卿が建立し、宮野村式内社仁壁神社の社坊だった。十四代・大内弘宗公の時に再建されて日輪山神光寺と名を改められた。開山には畏れ多くも、高倉天皇第三皇子・舜譽宥玄大僧正をお招きした。
十七代・大内弘世公が応安二年、祇園社を山口に勧請すると、その別当職を命じられた。二十四代・政弘公が今八幡宮を建立し、その別当職を命じられる。大内氏代々に崇敬されたゆえ、大伽藍であったから、明応九年に足利義稙卿が山口に逃れて来た時は、この寺院を館にあてたという。
脇坊として、無動、平等という二院があったという。もとの寺地は現在の八幡宮山の左側にあったが天文、永禄の二度兵火にかかり、そのご再建された。宝暦五年八月二十四日夜の大風で倒壊して現在地に移った。明治初年改正の際、上宇野令村長山平蓮寺が廃寺となったのを合併し、寺号を神蓮寺と改めた。
古くから大内、毛利家の信仰が厚く、仁壁、祗園、八幡三社の別当職をつとめ、寺領も広々として寺内に七房を築いていた。三輪社祭礼には、いわゆる「七度半の使(丁重な使いを出して迎え入れること)」を受け、上輿で神輿に供奉したことは広く知れ渡っている。由緒ある名刹として、大内氏および毛利氏から送られた寺領等にかかわる古文書・古記録等を所蔵していたが、兵火にかかってことごとく焼失してしまい、詳細を知ることは難しい。
明治四十一年九月、玖珂郡岩国町の妙福寺が衰頽して廃寺となったとき、この寺院を合併し、寺宝什器等をこの寺院に移したため、寺号を神福寺と改称した。
明治維新で禄が廃止された後、寺門はしばらく震わず、のちの住職は興隆に努力しているが、未だ昔日の状態を再現するには至らない。住持は法燈を継いで以来、人天のため貢献することを誓って懸命に精進を続け、次第に寺院の景観を整えつつある(訳注:この書物が書かれた時点での様子を言っていることにご注意ください。現在は立派に復興しています)。
現在の将校集会所の所は元神光寺の墓地であったという。建築の際、昭和五年十月に墓石を発掘し、二つ三つ寺院に保存してある。弘津史文氏の鑑定によると、開基当時の墓石だろうという。
山口高野山として本山の特許を得、西之高野山という。昭和四年十二月許可。同五年十二月県当局認可あり。」
このご本は昭和初期に出版されたもので、文章も文語文だが、古い時代についての記述は正確で、現状ほかのガイドブック類にも同様のことが書かれております(※名著として復刻されたものを使用。それでも古書店経由で入手)。ただし、「将校集会所」というものは、現在はありません。付近に自衛隊駐屯地があるけれど、元々そういう場所だったところを使っておられるかは不明です。
「七度半の使」とは?
七度半の使ってなんぞ? と思うけれど、神仏習合していた時代の話なので、神社の祭礼にお坊さんが参加するのは普通のことでした。で、神社からお迎えの使者が七回も来ます。六回目までのお迎えには応じず、七回目の使者が来たところでようやく重い腰をあげて寺を出る、という体裁を取るのがルールのようです。七回目の使者とともに出発すると、八回目のお迎えの使者と途中で行き合います。一種の儀礼的なものみたいで、別に七人 + 一人も繰り返し迎えに行かなくてもいいのに、必ずこの手順を踏まなくてはならないしきたりだった模様。
加えて、この寺院の開山は畏れ多くも、高倉天皇第三の皇子、ということだから、「開山大僧正の格式」とやらで祭礼に参加なさいます。「金の菊紋十二處の挟み箱、長刀袋長柄朱傘袋各金の菊紋付を持せ轅に乘す」とか書いてありました(『山口県寺院沿革史』)。これは、祇園社への御幸の例ですが、ほかの祭礼も多分同じような感じだったかと。
永正年間に疫病が流行り、大勢の人が亡くなりました。凌雲寺さま(義興公)が祇園社に疫病退散と国家安全を祈願したところ、その霊験あらたかでした。祇園社への御幸は、その後数百年も続けられたといいますが、始まりはこの時の御礼のためでした。やがて慣習化していったのでしょう。大内家はそれ以降、数百年どころか、一代しか続きませんでしたので、儀式は毛利家にも受け継がれたものと思われます。「大内家以来の例にて櫻の馬場迄七度半の使にて毎年六月八日祗園社祭禮云々」(同上)とあります。
公方さま御宿所
『大内氏実録』には、以下のようなことが書かれています。
「神光寺は上宇野令村江良の七尾山麓にあり、明治三年、長山平蓮寺と合併して今は神蓮寺という。当時は今八幡宮鎮座の亀山右側の地にあって、その後面の地・宮野下村の内にかけて字を御屋敷といった。義尹卿の館址なりと言い伝えられている。当時、神光寺は広いとはいえ、将軍の居館にするにはやはり狭小だから、地つづきに増築したため、このようにいうのだと思う」
