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龍泉寺(山口市前町)

2023年11月17日

龍泉寺・入口

山口県山口市前町の龍泉寺とは?

湯田温泉駅に近い浄土真宗寺院です。元は真言宗で、弘法大師にまつわる逸話が残されています。大師が遣唐使から帰国した際、大内氏の元に勢至菩薩の尊像を残していったとされ、海難から守ってくれる霊験あらたかな尊像として、広く信仰されていた模様です。

大内義興期に、尊像が老僧に姿を変えて現われ、義興の病を治したという言い伝えもあります。老僧の行方を探していた義興が、尊像とともに、湧き出る温泉を見付け、掘らせたところさまざまな病に効いたとか。地理的に見て、湯田温泉の縁起のひとつと思われます。

毛利氏の時代となり、寺院は何時の頃にか浄土真宗に改宗され、輝元夫人・清光院に篤く信仰されました。

龍泉寺・基本情報

所在地 〒753-0057 山口市前町10−31
山号・寺号・本尊 温湯山・龍泉寺
宗派 浄土真宗

龍泉寺・歴史

『山口県寺院沿革史』にはおよそつぎのようなことが書かれています(原文は文語文でしかも、かなりの長文なので、分割した上で今風に要約してます。引用もしくは現代語訳というよりは、『この本を読んで学んだこと』とでもすべき感じになったので、引用符はつけません。そのかわり、『学んだこと』があらぬ方向にズレていたりした場合はすみません)。

往古は真言宗であり、草庵を結んでいた。その開基と年代などは不詳である。真言宗時代から数えて三十九世にあたる一永法師が浄土真宗に改宗した。その年代は分らないが、弘治・永禄の頃であろうか。その後、年代不明だが、二度の火災に遭って、詳細な寺記は知られていない。けれども、代々続いて現在に至るまで栄えている。

弘法大師とゆかりの尊像

桓武天皇の御代。延暦二十三年、薄原賀能(※何度も原文を確認したけど、字は原文のママ。人名と思われるけど、何者なのかさっぱり不明)遣唐使の時、弘法大師は賀能に従って渡唐。大同元年、仏像や経論を持って帰朝した。大内氏は大師を敬い、山口の南、朝倉市の辺りにお住まいを造り、留まってもらおうとした。けれども、大師はわずかに一ヶ月ばかりの逗留で都に戻ってしまった。別れに望み、大内氏は大師に、鉄製三寸大の勢至菩薩の尊像をこの地に残し、永く大内氏の武運長久子孫繁栄をお守りくださいと頼んだ。

弘法大師が帰国する途中、海上で悪龍が波を起し、船が既に危うくなった時、渡海安全の加持を行うと、住吉明神が現われたので、その本地を拝もうと祈ると、大勢至菩薩のお姿が現われた。大師が菩薩のお姿を船中にて写し申し上げると、風は静かになり、波は穏やかになったという。

そのような由来がある尊像だったが、大内氏の申し出によってこの地に残したのである。一度でもその尊像を拝んだ人で、風波の難を逃れた例は甚だ多かった。

弘法大師上洛から、三十三年経った仁明天皇の承和五年の秋、小栗栖の開基・常暁阿闍梨が入唐して帰朝した折、大師の跡を慕い、朝倉市の一宇に一年もご逗留になった。大内氏は朝倉八幡宮の神護寺とお慕い申し上げたという。

流れ公方と栴檀の故事

後土御門天皇の御宇、明応二年の夏、第十代の将軍義稙は河内正覚寺で細川政元と合戦して敗れてしまった。西国目指して下り、摂津国・難波の浦に出て九州松浦へ帰る船に便乗した。菅丞相の古を思いやり、一栄一落は人間の習いと思召し旅懐の一首を詠む。
 蜑たにも事問ひこなん旅衣 須磨の恨みに盬たるる身を

