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住吉神社(山口市深溝)

2023年11月16日

住吉神社(深溝)・社殿

山口県山口市深溝の住吉神社とは?

JR 宇部線・深溝駅からほど近い住吉神社です。鎌倉時代に大内満盛が摂津国から住吉の神々を勧請したのが起源とされています。しかし、勧請年次が永仁二年(1294)であり、建永元年(1206)に、臨済宗寺院・宝珠山瑞雲寺を創建したともされている満盛が両寺社にともに関わっていたとは考えにくいです。勧請年次、もしくは勧請者がどこかで誤って伝承されてしまった可能性があります。

現在の場所に社殿が建立されたのは、南北朝期のことになります。『山口県神社誌』に、昭和三十二年(1957)に、弊殿と拝殿の改築工事が行なわれたことが記されています。築山や大きな灯籠などがあり、明治時代には「深溝芝居」という奉納芸能も盛んだったそうです。

住吉神社(深溝)・基本情報

ご鎮座地 〒754-0895 山口市深溝深溝東1589
御祭神 上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命
社殿 本殿、弊殿、拝殿
主な建物 鳥居、狛犬、神庫、灯籠
主な祭典 例祭(五月二十日)
奉納行事 深溝芝居
(参照:『山口県神社誌』、※ご鎮座地は Googlemap の住所、主な建物は目視による確認)

住吉神社(深溝)・歴史

鎌倉時代に十八代当主・満盛が勧請

大内満盛が永仁二年(1294)に、摂津国から住吉大社を勧請したのが起源です。と言われても、大内満盛さんて誰だっけ? となってしまいますね……。まず、永仁二年は1294年、つまり鎌倉時代のことになります。弘世公登場と山口開府からは、ちょい遡らねばなりません。しかし、すでに、史料にはご当主さま方のお名前が出てくる時代となっております。

しかしですね、自らが記した「ご先祖さま」たちについての文章(典拠は『大内氏実録』)によれば、この満盛と父・弘盛は、源平合戦の時に、源氏方について軍功をあげ云々とありました。鎌倉幕府の創建が何年なのかについては、意見が割れているとしても、仮に定番の1192年だとして、永仁二年は100年も後ということになります。

大内満盛さんが、百歳を超える長寿でない限り、この方の創建はありえないか、もしくは、源平合戦で活躍云々のほうが間違っている、ということになります。

普門寺のところで見た通り、満盛は建永元年(1206)に、臨済宗寺院・宝珠山瑞雲寺を創建しております。この年代に寺院を建立していた、ということは、鎌倉幕府創建の頃に近いです。平氏討伐にあたって、源氏側に味方した、というのはあり得ても、その 88 年後にこの神社さまを勧請するのは難しそうです。⇒ 関連記事:ご先祖さまたち(始祖から弘幸公まで)普門寺

社殿建立は南北朝時代

現在の場所に社殿が建立され、神さま方がお祀りされたのは、南北朝期の歴応五年(1342)だそうです。誰が社殿を建立したのかわかりませんが、この年代ですと、当主は弘幸さんと思います。まだご健在だったゆえ、弘世さんに家督は移っていません。「思います」と書いたのは、この辺り、鷲頭長弘さんが頑張っていた時代なので、内部事情はともかく、対外的には当主はこっち、ってこともあるから(守護職もらってたわけで)。

上の大内満盛が勧請したという起源は怪しいとしても、神社の創建年代は間違っていないと仮定します(だって、年代まではっきり書いてあるわけで)。すると、鎌倉時代から南北朝期まで、神さまたちはほかの場所におられたはずで、それがどこなのかがわかりません(書いている人が知らないだけです)。ただ、どこかしらに社殿がなければ不可解なことになるので、元々この場所にあったのを再建したものか、あるいは、どこかから遷されたかどちらか以外あり得ません。

『山口県神社誌』に、以下のような一文がございます。

大内氏の始祖琳聖太子が、多々良浜沖にて遭難したことにより、海難防止のため、吹上ノ浜に住吉の神を祀るとも伝う。

出典:『山口県神社誌』

これまたびっくりの御由緒ですね……。この言い伝えが正しいとすれば、吹上ノ浜に祀られていた住吉の神さまを現在地に持って来たんだろう、ってなりますけど。琳聖太子が遭難してしまっていたら、その後の大内氏の歴史はないよね。いえいえ、そうではなく、危うい目に遭われたという意味と思われますが、これまで様々目にしてきた言い伝えでは、諸々の神仏に守られて、平穏無事に到着したみたいな話ばかりでしたので、かなり異色です。

