雑録

弘世以前の大内当主たち

2021年9月26日

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琳聖太子が周防国に流れ着いた後……。
大内家の子孫が繁栄し、歴史にその名を轟かせるに至るのは、だいたい大内弘世の代くらいとすべきか。
伝説の人物・琳聖からいきなり大内弘世公にワープするわけにもいかぬので、その繋ぎとして、前史ともいうべき事柄を今回の記事でまとめておく。

大内氏の始動

多々良氏の初見

琳聖の下松着岸は推古天皇の時代。
ここが伝説であるとしても、大内家の先祖が多々良氏の者ということは史実である。
なぜなら、史料によって確認がとれているためだ。
系図によれば、琳聖八代の孫・正恒の代に多々良姓を賜ったとされている。
なにゆえ多々良なのか、については、琳聖が多々良浜に流れ着いたからなのか、それとも正恒の時代に多々良の地に住んでいたためなのかは分らない。研究者の中には、新羅国に多々良に似た地名があり、琳聖は彼の地の出身なのでそれを氏とした、と考えた人がいたらしい(『大内氏史研究』)。
御薗生翁甫先生は次のように書いておられる。

単に新羅国に多々良の地名があるという一事に依って、多々良氏を新羅人とし、それに因って防府に多々良の地名が発生したと考えることは早計であろう。勿論帰化人が故国の地名を以て氏とした例は多いが、それは自ら標現するもので、多々良氏のように百済人と称しているものを新羅人とするの証拠を発見することは不可能である。
御薗生翁甫『大内氏史研究』

著名な先生のご説を根拠に、以後この庭園では多々良氏=百済人であるということは史実と考え、多くを悩まないことにする。

大内氏の初見

多々良氏が「大内」と名乗り始めたのは、平安朝の末、盛房に始まるという。もちろん、これらも史料があって確定されている。

最初に「多々良氏が文献に現われた始め」について。
「京都市上賀茂神社旧社家鳥居大路氏所蔵仁平二年(一一五二)留守所庁下文」の中に、多々良氏の者三名の署名がある。これが現在のところ確認できる最初のものらしい。多くの書物にこの史料が載っていた。

平家全盛期、罪状は不明だが、多々良盛房は常陸国、弘盛(盛房・子息)は下野国、盛保(弘盛・弟)は伊豆国、忠遠は安房国にそれぞれ流罪となる事件があった。しかし、間もなく恩赦により釈放され、「養和二年 (一一八二)四月周防在庁連署文書」に権介多々良の名で無事に復活している。
この盛房が大内を名乗った最初の人物とされている。盛房は周防権介となり、大内介の呼称もここから始まった。その息子・弘盛以降、権介は世襲されていく。
ところで、「大内」、「大内介」という呼称は外部からのもの。署名にはは権介多々良某のように書かれた。⇒権介多々良広盛
つまり、一族以外の人から周防を代表する武家(地方支配権力)として認識されたことで、「大内介」と呼ばれるようになったのである。
それゆえに、たとえ内訌して大内ではなく鷲頭のものが権力を手にしていたとしても、対外的には「大内介」と認識される。中央に名が知られたほうが大内介となるのだ。
義弘が幕府に登用される頃には、将軍や他大名から「大内」という家名で呼ばれるようになった。ここまでいくと、もう内訌が起こっても対立する当事者はともに大内のものなので、自他ともにこの呼称が定着していたといえる。ただ、その後も署名には大内多々良、多々良某などとも書かれ続けた。

系図を見てみると……

大内氏系図-始祖から
五郎通常イメージ画像
五郎

ご先祖様……

この図だと、弘世公が枠からはみ出しそうになっている。
要するに、推古天皇の時代も古いが、盛房すらも何世代も前の人となり、遠い話なのだ。こうしてみると、大内のみならず右田姓にも悠久の歴史が感じられる……。
時代は院政、平清盛全盛期、源平合戦、鎌倉幕府の成立とその滅亡を経て、南北朝対立に至りやっと、弘世様登場なのである。

ミル不機嫌イメージ画像
ミル

ヘンテコな系図がとてもわかりにくいので、ヒント。盛房の「養和二年四月周防在庁連署文書」が1182年だったよね? 仮に鎌倉幕府成立を1192年説で考えても、その十年後です。だいたいいつの頃か分ってくれた? 幕府の滅亡が1333年だから、何を根拠に「悠久の」とか言っているのか不明だね。

そして、その間、大内氏の先祖たちは、歴史史料にチラホラと顔を出しつつ、着実に地盤を固めつつあった。
史料に名前が出てくるということは、それなりの地位と身分がなければならない。すでに名もなき一般人ではないということ。
先祖代々のこうした積み重ねがなかったら、これ以降の飛躍もないわけで、まさに琳聖太子以来受け継がれてきた歴史なのだ。
知りたいですね、本当の先祖の名前。

鎌倉時代までの先祖たち

在庁官人って?