太夫敦盛の旧跡・一の谷の古戦場などを行き過ぎて行くと、俄かに空が掻き曇り風雨が激しくなって、波が船を覆すのではないかと思われるほどだった。暫くして風波が静まったので、眠りにつくと、夢なのか現なのかも定かではないが、八十歳ほどの老翁が現われた。杖にすがりながら、「目的もないまま下向しているとは、なんともお痛ましいことです。宿をお貸ししましょう」と、栴檀の大木の枝葉が茂った木蔭に将軍を連れて行った。老翁は「この木蔭を頼み西風を凌げば、成行世の末は四海九州までもお心のままとなりましょう」と言う。将軍は驚いて、何者か、と問うと、「吾は西国の道案内のため、西の海・檍ヶ原より現われた者なり」 と答えて、ふっと消えてしまった。栴檀の枝葉は茂り、六十余州を掩うほどとご覧になり、いにしえ後醍醐天皇は木の南という夢を見られて楠正成を得、北条氏を追伐したという例を思った。栴檀の木にはおおちの木という別名があり、文字に書くと字は違うけれども、今この木の木陰に宿ると夢に見たのは、住吉明神が大内義興を頼れとお告げになったのだ、と大いに悦び、西国目指して下って行った。

明石の浦では、太夫人丸の古蹟を見て、島あり船あり此人なしと朗詠すると、心の内も晴れた。昔、伊周が「明石の浦も甲斐なかりけり」と詠んだいう故事を思い出されて一首。
 明石の浦のかひもなし、涙に曇る月の光りは
厳島明神の前を通る時、東北の方角に白浜が見えたので、ここはどこかと尋ねると有浦と答えたので、一首。
 我が頼む神の恵の有の浦、有し都に帰れ白浪

周防の国に入り、防府多々良浜に着く。里人に尋ねると都浜ともいうと教えられた。
 濱の名の都忘れぬ夕暮れに立つ浦浪も泣音そふらん
と詠んだ(注・『夕暮れ』のところ、『夕』の後が□□となっています。『陰徳太平記』にも同じ逸話が載っていたのでそれを借りて埋めておきました)。

鞠府の浦に着くと、「四本こそあるべきものをいづれは摩利府の浦の松の村立」という歌があって、また、万葉集に「大船に枻ふり立てて濱清き」と詠まれたのもここであると教えられた。こうして、三田尻へと歩を進め、永世四十(注・原文のママです。正しくは永正四年と思います……) 卯年十一月二十六日まで十五年の間、山口吉敷の館に滞在された。
(参照:『陰徳太平記』)

義興公の花形の硯

この時、大内義興公は病にかかり、肘が痺れて全身が不自由になっておられた。例の勢至菩薩が、八十歳の老僧の姿となって現われ、築山の御殿まで来て義興公に向かい、病を治して差し上げましょうと言った。義興公は怪しみながらも、治療を受けると、この老僧は袖の中から小さな壺を取り出した。壺の中の香水で肘を洗うと、忽ちに痺れがおさまった。義興公は喜び、財宝等を以て感謝の意を示そうとしたが、老僧はそれらを受け取らず、ただ、義興公が常に愛でておいでの花形の硯を所望した。義興公が「貴僧は何れに住まいする人か」と問うと、老僧は「温湯龍泉寺の地に住んでおります」と言い終えて去って行ったが、どこに行ったのかは分らなかった。

義興公は褒めたたえて言った。

 長老徳行千古稀 弊衣莫論大丈夫
 心裏獨安天外仁 自汲香水意無事

防長筑備芸石の七州に命じて温湯龍泉寺という寺院の所在地を尋ねさせたが、分らなかった。しかし、朝倉市の辺りから、彼の地の老松が、毎朝不思議な烟霧に覆われており、前代未聞の怪事であるという訴えがあった。義興公はそれを聞いて、自ら足を運んで様子を窺うと、築山舘で老僧に与えた花形の硯が、大勢至菩薩の尊像の背後にあった。庵主を呼んで尊像の由来を聞くと、深く感じ入り、肝に銘じたのだった。傍にある小さな池を見ると、烟霧の気があった。自ら手を下して水を掬うと、温泉が湧出たので、そこを掘らせた。この温泉は、様々な病を癒やすということである。

