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八坂神社(山口市上竪小路)

2021年6月12日

八坂神社石段前にて
八坂神社石段前にて

山口県山口市上竪小路の八坂神社とは?

もとは祇園社といい、大内弘世公の代、京都の祇園社から勧請されたと伝えられています。ただし、この点については確証がなく、はっきりしているのは、教弘公の代に水の上に鎮座していた祇園社を、孫の義興公代に高嶺に遷宮した、ということです。そののち、幕末になって毛利敬親公の時代に、高嶺から現在地に遷されました。八坂神社と名を改めたのは、明治時代になって、総本社である祇園社が八坂神社となってからのことです。祀られていたのは、中世に素戔嗚尊と習合していた防疫神・午頭天王でしたが、現在は総本社同様、素戔嗚尊がご祭神となっています。毎年七月に、祇園祭の鷺舞が行なわれることでたいへんに有名です。

場所は遷されてしまいましたが、本殿は永正年間に、義興公が建てたもので、国指定重要文化財となっています。

八坂神社・基本情報

住所 〒753-0035 山口市上竪小路100
最寄り駅 県庁前バス停から徒歩10分
御祭神 素盞鳴尊、稲田姫命、手名槌命、足名槌命
通称 ぎおんさま
主な祭典 例祭(七月二十日)
境内神社 稲荷神社
奉納芸能 鷺の舞(山口県指定文化財)
棟札 (永正十七年・元和三年・国指定文化財)

八坂神社・歴史

八坂神社は元「祇園社」といい、応安三年(1370)に大内弘世が京都祇園社より勧請したと伝えられている。最初の鎮座地は、竪小路とされるが確証はない。社殿は長禄三年(1459)、 大内教弘によって上宇野令水の上(香積寺門前とされる) に移されていたが、大内義興が高嶺大神宮を創建した際、祇園社も高嶺の地に移した(町の発展により、一般庶民の住宅地に埋もれてしまいかねない状態だったぽい。どうせ昔は、下々の者が由緒ある神社さまのおそばに住まうなんて畏れ多いと考えられていた。神聖な場所へ移すことが急務だったのだろう)。永正十七年(1520)に社殿が新築されている(高嶺両太神宮御鎮坐伝記)。

江戸末期の元治元年(1864)、毛利敬親が藩庁を山口に移した時、祇園社は再び場所を移された。移築先は、かつての大内氏築山館の跡地で、当時は畑地となっていた現在地である。山口の藩庁が建てられたのは、今の藩庁門がある付近だったから、山口大神宮(=高嶺太神宮)からほど近い。時は敬親や幕末の志士たちが活躍した明治維新の頃。敵対する勢力の関係者が神社に身を潜めて情報収集などを行なう可能性は十分にあった。そのような事態を防ぐために、祇園社の場所を藩庁から遠ざけたのである(ガイドさん談)。移築に際して、本殿は永正年間に建立されたままの姿を残したから、貴重な文化財として現在まで伝えられることになった。

鎮座地の変遷

(竪小路)⇒ 水の上 ⇒ 高嶺 ⇒ 築山跡
※史実未確認の竪小路を数えず、八坂神社は三回移転した、といわれる。

室町幕府に従った大内氏は、在京守護として京都に駐在したから、京にも館が建てられ「大内屋形」と呼ばれた。在京期間は当主によって異なり、教弘以降は在京をやめた。
大内屋形は他の守護たちの京屋形と比しても、たいへん豪勢なものだったが、火災によって焼失してしまった。在京守護としてではなく、応仁の乱で在陣した政弘、将軍・義稙の復職を助けて十年あまり京に滞在した義興は、ともに、下京に居所を構えた。消失した大内屋形も含め、歴代当主の在京拠点はすべて下京中心であった。
京都の祇園祭で神輿や山鉾はこの下京を通る。研究者の先生方は、祇園社が勧請されたのはこのことと無縁ではないと指摘しておられる。大内氏歴代当主たちにとって、祇園祭の鷺舞や鉾がとても親しみ深いものであったことは想像に難くない。かくして祇園祭の鷺舞や鉾は山口にも伝播した。

