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興隆寺(山口市大内氷上)

2020年9月23日

本堂の写真

興隆寺・基本情報

住所 〒753-0214 山口市大内氷上5丁目14−426−6
電話 083-927-0597
最寄り駅 山口駅からバス15分、農業試験場前バス停から徒歩15分
山号・寺号・本尊 氷上山・興隆寺
宗派 天台宗
ホームページ https://koryujimyokensha.web.fc2.com/

興隆寺・歴史

大内氏の氏寺として知られる興隆寺は、推古天皇二十一年(613)、大内氏始祖・琳聖太子の建立と伝えられる。本尊は釈迦如来、脇士は普賢・文殊菩薩と四天王。のちに比叡山延暦寺の直轄となって、天台宗顕密兼学の道場として栄えた。

先祖伝説によれば、始祖である百済の王子・琳聖を守護するために妙見菩薩が下松に降臨したことになっている。天長四年(827) 、十一代・茂村の時、降松妙見社をこの地に勧請。氏寺・氏神が合体した氷上山は、大内氏歴代と家臣たちにとって、まさに神聖不可侵な領域であった。

文中二年(1373) 、二十四代・弘世の時、明の趙秩はこの地で「氷上滌暑」(山口十境詩の一首)を詠み、応永十六年(1409) 、二十六代・盛見は、朝鮮から取り寄せた唐本「一切経」を輪蔵に納め、宝徳元年(1449) 、二十八代・教弘は、「大蔵経」を寄進した。 文明十八年(1486) 、二十九代・政弘代に、興隆寺は勅願寺となり、 土御門天皇より「氷上山」の勅額と宣旨を賜った。天文元年(1532) 、三十一代・義隆は、梵鐘を鋳造、寄進した。

妙見の大祭・二月会には、童舞や歩射が行われ、毎年、大頭役、脇頭、三役が定められて費用を負担した。大内氏滅亡後、毛利氏もまた、興隆寺や妙見社の崇敬を継承し、二月会を執り行ったり、伽藍の再建、修復に努めた。

現在の本堂、中興堂でその功績を称えられている、中興上人・行海和尚は江戸時代になって、衰頽していた寺院を復興した。中興僧・行海僧正は氷上山を復興させようと尽力する。氷上山真光院と名称を定め、多くの脇坊が整備され、また、東照宮・観音堂・山王社・護摩堂などが建てられたという。

元大内氏氏寺興隆寺に徳川家康を祀る東照宮が建てられたいうのは意外な気がするけれども、江戸時代、徳川家康は大東照大権現として神格化されており、幕府は諸大名に対して東照宮の造営を進めた。なので、各地に多くの東照宮が造られ、信仰されていたのである。萩藩も例外ではなかった。

興隆寺内の東照宮建立はつぎのような流れ。

享保20年(1735)、日光東照宮御神影を氷上山護摩堂に安置
寛保元年(1741)、氷上山に東照宮を新築遷宮
寛保2年(1742)、本殿・拝殿建立。

この東照宮は氷上山東照宮と呼ばれ、なかなかに荘厳なものであったと想像される。しかし、明治3年(1870)、山口宝現霊社に合祀され、社殿は現在の築山神社本殿となった。

明治以降、神仏分離、廃仏毀釈などの時代の流れの中で、かつての興隆寺の面影は次第に失われていった。寺領もなくなり、宝乗坊(焼失した真光院が本坊として使用していた)以外の坊は廃れ、多くの建物が移築されていった。

大内氏の時代、境内には、上宮、下宮、本堂、東西二塔、鐘楼、輪蔵、経庫、大日護摩堂、不断如法経堂、八幡社、三十番神、山王七社、牛王所、仁王堂や法界門などの建物があり、参道脇には多くの僧坊が建っていたという。往時の伽藍の荘厳さを知るために、なおも研究は続けられており、考古学的発掘調査も行われている。

また、規模が縮小されたとはいえ、興隆寺はなおも存続している。地元の方々に支えられ、守られながら、貴重な文化財を今に伝えているのである。(参照:案内看板、興隆寺HP)

