

法界寺は法泉寺さまが開基の寺院です!
法界寺・基本情報
住所 〒753-0034 山口市下竪小路71
電話
山号・寺号・本尊 攝取山・法界寺・阿弥陀如來
宗派 浄土宗
法界寺・歴史
大内政弘開基の浄土宗寺院。開山は美濃国檀林立政寺一世・華空迎雲。元は上宇野令長山にあり、浄門寺といった。のちに現在の地に移されたのである。度々火災に遭ったので、九世・聴空呂三の時、現在の寺号に改めた。
寺院の玄関に「碧竹園」という古い額が懸けられており、大内氏長山別墅のものであると言い伝えられてきた。額の裏に、「大内家臣相良遠江守某」と書かれていることがその理由である。『趣味の山口』と『山口県寺院沿革史』はともに、この額が長山別墅のものであるという証拠はない、としている。
寺院の旧地が長山で、額裏に大内氏ゆかりの人物の名前があるとすれば、大内氏長山別墅なる言い伝えが生まれるのもさもありそうなことだ。しかし、この「大内家臣相良遠江守某」は「相良」を「相楽良」と誤って書いている。
『山口県寺院沿革史』によれば、この額裏には法界寺の始終が記されている。再々建文政十二年(1829)五月朔日上棟、天保四年(1833)三月八日~十四日 まで落慶供養、当山第十八世・仁空旭政西堂代として、最後に額字大内家臣相楽良(相良の間違い) 遠江守某と書いてある。この寺が元は長山にあって、相良遠江守筆の古額を所有していることから、長山別墅云々との言い伝えができたのだろう。『大内氏実録』をお書きになった近藤清石先生も大内盛見の碧山別墅を長山と推測していたようなことが書かれていたけれど、少なくとも『実録』の中にはそのような記述はなかった。
ちなみに、長山は現在の亀山の旧名で、長山城址がある。ガイドさんと訪問した亀山公園、あそこら辺だ。そもそもこの議論、大内氏は長山に別墅を持っていて、それが碧山別墅のことなのかどうか、ではなくして、長山に別墅があったかどうか、という話なのだろうか? わからなくなってしまった。
20230129 追記:上の件について。権威あるご本から情報を得たので、解決しておきます。大内文化探訪会様発行の『大内文化探訪ガイド No.1 中世文化の里』で、サビエル記念聖堂についてご紹介くださっているページに、つぎのような解説を見付けました。
もともとここは大内26代盛見が別荘を設け禅僧達と禅を語り、29代政弘当時には平蓮寺があったといわれ中世大内文化の香の漂っていた所である。
出典:大内文化探訪会『大内文化探訪ガイド No.1 中世文化の里』
サビエル記念聖堂のところに書くべき内容かもしれませんが、現在記念聖堂があるところがつまり亀山=元長山ですので、この議論、すでに権威ある方々のご本でさらっと解決されているではないですか。
つまり、大内盛見の別荘があったのは長山だった、と。てか、議論になっていたのは、その別荘からもたらされたといわれる「額」がホンモノかどうか、だったようですね。どうやら。少なくとも、大内盛見の別荘が長山にあった、と確認できたことで一つ学べました。
しかし、上の引用文にある、平蓮寺というほうが、またまた気になってしまいますね。
法界寺・みどころ
町中に普通に存在します。中谷正亮の墓地がある寺院として有名で、参拝する方の第一の目的は墓参でしょう。訪問者も多いと思われ、わかりやすい矢印がついていました(後日訪問しようと思い、見落としました)。
中谷正亮の墓
※未見です。

なんで、中に入らず帰ってしまったんだ?

あまりにまったりと回っていたから、色々なところが明日また来よう、で終わってしまった……。場所はわかっているのだから、次回の宿題です。

来年もまた連れて来てくれるのなら何度見忘れてもいいよ。見るまで繰り返し来てね。
アクセス
山口駅から徒歩圏。町歩きをしていたら偶然にも通り過ぎました。
参照文献:『趣味の山口』、『山口県寺院沿革史』、『大内文化探訪ガイド No.1 中世文化の里』
-
-
五郎とミルの防芸旅日記
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
続きを見る