八坂神社・みどころ

鷺舞

八坂神社の祭礼は、七月二十日から二十七日までの七日間に渡って催され、古来山口の祇園祭として有名。「山口祇園会」ともいい、京都の祇園会を移したものとされる。延徳四年(1492)の大内家壁書は、祇園会などの時築山に上って見物することを禁止している。その当時すでに、かなり盛大な祭だったと思われ、多くの見物人でごった返す、にぎやかな光景が目に浮かぶ。

鷺舞は祇園祭のときに奉納される神事で、祭礼初日に神社の社頭、神幸の途中、御旅所で行われる。山口県指定無形文化財となっている。弥栄神社(島根県津和野町)や京都の八坂神社など、鷺舞は各地で行われているが、多くは近年再興されたもの。山口の鷺舞のみが途絶えることなく現在まで続けられていることがたいへんに貴重。

祇園社建立や神事について記された「高嶺両太神宮御鎮坐伝記」(永正十七年)には、鷺舞についての記録がまったくないため、鷺舞は祇園社勧請時ではなく、高嶺移転後に始められたとのではないかとするご意見がある(現在典拠を思い出せない)。山口に導入したのは、義興だったかも知れない。同時に、弘世代に、京都から勧請した際にもたらされたとするご意見もあり、そのいずれかは確定していないものと思われる。

祇園会地下道アートの写真
鷺舞地下道アートの写真

ミル涙イメージ画像
ミル

じつはまだ、鷺舞をこの目でみたことがないの。雰囲気を伝えるために、地下道アートからちょこっとお借りしました。

鳥居

八坂神社・鳥居

拝殿 & 本殿

八坂神社・拝殿

三間社流造りで屋根は檜皮葺。永正年間に建立された当時のままで、室町時代の特色を今に伝える。 13個の蟇股があり、その形の優美さ、珍しい図柄、花や果物、雲などの彫刻が注目されている。

八坂神社・社殿(脇から見た図)

ちょいわかりづらい写真ですが、神社の本殿というのはじつは、目に見えないところにそっと隠れています。一般的に、お賽銭を入れてお参りしているところは、本殿ではなくして、拝殿という参拝するところです。この写真だと、五郎がいるほうが拝殿、ミルがいるほうが本殿です。

このように、横から見るとわかりやすいケースが多いです。すべてがそうとは限りませんが、正面から本殿を見ることができなくとも、横から見ることは可能です。拝殿と連結している形も、とてもわかりやすいと思います。

八坂神社本殿・蟇股

なお、文化財説明看板にある蟇股というものは、上の黄色枠で囲んだ部分となります。これが十三個もついており、それぞれの彫刻が素晴らしいとのご案内ですが、肉眼だと彫刻まではよく見えないのが現状です……。

祇園稲荷

八坂神社境内社・稲荷神社

八坂神社の境内神社である。

扇の芝

 

八坂神社・「扇の芝」きわめて見づらい写真だけれども、祇園祭の時、鷺舞が舞われる場所です。

神徳碑

八坂神社・神徳碑

八坂神社(山口市上竪小路)の所在地・行き方について

ご鎮座地 & MAP

ご鎮座地 〒753-0035 山口市上竪小路100
元は大内氏の築山館があった場所なので、山口市の中心地にあたる

アクセス

山口駅から県庁前バス停、徒歩圏。ただし、山口駅からも普通に歩ける。八坂神社が築山館跡に移築されている関係上、築山神社、築山館跡とセットになっている。一度に三つも見ることができてお得だが、築山神社と八坂神社の建物は混在しており、野田神社 & 豊栄神社同様、境目がわかりにくい(わからない人には)。

