
俊龍寺・基本情報
住所 〒753-0091 山口市天花2丁目12−1
電話 0839-22-4628
山号・寺号・本尊 豊国山・俊龍寺・釈迦牟尼仏
宗派 曹洞宗
俊龍寺・歴史
寛正元年(1461)、大内教弘が献珠院殿等巌妙倫大姉(文明二年正月二日)のために建立し、献珠院といった。開山は明仲和向。『闢雲志』によれば、元の寺号は延楽寺。四世・紅庵の時、長門国に移り、五世・鷹岩の時、再び現在の場所に戻った、とある。
永禄年間、芸豊和解のために、上使として聖護院門跡宮が安芸国に下向した。柳沢監物元政は将軍・足利義晴、義輝、義昭三代に仕えたが、門跡宮に随行して安芸国に来た。そのまま安芸国に留まり、ついには毛利家に仕官した。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、秀吉に仕えて、豊臣の姓をもらい、秀吉の死後に再び毛利家に仕えた。文禄年間(1592年~1596年)の頃、高嶺城代になって、中尾・畑・天華の地八百石を領有した。
慶長年間、元政は寺院を再建した。慶長二年(1597)、毛利輝元の命により、足利義輝と慶寿院殿(足利義晴御台盤所。義輝、義昭の母)の三十三回忌供養のために、塔婆を建立した。あわせて、義昭と豊臣秀吉の供養塔も建てた。
豊臣秀吉の供養塔には、防州山口俊龍山献珠院とある。慶長十八年(1613)、秀吉の神号「豊国」を山号に、法諱・国泰寺殿雲山俊龍大居士から、寺号を俊龍寺と改めた。
元文五年(1740 )四院評議で(← 何のことかわからないけど、話し合いのうえ)、雪心和尚を第二祖、潤室和尚を第三祖とした。
後山には柳沢家代々の墓所がある。(以上、参照:『山口県寺院沿革史』、『趣味の山口』)
芸豊和解のため、というのは、毛利と大友が九州の利権を争っていた戦いを将軍家が調停したことで、色々な本に載っている。柳沢元政という人物は歴史シミュレーションゲームにも出てきたが、何者かわからない。確かに将軍家の配下にいたと記憶しているが、毛利家の家臣になっていたとは。
そもそも、こんなところに元将軍だの、豊臣秀吉だのの供養塔があるなんて、およそ信じられない。何でだろうと思ったら上のようなゆかりがあった、と学んだ次第です。
俊龍寺・みどころ
足利義輝、義昭、慶寿院、豊臣秀吉の供養塔。
山門
本堂
豊臣秀吉、足利義輝、義昭、慶寿院の供養塔
向かって左から、慶寿院、足利義昭、義輝、豊臣秀吉の供養塔。いずれも山口市指定有形文化財となっている。「他に類がない」「貴重」「重要」なものということなので、見落とさないようにしましょう。文化財案内版に、なにゆえにそこまで貴重なのかということがきちんと説明されておりますので、案内版の説明文をそのまま載せておきます。
豊臣秀吉供養塔
「慶長三年(一五九八) 豊臣秀死没に際し、毛利輝元が家臣柳澤元政に命じて、供養塔を建立させたのが当五輪といわれる。五輪塔は、平安時代末頃から出現する日本独特の形式をもつ供養塔であり、四個の石を積むのが普通である 室町時代中期頃からは一石で造ったものも多くなる。この供養塔は四石で法名、年月なども刻してあり、本格的である。 この豊臣秀吉供養塔は、歴史的著名人の石塔であるというばかりでなく、石造美術としても、桃山時代の形式をよく伝えている遺品である。 また、秀吉の死没と同時に建立された供養塔は、おそらくこの外には全国的にも例がなく貴重である。」 (文化財案内版)
足利義輝等供養塔
「慶長二年(一五九七)は足利義輝及びその母慶寿院の三十三回忌であり、室町幕府最後の将軍である足利義昭が没した年でもある。毛利輝元は、柳澤元政にこれらの法会の執行を命じており、柳澤はそれぞれの法会の執行の際に供養塔を建立した。
中世には、墓標としての石塔の建立はなく、室町時代後期になって、小さい 墓標、無縫塔、宝箧印塔、一石五輪塔 などに法名を刻したものが造られはじめた。これら足利氏石塔は、その時流にのって造られたものと考えられる。 足利氏関係のもので、法名、 年月などを刻して、正確に供養名がわかるものは、おそらく全刻的にみてもこの石塔のみであり、重要である。
また、無縫塔の室町時代末の形式を知る上でも貴重な資料である。」(文化財案内版)

柳沢って何者? 豊臣秀吉とは? ここのどこが関連史跡なんだ?

「元々」は闢雲寺さまが建てた寺院だった、ってだけだね。
アクセス
山口駅から徒歩。雲谷庵の近くにあるので、普通に通りかかります。
参照文献:『趣味の山口』、『山口県寺院沿革史』
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五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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