人物説明

文化人

新介イメージ画像

大内氏の西の京やまぐち文化サロンに影響を与えた文化人のひとたちをまとめます。殉難してしまっている人がそちらに入っていたり、また、文化人に入れるべきか謎の人もいますが、いわゆる「家臣」ではない人で、特殊技能を持った人々はコチラです。

南村梅軒

有名衆および家中覚書に、御伽衆の中に有梅軒という名が見える。恐らくはこの梅軒であろう。
名不明、 離明翁と号した。土佐の人であるという。吉敷郡上宇野令白石に住んだ。
天文年間、初めて朱学をてびきした。世に南学と称したという。

義隆は朱氏新注五経を朝鮮に求めた、梅軒が誘導したのだろう。

釈雪舟 

名は等楊、備中赤浜の人、 小田氏の子である。詩に優れ、画に匠であった。 生まれつき慎みがなかった。備渓斎、米元山主、あるいは漁樵斎とも称した。十二、三歳の時、父が井山宝福寺に入れて僧とした(周南文集は列井山とする。恐らくは誤り)。雪舟は画図を好み、仏事をつとめなかったので、師匠は大いに怒り、雪舟を柱に縛り付けてしまった。日暮れ頃になって、ようやく堂に上って縄を解こうとすると、雪舟の膝下に鼠が走るのが見えた。師匠は鼠が雪舟を傷つけるのを恐れてこれを追い払ったが、まったく動かない。良く見ると、雪舟が足の親指を使い、涙で画いたものであった。その勢いはあたかも鼠が跳躍しているかのようだった。師匠はその素晴らしさに敬服し、その後は絵を描くことを戒めなかった。
壮年になって京師に上り相国寺左街僧録司洪徳の弟子となった。鹿苑院に住んで知客を勤め揚知賓となった。
如拙、周文を 師とし、その画法を極め更に新意を現した。のち相州鎌倉に赴き建長寺の玉隠永璵に従った。
寛正二年、山口に来て、吉敷郡上宇野令天花の雲畑に菴室を結び、雲谷菴と名づけてここに居住した。

雲谷菴は雪舟の開基で、これより前に雲谷と号する寺菴はない。

寛正五年十一月、将軍足利氏が西堂承勲を山口に下向させた。 管領細川勝元は 蔵主恵鳳を私使として承勲に副えた。 恵鳳は山口に来ると、雪舟を訪ね旧好を述べ、「京路曾遊揚客卿、結茆此地要終生、喜君図格出天下、児卒又知 雲谷名」と詩を詠み、 雪舟が持っていた如拙の墨本の後に「等揚海東備府人也、発其所薀之妙於図、而以越江周文為師、文乃以拙為師焉、拙之於 雲谷也三世之祖也、雲谷視此墨本、箕裘也、青氈也、宜矣珍襲云々」と跋を書き入れた。

応仁元年、海舶に乗り明に遊んだ。鄞まで行って、徐璉と交際した。四明天童寺に登り席次第一坐となった。これより後、多く四明天童第一坐であり続けた。明に入るとすぐに、当時絵画に優れていたのは李氏張氏であるときいて、その描いたものを見て言った、我が遙々明国に遊学したのは、絵画の師匠を求むるためである。今李張の功績を見たところ、学ぶ価値はない。ところが、この二氏を名人と推すのならば、他に師とすべき人はいない。ただ 明国には名勝の地が多い。師は我に在て人に在らず、どうして他に求めるものか、と。怠ることなく熱心につとめて、図画の技は奇を成した。明国の君臣はその美しさを楽しみ、ついに勅を奉って礼部院の壁に描いた。皆はこれを栄誉なこととした。かつて人に頼まれて富士、三保、清見の三絶景を画いたが、当時の鴻儒鉄冠道人詹僖が詩を書いた。「巨嶂稜層鎮海涯、扶桑 堪作上天梯、岩寒六月常留雪、勢似青蓮直過氐、名刹雲連清建古、虚堂塵遠老禪栖、乗 風吾欲 東遊 去、特到 松原竊羽衣」。雪舟の弟子はその本を模写して帰り、世に広めた。

雪舟は三年間明に滞在したのち、成化己丑の仲夏、日本に帰ろうとしたとき、徐璉は別れを惜しみ、「家住蓬萊弱水浜、耒姿瀟灑出塵寰 、久聞詞賦超方外、賸有 丹青落世間、鷲嶺千層飛錫去、鯨波万里踏杯還、懸知別後相思処、月在中天雲在山」と詠んだ。どれほど重んじられていたかが分るだろう。

