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永興寺(山口県岩国市)

2023年3月15日

永興寺・山門

山口県岩国市の永興寺とは?

永興寺は延慶二年(1309)、大内弘幸公を開基、高峰顕日を開山とし、夢窓疎石によって創建されたという由緒をもつ寺院です。大内弘世公の代、中興・春屋妙葩の頃には、広大な敷地と大伽藍を備えた名刹でした。大内氏の手厚い保護を受けていましたが、滅亡後は荒廃してしまいました。

慶長年間、吉川広家公によって再興されたといいますが、往時の規模には遙かに及ばなかったと思われます。明治維新の頃、ますます規模を縮小されて現代に至ります。

現在は、夢窓国師が造った枯山水庭園の復元や、堂宇の再建が行なわれ、由緒ある寺院の姿を偲ぶことができるようになりました。特に庭園は、岩国市指定の文化財となっています。

永興寺・基本情報

所在地 〒741-0081岩国市横山1丁目10−27
山号・寺号・本尊 不動山・永興寺
宗派 臨済宗 天龍寺派 別格地
寺院さま HP http://youkouji.jp/

永興寺・歴史

創建とゆかりの禅僧たち

『山口県寺院沿革史』によれば、およそつぎのようなことが書かれています(原文・文語文)。

「開基は大内氏十五代・周防権介多々良朝臣弘幸で延慶二已酉九月に建立された。仏光国師の法を継いだ仏国国師を開山とする。そののち、第九世・普明国師の時、大内修理大夫弘世は基跡を広くし、伽藍もすべて備わった。ゆえに、普明国師を中興とする。至徳三年、足利義満は大内左京大夫義弘朝臣の願い出によって、荘園を寄附し山陽における巨刹となった。

天文二十年、大内家滅亡の後、寺院はほとんど荒廃してしまった。慶長年間、四位侍従吉川蔵人頭広家の本領となり、荒廃していた寺院は再興された。その後、元和四年六月、吉川広正は寺領を寄附し、また、元禄年間には吉川広紀が堂宇を再建した。

しかしながら、明治維新の際、寺領を没収されてしまった。政府に願い出て伽藍を縮小し、現在に至る。

当寺院の塔頭:岩国町橫山村、指月庵、開山・玉林和尙(年月不詳)
(訳注:要はずらっと以下のようなたくさんの寺院を従えていたってことだろうけれど、このご本が書かれたのは昭和初期のこととなります)、薬師堂 (玖阿郡中津村)、鐘秀山松巖院(玖珂郡藤生村)、 松蔭庵(玖珂郡井谷村)、 潮音山慈雲院(玖珂郡油宇村)、 原福庵 (玖珂郡錦兄村)、洪福山長宝寺(玖珂郡祖生村)、 多松山清凉寺(玖珂郡油宇村)、光明山瑞雲寺(玖珂郡日積村)、佛日山常照寺(玖珂郡日積村)、 長松山宝寿寺(玖珂郡南河内村)、南明山福城寺(玖珂郡大山村)、 榮福寺、日照山高山寺( 玖珂郡伊陸村)、  雲林山安樂寺(広島県佐伯郡栗林村)、 響王山東林寺(広島県佐伯郡渋前村)、楽音山日光寺( 広島県佐伯郡寺山村)、勝林山観音寺日光寺 (広島県佐伯郡錦兄扇町)、花谷山正覺寺(広島県佐伯郡瑞林山由宇村)、 多聞山大量院(広島県佐伯郡室木村) 護国山長徳寺(広島県佐伯郡中村村)、積藏山長善寺(広島県佐伯郡杭名村)、 大慈山瑞雲寺(広島県佐伯郡行波村)、東林山万覺寺(広島県佐伯郡谷和村)

本堂、庫裏、書院、土蔵、居間、鐘楼

寺宝 足利義満寺領之状一通、吉川広正寺領之状一通、吉川弘政寺領之状一通、後光明天皇御母継子の御作観音像記一通、豊臣秀吉画像一幅、『三重韻』(天文八年三月、大内義隆刊行。明治十八年御巡幸の際、天皇がご覧になった)、不動山額朝鮮国愚翁之筆ほかに仏像十数点略」

ミル涙イメージ画像
ミル

またぞろ、ナントカ国師とか禅僧だらけ。どなたでしょうか……。

畠山尚順アイコン(卜山)
卜山

ここに出ているのは、無学祖元、高峰顕日、春屋妙葩となるな。蘭渓道隆は建長寺の開山、無学祖元は円覚寺の開山として、暗記させられたと思うが?

