大内教幸とは?
第二十八代当主・教弘の兄、二十九代当主・政弘の伯父。応仁の乱勃発後、甥・政弘が在京中で留守だった際、分国で反旗を翻した人物として有名。
兄である教幸を差し置いて、弟の教弘が家督を継いだことについても、実はその裏では家督争いが繰り広げられていた。教弘が幕府といざこざを起こし、隠居して当主の座を幼い政弘に譲っていた間、伯父として補佐をするなど、分国内で、それなりの地位を保っていた模様。
細川勝元の遠隔地攪乱戦法に乗っかって甥から家督を奪い取ろうとしたが、その願いはかなわなかった。死亡した時期などについても、はっきりとせず、謎に包まれた人物。
大内教幸の基本データ
生没年 ?-1471.12.26(豊前馬岳で自害、42 才)
父 盛見
通称 孫太郎
法名 廣澤殿南宋道頓大禅定門
官職等 左京大夫掃部守、筑前守護代
菩提寺 広沢寺
(典拠:『大内氏実録』、『大内文化研究要覧』等)
謎に包まれた家中での身分
兄であり伯父なのか、弟であり叔父なのか?
大内教幸、出家したのちの道頓のほうが見慣れている人が多いかもしれない、は、二十八代当主・教弘の兄弟である。そこまでは間違いがない。教弘は大内盛見の子であり、教幸も父を同じくする兄弟である(一部、持盛の子とする説などもあるようだが、ここでは省略する)。
たいていの書物では、教弘の兄なのか、弟なのかということよりも、政弘の伯父なのか、叔父なのかということが取り沙汰される。さまざま見てきた限りでは、「伯父」としているものが圧倒的に多い。
「伯父」ということは、父の兄である。つまり、父よりも年上。系図では、彼らのほかに、盛持(次郎五郎)なる人物も載っているけれど、詳細は不明。少なくとも、家督継承者になれる身分ではなかったものかと。で、その系図では、教幸が兄となっている。それゆえに、政弘からみたら「伯父」で問題ない。
実はこの時代、未だ確たる決まりがあったわけではないのだが、順当にいけば、嫡男が家督を継ぐ。正妻に子がないなどの理由があれば、長子が継ぐ。無論、近世のように絶対ではないから、長男を差し置いて次男が跡を継いだところで問題はない。ただし、幕府に家督を認めてもらう必要はある。⇒ 関連記事:大内教弘
盛見と義弘の兄弟愛(?)が家督継承者を決めた
義弘が応永の乱で敗死した際、弟・盛見は分国の留守を預かっていた。兄とともに戦った弘茂は生き残って幕府に降伏し、後継者と認められて帰国。しかし、弘茂の家督継承を認めない盛見は兄弟相争い、弘茂を倒して当主の座に就く。
ただし、盛見は自らの後継者を、義弘の遺児(持世と持盛)と決めており、その意味では教弘にも教幸にも、等しく家督継承者になれる道は閉ざされていた。しかし、これまた家督の座を争った末に当主となった持世には子がなかったので、盛見の子・教弘を養子に迎えた。当主の子が跡を継ぐのは当然で、それは「養子」でも同じこと。
ならば、持世はなぜ、二人いた盛見の子のうち、教弘のほうを養子に迎えたのだろうか。そこは、本人に聞くよりほかないので、不明とするしかない。
盛見が義弘に義理立てして、兄の遺児に家督を譲ろうなどと考えなければ、当主の子である教幸もしくは教弘がその跡を継ぐのが当然である。しかし、自らの子を手にかけてまで、家督は兄の遺児に継がせる心づもりだったという伝説を生みだしたくらいなので、盛見の意思は相当に硬かったのであろう。
これで、持世に実子があれば、家督は義弘の血統に流れていくことになり、その後の歴史も変わったであろうが、何の因果か子宝に恵まれなかった。盛見がお膳立てして兄の子に譲ったはずの家督は結局、彼の子に戻って来てしまったのである。⇒ 関連記事:大内盛見
では、持世から教弘への家督継承は順当にいったのか、というと、じつはそうではなかった、というご意見がある。
教弘の家督相続と同時に起こった九州の火種の陰に
養父・持世が嘉吉の乱に巻き込まれて世を去ると、養子の教弘がその跡を継いだ。教弘は幕府からの命により、嘉吉の乱の首謀者・赤松家の討伐のために出陣する。しかし、周防から播磨は遠すぎた。討伐は彼の到着を待つまでもなく、あっけなく終了してしまったのだった。引き続き、今度は九州の火種を処理するために U ターンすることになる。⇒ 関連記事:大内持世
と、ここまでが普通に流れている通説。ところが、実はそれだけではないらしい。
養父の死、家督相続と時を同じくして起こったこの九州での騒乱。幕府からの命令は赤松家討伐に参加しなかった少弐氏に制裁を加えるというものだったが(九州は周防よりもっと遠いから、間に合うはずはないが、出陣すらしなかったのだろう)、実はこの騒ぎ、ほかにも大友家らとともに、大内教幸も加わっていたという。なにゆえ、教幸が名を連ねているのか。「家督」が絡んでいることは疑いない。