将軍義植公も、彼の西の海檍ヶ原のお告げを思い起こし、深くこの尊像の由来霊験を感じた。御剣と願書を捧げ、 天下太平国家安全五穀成就武運長久寿命延長子孫繁栄を祈り、義興公と共に上洛して終に諸願満足して将軍職に返り咲いた。大永五年、温湯山龍泉寺と勅願を下し、寺領五百石、境内五町余を寄附して、この大勢至菩薩を当寺の鎮守とした。この時、陶、杉、田藤、厚東、問田、鷲頭等の諸家が、おのおのの祈願所に定めた。そんなわけで、義興公が大檀越となり、七堂伽藍を建立したのだった。

享祿元年、義興公は五十二才にして逝去なさり、凌雲院殿京兆防長豊筑備芸石七州大守傑叟義秀大居士と号した。

阿闍梨一永法師

にもかかわらず、天文二十年十月十九日、築山落城の兵火によって本堂庫裡そのほか、諸堂は残らず焼失してしまった。二度の火災によって滅亡の憂き目にあったとはいえ旧跡であるから、当時三十九世の住職だった、豊後の阿闍梨・一永法師は、また小堂を造って復興した。

将軍秀吉公が高麗(※原文のママ)御出陣の時も、船中安全武運長久の御祈りに御代参があった。また、藤原中村、朝鮮彼寧府へ渡船の時も渡海安全の事をこの尊像に祈ったから、一品親王の堅額寄附があった。

当寺が山口十境の一境内になっていることは明朝の趙可庸の詩に載っており、明らかである(注・『温泉春色』に関係してんの?)。

その後、御当家様へ移遊した。宗瑞様の御参詣があって、当寺を武州江戸へ分流したので、江戸務めの真宗の人々は江戸龍泉寺門徒を頼みにするように、とされた。清光院殿は寺主一永を召して御聴聞なさった。感激の余り金欄の五條袈裟を下賜し、その後も一永を召して御勤めがあり、浄土真宗に改派した。毎年十一月二十七日の報恩講の初夜に御參詣があった。御紋付、御提灯、式帳の寄附があり、修復を加えながら、現在まで伝えられている。元の正門ならびに、鎮守堂の御紋付鬼板は寺院からの求めによるもので、現在もある。寛永八年六月二十日にご逝去なさった。寺主一永が御焼香を勤めたから、御位牌と御殿の御持仏壇の御布教等を当寺にお納めになり、現在もある。また、四十九日の追善を当寺にて御勤めしたから、多くの僧が集った集会堂という古跡も境内にある。

そのほか、数品の御寄附物は当寺の什宝として残っている。また、彼の尊像のご利益はたびたびあった。中古延宝年間、この尊像を信仰していた者が南海で、船二十余が壊れる被害に遭った時、法師が尊像を修復するために上洛する途上、備後国鞆の沖で船が難破した時、そのようなことがあっても、この尊像をお乗せした船は安全だった。尊像のご利益は現在も著しいという。(参照:『山口県寺院沿革史』)

明治維新前七卿落

元治元年四月二十五日、錦小路頼德卿は赤間関にて客死なさった。毛利敬親公父子が喪主となり、当寺院において、葬儀を執り行った。同じ年の八月四日、五卿が再度湯田に来た時、四條、東久世のお二方は当寺に居住なさり、十一月十五日まで滞在した。(参照:『趣味の山口』)

本堂は寛保四年(今より二百二十五年前※この本が書かれた『今』は、昭和初期)の建立。時の住持は第五世・瑞雲師代。庫裡は本堂と同時に造営されたのだろうか。年代は不明である。鐘楼は第十世・瑞然師の時、権現の拝殿だった。かつて、殺人犯が拝殿の下に隠れ潜んでいて、捕らえられた時に切腹した。この件があったことから、不浄であるとして、瑞然師が鐘楼とした。山門は大内義興公別荘の裏門だったという。
(参照:『山口県寺院沿革史』)

