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円覚寺(山口市陶)

2023年11月9日

円覚寺・掲示板

山口県山口市陶の円覚寺とは?

陶にある浄土真宗本願寺派の寺院です。元々は真砂山法古坊といい、大内氏の祈願所でした。同氏の滅亡後は衰頽してしまいましたが、元家臣の八木主膳という人によって再興されました。

八木氏は出家して、山口・円竜寺の弟子となり、法古坊を真言宗の道場としました。この前後に現在地に移転されたと考えられています。二世の代に本願寺から寺号を授かり円覚寺となります。その後、無住の時期があるなどしましたが、明治時代、柴崎勇哲師が再興。現在に至ります。

円覚寺(山口市陶)・基本情報

所在地 〒754-0891 山口市陶 1141
山号・寺号・本尊 龍河山・円覚寺・阿弥陀如来
宗派 浄土真宗本願寺派

円覚寺(山口市陶)・歴史

起源は大内氏の祈願所

元々は「真砂山・法古坊」という真言宗寺院で、大内氏の祈願所でした。「法古坊」という名前の由来は、寺院が建てられていた場所から来ているようです。

「この寺は下市の旧国道の南側にあってそこを近年まで寺屋敷と呼び、又百谷川を隔ててホンコボーという地名もある」(『陶村史』)

「寺屋敷」などという地名が残っていたくらいなので、当時は広く信仰を集めた大寺院だったのでしょう。大内氏の権勢からいって、ちゃちな寺院を建てたとは思えません。

けれども、祈願所だったということは、それを建立した大内氏の滅亡とともに廃れてしまうのも当然の流れです。もちろん、すべての寺院が潰れてしまったわけではなく、当寺院のように、困難な時代を乗り越えて今に続く元祈願所は少なくありません。

元家臣が再興

滅亡した大内氏の元家臣に八木主膳という人がいました。元主君の家への忠心から寺院を再興しようと思いたったからなのか、単にお家が滅びるさまを見て世の中に嫌気がさしたためなのかわかりませんが、武家であることをやめて出家してしまいます。そもそも、『山口県寺院沿革史』によれば、真言宗(『沿革史』は天台宗としているけれど、勘違いなさったか誤植のようです)から真宗に改宗されたのはいつの時代なのか不明だそうです。『陶村史』や寺院さまの御由緒看板にも年代は一切書いていません。なので、滅亡前にすでに改宗されていたのか、八木という方が浄土真宗の信者で、たまたま寺地を再利用しただけなのかわかりません。まあ、敢えて「元家臣」となっているので、滅亡後、さほど時間は経っていない頃の話なのだろう、と推測します。

八木さんは、山口の円龍寺に弟子入りし、宗慈と名を改め、お坊さんとなります。さて、大内氏滅亡とともに廃れてしまった元法古坊が、この方によって再興されたことは確かなのですけれど、先に再興ありき(建物などを再建した)なのか、まずは出家し、修行して自らが僧侶となってから寺地を用いて寺院としたのかが、ちょっと分りません。お坊さんがいなければお寺は成り立ちませんから、単に建物を造り替えただけでは意味がありませんので、僧侶の資格(?)を取って戻るまでは廃れた状態だったんだろうと思いますけどね。⇒ 関連記事:円龍寺

八木主膳改め宗慈は、元法古坊を真宗の道場としました。この時、もしくはそののちに、場所を現在地に移転したのだろうと考えられています。二代目が本願寺に赴き、「円覚寺」という寺号をもらい、法古坊から円覚寺と改名されました。

『陶村史』によれば、その後も暫くは、「真砂山・円覚寺」と称していたことが、『地下上申』や『注進案』から分るそうです。現在は山号も「竜河山」と改められていますが、これは地名から来ています。

明治時代に再「再興」

『山口県寺院沿革史』にはだいたい、以下のようなことが書いてあります。

「本堂は享保年間の建立、庫裏は明治時代柴崎勇哲師の造営。客殿は昭和五年竣工。鐘楼は昭和三年御大典紀念事業として、現住職(※この本が書かれた時のご住職・柴崎薫海師)が工事費用千円をかけて建立。なお、山門も同師の建立である」

