雑録

築山大明神とは

2024年1月1日

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築山大明神とは

いわゆる「人間神」で、大内氏二十九代当主・大内教弘のことを指します。大内氏が最も繁栄していた時代、三十代当主・政弘は、氏寺・興隆寺を勅願寺とし、先祖伝説を「大内氏多々良譜牒」として文書化するなどしました。その際に、父である教弘に従三位を追贈し、さらには神格化して祀りました。

教弘の隠居所でもあった築山館は、ある時期を境に建築物としての用途が変ったらしきことが、考古学的発掘調査から明らかになっています。それは、宗教施設、つまりは神格化された教弘を祀る神社に生まれ変わったのではないかというのが通説です。大内氏一族、さらには家臣たちに至るまで、築山大明神を篤く信仰していたことが各種史料からも明かとなっています。

さらに重要なことは、教弘の神格化は、その後次々に現われる武将たちの神格化の最も古いケースであったということです。

そもそも「人間神」って?

『古事記』や『日本書紀』に載っている神話時代の神さまではなく、実在した人物を神さまとして祀るようになった神々をいいます。なにゆえに神さまとしてお祀りしたのかという理由により、二種類に分れます。

一、いわゆる「怨霊」のようになって様々な祟りをもたらす人の霊を慰めるために、神さまとしてお祀りする
二、崇拝するに相応しい立派な業績を上げた人を称え、後世にその偉業を伝えるために神さまとしてお祀りする

一に関しては、菅原道真が真っ先に思い浮かびます。ほかにも、応仁の乱勃発地として有名な上御霊社に祀られていた非業の死を遂げた高貴な方々、あれこれ祟りしたとの噂がある平将門などがおられますね。

二に関しては、万葉歌人・柿本人麻呂から始まって、安倍晴明から『太平記』の登場人物、戦国武将、明治維新で活躍した方々まで、じつに多岐にわたります。

大内氏二十九代当主が神となるまで

繁栄の足跡

琳聖太子から始まって、延々と歴史を紡いできた多々良氏は、二十四代・弘世の頃から、全国区に名前を知られた大勢力として認知されるようになります。弘世の息子・義弘の代には、将軍・足利義満の覚えめでたく、安芸国・東西条を賜ったほか、紀伊や和泉といった畿内にまで守護職を得ました。けれども、勢力が巨大化しすぎたことを危険視され、義満の有力守護抑制政策の犠牲となった義弘は応永の乱で亡くなります。

義弘の死で、いったん勢力が弱体化したかに見えた大内氏でしたが、後継者・盛見の努力によって将軍家との関係も改善。勢力圏も安定しました。大内氏の勢力が安定していくのと反対に、将軍家のほうは義満期を頂点として、その後は次第にその求心力を失っていきます。配下の勢力が大きくなりすぎるのをセーブしていくというよりは、それを上手く利用し、その力に頼って幕府権力を維持していたという感じでしょうか。守護たちのほうも、将軍に認めてもらうことによって自らの地位が安定しますので、「凶徒討伐」のような命令には素直に従い、その役目を全うしました。

幕府がある京都の地から遠く離れた九州は、九州探題を置いて睨みをきかせていたはずが、だんだんと有名無実化。ほとんど九州地方の一守護といった力しかないほどに、有名無実化します。それをいいことに、九州地方ではしばしば「凶徒」による叛乱が起りましたが、その討伐には大内氏の力を借りるのが常でした。大内氏自身も、豊前国の守護職を賜っておりましたので、九州で火種が燻ると他人事ではありません。自ら望んで将軍から「凶徒討伐」の許可をもらい、それらの火種を揉み消した例もありました。いわばウィンウィンの関係が保たれていたのです。

守護職はそもそも世襲ではなく、つどつど適材適所に有能な人材を任命するシステムだったはずが、いつの間にか半ば世襲化。それでもいちおうは将軍家の認可が必要ですので、代替わりする度に世継ぎ争いが起る大内氏にとって、将軍家との関係を良好に保つことは大切でした。盛見を継いだ持世は、兄弟・持盛との争いに打ち勝って家督を継いだゆえにか、認定してくれた将軍・義教に忠誠を尽して嘉吉の変に巻き込まれて横死してしまったほどです(単に居合わせただけの不運ととれなくもないけれど、即死した将軍を置き去りに逃げ出した人多数なので、なにゆえともに逃走しなかったのかは、永遠の謎。単なる『逃げ遅れ』の可能性も捨てきれない。でも、ご本人に確かめる術はないので)。

