
興隆寺・基本情報
住所 〒753-0214 山口市大内氷上5丁目14−426−6
電話 083-927-0597
最寄り駅 山口駅からバス15分、農業試験場前バス停から徒歩15分
山号・寺号・本尊 氷上山・興隆寺
宗派 天台宗
ホームページ https://koryujimyokensha.web.fc2.com/
お詫び
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興隆寺・歴史
大内氏の氏寺として知られる興隆寺は、推古天皇二十一年(613)、大内氏始祖・琳聖太子の建立と伝えられる。本尊は釈迦如来、脇士は普賢・文殊菩薩と四天王。のちに比叡山延暦寺の直轄となって、天台宗顕密兼学の道場として栄えた。
先祖伝説によれば、始祖である百済の王子・琳聖を守護するために妙見菩薩が下松に降臨したことになっている。天長四年(827) 、十一代・茂村の時、降松妙見社をこの地に勧請。氏寺・氏神が合体した氷上山は、大内氏歴代と家臣たちにとって、まさに神聖不可侵な領域であった。
文中二年(1373) 、二十四代・弘世の時、明の趙秩はこの地で「氷上滌暑」(山口十境詩の一首)を詠み、応永十六年(1409) 、二十六代・盛見は、朝鮮から取り寄せた唐本「一切経」を輪蔵に納め、宝徳元年(1449) 、二十八代・教弘は、「大蔵経」を寄進した。 文明十八年(1486) 、二十九代・政弘代に、興隆寺は勅願寺となり、 土御門天皇より「氷上山」の勅額と宣旨を賜った。天文元年(1532) 、三十一代・義隆は、梵鐘を鋳造、寄進した。
妙見の大祭・二月会には、童舞や歩射が行われ、毎年、大頭役、脇頭、三役が定められて費用を負担した。大内氏滅亡後、毛利氏もまた、興隆寺や妙見社の崇敬を継承し、二月会を執り行ったり、伽藍の再建、修復に努めた。
現在の本堂、中興堂でその功績を称えられている、中興上人・行海和尚は江戸時代になって、衰頽していた寺院を復興した。中興僧・行海僧正は氷上山を復興させようと尽力する。氷上山真光院と名称を定め、多くの脇坊が整備され、また、東照宮・観音堂・山王社・護摩堂などが建てられたという。
元大内氏氏寺興隆寺に徳川家康を祀る東照宮が建てられたいうのは意外な気がするけれども、江戸時代、徳川家康は大東照大権現として神格化されており、幕府は諸大名に対して東照宮の造営を進めた。なので、各地に多くの東照宮が造られ、信仰されていたのである。萩藩も例外ではなかった。
興隆寺内の東照宮建立はつぎのような流れ。
享保20年(1735)、日光東照宮御神影を氷上山護摩堂に安置
寛保元年(1741)、氷上山に東照宮を新築遷宮
寛保2年(1742)、本殿・拝殿建立。
この東照宮は氷上山東照宮と呼ばれ、なかなかに荘厳なものであったと想像される。しかし、明治3年(1870)、山口宝現霊社に合祀され、社殿は現在の築山神社本殿となった。
明治以降、神仏分離、廃仏毀釈などの時代の流れの中で、かつての興隆寺の面影は次第に失われていった。寺領もなくなり、宝乗坊(焼失した真光院が本坊として使用していた)以外の坊は廃れ、多くの建物が移築されていった。
大内氏の時代、境内には、上宮、下宮、本堂、東西二塔、鐘楼、輪蔵、経庫、大日護摩堂、不断如法経堂、八幡社、三十番神、山王七社、牛王所、仁王堂や法界門などの建物があり、参道脇には多くの僧坊が建っていたという。往時の伽藍の荘厳さを知るために、なおも研究は続けられており、考古学的発掘調査も行われている。
また、規模が縮小されたとはいえ、興隆寺はなおも存続している。地元の方々に支えられ、守られながら、貴重な文化財を今に伝えているのである。(参照:案内看板、興隆寺HP)
興隆寺・みどころ
大内義隆寄進の梵鐘が、国指定の有形文化財。永正元年に大内義興が施主となって造られた木造釈迦如来坐像が山口市指定有形文化財、木造聖観音菩薩立像が山口県有形文化財となっている。このうち、木造釈迦如来像は興隆寺の本尊であったものである。
なお、自治体サイトや案内看板で紹介されている、梵鐘や木造釈迦如来坐像、氷上山扁額のほかにも、寺院ホームページによれば、以下のような指定文化財がある。「琳聖太子の剣・宝剣拵・付属文書」、「絹本着色両界曼陀羅図」、「木造龍頭・舞楽面・獅子頭」(いずれも、県指定有形文化財)。
このほかに、元々興隆寺のものであったが他所に移築された建造物が多数ある。
元本堂 (釈迦堂)⇒ 龍福寺本堂
東照宮 ⇒ 八坂神社境内、築山神社
護摩堂 ⇒ 神福寺十一面観音堂
観音堂 ⇒ 山根観音堂
山王社 ⇒ 御堀神社
(参照:案内看板、興隆寺HP)
本堂
大内家の滅亡後、毛利氏の時代においても、当寺に対する崇敬は続いた。しかし、江戸時代になると次第に衰頽しまった。そんな興隆寺を復興しようと尽力したのが、中興上人と呼ばれる行海僧正。この人の功績を称えるため、元禄八(1695)年に、辧海和尚という人が「中興堂」という建物を建てた。これが現在、興隆寺の本堂となっている。
本堂内には大内氏時代から受け継がれている「木造釈迦如来坐像」が安置されている。
梵鐘
天文元年(1532) 、三十一代・義隆が、鋳造し施入したもの。国指定重要文化財。なお、この鐘楼は、地元の有志の方々によって昭和三十二年(1957)に再建された。
妙見社
あまりにも有名な興隆寺の北辰妙見社。現在のものは、毛利氏によって再建されたものである。
上宮 & おこもり堂への道
この道から上って行くと、かつて亀童丸たちが父上とともに、参詣した場所に行けるらしい。若子参籠して新介様となる二月会のおこもり堂が。中途には古代の古墳などもあるという。すべてガイドさんからうかがった興味をそそられるお話である。が、しかし、この時期はマムシが出現するため、地元の方々は「絶対に中に入らない」場所であり、怖いもの知らずの観光客のために、皆さんを命の危険にさらすことはできないので、泣く泣く引き返した。
法泉寺さま
新介