附・寺宝「制札」

「制札」というのは、今風に言うと、掲示板みたいなものでしょうか。こういうことをしてはいけない、などと書いて人目につくところに貼り出していたもののことを言うようです。ちょこっと検索するとすぐ出てきます。

以下の「禁制」は『沿革史』から持って来たものですが、ほかの史料などにもあるかもしれません。大永年間に出されていますので、凌雲寺さま(義興公)の代のこと。上に出てきた寺院の縁起のようなことがあり、病の治療をしてくれた寺院さまに感謝して深く信仰していたという証のようにも思えます。尊像がお坊さんに姿を変えて現われるなんてことは、科学的に考えてあり得ないことですが、時は中世です。にしても、できすぎた話なので、信用はできません。ただ、寺院が信仰されていたことは本当であり、寺院関係者によって何らかの医療行為が行なわれ、結果的に治癒したようなことはあったかも知れません。

制札 禁制
御湯山龍泉寺 境内
一、竹木採用之事
一、殺生之事
一、牛馬放飼之事
右條々堅固被制止候事若有違犯之族間 嚴科者也仍下知如件
大永五西二月
右馬頭 五郎 掃郁頭
沙弥 下野守 越前守 伯耆守

出典:『山口県寺院沿革史』38ページ

さて、『趣味の山口』によれば、この「大永五年の制札」では、「温湯山龍泉寺」と書いてあるのに、弘治四年に毛利隆元が出した裁許状だと「湯田温泉寺」となっているそうです(そっちは、寺院さまの『寺宝』として保管されていないんですね)。そのことについて「元と溫泉寺と云ひしを、山號と寺號に分ちて溫湯山龍泉寺としたのであらう」(同書)となっております。これ以上ないくらい、分りやすく、かつ実はこういう例今までも大量にあったよね、という説得力あるご指摘です。ですが、毛利隆元のほうが、大内氏の時代より新しいわけで、隆元さんを遡る大内氏時代の「禁制」で「温湯山龍泉寺」になっているのに、隆元期に温泉寺に戻っているという矛盾。これは、どういうことなんでしょうか。いきなり「昔の名前で出ています」的裁許状を書いてしまわれたのですかね。どうでもいいことですが、謎です。(参照:『山口県寺院沿革史』、『趣味の山口』)

「寺伝」と真実

さて、ずいぶんとご大層な御由緒に驚かされますが、これらはいわゆる「寺伝」でして、神話伝説に類するものです。流れ公方の逸話、時代が新しめですし、凌雲寺さまの別荘の裏門とか、聞くだにドキドキいたしますが。そういうものを「歴史」の項目に書いてしまってよいのだろうか、と思われたので、補足しておきます。

『趣味の山口』というご本にも、この寺院さまについてご説明がありまして、これらの「寺伝」について、特に弘法大師帰国の時に建立(大師が建てたわけではなく、大内氏が大師のために建てた庵のことかと)については、何ひとつ確証がない、としておられます。そりゃそうでしょう……。そもそも、原文見ていると、「大内氏の館まで帰ってきた」の如くなっていて、そもそも、通りすがりではなくして、最初からお互いに知り合いで、ゆえに、「帰ってきた」みたいに読めたんですが、怪しすぎるので上述のようにぼかしたのです。それはいいとして、流れ公方の逸話も、実は『陰徳太平記』のそれとそっくりで、事実に基づいて書かれていれば、歴史なんて誰が書いても同じになるわけですが、恐らくは何らかの「原型」となる書物なり、当時の「歴史書」なりがあって、両者ともどもにそれを引っ張ってきているとしか思えません。

物語的には当然のことながら、『陰徳太平記』のほうが遙かに面白く、分量も三倍はあります。さらに、「寺伝」のほうはチンプンカンプンなところがありまして、『陰徳太平記』のお陰でやっと意味が通じたりしました。にもかかわらず、凌雲寺さまが病を治すくだりは分りやすい上に「寺伝」オリジナルみたいでして、ここだけ書けばいいやん、と思われます。