参照文献:山口県様 HP、山口市様 HP、山口県神社庁様『山口県神社誌』、大内氏歴史分家研究会様『室町戦国日本の覇者・大内氏の文化をさぐる』

八坂神社(山口市上竪小路)について:まとめ & 感想

八坂神社(山口市上竪小路)・まとめ

  1. 大内弘世が京都から祇園社を勧請したのが始まりとされる
  2. その後、教弘期に場所を水の上に遷して再建
  3. さらに、義興期に高嶺に遷して再建
  4. 現在あるのは、永正年間、義興期の建物であるが、社地は毛利敬親によって現在地に遷されている
  5. 古くから続けられている祇園祭りの鷺舞が有名だが、その起源がいつなのかは諸説ある(弘世期、義興期)
  6. 室町時代から続く本殿が国指定重要文化財となっている

凌雲寺さまが建てられた社殿がそのまま伝えられているという稀有な例のひとつとして、大変に貴重です。しかし、ご鎮座地が遷されてしまっています。何度もしつこいですけど、

遷さないでください!

って、この神社に関しては、大内氏時代にも遷されまくってますが。

毛利輝元さんが香積寺を壊して建築資材になさったことは極めて残念なことですが、資材の調達も簡単ではない時代、致し方ないことだったかと思います。とは申せ、「破却して建築資材」、というのはかなりの衝撃ではあります。その点、「場所を遷す」ということは、そう驚くべきことでもありません。なぜかなら、どこか東北地方のほうの近世のお城で、建て替えだか何かのために、お城そのものを、まんま移動させる、っていうすさまじい技術が駆使されているのを昔々にニュースで見ました。それは、本当に、まんま移動でしたが、いったん壊して、元の通りに組み立て直すということも、きちんとした建造物であれば十分に可能です。とはいえ、技術も手間もたいへんなことでしょう。それこそ、「匠の技」というものです。

八坂神社、築山神社、今八幡宮と、貴重な観光資源が目白押し。築山神社を元築山館と思えば、守護館跡にも近いわけで、ここら辺目茶苦茶感激スポットなんですけど、そもそも、築山神社も八坂神社も、もとからここにあったわけではありません。そもそも、築山神社は=元の築山大明神ではないですし。そう考えると、ちょこっと感傷的にはなりますね。イマドキの民が健やかであれば、歴代の皆さまはなにも仰らないと知りつつ、まさかこんな風になってるなんて、500年前には誰が想像できたかと思うとやはり心の中に何やら寒い風が吹き抜けて行くのでした。

大内義興イメージ画像

八坂神社本殿:凌雲寺さま建立

流れ公方のせいで散々な目に遭って、尼子経久にも嫌がらせされて、あれこれと困難な晩年。そんな中で高嶺太神宮を遷宮したということは、凌雲寺さまにとってまさに生涯掛けた一大プロジェクトですよね。八坂神社、否、祇園社がその際に高嶺に遷されたことにも、ものすごい意義があると思うんです。大内家にとって、高嶺は氷上山につぐ、神聖不可侵な領域となったわけです。西国浄土ならぬ西の都・山口の繁栄は、未来永劫延々続いていくと信じておられたはず。そのためにも、まずは、風雲急を告げる中国地方を平定しようと望んでおられた(つまり尼子経久退治とかです)。その志半ばにして亡くなられた凌雲寺さまのご無念はいかばかりかと。これもまた、定められた運命、長い長い歴史の中のほんの一コマと知りつつも、考えるたびに空しいよ。しかもしかも、高嶺に鎮座していた八坂神社を別の場所に動かすとか、神聖な領域を踏み荒らされた気分で嫌だ。さらに、移転先が、かつての築山館跡。その時はすでに何もない野っ原になっていたとか……。はぁ……。

悪い方悪い方に考えて行くと、生きるのが辛くなります。ココはプラス思考で、あれこれのことはリセットして、おおお、凌雲寺さま創建当時から続くご本殿(の建物)だ! とひたすら感動いたしましょう。

こんな方におすすめ

  • 神社巡りが好きで、由緒ある古い社殿にお参りしたいです。重文とかなってたらもうメロメロ(本殿をご堪能ください)
  • 祇園祭りの鷺舞とか、歴史ある行事が大好きです(日程表見てご訪問ください)

オススメ度

+α
たとえ建物が同じでも、場所が遷ったせいで元のままとはいえない状態にあると考えると気分的にちょこっとマイナスになる。それに、築山神社との境界線が曖昧となってしまっていることも返す返す残念……。そこだけ引き算してしまいました。禁を犯して個人的感情が前面に出た評価となってしまいました。ごめんなさい。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

うーーん……。

ミル通常イメージ画像
ミル

何をそんなに悩むかな?