教幸からしてみたら、自分は兄なのだし、どのみち盛見の息子が家督を継ぐ状況になったのだから、おとなしく教弘が当主の座におさまるのを見ているのは面白くなかっただろう。そうでなくとも、代替わりのたびに家督争いの血の雨が降る家。そんなにすんなりとことが運ぶとも思えない。何事も起こらなかったのは、ほかに兄弟がいなかった義隆くらいなものだ(家督相続は順調でも、その後燻ぶったケースも数えている)。
けれども、意外にも弘幸の一件は、その後の応仁の乱の騒ぎに搔き消されてあまり知られていない。
中途半端に終わった争いとその後の教幸
普通、家督相続の争いはどちらかが倒されるまで続くが、教幸の場合九州の騒ぎが鎮圧された時点で諦めたようだ。もしも、なおも抵抗を続けていたら、それこそ教弘が放置しておかなかったはず。しかし、一度は反旗を翻した人物と、その後は友好的に過ごせたとも思えず、このあたり、本当に謎に満ちている。
書物によっては、政弘の「叔父」としたり、教弘の家督継承には何ら反対意見がなかったことになっている(というより、書かれているのを見るケースが稀)。少なくとも、誰もが知っている応仁の乱での叛乱までは、教幸はおとなしく当主の兄、のち伯父として過ごしていたことになる。これは、教幸・教弘兄弟の間に争いがあったと説いておられる先生のご研究でも同じ。教弘は反骨精神旺盛な人で、しばしば幕府と衝突したが、そのせいで、幕府から当主の座を嫡男の亀童丸に譲り、隠居させられるようなこともあった。そんな時に、表向き幼い当主の後見のような役割を果たしたのが教幸だったという。さらに、対外貿易の窓口として極めて重要な、筑前守護代も任されていた。
兄弟仲が最悪ならば、そんなことはできるはずもない。しかし、家督を争った者どうしが、すんなりと和解するとは到底思えないので、このあたりが謎で仕方ないのである。これまた、本人たちにきいてみるほかないので、何とも言えず、とてももどかしい。
教弘の死後、政弘が家督を継ぐと、続けざまに応仁の乱へと突入していく。留守居役の教幸は、先代当主の兄、現当主の伯父として、これ以上ないほどの尊い身分。「長老」のような役割を果たし、当主不在の分国を束ねていたようだ。
長年の夢が現実に!?
弟から奪えなかった家督を甥から奪う
応仁の乱は、細川勝元を総帥とする東軍優位に運んでいたが、対する西軍総帥の山名宗全が孫(母が宗全の養女で山名家の女性)でもある政弘を味方に誘ったことで風向きが変わる。二万もの軍勢を率い、向かうところ敵なしで上洛を果たした大内軍の加入により、西軍がいきなりパワーアップしてしまったからだ。
とはいえ、そこで一挙に勝敗をきめるほどには至らず、却って戦乱を長引かせるだけになってしまう。東西両軍はほぼ互角で、戦闘は膠着状態に陥ってしまった。その潮目を変えたのが、細川勝元が採用した遠隔地攪乱戦法(これ、受験参考書にも載ってます)だった。在京している西軍諸将の留守分国にいる不満分子を焚き付け、味方に引き入れるという作戦である。
分国で不満分子の叛乱を起こさせ、戦闘を中止して帰国せざるを得なくするか、あわよくば、分国を乗っ取らせて東軍勢力にしてしまう。自らは手を汚さずに、都にいながらにして、諸国を混乱の渦に陥れる。敵ながらあっぱれというか、なんとも狡猾なやり口だ。逆に言うと、どこの国にも、不満分子は存在し、美味そうな果実を与えればいくらでもくらいついてくる状態だったともいえる。
教幸のもとにも勝元からの誘いがあった。そして、彼は二つ返事でその誘いに乗った。あるいは、もとよりその機会をうかがっていたのかもしれない。しかし、仕損じれば我が身が危ういから、慎重を期さねばならない。そんなところに、管領さまからのお誘いがあった。『大内氏実録』には「筑前守護代仁保加賀守盛安に誘はれ」とある。管領からの誘いは、仁保盛安を通してだったのかも知れない。また、盛安は「筑前守護代」とあるから、この時点で、教幸は守護代の任を解かれていたのだろうか。
東軍に就けば大内の家督は当然、教幸のものと認められる。おおやけの機関から認められてもらえれば、鬼に金棒ではないか。元より弟に持っていかれた家督を、甥の代に奪い返す。かなり寄り道はしてしまったが、教幸にとってこれほど有難い誘いはなかった。
将軍さまのお墨付きの威力