自力で京都に戻れない弱々しい将軍といえど、公方さまという身分は武家の最高位なので、粗略には扱えません。義尹(義稙)は周防に来る前、畠山尚順の家臣・神保長誠の越中に居候していました。その際も、将軍の住まいを整える問題は面倒なことこの上なく、適当な寺院を改築して宿所にあてたそうです。そちらは「越中幕府」などと称して政務を執る場所のつもりでいたようなので、神光寺(当時)も同じく、「政務を執る場所」だったのかも。しかも、近藤先生の上の記述によれば、大寺院とはいえ将軍宿所にするには手狭だったから増築したらしいことがわかるわけです(推測として述べておられますが)。
将軍? だから何? と考えてしまいますが、当時の感覚では「位が高い」ということ = 貴種であること、というのはたいへんに貴重なことでした。その後の展開を考えると空しくなるけれど、将軍さまが御成になった、援助を求め頼りにしてくださっている、ということはとても名誉なことであり、けっして粗相がないように、丁重におもてなししたのでしょう。大内氏館跡から金箔付きの食器が出てきたりしたことも(まあ、この家の場合、武家の最高位だけではなく、公家の偉い人も続々とやってきたから、誰のために使ったものなのかいちいちわからないけど)含め、贅をこらしておもてなしをしたはず。そういう「貴人」の仮の住まいとして使っていただく場所に選ばれたということからも、当時の神福寺が宗教界に占めていた地位がわかるというものです。
神福寺・みどころ
入り口がやや狭く、わかりづらいことを除けば(看板があるので見付けられないことはありません)、普通に立派な寺院さまです。しかし、往時の大伽藍はすでになく、将軍宿所に選定されるほどの規模を誇っていた当時を偲ぶことは難しいかもしれません。
むかえ弘法
真言宗寺院さまゆえ、弘法大師さまがお出迎えくださいます。「同行二人」。いつも付いてきてくださっているのですよね。ほかにもお稲荷さんの祠とか、大量のお地蔵さまなど、信心深い方々が寄進なさったと思しき石仏や小祠がたくさんある寺院さまでした。あまりに数が多くて、いちいちどれが何なのかは、確認できませんでした。
十一面観音立像
この寺院が有名なのは、歴史上重要な地位を占めていた由緒ある寺院ということに加えて、国指定重要文化財「十一面観音立像」があるゆえにです。この「十一面観音立像」は「秘仏」なので、残念ながら見ることはできません。自治体HPや研究書などに写真が載っていることがあるので、それを見れば別に実物を見る必要もありませんが、重要なのはその「由来」。
「この像は寺伝によれば大内氏の祖である琳聖太子が百済国から来朝したときに請来されたものと伝えられている。 中国唐代の作と考えられる一木造り素地で、材は楠とも桜ともいわれはっきりしない。後には大内政弘の念持仏として、宮野の泊瀬観音堂の本尊になっていたが、堂の荒廃にともなって神福寺に移され祀られている。秘仏のためふだんは公開されていない。
蓮華座の上に立つ高さ四九・五㎝の小像であるが、製作年代が古いことと作りがすぐれていることにより指定されている。十一面観音の特徴は頭上に十一面の化仏を載せていることで祈念すれば現世利益十種と来世の果報四種の功徳があるといわれている。本像は化仏の多くが脱落しており、五面しか残って いない。また両手の指先、鼻頭や口唇に破損している所があるのは惜しいことである。」
(山口県教育委員会文化財説明看板)
なんと、琳聖太子が百済国から持って来たというのだから驚きです。上の『山口県寺院沿革史』では、この薬師如来像を神光寺の本尊として、その謂われを以下のように記しています。
「薬師如来座像木像御丈二尺二寸作者不明。琳聖太子御持来の唐佛で、大内家代々秘崇の像である。然るに大内政弘公の時、国家を鎮撫し萬民を撫育せんが爲めに仁壁三之宮、祇園之両社を御勧請あり。其砌時々薬師如来の霊応掲焉なる事を相像両社の御本地とし国家を利濟せんとなりて一宇を建立し尊像を安置し以て神光寺と号す。以来毛利家代々に至る迄若干の田園を附與し厚く御崇敬あり」
何やら寺院じたいが薬師如来のために建立されたもののようになっており、祇園社を勧請したのが弘世ではなく、政弘とするなど、寺院さまの解説文とは矛盾するところがあるものの、この仏像が大内家代々によって大切にされていたものであることは、間違いありません。琳聖太子云々については伝承的要素が濃厚ですが、唐代のもの、というところは現代の調査で明らかになっているのだから、それこそ大内氏の先祖が祖国から持ち込んだ舶来品かも知れません。
『山口県寺院沿革史』には「寺宝」として、十一面観音立像のほかにもじつに多くの仏像、経典、刀、古文書などが載っています。しかし、それらが現在重要文化財になっていないということは、その後失われてしまったのでしょうか。残念です。
観音堂
「秘仏」の観音様はこの中におられます。ここでもう一つ重要なことは、神福寺の観音堂は、元興隆寺の護摩堂だった、ってこと。いかにも新しいし、修理改築済みと思われるけれど、れいによってれいのごとく、興隆寺の建物は色々なところに引っ越しており、こちらもその一箇所なのです(参照:『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』)。