ミル涙イメージ画像
ミル

そ、そうですね。春屋妙葩さんも庭園にはいやと出てくるお名前です……。

永興寺ゆかりの五山僧

仏光国師 無学祖元、南宋からの来朝僧。無学が「道号」、祖元が「法諱」。追号は「仏光円満常照国師」。鎌倉中期の人で、北条時宗に招かれて円覚寺開山となった。

仏国国師 高峰顕日(こうほうけんにち)、後嵯峨天皇の皇子、無学祖元の弟子。顕日は「諱」、高峰は「字」。諡号は仏国禅師、仏国応供広済国師。鎌倉後期、北条貞時、高時の頃の人。

普明国師  春屋妙葩(しゅんおくみょうは)、鎌倉末期から南北朝期、臨済宗の代表的な禅僧。妙葩は「諱」、春屋は「字」、 諡号は智覚普明国師。 甲斐国の人で、平氏の出身。夢窓疎石の甥。南禅寺の住持として有名で、天下僧録として全国の禅寺・禅僧を統轄した。

参照:山川出版社『日本史広事典』

つまり、永興寺は大内弘幸公を開基、高峰顕日を開山として建立され、中興は春屋妙葩ってことです。

大内弘幸公と二つの永興寺(古熊と岩国)

大内弘幸公の菩提寺は「永興寺」とされています。寺院の由緒でも、開基は弘幸公となっていますので、ゆかりの寺院であることは間違いありません。けれども、弘幸公の墓所は山口市内古熊の地にあり、そこは「元永興寺」であったとされています。古熊の「元永興寺」は「永福寺」と名を改め、寺地も変りました。現在は円政寺町に同名の寺院があります。⇒ 関連記事:永福寺

古熊と岩国に同じ「永興寺」と名乗る寺院が同時に存在したことが謎でしかありませんが、そもそも寺院のお名前というのは、似たようなものになることが多いのも事実です。たいてい、所在地まで入力しないと、検索しても目的の寺院は見付けられず、同名の寺院が全国各地にあることが普通です。けれども、弘幸公がらみの永興寺については、菩提寺として墓所も伝えられている寺院と、錚々たる禅僧たちが関わって創建された大寺院とが同名ということになるので、何やら不可思議です。

古熊の永興寺も岩国と同じ、高峰顕日が開山、創建年も同じ延慶二年(1309)です。ますますもって、二つある理由がわかりません……。

弘幸公が亡くなった後、弘世公はお父上を弔うため、(岩国の)永興寺を整備拡張したようです。

(前略)本尊を禅宗寺院にふさわしいものとするため正平十七年(一三六二)十一月十九日に、大仏師院什の作による釈迦三尊像を施入しました。正平二十二年(一三六七) に伽藍が整備され、中興開山として春屋妙葩が迎えられます。 横山の全域堂塔・塔頭が建並び、門前町も形成され、周防東部の拠点とし てふさわしい景観を呈するようになりました。
出典:大内文化探訪会『大内氏歴代当主とゆかりの地』

どう見ても、コチラの永興寺こそが、弘幸公菩提寺と思えるのですが、なにゆえに古熊にも同名寺院が存在し、しかもそちらのほうに埋葬されたのでしょうか。あるいは、埋葬場所の寺院のほうが大規模なものだったのでしょうか。謎過ぎてわかりません。

「本陣跡」としての永興寺

歴代当主の菩提寺について適当にしか知らなかった頃、むしろこの寺院は「陶晴賢が厳島合戦の際、渡海する前にここにいた」寺院、という認識でした。のみならず、厳島神主家との合戦やら何やらで、最後の当主とその養子もここにいったん入っています。

大寺院が陣営にされてしまう、という例は枚挙に暇がないですが、こと大内氏に関しては真っ先に浮かぶのがこの寺院です。寺院の規模、ロケーション、すべてがそのような用途にピッタリだったんでしょう。

上で引用させていただいた『大内氏歴代当主とゆかりの地』には、これらの「本陣として使用」についても丁寧に解説してくださっています。ご本を参照に抜け落ちたところを補充すると、以下のようになりました。