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

俺が見た記憶にある祇園社が名前変ってるし、場所もおかしい……。

新介通常イメージ画像
新介

どこに遷っても気にしないよ。長いこと大事に信仰してくれてありがとう。

ミル涙イメージ画像
ミル

だから、その人の良さはどこから……

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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附・「鷺舞」雑感

「鷺舞」と聞いて、一番に思いつくのは山口の八坂神社の鷺舞。まだ、実物をこの目で見たことがないので、鷺舞について何かを書くことはできないのだけど。

けれども、観光地理の勉強で全国各地の観光資源や名産品、お祭りなどについて学ぶと、「鷺舞」は津和野の専売特許みたいに書かれている。そこには、山口の「や」の字もない。何で? と不審に思うのは当然のことである。実際、目にすることはまだできていないとはいえ、山口市内を観光したら、八坂神社に参詣するのは当たり前。八坂神社に参詣したら、鷺舞について書かれた観光案内版を目にするであろうから、どれほどぼんやりな観光客でも、山口に鷺舞があり、それはとても有名である、と感じるはずだ。

それなのに……。

島根県が観光立県しており、出雲大社があったり、世界遺産となった石見銀山があったりで、国家試験頻出ベスト 10 に入っている。隣の広島県にも世界遺産は二つもある。だから何? と思うけれど。でも、試験のためには、「鷺舞=島根県」と暗記せねばならず、解答用紙に「鷺舞=山口県」○ と書いたら、試験では不合格なのである……。山口にも鷺舞あるのに……涙。となります。

ちなみにですが、山口県にもれっきとした世界遺産があります。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」というものがそれです。これほどわかりにくい世界遺産もないと思うんだよね。いや、中身を聞いてみると、ふむふむなんですが、とんでもない広範囲に及ぶため、覚えるのが一苦労。あと、「製鉄・製鋼、造船、石炭産業」って書いてあるので、山口県にある二箇所の構成遺跡郡を見た時「え!?」となるんです。未だに謎。さて、どこでしょうか。恐らく、これだけ山口県通っていても、生涯行くことはないだろうな、と思われる場所ですが、県民の皆さまには深く愛されているはずの場所です。人の好みはそれぞれと言いつつ、ここに生涯行かないだろうとか書いたら、二度と山口県に入れてもらえなくなるかも……。

よく「萩・津和野」と一括りにされてしまい、「津和野は山口県ではなくて、島根県ですので」と旅行会社の窓口で言われ、そうなの? って人がいるそうです。別に、県境を跨いで観光しても何と言うことはないので、それが問題になることはほぼないが。「萩・津和野」をなぜかまとめてしまっている観光客らにしても、美しい城下町を堪能したいだけであって、それが何県であるかなどは、どうでもいいことなのだろう。地元の方々に対しては、ちょっとご無礼してしまっている感じですが……。

島根県は覚えることが多すぎて参考書も文字でギッシリ。なのに、中国地方のほかの県はスカスカ。単に試験に「よく」出るか出ないかの問題であり、参考書の記述が薄いからといって、見るべき物が少ない県であるということは、けっしてない。

で、津和野の「鷺舞」。全国区で有名。鷺舞はそもそも、京都の祇園社で行なわれていたもの。大内氏歴代はそれを祇園社ごと山口に持ち込んだ。津和野の鷺舞は、大内氏の鷺舞を吉見正頼が取り入れたのだという(参照:『島根県の歴史散歩』)。よりによって、なんでそっちのほうが、全国区になっているのか、永遠の謎。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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