とまれ、この神社の起源はかなり曖昧ながら、鎌倉時代に勧請され、南北朝期にこの地に社殿が建立されたようです。少なくとも現在、目に見えるかたちで神社さまは存在しているのですから、抜け欠けはあれどもおおよそのご由緒は以上の通りと考えて差し支えないでしょう。

そもそも、絶対にこうだから! という寺社の御由緒など、現在の科学に照らせばないに等しいですよ。下松の鼎之松に北極星の神さまが降りて来たとか、イマドキの小学生に話したら「嘘つき」とか言われてしまいそうな。けど、それを言ったらお終いだよ……ってなりますよね。

住吉神社(深溝)・みどころ

ごくごく普通の地元の神社さま、といった感じです。『神社誌』によれば、かつては仮の芝居小屋を建てて奉納する「深溝芝居」なる奉納芸能があったそうです。「現在は絵馬一枚を残すのみである」と書いてあるので、もう行なわれていないのでしょうか。

鳥居

住吉神社(深溝)・鳥居

鳥居。見れば分る? そうですね。背後に大きな灯籠が一対ございまして、ものすごい存在感があります。ところで、石とコンクリートの違いもわからないのですが、この鳥居は年代モノなのでしょうか?

拝殿

住吉神社(深溝)・拝殿

昭和三十二年(1957)に、弊殿と拝殿の改築工事が行なわれたそうです(参照:『山口県神社誌』)。ということは……本殿には手を付けなかったのでしょうか。例によって、脇からも失礼いたします。

住吉神社(深溝)・社殿(脇から見た図)

すると、どことなくですが、ご本殿がわずかに趣を異にしている気がいたします。拝殿と弊殿は屋根が瓦になっておりますが、ご本殿は違いますし。あるいは、ここはかなりの年代モノなのでは!?

築山

住吉神社(深溝)・築山

なぜかこの神社さま、脇からも入れます(大して珍しい事例ではないですが)。で、左手のほうに緑色に見えている部分は「築山」です。一番上の大鳥居の写真からも、右手にこんもりとした盛り土の山の如くなっている部分が見えるかと思います。同じものです。

なにゆえにこだわるのかと申しますと、『神社誌』には必ず載っている境内案内図に、わざわざ「築山」と書いてくださってあったからです。現状はただの盛り土に草が生えている状態ですけれど、かつては庭園だったのかもしれません。

住吉神社(山口市深溝)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP 

ご鎮座地 〒754-0895 山口市深溝深溝東1589
※Googlemap に載っていた住所です。

アクセス

最寄り駅は JR 宇部線の深溝駅となります。ご覧の通り駅から普通に歩けそうに思えますが、付近にほかの史跡類があまり見当たらないこと、宇部線の本数が少ないこと、そもそも宇部線に乗るためにはどこかで乗り換えねばならぬであろうこと、などからあまりおすすめできません。

宇部にも見るべき所は大量にあるのですが、未だ執筆者的にまるで勉強が追いついていない地区のひとつであるゆえ、今回はタクシーを使いました。地方交通線が最寄り駅の場合によくある事例とはなりますが、駅近寺社仏閣の組み合わせでも、二駅分以上となるとかなり厳しいです。小回りがきく車での旅がやはり快適となります。

タクシー代金を使ってでも効率良く回りたいか、あくまで貧乏旅にこだわってひたすら歩くか、費用対効果を考えた時、断然タクシーと思われます。一時間に一、二本しかない電車を待つのに費やす時間、駅から 45 分とかかかる史跡までただひたすらに歩く時間を快適と思えるかどうか、決め手はそこかと。ただし、タクシーを使う場合、焦りは禁物で、運転手さんを待たせたくないとか、貸切りは膨大な費用がかかるので少しでも大量にみるため、一つの神社さまでの参詣時間 5 分以内とかはやめたほうがいいです。運転手さんはお仕事ですし、貸切りになっているので、お待たせしていると気を遣う必要は皆無。むしろ、ゆっくり戻って来てくれたほうが、運転手さんも待ち時間にゆっくりできます。また、どう頑張っても見落としが出てくるのは仕方ないですが、なるべく最小限にしたいものです。同じ場所を二度も貸切りタクシーで回っているようなことは、それこそもったいないです。そう考えると、時間をかけて隅々見ながら進んでいったほうが結局はお得です。