現在ある本堂は真新しく立派なものですので、このご本が書かれた昭和初期の状態と同じとは思えませんが、こちらにお名前が出ている、柴崎勇哲師と柴崎薫海師のお二人は重要です。

法古坊から円覚寺となり、現在地へ移転した後も、寺院は無住になるなどして、やはり衰頽していた時期がありました。寺院さまご案内看板説明文によりますと、十四代のご住職に後継者がなかったため、豊前国・西教寺からお招きしたのが、柴崎勇哲師であり、師を以て「中興」としておられます。柴崎薫海師は中興二世にあたり、その後は現在まで続いております。

『陶村史』によれば、境内に、柴崎勇哲師と薫海師に関わる石碑があります。一つは勇哲師が亡くなられた昭和三年に信者の方々によって建てられたもので「中興勇哲教師之碑」。もう一つは「俱会一処」という石碑で、これは薫海師ゆかりのもので、昭和五年に建てられたものということです。

円覚寺(山口市陶)・みどころ

みどころが何というよりは、かつて大内氏の祈願所だった寺院であること、それを元家臣の人が再興したこと、などの御由緒が貴重です。寺内は綺麗に整備されて清潔感溢れる境内も心地良いですが、観光資源としての寺院さまではありません。あくまで、地元の信者の方々に広く信仰されている宗教施設です。

以下の御由緒看板も、このような史実を頼りに訪れる観光客向けに安置してくださっているものと思われます。

円覚寺・案内看板

山門

円覚寺・山門

『陶村史』に、かつて門の横に老松があって、道行く人々の道標になっていたような記述がありましたが、どうやらそれは、移転前の寺地のようですね。その辺りちょっと本の記述も曖昧だったのですが(読者の頭が曖昧なだけだろうけど)。同じ記述の続きに、例の春日神社に掲げられた古図に、寺院の前はかつて海で、船を着けていた絵が描かれているとあったので、まさかこの場所で、それはないだろう、と思うんですが。どうなんでしょうか。

松の木じたいは寿命が尽きてしまったこともあり得るけれども、ここがまさかかつて海だったとは信じがたいので、移転前の場所のことだろうと勝手に考えているわけです。そもそも、見付けられていないだけで、松の木ちゃんとあったりして。見付けられていたら写真撮っているはずですが(多分)。

本堂

円覚寺・本堂

ものすごく立派で新しいですよね。なので、『沿革史』にあった享保年間のものとは別かと。寺院さまの本堂の立派さって、多くの方々に信仰されているかどうかで変ると思うんですよ(根拠なし)。檀家がわずかしかない寺院さまが立派なご本堂を維持していくことなど無理かと。

左下に小さく写っているのが、御由緒看板です。ここに大内氏ゆかりの寺院があるはずだが……と、法事などでお世話になっているわけでもないのに迷い込んで来た観光客のためのご配慮ですね。とても有難いことです。

鐘楼

円覚寺・鐘楼

鐘楼の手前(左のほう)に、大きな石碑が見えております。ちょっと分りづらい写真となりますが、軽くする前の元画像を拡大して目をこらして確認したところ、どうやら「俱会一処」と刻まれているみたいに見えるのです。つまりは、前述の柴崎薫海師に関わる石碑(昭和五年)ってことになるのでは? と。

薫海師の石碑と、勇哲師の石碑とは隣り合っているということですので(『陶村史』)、勇哲師の石碑も近くにあったものかと。鐘楼ばかりに目が行ってしまっていたので、まるで気が付きませんでした。ただ、手前には何もなさそうですし、奥にあるのなら写真に写り込んでいてもよさそうな。どこか別の場所に移されたのでしょうか。

事前知識がなかったので、致し方ないですが、松の木の件も合せてもう一度確認しないとですね。

円覚寺(山口市陶)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒754-0891 山口市陶 1141

アクセス

陶 + 鋳銭司の史跡を回るには、山陽本線「四辻駅」が起点となります。陶の史跡は(地図を眺めている限りでは)新山口駅のほうが近いのかな、と思う場合もあるのですが、この寺院さまの場合は「四辻駅」です。