永興寺が陣営とされた例

一、大永四年(1524) 五月、義興・義隆父子、安芸出陣(尼子攻め)のため。
一、 天文九年(1540) 九月~十年三月、義隆・晴持父子、同上
一、天文二十四年(1555)九月、陶晴賢、厳島合戦
おまけ:天文二十四年(1555)~弘治三年(1557)、毛利元就、防長経略のため。この後は松崎天満宮に陣替え。
参照:『大内氏歴代当主ゆかりの地』、『大内氏実録』

勝ち戦ならいいんですけど、大敗北して二度と帰ってくることがなかった、とか、敵軍が侵略行為を行なうにあたり使った、とか悲しいですね。

破壊と再興

毛利軍は「本営」を置いたりしてこの寺院を使っていたくらいですが、由緒看板によれば「慶長五年(一六〇〇)に岩国に移封された吉川広家が永興寺を解体し、その敷地を上屋敷に転用した為、その後はわずかな土地を残すのみとなりました」とあります。

壊さないでください!

とはいえ、『山口県寺院沿革史』には吉川広家さんが寺院を再興したとありますし、何を信じたらいいのかわかりませんね。由緒看板(掲示板?)にも「(歴史的にも不明な点が多く、謎の多い寺です) 」とあります。『大内氏歴代当主とゆかりの地』には、広家公は「周伯和尚の懇願により」寺院を再興したと書いてあります。それから、「転用」したのは敷地だけではなくて、元々の建物をバラバラにして、建築資材にしちゃってます。のみならず、先に引用した弘世さんがお父上のために施入した「釈迦三尊像」を黒田家にあげてしまいました。なので、現在は黒田家の寺院?(博多崇福寺)にある模様。

どうせ後から再興するくらいなら、なんで壊してしまうんだよ……。どうして、あれこれを他所にあげてしまうんだよ、と常に思いますけど、仕方なかったんでしょうね。

永興寺・みどころ

歴史の流れを見てわかる通り、大内氏時代の永興寺の面影は皆無です。けれども、再興されたわけですし、姿形はかわっても、現在まで受け継がれているものと見なしてよいと思います。ただし、建物は再建物ですし、敷地も狭められてしまっているので、かつての栄光を偲ぶことは無理です。

山門

永興寺・山門

入り口は小っちゃいです。不動明王らしき像が立っておられます。そういえば、「不動山」だし……と思ったら、もともとの本尊が不動明王だったからだそうでして。そういえば、上の引用文に「本尊を禅宗寺院にふさわしいものとするため」に「釈迦三尊像を施入」したってありましたよね。けど、この釈迦三尊像は今はないんですよね? だったら、現在の本尊はどこにおられるなんの仏さまなんでしょう?

新薬師堂

永興寺・薬師堂

上の『山口県寺院沿革史』の下手な訳文に、「薬師堂 (玖阿郡中津村)」とあったと思います。これ、慶応二年に廃寺となった寺院さまのものだったんですね(瑞光寺)。その建物内部にあった「薬師如来坐像」と「十二神将立像」は平成時代に修復され、今はこの中に移されています。南北朝期の作品だと由緒看板(掲示板?)に説明文があります。

「新」てついているし、堂宇は非常に真新しくて綺麗です。仏像のお姿はいずれも、寺院さまの HP で拝めます。

薬師堂前庭

永興寺・薬師堂前庭

これも枯山水で、薬師堂の前にあるものです。京都の寺院にあるものにそっくりで、たいへん趣がございますが、夢窓疎石の枯山水ではなく、現代の作品です。

永興寺(山口県岩国市)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒741-0081岩国市横山1丁目10−27

アクセス

錦帯橋、岩国城などの傍です。岩国に来てこれらを見ない方もおられないと思うので、町歩きしながら普通に行けます。ただし、錦帯橋と岩国城が岩国駅から徒歩、というわけには行かないのが難です。しかし、有名すぎる観光スポットですので、バスが接続しております。マイカーやレンタカーで来ることももちろん可能です。

参照文献:『山口県寺院沿革史』、『大内氏歴代当主ゆかりの地』、寺院さまHP、由緒看板(掲示板?)