冬ならば無事に入れるらしいの……。

また来ればいいじゃん。
追記・氷上山上宮への道
かつての氷上山
もともとの興隆寺と現在ある興隆寺とは、その姿がだいぶ変ってしまいました。しかし、発掘調査や地元の方々の取り組みにより、かつての姿を偲ぶことができるような町づくりが進んでいます。先生方がおまとめになった想像図は研究書の中でしか見られないものでしたが、今は案内看板でも見ることができますし、Googlemap の精度も日増しに高くなり、「上宮跡」「山王社跡」等々を確認し、当時の面影を想像することが可能です(ただし、想像すればするほど、現在は何もないことが悲しくなりますので、場合によってはおすすめしません)。
ちょいわかりにくい写真とはなりますが、ここにかつてのあれこれの場所が書いてあります。
山王社跡
もとの山王社は氷上神社となり、のちにほかの神社と合併して御堀神社となりました。場所もここではありません。しかし、元々山王社があった場所は「跡地」として、きちんと整備されています。看板に「山王社遺跡公園」とありますが、地元の方々の憩いの場になっているようですね。
看板脇から、こんな風に道が続いています。ちょっと登ります。もちろん、上まで行ったところで何もありません。
「山王社」と書かれた赤い鳥居が建っています。当然のことながら、元々あった鳥居ではありません。これが、現在の「元山王社跡地」となります。
上宮跡
山王社跡地から降りてきて、先程の看板があった道をなおも進み、氷上山を登っていくと、かつての上宮跡地があります。入り口はご覧の通り。季節は冬です。

マムシがいなくなった今ならば怖いものなしだ! でも、神聖な上宮は女人禁制。俺みたいな穢れない子どもしか入れないよ。

そういう神秘的な掟があるのは魅力だけども、残念ながら今は誰でも入れるよ。
それなりに山道なので、テキトーに進んではダメですが、我々門山城でも大丈夫な面々なら何ら問題はありません。道はきちんとついており、迷うこともありません。しかし、正直、頂上までいったところで、荘厳な雰囲気を「感じる」だけで、何一つないです。大内氏興味ない人にとっては、行く必要ない場所になっちゃうと思う。
こんな感じの道が続いていきます。かつて法泉寺さまや凌雲寺さまが亀童丸から新介さまになるために向かった道だと思うと目茶苦茶感動する。ここを通って五郎も陶入道になったりして。いやいや、ここは本家の若子さまだけが通れる道だけども。
もう着いてしまったよ……。本当に何もなかった。
「上宮跡」の看板背後に石段があり、登っていくと狭いスペースに出ます。苔生した古い石が転がっていて、何かそういう建築物の遺品かと思うのですが……。しかし、同じ場所には修験者(?)かなにか、そのような宗教の方が置いた妙見社とは無関係な石が置かれていたりしますので、これらもそのような方々に関係するものである可能性もあります。
アクセス
山口駅からタクシー。バス停があるので、歩いても来れそうではある。
参照文献:興隆寺様HP、山口県観光連盟様HP、説明看板
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五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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