この年日本は文明元年だった。帰錫の後また山口に来て、旧籍に住んだ。老いたので雲谷菴 を弟子周徳に譲り、石見に赴き益田氏に終焉を托した。
文亀二年九月十六日、乙吉村大喜菴で寂した。 寿八十三歳。臘月のいくらかであった。

雪舟の画は師から伝えられたといっても、その妙なるところは、天性のものであって古人の事蹟を踏襲するものではなく、自ら一家を立てた。山水にもっとも優れ、人物がこれに次ぎ、花鳥がそれに続く。牛馬を善くして龍虎がこれに次いだ。
明に行って彩画法を李在に学んだとはいえ、常に水墨を好 み彩色をほどこすことは少なかった。専ら風致を尊び、ゆえに大抵意を写して形似を求めなかった。筆力は清気豪放でやや無墨の法があった。
画を描こうとするときには、やや酒に酔ったのち、尺八を吹き、あるいは詩を吟じ、歌を唱えた。筆を執ると意気揚々、龍が水を得るようで、早々に奇々として出来上がる。先輩を画中の三昧手と称するが、雪舟はその能力をほこらず、後進を育成した。
応仁年間、将軍が新殿を造営し小栗宗丹に画を描かせたが、完成せずになくなってしまった。雪舟は明におり、その仕事を継ぐ者がいなかった。雪舟が帰朝し、堺の津に宿泊すると、その家に花鳥の屏風があった。雪舟はこれを見て、美しいかな。わが友宗丹に似ている、と誰が画いたのか訪ねると、主人は公方の近臣・狩野大炊助の画いたものだと答えた。その人はを小栗宗丹に師事したという。雪舟が京に入ると、将軍は雪舟に画の制作を命じた。雪舟は、近臣中に狩野正信というものがあり、画に優れております、金殿 の画を僧に作らすべきではありません、と辞退した。そこで大炊助に命が下り、正信はこれ以後将軍に知られ、法眼の位にまでなったのだった。雪舟は晩年に及ぶまで筆力が衰えず、八十余歳の後、画いた作品は世に残っている。

釈周徳

号:惟馨、雪舟の一番弟子。師から譲られて雲谷菴第二世となり、雲谷庵主と称した。山水画墨づかいは師匠に似ている。ありのままのすがたを伝え、あたかも本物のようであり、絵画ではないかのような様式があった。

釈等薩

惟馨の弟子。号:波月。氏は弓削、大隅の人で最初、島津氏に仕えていた。秋月および周徳を師とし、花鳥山水を好んで画いた。 そのつぎが人物画。粗豪にして雄健であった。のち僧となり、周徳に従って山口に居住した。雲谷庵第三世となった。

雪舟の継承者は等薩で断絶してしまったが、画法は慶長年巻、原直治が受け継いで庵号を氏とし、容膝等顔と号して第四世と称した。子孫は今につづく。

於児丸

「方伎」というのは医術、神術、うらない等々。方士がやることすべてだよ。じゃあ、方士って何かって? 方術を行う人、道士って書いてあった(漢和辞典)。ちなみに、辞典だと「方技」になっているけど、同じ意味だね。

竹田定慶

京師の人。五世の祖を昌慶という。応安二年、明に入って医術を学んだ。永和四年、方書および銅人をたずさえて帰朝した。これより代々医を業とした。定慶は家伝に優れ法眼となった。義隆の招きに応じて山口に下向し、御伽衆につらなった。のち義長につかえた。ついで京師に帰り、名を定怡と改めたという。

竹田定詮

定慶の子。初名は定雅。法橋となる。父とともに山口に下り、義隆および義長に仕え、御伽衆につらなった。義長滅亡の後、毛利氏に仕えた。子孫は今につづく。

釈火石

魔法を修め、未来を予測することができ、怪異を語った。国難に先だち、本年八月国が乱れて、暗(やみ)夜の如くなるべしと言った。果してその予言の通りだった。義隆が法泉寺に入った時、火石もこれに付き従った。 賊軍が法泉寺に迫ると、兵士らは先を争って、門外に出て弓矢を射かけようとしたが、火石は時刻を勘(しらべ)、我より先んずべからずと制止 した。軍勢が壊滅したあと、その最後については分らない。

参考箇所:近藤清石先生『大内氏実録』巻二十四「文苑」、巻二十五「方伎」より

-人物説明