山口県山口市大内御堀の御堀神社とは?
名前のとおり、大内御堀にある神社です。「元大内村」に鎮座していた、八幡宮、氷上神社、鏡山神社、八幡宮摂社の厳島神社という四つの神社が合併されて一つの神社となりました。合併の際には、それぞれの神社の建造物を用い、神さま方もそれぞれの神社から勧請され、合祀されました。
合併された四つの神社のうち、大内氏とゆかりが深いのは、氷上神社です。この神社は、もともと、氏寺興隆寺にあった氷上山山王社です。現在、御堀神社にある手水鉢が、元氷上神社、つまり山王社のものだそうです。
御堀神社・基本情報
鎮座地 〒753-0214 山口市大内御堀17−81
御祭神 応神天皇、仁徳天皇、大山咋神
主な祭典 春祭り(四月十二日)、 夏祭り(七月二十八日)、秋祭り(十一月十二日)、新嘗祭り(十二月一日)
社殿 本殿、幣殿、拝殿、向拝
主な建物 鳥居、手水鉢、狛犬、灯籠
(参照:『山口県神社誌』、神社由緒看板)
御堀神社・歴史
大内さとづくりまちづくり推進協議会の皆さんが制作なさったこの由緒看板によれば、神社の縁起はつぎのとおりである。
「元来御堀村には八幡宮、厳島大明神、 大歳大明神の三社があつた。然るに寛文九年(一六六九年)三月に御堀村に大火があつて、三社及び民家までたくさん類焼した。そこで三社を合併し御堀の村社八幡宮として翌十年(一六七〇年)に再建した。
御堀の村社八幡宮、氷上の村社氷上神社、金成の村社鏡山神社、御堀の八幡宮の摂社厳島神社を合併して、明治四十二年六月御堀神社と改称した。
神殿と弊殿とは八幡宮のもの、拝殿は氷上神社のもの、倉庫は鏡山神社のものを用いた。鳥居は厳島神社の宝永七年のもの、手水鉢は氷上山山王社のものという風に各神社のものを使用し造営された。」
つまり例によって例のごとく、この神社は多くの神社が一つに合併されたものである。それゆえに、元の神社の神様たちが一か所に集まり、社殿その他の建物もあれこれの神社から取り入れられている。
ここで終わってしまったら、看板の写真をアップするだけなんて手抜きじゃん? となるので、『大内村史』を参照に、それぞれの「元の神社」の由来をまとめてみる。
八幡宮:御堀村入野鎮座。祭神:応神天皇、相殿:厳島神社。伝・大内氏建立。寛文九年(1669年)の火事により、西鎮座の厳島大明神、堀鎮座の大歳明神を合併した一つの神社として再建。かなりの大火災だったようで、乗福寺やほか多数の民家も被害を受けたという。宝暦二年(1752)に造替え、遷宮が行われた。
氷上神社:氷上山鎮座、祭神:大山咋命 。応安二年(1369)、氷上山別当・祐弁が比叡山から勧請。この神様は、神仏習合の時代に比叡山延暦寺が守護神としていた山王権現である。大内氏の氏寺・興隆寺も、同じ天台宗だから、この神様を祀り、厚く信仰していた。いわゆる氷上山山王社のことなのである。毛利氏の時代にも、寄進を受けたり、社殿を再建してもらったりしていた。社殿のうち、神殿は寛文八年(1668)に毛利綱広が再建したもの。それ以外は明治時代。
鏡山神社:氷上の金成鎮座、伝・永禄九年(1566)四月創建。祭神:仁徳天皇。元王子権現。
厳島神社:御堀字一橋鎮座、八幡宮の摂社。祭神:三女神。ほかにも配祀の祭神があった模様。応永十三年(十四年もしくは十七年とも)、大内盛見が安芸国厳島から勧請。もとは上宇野令高嶺太神宮の馬場の北にあったが、毛利家の時代に移築された。神殿内の祠は応永年中のものとされる。
明治四十二年(1909)の合併は、上の四社を一つにしたわけだが、やや正確には、八幡宮、氷上神社、鏡山神社という三社を合併し、「御堀神社」と改称した。その際、摂社・厳島神社を八幡宮の境内に移して四社で一つということになった(厳島神社が八幡宮の境内に移ったのは、三社合併前、みたいに読める)。
近代になって神と仏が分かたれ、寺社の統廃合が進んだことは周知のことだが、じつは藩政期にも、寺社の統廃合というか、整理が行われていた。天保十三年に「淫祠解除令」なるびっくりな名前の命令が出され、「由緒不確実な社寺堂庵等」が整理の対象となったという。
近代のそれは、神と仏を分離することから始めたからさらに複雑で、氷上山王社が氷上神社になったり、鏡山神社は元は王子権現だったりする。同じ宗派の寺院どうしは合併するとか、「非公認の神祠仏堂」を整理するとか、寺社もたいへんだったし、役場もたいへんだった。
何やともあれ、神様は勧請して分けるのも、合祀するのも自由自在なので、かつての四社はこうして、現在の御堀神社となったのだった。(以上、参照:『大内村史』、『山口県神社誌』)
御堀神社・みどころ
「神殿と弊殿とは八幡宮のもの、拝殿は氷上神社のもの、倉庫は鏡山神社のものを用いた。鳥居は厳島神社の宝永七年のもの、手水鉢は氷上山山王社のもの」と書かれているから、大内氏に関係するのは「手水鉢」ということに。
手水鉢
いきなり手水鉢から始まるみどころもびっくりだが、これは郷土史の先生にお伺いした紛れもないホンモノで、ちゃんと氷上山山王社云々と刻してある。
もっとも、藩政時代とて、社殿の再建などをしてもらっていたのだから、この手水鉢が大内氏時代からのものなのかどうか、って思うけど、そうならばいちいち由緒看板に書かれていないはず。興隆寺のところで、現在は別の場所に移された建造物として、山王社は御堀神社へ、ってあったけど、まさか、手水鉢のこと? まさか。