永興寺(山口県岩国市)について:まとめ & 感想

永興寺(岩国市)・まとめ

  1. 大内弘幸が開基の臨済宗寺院
  2. 無学祖元の弟子・高峰顕日が開山、春屋妙葩が中興、夢窓疎石の枯山水庭園があるなど、著名な禅僧ゆかりの大寺院だった
  3. 弘幸菩提寺としての永興寺はかつて古熊にもあり、墓所もそちらにある。開山も創立年も同じで同名の寺院という不思議なことになっているが、古熊の永興寺は現在は永福寺と改名し、場所も移転している
  4. 合戦のたびに本陣として使われるなどしたため、史料や軍記物に名前が頻出
  5. この地を領地とした吉川家は寺院を破却。敷地を転用したり、建築資材を調達したりしたが、その後再興された
  6. 枯山水庭園が復元されたり、堂宇も再建されるなどして、由緒ある寺院の歴史を現在に伝えている

吉川家墓所と吉川家菩提寺に挟まれるようにして、建っておられます。地元の方にお伺いすると、「狭いよ」とのお言葉。「何もないよ」とのご意見も。ただし、これは、「大内文化の遺産が見られる大寺院なのかどうか」という問いかけに対するご案内です。確かに一度壊されているので、大内氏時代の遺産はないです。けれども、目に見えるものはどうでもいいので、歴史ある名刹としてのご由緒が重要と考えれば、訪れる価値は大ありです。さらに加えて、この寺院さまには立派な庭園もあり、紅葉が非常に美しいところとして知られています。青葉の季節もまた一興ではありますが、秋の紅葉の美しさを知る地元の方々からしたら、今頃来てるの~という時期のご訪問だったかも知れません(でも大満足でした)。

当初は「寺院を壊して建築資材にする」という行為をなんだが許しがたいものと考えていたのですが、こうまで色々壊して「建築資材」にしているのを見ると、恐らく当時は「建築資材」の調達ってとてもたいへんなことだったんだろうな、と思うに至りました。裕福な大内氏だからいくらでも大伽藍造れましたけど、ほかの方々には無理なんですよ、きっと。そうでも考えないとやりきれませんからね。「壊すな」と嘆くのは研究者の先生方だけの特権で、我々フツーの観光客から見たら、再建物も南北朝時代からの建築物もじつは見分けなんかつかないので。

今回、廿日市に宿泊しつつ、岩国入りしているという謎な展開で訪問したのですが、岩国と廿日市つまり広島って、目茶苦茶近いです。それゆえに安芸国に侵攻する時には常にこの寺院にいったん籠もるわけですね。「侵攻」はされる側になった場合、迷惑なことこの上ないです。安芸国の人たちからしたら、大内って支配者面した気に食わない連中だ、という心情にもなるわけで。立ち位置を変えれば見方も変る、ってことですね。そうなると、吉川さんたちが寺院を壊して建築資材にするのもわかる気がするんですよね。気にしない方は全然気にしないし、いったいいつの時代の話だよ? ってなると思うんですが、安芸国から入って「廿日市から来ました~」とか喚きつつ観光してみて、なんとなくあれやこれや考えてしまいました。

こんな方におすすめ

  • 大内氏ゆかりの地を回っています(跡地だけでも行きます)
  • 春の花、秋の紅葉を愛でる心があり、庭園を見るのも大好きな方

オススメ度


なんかとても手狭になってしまったような感じですが(元の大伽藍を見たわけではないので、じつは比較できなかったりするけど)永興寺って響きがたまらないんですよ。一度衰退しようが、現在の寺院さまは復興されたものであろうが、ここは間違いなく岩国の永興寺です! 肝心の庭園がまだ見れていないので、その分、ちょいマイナスしてます(見れてないのは寺院さまではなく、観光客側の問題ですが……涙)。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

ミルがさ、「あーーこれがその、夢窓疎石の枯山水庭園だよ」とか言ったからさ、庭も破壊されて今はこんなものか、と思ったら、庭園は奥のほうにあったんだよ。俺たちが見たのは薬師堂の「前庭」だった。

ミル涙イメージ画像
ミル

だってさ、アレ、京都とかに似たようなのあったから、そういうののミニチュアだと思ったんだもん……。そもそも庭が有名とか知らなかったし。けど、このお庭もとても素敵だもの。別にナントカ国師の庭ってことに、こだわる必要はないと思ふ。

於児丸不機嫌イメージ画像
於児丸

いつも言ってるけど、ご訪問前に、きちんと調べてから行かないとダメだよ。せめて寺院さまのHPだけは事前に拝見してください。着いてから見てはダメだよ。ながらスマートフォンになるからね。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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  • この記事を書いた人
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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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