Googlemap のナビゲーションを使えば普通に辿り着けます(※ナビを使うときは、歩きながらにはならないよう、必ずいちいち立ち止まって位置を確認するようにしてください)。ただし、閑静な住宅地の中に佇んでおられますので、「目的地に到着しました」と言われても周辺は地元の方々のお家しか見えなかったりします。通り過ぎに注意してください。

円覚寺(山口市陶)について:まとめ & 感想

円覚寺(山口市陶)・まとめ

  1. 大内氏の祈願所「真砂山・法古坊」が前身。元々は真言宗だった
  2. 大内氏滅亡とともに、衰頽したが、元家臣・八木主膳が再興した
  3. 主膳は山口の円龍寺に弟子入りし、宗慈という僧侶となって戻り、元法古坊を浄土真宗の道場とした
  4. 浄土真宗の道場となった前後に、寺地も現在地に移転したと考えられている
  5. 宗慈の後継者が本願寺から「円覚寺」という名前をもらい、改名された
  6. その後、無住になるなど衰退した時期があったのを、明治時代に柴崎勇哲師によって再興された。よって、師を中興とする

再興したのは元家臣だけど、そもそもは祈願所だしゆかりの寺院さまであることにかわりはないよなぁ……と思いつつ、付近を回っていたので思い切って参拝しようと決断。文字通り、ものすごく近くを彷徨っていたので、立ち寄ることは容易いと思われたのですが、「見付からない」。

無事に参拝できたので、アクセスは難しくない、などとエラそうに書いていますが、じつはとても大変。これじつは、ナビゲーションあるあるなのですが、「目的地に到着しました!」となっており、アイキャッチにある掲示板も見付けているのに、寺院さまご本体が「ない」。そんなはずはなかろうってことで、かなり彷徨いました。

何せ、大邸宅(貧乏ですみません)ばかりですので、住宅地の中にある寺院さまだと、山門も大邸宅の立派な門と大差ないくらいに埋もれてしまっていたりするのです。ご覧になればお分かりになる通り、円覚寺さまの山門はけっして小さなものではなく、立派です。にもかかわらず、埋もれてしまうという……。

大都会の真ん中などですと、高層ビル街の中に寺院さまとなってわかりやすいのですが、寺院さまレベルの広大な敷地の住居が並んでいるとホントわかりにくい。外から鐘楼が見えましたので、やっと辿り着けたのですが、「あったーー!!」という無礼な声が閑静な住宅地に響き渡る恥ずかしさ。檀家の方々以外が用もないのに、大内氏ゆかりの寺院だよね? とかブツブツ言いながら探しているのは、地元の方々がご覧になったらとんでもなく奇怪な上、悪くするとご迷惑(見知らぬ怪しい人物が住宅地をウロウロしているとかなってしまいます)。

この場を借りてお詫びいたします。しかし、境内の御由緒看板に「大内氏の祈願所」と明記して、本堂横にご案内看板を置いてくださってあるのを見て、罪悪感がちょっとだけ薄れ。多分、この理由で探しに来る人もいるからだよね、と勝手に解釈。ご案内ありがとうございました。

こんな方におすすめ

  • とにかく「大内氏ゆかりの ○○」とあったら放っておけない方

オススメ度

「おすすめ」に当てはまらない方はなるべく、押しかけてお邪魔しないでください。檀家の皆さま、地元の方々のための寺院さまです

(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

なんで見付けられないんだ? 何度も同じ場所を行きつ戻りつさせられて、スゴく迷惑したんだよな。地元の人に見られたらどうしようかと、俺、目茶苦茶恥ずかしかった……。

ミル涙イメージ画像
ミル

見付けられなかったのは君も同じだよね? だって、先に見付けてくれたっていいわけなんだよ。後ろから引っ付いて来なくとも、リードしてくれればいいんじゃないの?

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

俺は「主」なんだ。「世話係」がこちらでございます、どうぞ、ってなるのが当たり前だろう?

ミル不機嫌イメージ画像
ミル

そーゆー前時代的なことを言うのなら、イマドキから追い出すからね。

  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
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