でもって、大内氏滅亡後の記述なんですが、近世はよく分らないというか全く知りませんので、頭空っぽでなんのことやらさっぱりわかりません。「御当家」ってのは毛利家のことだろうと思いますが違っていたらごめんなさい。宗瑞というのは、福原広俊の法名(福原広俊さんって同姓同名が大量においでみたいで。毛利家のことはさっぱり分らないので、分る方にお任せします)、清光院は毛利輝元の妻のようですが、フリー百科事典のお世話にならないと分らないので、すみません。で、『趣味の山口』によればですね、一永というご住職の時に浄土真宗に改宗された、ということ以外「寺伝」には真実がほとんどないみたいに書かれており、まあ、寺社の御由緒は専門家から見たらどうせそうなっちゃうよね、という感じでございます。

なお、『寺院沿革史』は、作者の可児先生が県内の寺院さまにお願いして山のような御由緒を集めて整理された途方もない大作なんですが、寺院さまによってご対応が違うようでして、何の御由緒も送って来ないばかりか、先生の申し出を無視したようなケースもあったようです。また、「寺伝」についても、そのまますべてを送って来る寺院さまもあれば、要約文だったりとか、もしくはその当時のご住職が、それこそ、これらの寺伝は眉唾と感じられたとしたら、史料的裏付けがない部分については送れないということで、事実だけ箇条書きとかもあったかもしれません。なので、寺院さまの規模や伝えられている御由緒の長短にかかわらず、項目は長文だったり、何も書かれていなかったりすることが特徴です。

まあ、「寺伝」はたとえ史実的に考えてあり得ないことであっても、伝えられた通りに公開くださるのが興味深いし、現代の科学的に見て怪しいことでも、それはそれでかまわないという思いです。

で、『趣味の山口』にはあって、『寺院沿革史』には書かれていなかったこともございますしたので、わずかばかり補足しておいたのが、いわゆる七卿都落ちみたいなやつに関してです。ここまで来ると、さすがに記録もきちんと残っているはずですので、史実と思いますが、書いている人には弘法大師よりさらに分らないという……。

と、ここまで書いてきて気付いたのですが、そもそも、この寺院さまは「二度の火災に遭って、詳細な寺記は知られていない」と冒頭に但書があるではないですか。にしては、ずいぶんと長すぎる「寺伝」があるじゃないか、ってことになりますが。要は、火災に遭う以前のことは眉唾、以後のことはそれなり「寺伝」的脚色があるにせよ、史実に合致する部分もあって、多少は信頼に足ると。

しかし、こちらの寺伝で最も興味深いのは言うまでもなく、義興公の病平癒の話です。これを信じるならば、そもそも、弘法大師由来の尊像も真実だとしなければならず、『趣味の山口』を編纂された先生方には笑われてしまいそうです。何事も信じる者は救われますので、寺院さまのご由緒どおりだと考えて参拝すればよろしいかと。そうなると、尊像はどこにあるんだろう、かつて義興公の硯はどこにあったんだろう、とか色々気になりますが、寺宝はそうやすやすと目にすることはできないものです。貴重なのは伝承そのもの、と思います。

龍泉寺・みどころ

何やら一瞬教会のようにも見える伽藍です。レトロな洋館というか、モダンな寺院というか……。いつの時代にかような趣になったのか、ぜひとも知りたいのですが……。弘法大師、流れ公方、凌雲寺さまから明治維新の時代まで、すさまじいご由緒をもつ寺院さまでありながら、何も主張しておられないところに奥ゆかしさを感じました。

でもよく見ると、ちゃんと大内菱があるんですよね。見付けられるかな?