管領からの誘いの効果は絶大だった。何しろ、将軍と朝廷を掌中におさめている東軍は、「正統」なのである。西軍のほうも、将軍の弟・足利義視を将軍とし、東軍とは別に管領職も置くなど、いちおう「幕府」の形式をとっていたが、戦闘に勝利しない限りはこれらはすべてまがい物にすぎない。何やら、南北朝の再来をみているようだが、こちらは二人の天皇と二つの朝廷ではなく、二人の将軍とふたつの幕府であった。教幸は東軍から大内家の家督を認められた。守護職については今ちょっと確認ができないが、左京大夫には叙任されている。元より「正統」な家督保持者である政弘が、西軍において認められていたものすべてを、教幸も東軍に認められたのではないかと思われる。だとしたら、左京大夫にとどまらず守護職も得た、大内家の当主となる。
どう考えても、教幸はただの簒奪者であったが、将軍・義政のお墨付きがあるということは、彼こそが正統ということになる。これはただ事ではなかった。普通に考えれば、簒奪者は成敗されてしかるべき存在であるにもかかわらず、在国していた家臣らは重臣まで含めて教幸に味方した者がいた。在国中に教幸に味方した者たちの身内などで、在京して政弘とともに戦っていた者の中にも、帰国して教幸に味方する者が出たほどだった。
このような事例が他の国でも発生したであろうから、在京・在国を問わず、家臣らは酷く動揺し、西軍諸将の留守分国は不穏な空気に包まれた。これでは、士気もだだ下がりである。またしても、大乱は東軍優勢となった。ただし、これまた、決定打にはならなかったのだが。
意外な伏兵
教幸は赤間関で反政弘の兵を挙げた。将軍&管領の後ろ盾を得た上、一部重臣も含め家臣らの取り込みにも成功し、また、九州はじめ周辺諸国の者たちからも援助を取り付けた。かなり周到な準備をした上での挙兵だったと思われる。それこそ、向かうところ敵なしと自負していたかもしれない。
「十一月八日、備後に合力の事を勝元の申沙汰せしを以て兵を藝州廿日市に出し、十二月自ら之に赴く」(『実録』)とあるから、管領との間でも、詳細な取り決めがなされ、進軍ルートまで決まっていたと見受けられる。
ところが……。留守分国には、護国の神・摩利支天の化身、我らが陶弘護がいた。⇒ 関連記事:陶弘護
弘護は父・弘房を相国寺の戦いで亡くしている。忠義の家臣の遺児として、父に劣らぬ活躍をと主君に期待され、「弘」の一字を賜った。父を見送った時の、我が家を、我が主を守れという父の遺志を胸に深く刻み込んでいた。分家とはいえ、主の一門として、家格は高い。幼いながら、重臣の一角を占めていた。しかし、わずかに十五歳(数えなので十四歳)。
まさか、こんな子どもに行く手を阻まれることになろうとは、さすがの教幸も夢にも思わなかっただろう。
弘護が教幸を完膚なきまでに叩きのめした戦いを「鞍掛文明合戦」(参照:『玖珂町誌』)という。これはのちに、毛利元就が防長経略を行った時の鞍掛山の合戦と区別するための呼び方である。
教幸蜂起の流れ
- 文明二年(1470) 赤間関で挙兵
- 安芸まで進軍
- 鞍懸山で弘護に敗北、安芸 ⇒ 石見へと逃走
- 石見の国人・吉見信頼に援助を請う
- 吉見軍とともに、賀年(阿武郡阿東町)に出陣、弘護に敗北して壊滅
- 周防、安芸、石見、長門、豊前と敗北・逃亡を続ける
- 文明三年(1471)豊前馬岳で自害
見果てぬ夢
馬岳に死す
教幸は与党の石見・吉見氏とともに何度も邪魔立てする小僧を片付けようとしたが、どうにも相手が悪かった。結局、惨敗を重ねるだけで、何度挑戦しても弘護を破ることはできなかった。
弘護の活躍で教幸が倒されると、都にいた政弘も人心地がついた。教幸と呼応して東軍に寝返った者たちも、教幸同様、旗色が悪くなって逃走するほかなくなり、細川勝元の「策」とやらも、周防国ではまったく成果をあげることはできなかった。
主に反旗を翻して敗れた者の末路は悲惨である。形勢不利と見た教幸はいったん、九州に逃れたが、なおも敗北を重ね、最後は豊前の馬岳というところで自ら命を絶ったという。文明三年(1471)のことである。
実は生きていた説
教幸の死については、諸説あり、じつはこの後しばらく生存していたという説もある。それが本当だったとしても、もはや家督簒奪の陰謀を企てる力は残されていなかったろう。
馬岳で亡くならなかったのなら、いつ、どこで亡くなったのか。それはわからない。
わかっているのは、教幸の菩提寺が廣澤寺である、ということだけ。廣澤寺は現在も存続しているが、寺地は移転しており、教幸が葬られた当時の面影を偲ぶことはできない。⇒ 関連記事:広沢寺
なお、教幸の子・加嘉丸は逃走に成功し、宇佐(現宇佐市麻生)で山口氏を名乗り、ご子孫は現在にも続いているという(参照:『大内文化研究要覧』)
参照文献:新編大内氏系図、各種通史、受験参考書、『大内文化研究要覧』、『大内氏実録』、『玖珂町史』、『中世日朝関係と大内氏』