大内氏の先祖たちが歴史史料中に確認されるようになるのは、およそ平安時代くらいのことであり、その身分は、国衙、周防国府政庁の役人としてである。つまり、役所発給文書に役人としてサインしているわけ。
律令国家の地方政庁の役人を「在庁官人」と呼ぶ。教科書にも太字で出てくる「在庁官人」。その初出(教科書)は国司がらみであることが多い。地方の役所には、その「長官」として、中央から国司が派遣された。
彼らは自らの配下を伴っては来るものの、役所内で細かな仕事を分担しているのは地元出身の役人たち。身分も色々だろうが、そこそこエラいのになると当然、地元でもそれなりに名前が通った連中だろう。いわゆる、「地方豪族」という者たちだ。
最初のうちこそ、きちんと任地に赴き、政務を執っていた国司たちだが、やがては名ばかりとなった。田舎なんかいかないよ、と現地には代理の者(=目代)を派遣。地方の役所は「留守所」なんて呼ばれることに。
上の「京都市上賀茂神社旧社家鳥居大路氏所蔵仁平二年(一一五二)留守所庁下文」の「留守所」はまさにそれ。
でもどうせ、そもそも「長官」などというものは、名ばかり。じっさいにせっせと働いている役人たちがいるからこそ、役所は回っているのだ。その意味では、「いなくともけっこう」です。
その後、律令制度が崩れ、荘園制が発展すると、国司の役割も地方政治も目茶苦茶になった。これらのことは、他の場所で改めて話をしたいから教科書の知識でいい。「律令制の崩壊」「荘園制」「武士の誕生」とかその辺りがキーワード。
武士たちは地方に移り住み、そこで土着化していく。それらの人々は、元々は源平の流れだったりするわけだが、地方に移った後は……。開発領主となって土地に住み着く、とある。そして、それらの人々が在庁官人になったケースがある、と。反対に、在庁官人が武装して武士化する場合も。
地方に移り住んだ武士、というのはだいたい、その由来が語られている。元を辿れば、源氏、平氏、誰それ親王、摂関家等々。それらの由来がない、ということは、この時点で流れ着いてきた者とは違うとみてよい。ならば、武装化した在庁官人なんだろう。
御薗生翁甫先生の『大内氏史研究』を稚拙な言葉で再現すると、だいたい次のような流れである。
源平合戦の頃。地方の豪族たちの中には、平氏についたものも、源氏についたものもいた。鎌倉幕府の成立後、平家を支援していた者たちは没落し、源氏を支持していた者たちは取り立てられた。

周防国では権介多々良弘盛・満盛父子は源軍に協力して、長門国を賜うたが、周防在庁たるの地位を保って鎌倉の家人とはならなかった。その他の在庁官人もまた、旧来の地位を保って、これまた、鎌倉の家人とはならなかった。
御薗生翁甫『大内氏史研究』

「鎌倉の家人にはならなかった」というところがすごい……。
しかし、教科書でおなじみ「元寇」の時、幕府は非常事態であるからと、本来ならば奉公義務のない非御家人や納税不要の寺社勢力に至るまで国を挙げての協力を呼び掛けた。

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新介

ご先祖様たちも、皆と一緒に異国を撃退したのか。負けてはいられない。

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於児丸

武士なのに非御家人ってどんな人たちだろう、って思ってたけど、やっとわかったよ……。

ひとことでまとめると、「多々良氏は地方の有力な豪族」だった、というところに落ち着く。地方、つまりは周防国だ。それ以前はそもそも、どこから来たのか。本当に渡来人の子孫なのか? については分らない。どうやらそうらしい、というよりほかない。
御薗生翁甫先生のご本には、琳聖太子から大内教弘までの通史が丹念に研究されていて、これをマスターすればすべて氷解することは分かっている。だけど、日本史の知識がいい加減だといくら立派な研究書を読んでも理解できないし、いつまでたっても身につかない。急がば回れというのは本当だ。
難解に思える研究書の内容も、すべては教科書に書かれている事の具体例に過ぎない。土台のないところに柱は立てようとしても倒れるし、家なんか永遠に建たない。もう一度戻って来ようと思う。

渡来系氏族って?

渡来人の子孫というのも大量にいて、古代史の本を適当に読んだだけでも凄まじいことになる。桓武天皇には百済系の血筋が流れているということは、教科書にも載っている。それだけ多くの渡来人が日本に来ていたわけ。
元々は故国の姓を名乗っていた彼らは、やがて日本風の姓を賜り定住する。その際に、己の先祖を高貴な血筋であると「申告」する人々が多数いたそうである。だから、百済の王族、高句麗の王族の末裔……という尊い身分の方々が大量に出現した。当然ながら、その中には「騙り」もあったに違いない。なぜそんなことをしたか。より尊い姓を賜ることができるから。
とはいえ、これは古代史レベルの話なので、庭園の人々が歴史上に名前を表してくる時期には、すでにこれら渡来系の人たちが自らのルーツを正確に述べるにはあまりにも長い時間が経ちすぎていたのだろう。正直、すっかり日本に同化して前世は不明、ってことになっていたかと。数百年も過ぎれば元は大陸からと言ったって、もう日本に根を下ろしてからのほうが長いのだから当然だ。
どこかに、朝鮮半島から来たのだという言い伝えが残っていて、それを頼りにこれ以後の捏造をしたのだろうか。
上で、御薗生翁甫先生の言葉を引用したところに、この庭園では多々良氏=百済人であるということは史実と考え、多くを悩まないことにする、と書いたけど、本当は気になっている。ただ、気になり出すと先に進めないことと、世の中にはもはやどうしても明らかにすることができない史実というものが存在することから、これ以上の詮索をやめた。
歴史のうち、史料によって解明できていることはほんのわずかでしかない、と書いてあるのをどこかで見た。明らかになっていることのほうが、むしろ奇跡的なのだ、と。新たな史料は今後、思いもかけないところから発見されるかも知れない。そうすると、これまで常識だと考えられていたことが、見事に覆される可能性がある。
その意味では、いつの日か、琳聖もその「実在」が証明されてしまうかも? そうなったときには、祖先伝説は作られたものである、と仰っていた先生方全員が自説を改めざるを得なくなる。その可能性は限りなく低そうであるけれども。

参照:『大内氏史研究』御薗生翁甫 マツノ書店 平成13年復刻

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ミル@周防山口館

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