『沿革史』によると、当時の寺宝として、鉄躰三寸大の大勢至菩薩(弘法大師が帰朝の際に残していったもの)、花形の硯(大内義興公の所持品だったもの)、鉄鉢、匙、制札があるとか。硯が見たい……と思いますが、無理でしょう。そもそも、ご本が書かれたのは、昭和初期のことなので、その後は博物館などへ移されたかもしれません。ですが、聞いたこともないので、文化財認定されて博物館にあることは、ちょっと考えにくいですね。

寺号碑

龍泉寺・寺号碑

寺号碑はいたって普通です。しかし、「山」以外は「湯」が辛うじて読めるだけです。観光客の教養のなさが露呈しますね。

本堂の大内菱

龍泉寺・大内菱

これ……本堂ですよね? 三階建ての洋館のようにしか見えないのですが、屋根は瓦だし、下にチラ見えてるのは、明らかに山号額と見受けられるし。切支丹仏教習合しちゃった教会建築式寺院本堂にしか見えない……。

鐘楼

龍泉寺・鐘楼

これがなければ、完全にお洒落な洋館にしか見えない寺院さまなのですが、鐘楼を見てあああ、やっぱりお寺だった……と安心しました。しかし、この鐘楼には、じつはちょっと恐ろしい曰くがございまして(上の御由緒に書きました)。

この鐘楼はかつての「拝殿」です。拝殿なんて呼ぶところからして、神仏習合してるけど。年代が書いていないので、何時のことなのかわからないものの、あるとき、犯罪を犯した犯人がここに隠れ潜んでいて捕まった云々。「不浄」ということで、寺院さまは元「拝殿」を鐘楼に造り替えたのです。ゆえに、鐘楼前には「本堂再建」の石碑があります。

龍泉寺(山口市前町)の所在地・行き方について

所在地 & MAP 

所在地 〒753-0057 山口市前町10−31

アクセス

最寄り駅は JR 山口線・湯田温泉駅です。さすがにここまで来ると、山口駅と湯田温泉駅のちょうど真ん中辺りに云々とは言えませんね。山口駅から歩いてしまいましたが。要するに、ここら辺、すべて「徒歩圏」なんです。何となく歩いているといつの間にか着いているという……。

こんなご案内ではとても、皆さまのお役には立てませんが、タクシーで行くというのも奇怪な感じですし、オススメはできません。問題は市街地にありますので、やや見付けにくいです。なので、スマートフォンのナビは必須です。「目的地に到着しました!」という大音量のアナウンスが恥ずかしいような場所にございますし、歩きながら操作することはたいへん危険ゆえ絶対に慎んでいただきたいのですが、ナビなしでは、「通り過ぎて」しまう可能性が大きいです。

ご覧の通りの伽藍ですので、ナビを確認し、境内に入ってもなお、信用できませんでした(寺号碑達筆すぎて読めないし……)。恐らくここは、教会だろう、ナビがまた嘘をついているんだな、とか思いましたので。鐘楼を見た瞬間に漸くビンゴと思った次第です。街中の寺院さまはほとんどがこのような感じでして、地元の方々の居住空間の中に埋もれてしまっています。道自体は分りやすく、歩いて行きやすいのですが。

参考文献:『山口県寺院沿革史』、『趣味の山口』、『陰徳太平記』

龍泉寺(山口市前町)について:まとめ & 感想

龍泉寺(山口市前町)・まとめ

  1. 元は真言宗寺院で、草庵があったらしい。しかし、いつの時代、誰による創建なのかなどは不明である
  2. 言い伝えによれば、弘法大師が遣唐使船で唐に行って帰国した際、大内氏のために大勢至菩薩の像をこの地に残していった
  3. この尊像は、弘法大師が帰国する船の中で、悪龍が起こした嵐に遭ってあわや遭難という際に、救ってくれたという霊験あらたかなものである
  4. 流れ公方・足利義稙は、西国に逃れる途中、栴檀の木(=おおちの木=大内)を頼れというお告げを聞いて、大内義興を頼った
  5. その頃、大内義興は病に悩まされていたが、ひとりの老僧がやって来て、その病を治してくれた。金銀財宝のかわりに、義興愛用の硯を所望して去って行った。手を尽して探したがその行方はわからなかった
  6. かつて、弘法大師が一時逗留したという草庵のあった辺りに、不思議な烟霧が立ち上っていると聞き、義興が様子を見に行くと、そこには大勢至菩薩の尊像と老僧に与えたはずの硯があった
  7. 義興は尊像の謂れに感じ入り、また、その烟霧の出ているところを掘らせると、温泉が湧き出した。さまざまな病に効果がある温泉だった
  8. 将軍と義興とはともに感激し、尊像に祈ると将軍復職の願いも成就したから、温湯山・龍泉寺と勅願を下し、七堂伽藍を建てて敬った
  9. 大内氏が滅亡し、毛利氏の時代になると、寺院は二度の火災によって記録も失われるなどした。しかし、一永法師の代に浄土真宗に改宗し、輝元夫人はことに当寺院を深く信仰した
  10. 明治維新前、七卿落ちの際、二人の公卿の宿舎となった

