関連史跡案内

普門寺(山口市白石)

2020年9月22日

説明看板の写真

普門寺・基本情報

住所 山口市白石3-4-1
電話 083-922-4821
山門・寺号・本尊 円通山・普門寺・十一面観音
最寄り駅 山口駅より徒歩25分、白石3丁目バス停徒歩3分
宗派 臨済宗

普門寺・歴史

かつてこの地には大内正恒が創建した寺院があった(土御門院建永元年(1206)大内満盛創建で宝珠山瑞雲寺といった、という説もある)。後醍醐天皇延元元年(1336)大内弘直(弘幸の弟)によって再建され、菩提寺となった。時は南北朝の動乱の時代、この時の大内氏は宮方・南朝に与していた。弘直は同じ年に、武家方・北朝の軍勢と石見大山で戦って亡くなり、瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門と法名した。寺院内に墓がある。

享徳三年(1454)、大内教弘が闢雲寺中興・覚隠禅師の高弟・雪心和尚を中興開山とし、曹洞宗に改めるとともに、瑞雲山龍福寺と改称した。後奈良天皇の御代、大内義隆の奏請で勅願寺となり、重建されたが、「天文の国難」の時に、堂宇はすべて焼失してしまった。

と、ここまでは、寺院説明看板に、『趣味の山口』も参照して付け足した由緒。ところが、龍福寺と改称されて後は、龍福寺なので、書籍の記述はすべて「龍福寺」のところにあったもの。寺院説明看板と内容は同じなので、この認識は間違っていない。

問題となるのはこれ以降。つまり、「龍福寺」は国難の後、毛利隆元によって、大内氏館跡に再興された。つまり、龍福寺と改名した元瑞雲寺は、大内氏館跡に移ったのであろう、と考えるのが妥当。しかし、現在元々の瑞雲寺跡地には普門寺が建っている。普門寺由緒書の前半は「龍福寺」と共通になっているから、現在龍福寺にあるそれが、元々この地にあった寺院(つまり元瑞雲寺)の行き先となるはずだけれど、元々の地にも普門寺があるのだから、現状、由緒書を共有する二つの寺院が別々の場所に存在している。元々の寺院(龍福寺と名を変えた元瑞雲寺)は国難で焼失したのだから、現在その地にある寺院は当然、再建された建物ということになるが、いつ、誰によって再建され、普門寺と号したのか、ということが説明看板と本からはわからない。

説明看板によれば、天正年間に中興の祖・維松円融和尚によって再興された、とある。つまり、寺院は毛利隆元によって、大内氏館跡に移築されて再興されていたが、この時点で「元龍福寺跡地」も整備されたというように理解したけれど、この認識であっているかはわからない。その後は普門寺の名前で現在まで存在しているものと思われる。寺院は移築されても、その地にあった墓所はそのまま残る習いのように思われるから、隆元が義隆のために龍福寺を建てたのちも、弘直の供養のための寺院が何かしら建っていたのかも知れない(典拠なし)。

※山口市HPで確認したところ、大内正恒が建てた寺院を、大内弘直が「普門寺」として再建したということだった。弘直の法名が「瑞雲寺殿恵海浄智大禅定門」なので、『趣味の山口』にある、大内満盛創建で宝珠山瑞雲寺といったという説とのかかわりも気になって仕方がない。先に寺院ありきで寺院の名前が法名となるケース、法名にあわせて寺号が変るケースと二種類ある気がするので、まったく混乱してますますわけがわからなくなった。公式アナウンスが最も正確であるはずなので、「普門寺」の名称は、大内弘直再建時の寺号、ということになろう。

『山口県寺院沿革史』には寺記はまったく不明である、とした上でつぎのように書かれている。

本尊は十一面観音菩薩にして琳聖太子御持来の御護仏にして太子第二王子正恒公奉持して当寺本尊となし深く霊扉の内に秘蔵せられ天下安全武運長久を祈禱せられたり其後大内弘世公代に至り当国に観音三十三の霊場を設定せらるゝに際し第三十一番に順定ありしと云ふ。

観音霊場第三十一番であるということは、現在も確かにそうなっている。そのほかのことは、寺の記録が消失した中での言い伝えなのだろうが、とても興味深い。

文久三年(1863)、萩藩の藩庁が山口に移った時、藩命によって江戸から戻った大村益次郎は、山口明倫館の改組に当った。大村益次郎はここ、普門寺の観音堂を宿舎としたので、この場所で兵学の授業が行なわれたりした。寺院の歴史は一足飛びで明治維新にいっていまうのである。(以上、参照:『趣味の山口』、説明看板、山口市HP)

普門寺・みどころ

観音堂

観音堂の写真

大村益次郎が、兵学を講義する時に使ったのがここ。「普門塾」もしくは「三兵塾」と呼ばれていた。

本堂

本堂の写真

 

説明文はなかったが、いつの時代に建てられたものであろうか。江戸時代以降のものであることだけは確か。

大内弘直の墓

大内弘直墓の写真

大内弘直の墓とされる石塔。菩提寺だった寺院の跡地に残されている、ということになる。国難の戦渦で被害を受けたかもしれず、往時のままの姿であるかどうかは不明です(見た目新しいし)。そもそも、墓、供養塔は伝承的要素が強いため、実際にこれがそうである、という判断は難しい。今もなお、供養してくださる地元の方々がおられるということが貴重。

普門寺写真集

 

ミル

いったい、この寺院ってどうなってんの? ものすごく気になる……。

次郎

名前がどーたらとか、どうでもいいじゃないの。いつも言ってることだけど。そもそも、ここは「普門塾」で有名な寺院。普門塾見に来たら、なんか墓もあった、そんな雰囲気と思うがな。

アクセス

山口駅からタクシーを使いました。徒歩三分圏内にバス停があるようなので、バス利用でも行けそうです。

参照文献:『趣味の山口』、『山口県寺院沿革史』、山口市様HP、説明看板

-関連史跡案内
-,