参考文献:『山口県神社誌』、『大内文化研究要覧』

住吉神社(山口市深溝)について:まとめ & 感想

住吉神社(山口市深溝)・まとめ

  1. 鎌倉時代に大内満盛によって、摂津国から勧請されたのが起源と考えられている
  2. 現在地に社殿が建立されたのは、南北朝期とされる
  3. 深溝芝居という奉納芸能が行なわれていて、明治時代がその最盛期だった(参照:『山口県神社誌』)

起源も、由緒もわかるようなわからないような謎多き神社さまです。誰によって何時勧請された、ということは明記されているにもかかわらず、その内容に矛盾する部分があるためです。大内満盛によって勧請された、ゆえに、大内氏ゆかりの神社である、ということは、『大内文化研究要覧』という権威ある書物(冊子)にも書かれているのですが、やはり神社さまの御由緒によるためか、創立年代は同じ年。ですけど、大内満盛さんは鎌倉幕府創立前後の方ということも、建永元年(1206)に臨済宗寺院・宝珠山瑞雲寺を創建ということもまた、同じご本に書いてあり……。恐らくは、神社さまの御由緒にある「満盛が勧請」という点、もしくは、年代が違うのだと思われるのですが、どちらかと言えば、年代よりも勧請者が違うような気がしますね(根拠なし)。

いずれにしても、何らか大内氏に関係していてくれないと困るんですが……。領国内に無関係な寺社はない、と考えれば何らかのゆかりはあるはずです。由緒については、創健者も創建年代も不明、という切り札があるのですけど、それって、古代史じゃないと無理なわけで。鎌倉時代くらいになれば、そこそこ記録が残っている時代ですので。もしかしたら、創建年代不明なほど古くからの由緒があり、満盛であれ、誰であれ、再建しただけであって、もはやいっとうはじめはどうだったのかはわからなかった、ってのもいいかな(かなり無理があるけど……)。

神社を横から眺める妙なクセがついてしまって困っているのですが、ご参詣の後、脇から拝見すると、かなりの奥行きがあり、しっかりした造りなのですよ。そう言えば、常に常にお世話になっている神社庁さまのご本、『山口県神社誌』には、その神社にあるありとあらゆる建物が記されているのですが(鳥居とか社務所、案内看板まで)、なぜか、この神社さまについては何ひとつ書かれていませんでした。そこも不思議でなりません。それこそ、鳥居が造られた年代まで書いてくださってあります。石灯籠の類まで明記されているからスゴい。ところが、この神社さまに関してはその記述がないのですよ。

もちろん、たとえば、陶の寄舟神社のように、神社そのものが掲載されていない場合もありますし、掲載されている神社でも、由緒がやたら詳しい場合とそうでない場合とがあります。これは依怙贔屓ではなくして、何も伝えられていないか、書き切れないほど大長編になっている縁起をもつ神社かの違いです。この神社さまは前者にあてはまるのでしょう。記述もほとんどありませんでした。けど、灯籠とか、狛犬が書いていないのは初めて見ました。ほかにもあるんだろうか。ゆえに、今回の主な建物は目視で書いてます。むろん、ほかの神社さまでも、ご本をまる写しなんかしてないですが。

で、主な建物については書かれていないのですが、境内案内図に「築山」の表記が。これ、恐らくは何らかの意味があると思うのですよね。ご本が書かれた当時は、記録するに値するほどの庭園だったとか。ただの盛り土に「築山」などという表記はしないはずです。ゆえに、その「築山」らしきものを載せてみましたが……。築山館跡の土塁(夏場)みたいで、草に埋もれてしまっていました……。でも鳥居付近の大灯籠を見れば分る通り、深く信仰しておいでの方は少なくないのです。神庫もきちんとあります。手入れもとても行き届いていました。

こんな方におすすめ

  • 住吉の神を信仰している人
  • 神社巡りが好きな人

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

で、結局ここの神社は、大内満盛が永仁二年(1294)に、摂津国から勧請ってことでいいの?

新介不機嫌イメージ画像
新介

誰であれ、ご先祖さまを呼び捨てにしてはいけないよ。

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

……。

ミル笑顔イメージ画像
ミル

なんかこう、どこにでも、すぐお隣にあるような、親しみやすさを感じさせる神社さまです。いわゆる、氏子からみた氏神さまって感じでしょうか。そんなごく身近な神社さまに対して、何時代の何年に誰が勧請したとか、一々気にしながら接する人っているでしょうか? 要するに、細かい事は気にせずご参詣すればよいのです。小振りな拝殿だけど、重厚感あって好きです(賽銭箱がでーーんと見えるのは気のせいかな)。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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