うはぁ。何なんでしょうか、このものすごい寺院さま。弘法大師、流れ公方、凌雲寺さま、清光院殿、明治維新とさらに湯田温泉の起源まであれやこれやと関わりあり過ぎて破裂してしまいます。ただ、どうやら弘法大師は古すぎる上に証明できる典拠もなく、流れ公方の話は大勢至菩薩と何の関係があるのか不明ですし(だって、住吉の神のお告げだったんじゃないの?)、メインは恐らく、義興公の病を治した逸話と、湯田温泉を掘り当てた、ってことかな、と。ただし、義興公の病を治したという由緒をもつ寺院はほかにもあり(長寿寺とか)、湯田温泉の縁起は狐が浸かってたことから、ともきいています(熊野神社)。まあ、色々あって、すべて興味深いということで。

浄土真宗になった以降、毛利家時代の話は、言い伝えというよりも、史実でしょう(多分)。ですので、物語的な面白さには欠けますが、信用に足るかと。そういえば、この毛利輝元夫人はほかのところでもお名前をお見かけした記憶があり、やはり、どこかの寺院を浄土真宗に変えてしまった気がする(うろ覚え)。寺院の宗派って、そんなに思いつきで変えることができるものなのでしょうか? ほかにもあれこれと改宗されて存続とかありますが。自らも実家の宗派が気にくわないので、別のところに変えたいと思って久しいのですが、信心深い知人に相談したところ「絶対にダメ」と強く言われてしまったんですが……。どうでもいいや。

ご覧の通りの伽藍ですので、境内に足を踏み入れると、かなり不思議な境地に至ります。どうしてこんな風な教会みたいなフォルムをしておられるのか、お伺いしてみたくて本堂の階段上るところまで行ったのですが、まだ朝の七時前だったゆえ、当たり前ですが寺院のお勤めのお時間には早過ぎることに気が付きました。

ちなみに、こちらの寺院さまを拝観した理由は当然、凌雲寺さまの病気平癒についての言い伝えを知っていたからです。そしたら、いきなり間違えて教会に着いてしまったと思い、あららら、となりました。鐘楼に気付かなかったら、そのまま後にしていたと思います。だって、入り口の寺号碑読めない無教養な人種なので。

こんな無礼なことばかり考えるのは自分だけだろうと思い、市内在住の知人に尋ねたところ、やはり、建物が変ってる寺院さまだよね、というような感想が返ってきましたので、ちょっとだけ安心しました。未だに何か重大なものを見落としているような気がしてなりませんが、レトロな洋館式大邸宅風伽藍以外(敷地も広大)には見当たらなかったような。もう一度行かねばなりません。

こんな方におすすめ

  • 興味深い寺伝に惹かれる人
  • 湯田温泉の由緒に興味がある人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

於児丸笑顔イメージ画像
於児丸

興味深い由緒がたくさんあるお寺ですね。将軍さまも御剣や願い文を奉納されたとか。見事大願成就なさり、祝着至極に存じます。

足利義材イメージ画像
将軍様

ふうむ。大内之介のところは、食膳が美味である以外に、温泉もまた心地良いのだ。まさに、この世の極楽であるな。いっそ、ここに幕府を開……

ミル不機嫌イメージ画像
ミル

即刻出て行ってください。迷惑なので。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

そうだよな。アンタだけ由緒と無関係っぽいし。単に居候してたから寺伝引き延ばすために追加されたんじゃないのか? 長すぎて俺、読むの疲れた……。迷惑。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

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