興隆寺・みどころ

大内義隆寄進の梵鐘が、国指定の有形文化財。永正元年に大内義興が施主となって造られた木造釈迦如来坐像が山口市指定有形文化財、木造聖観音菩薩立像が山口県有形文化財となっている。このうち、木造釈迦如来像は興隆寺の本尊であったものである。

なお、自治体サイトや案内看板で紹介されている、梵鐘や木造釈迦如来坐像、氷上山扁額のほかにも、寺院ホームページによれば、以下のような指定文化財がある。「琳聖太子の剣・宝剣拵・付属文書」、「絹本着色両界曼陀羅図」、「木造龍頭・舞楽面・獅子頭」(いずれも、県指定有形文化財)。

このほかに、元々興隆寺のものであったが他所に移築された建造物が多数ある。
元本堂 (釈迦堂)⇒ 龍福寺本堂
東照宮 ⇒ 八坂神社境内、築山神社
護摩堂 ⇒ 神福寺十一面観音堂
観音堂 ⇒ 山根観音堂
山王社 ⇒ 御堀神社
(参照:案内看板、興隆寺HP)

本堂

本堂の写真

大内家の滅亡後、毛利氏の時代においても、当寺に対する崇敬は続いた。しかし、江戸時代になると次第に衰頽しまった。そんな興隆寺を復興しようと尽力したのが、中興上人と呼ばれる行海僧正。この人の功績を称えるため、元禄八(1695)年に、辧海和尚という人が「中興堂」という建物を建てた。これが現在、興隆寺の本堂となっている。

本堂内には大内氏時代から受け継がれている「木造釈迦如来坐像」が安置されている。釈迦如来坐像の説明看板は、妙見社の前に立っているが、興隆寺の由緒説明看板によれば、安置場所はここである。

梵鐘

梵鐘の写真

天文元年(1532) 、三十一代・義隆が、鋳造し施入したもの。国指定重要文化財。なお、この鐘楼は、地元の有志の方々によって昭和三十二年(1957)に再建された。

妙見社

妙見社の写真

あまりにも有名な興隆寺の北辰妙見社。現在のものは、毛利氏によって再建されたものである。

奥の院 & おこもり堂への道

奥の院への道の写真

この道から上って行くと、かつて亀童丸たちが父上とともに、参詣した場所に行けるらしい。若子参籠して新介様となる二月会のおこもり堂が。中途には古代の古墳などもあるという。すべてガイドさんからうかがった興味をそそられるお話である。が、しかし、この時期はマムシが出現するため、地元の方々は「絶対に中に入らない」場所であり、怖いもの知らずの観光客のために、皆さんを命の危険にさらすことはできないので、泣く泣く引き返した。

法泉寺さまキャラクター画像法泉寺さま
新介キャラクター画像新介

ミル

冬ならば無事に入れるらしいの……。

五郎

また来ればいいじゃん。

興隆寺写真集

付記・福田侠平公明之墓

福田侠平公明之墓の写真

奇兵隊軍監・福田侠平の遺髪墓。墓地は高杉晋作の墓の側にある。また、北辰妙見社には位牌が置かれている。(参照:山口県観光連盟HP)

ミル

「木喰仏」を見に行く途中で偶然にも発見しました。タクシーの運転手さん大興奮! おおお、こんなところにあるのか、と。しばらく行方がわからなくなっていて、平成九年に発見されたと説明プレートに書いてありました。訪問時、運転手さんはタクシーに残られて、ガイドさんとミルたちだけでお参りしてきたよ。

五郎

興隆寺の案内看板には、この人の伝記が詳しく書かれていたのに、ミルは読んですらいなかった。俺はちゃんと知ってたもんね。興隆寺から乗福寺へ行く途中にあったよ。どっちでもよかったけど、妙見社のこともあるから、こっちに載せてる。

アクセス

山口駅からタクシー。バス停があるので、歩いても来れそうではある。

参照文献:興隆寺様HP、山口県観光連盟様HP、説明看板

五重塔記念撮影の写真
五郎とミルの防長芸旅日記

山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記。ついでに本拠地・周南の宣伝もしちゃう。

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