ところで、「秘仏」ゆえ普段は見ることができない十一面観音さまですが、観音堂前の貼り紙に、「毎月二十一日 開運厄除 護摩祈願」と書かれています。もしかしたら、この時に拝めるのでしょうか。たいていは十何年ごとに、とか書いてあるはずですが、ほかにはどこにも何も書いていないので。だとすれば、二十一日に来れば拝める、ということになりましょうか(未確認です)。⇒ 関連記事:興隆寺
本堂
ほかにも建物があったので、これが本堂なのかちょっと自信がありません……。
水子供養地蔵尊
あまりの数の多さに呆然。ほかにも至る所にお地蔵様がいる寺院様でした。墓地の敷地が広大なことにも驚きです。
神福寺(山口市八幡馬場)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0092 山口市八幡馬場813
アクセス
山口駅から徒歩圏。ただしかなーり歩きます。けれどもたいていは、龍福寺や今八幡宮なども訪れるはずですので、それらの観光資源がある場所まで来ているのなら、そこから先はたいしてかかりません。道もわかりやすく、迷うことはないでしょう。目印は自衛隊駐屯地です。
なお、入り口がややわかりづらい細道です。「十一面観音立像」の看板、寺号碑があるので間違えることはないですが、知らぬ間に通り過ぎてしまう可能性はありますので、お気を付けください。
参照文献:『山口県寺院沿革史』、『大内氏実録』、文化財案内看板、『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』
神福寺(山口市八幡馬場)について:まとめ & 感想
神福寺(山口市八幡馬場)・まとめ
- 大内氏によって建立され、その信仰篤い寺院であった
- 仁壁神社、祇園社、今八幡宮の別当職をつとめるなど、重要な地位にあった
- 琳聖太子が百済国から持参した「十一面観音立像」が所蔵されており、国指定重要文化財指定を受けている
- 足利義材が周防に逃げ込んできた時、その宿舎となった
神福寺と聞いてもピンと来ませんが、神光寺となると別で、迷惑な流れ公方来た寺院だなぁ……となります。あとは、清水寺にあった御朱印が欲しい方はコチラ、みたいな看板です。そのくらいしか知識ない状態でご訪問したので、琳聖太子ゆかりの十一面観音立像とかびっくりでした。とはいえこれは、「秘仏」ということで、目にすることは困難ですし、ほとんど「ゆかりの地」だからってだけのご訪問となりました。清水寺大好きだけど、御朱印だけは絶対に集める気ありませんので(なんでもコンプリートしないと気が済まないので、集め始めたらたいへんなことになるから)。
敷地が非常に広大な墓地があり、檀家さんの数も多いのだろうと想像できます。現在に至るまで多くの方々の信仰を集めている寺院さまゆえにでしょう。観光資源というよりは、完全に信仰の対象です。もちろん、ほかの寺院さま、神社さま、すべてがそうなのですが。けれども、観光資源化してしまっている寺社に行くと、信者の方にご迷惑をおかけするスマートフォンカシャカシャの人々で溢れていて、せっかくの厳かな祈りの場がそれこそレジャー施設と化していますので。同じくカシャカシャやってる同類なので、悔い改めねばと感じました。
山口十境詩の「泊瀬の晴嵐」に詠まれている弘世さん建立の寺院が廃寺となって中の観音さまだけコチラに残っているとか、迷惑な流れ公方とはいえ、将軍さまが宿舎にしていた大伽藍が消えているとか、興隆寺の護摩堂がなぜかココにあるとか、またしても心に寒風が吹く展開となりました。
こんな方におすすめ
- 観音霊場巡りをやっている方(でも『秘仏』の場合どうなるのでしょうか?)
- 凌雲寺さまといったら将軍復職助けて上洛した人だよね、で、その将軍ここの寺院にいたんだよね、と感激しちゃった方
オススメ度
由来は素晴らしいのですが、現状、往時を偲ぶことはできないのが悲しいです。観光客向けではなく、地元の信者の方々から篤く信仰されている、というタイプの寺院さまです。「秘仏」をこの目でみたいがために必死になり、実際に目にすることができた方々からは最高のオススメ度となるでしょう。
(オススメ度についてはコチラをご覧くださいませ)
父上の念持仏って、十一面観音だったのか。
そんなことより、「迷惑な流れ公方」ってどいつだよ?
無礼な。「流れ公方」などという名ではないわ。それにしても、大内介のところの膳は美味じゃな。
将軍さまがおられるところが国の中心です。いっそやまぐちに幕府を移しましょう♪
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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