ところで、現在氷上山山王社跡地に行くと、詳しい由来看板があって、そこには山王社が氷上神社となり、さらにほかの神社と合併して御堀神社に云々についても書かれているが、そこには手水鉢が「二基」あって、現在も見ることができる、と書かれていた。ということは、これ以外にも手水鉢が……。
水道管がついていることから、現役の手水鉢と思われるが、現状これ以外には候補がない。二つ目は果たしてこれなのか? 再訪して確認せねばならなくなった……(何やら文字が書かれているが、写真からは不鮮明で読むことができない)。⇒ 関連記事:興隆寺
拝殿
拝殿は氷上神社のものを用いた。で、氷上神社は元氷上山山王社。しかし、氷上神社は神殿以外すべて明治時代の再建物。神殿も藩政期の再建物だったはず。ちょっと古そうには見えるけど、室町からのものではないのだろう。しかし、同行してくださった研究者のお姉さんがしきりとお写真を撮っておられたことが気になる。
鳥居
鳥居は厳島神社の宝永七年のものを用いた、とあるけど。上の額は「八幡宮」となっている。
御堀神社(山口市大内御堀)の所在地・行き方について
ご鎮座地 & MAP
ご鎮座地 〒753-0214 山口市大内御堀17−81
アクセス
山口駅から車に乗せていただいたので、歩き方は調査中。公共交通機関(=バス)が使えると思います。
参照文献:『山口県神社誌』、『大内村史』、由緒看板ほか。
※『大内村史』は中身が濃すぎてまだ読み込めていない状態。ほかに、郷土史の先生からたくさん資料を頂戴したり、貴重なお話を拝聴したけれど未整理状態。
御堀神社(山口市大内御堀)について:まとめ & 感想
御堀神社(山口市大内御堀)・まとめ
- もともと「大内村」にあった八幡宮、氷上神社、鏡山神社、厳島神社という四つの神社を合併してできた神社。厳島神社は、八幡宮の摂社である
- このうち、八幡宮には、江戸時代の火災によって被害を受けた八幡宮、厳島大明神、大年神社を合併したという歴史がある
- 明治時代に四社を合併した際には、それぞれの神社にあったものが使われて新たに「御堀神社」となった
- 大内氏と最もゆかりが深いのは、当然、氷上にあった氷上神社だが、これは元・氷上山山王社のこと
- 御堀神社に移された元氷上神社(=山王社)の建築物は、手水鉢であるという
- いわゆる社殿は、八幡宮(神殿、幣殿)と氷上神社(拝殿)のものを使用している
- 鳥居は厳島神社、倉庫は鏡山神社のものである
- 拝殿という最も大切な部分が氷上神社のものではないのか、と思われるかもしれないが、元氷上神社の社殿は、神殿部分が毛利氏時代、それ以外は明治時代の再建物となるので、大内文化の遺産とはいえない
氏寺・興隆寺の山王社といったら、大内文化云々を語る人々ならお目目キラキラとなること請け合い。にもかかわらず、現状は非情にも「なにひとつありません」状態です。山王社改め氷上神社となった時点で、神社は再建物となり、一部に毛利氏時代の建築が残されてはいたようですが、すでに面影は偲ぶべくもなかったでしょう。
「が」手水鉢には「氷上山山王社」の文字が刻されており、大内氏時代から続く遺物かどうかはわかりませんが、明治時代の寺社整理よりは前のもの、氷上神社が、山王社であった時代のものとなります。それゆえにたいへんに貴重であり、たかが手水鉢などと思う人はおらず、新生御堀神社において、大切にされているのです。
そんなお話をきいたところで、興隆寺がバラバラになってしまった事実に打ちひしがれた心は癒されませんけれど、たった一つの手水鉢が何やら、とてつもなく、愛しく思われたのでした。
こんな方におすすめ
- 神社巡りが好きなすべての方に
- 元氷上山のパーツを巡る旅をしている方に
オススメ度
+0.5 は手水鉢に。毛利氏時代の品っぽく思えてならないけども。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
結局、手水鉢だけがお宝なの?
いやいや、手水鉢はもちろん貴重品だけど、四つもの神社それぞれの神様、それぞれを崇拝していた人々の心を受け継いでいるのだから、この神社そのものがお宝だよ。
それよか、「パーツ巡り」って何なのよ? 俺、パーツとか聞くと集めて組み立てたくなるんだけど。
元氏寺にあったものが、現在はあちらこちらに点在しているのだ。彼らの気持ちにもなってみよ。
エラそうになんなんだよ。おや? 俺らの氏神は石清水八幡宮だよな? じゃ、氏寺って? どこなんだ!?
管領家の人たちが、自らの氏寺もわからないなんて。由緒正しい家柄なのに。
けけけっ、どーせ、俺も親父も管領なんて縁がないのよ。言っとくけど、於児丸にも関係ない。いつの間にか俺らのけものにされて、細川家独占みたいになったらしいぜ。ま、お前らのパーツ探し、俺も協力してやるよ。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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