しかし、将軍家の求心力低下とやる気のなさにより、幕閣内での権力争いが激化。ことに細川家が管領として出しゃばってくるにつけ、地理的に瀬戸内海の制海権を巡って衝突を避けられない大内氏との対立は激化します。将軍本人とは普通に友好的でも、政治を動かしている管領と険悪になれば、あれこれと面倒です。「三管領」というからには、管領の地位に就けるのは細川家だけではないため、斯波、畠山が担当していれば、被害は少ないのですが。

教弘期、管領職に就いた細川勝元は、伊予国河野氏の争いに介入。幕府から「討伐」の命令を受けた教弘は、大人しくそれに従ったと思いきや、命令を無視して、勝元がテコ入れしているのとは反対の勢力・河野通春に味方してしまいます。細川家がこれを苦々しく思わなかったはずがありません。教弘までもが「討伐」対象認定となりますが、本人は合戦の最中に病を得、伊予国・興居島で無念の死を遂げました。

その後に勃発した応仁の乱で、教弘の子・政弘が細川家を中心とした東軍ではなく、その敵対勢力にあたる西軍・山名宗全に味方したのは当然のことです。大乱は十年余にも及び、結果は将軍・義政を頂いていた東軍の勝利に終わりますが、大内氏がそれによって不利益を被ることはありませんでした。西軍勢力中最大の軍事力を持った大内氏は、東軍にとって最大の脅威でした。それゆえに、すべての地位と身分を安堵するゆえ、軍勢を引いて欲しい、という条件でお引き取り願ったのです。あわよくば、父の仇・細川勝元を倒したいという思いが強かったと思われる政弘ですが、出口が見えない長期戦となり、得るところがなく引くに引けない状態ゆえ、この結果は大満足とまで言えずとも、まあまあと言えるでしょう。敗北して領国を削られるようなことになったら大変でしたから。

大内氏の勢力は教弘期に最大となり、そのまま半ば世襲のようにして、政弘、義興、義隆と続いて行きました。応仁の乱を以て戦国時代の始まりとする研究者が多いですが、それはオダノブナガなどが現われて以降の話では? とあくまで個人的にですが、考えています。とはいえ、実力ある者が自由に国土を拡大していく時代は目前に迫っていたわけですので、そのスタート地点で、かくも広大な領国を手にしていたことはとてつもなく有利な条件でした。

盛見期の大内氏勢力範囲:周防、長門、豊前、筑前
教弘期の大内氏勢力範囲:周防、長門、豊前、筑前(石見、安芸、肥前)
政弘期大内氏勢力範囲:周防、長門、豊前、筑前、石見(安芸、肥前)
義興期大内氏勢力範囲:周防、長門、豊前、筑前、石見、安芸、山城
義隆期大内氏勢力範囲:周防、長門、豊前、筑前、石見、備後、安芸
※( )は実質上勢力下にあったという意味(参照:『大内文化研究要覧』)

栄華の始まり

大内氏歴代当主が揃って「文武の将」と褒めたたえられているのは周知のことです。弘世さんの代に「山口十境詩」の趙秩さんなどを招いたことから始まって、文芸好きの遺伝子は代々受け継がれていきました。南北朝期に、上洛して京都の都に憧れた弘世さんは、山口に政庁を移し、京都の町に似た町づくりを推進。義満将軍の西国下向を機に上洛した義弘さんは、都の文化人と交流を開始した最初の当主さまとなりました。

義弘さんを皮切りに、以降の歴代当主たちは、ほかの守護たち同様、京屋敷を造営して在京。文化人たちとの交流はますます盛んとなります。盛見さんは五山僧たちと活発に行き来し、持世さんは歌人として名を馳せました。けれども、教弘さん以降、文化人たちとの交流は少しくそのあり方を変えていきます。

教弘さんも上洛はしましたが、在京はしていません。在京しなければ、文化人と交流することもできず、文武の家としての伝統も途切れてしまったのか、と思われるかも知れません。当然ですが、けっしてそんなことはありませんでした。教弘期以降、当主たちが文化人に会いに行かずとも、文化人のほうが山口を訪れ、当主たちと交流するようになったのです。

教弘期に造られたとされる「築山館」。それは、弘世期から続く政庁および居住空間である大内氏館が手狭になったゆえの造築でもあったでしょうが、「新館」は山口を訪れる人々をお迎えし、接待する「迎賓館」といった役割を担っていたと考えられています。著名な雪舟も、教弘期に招かれて山口に滞在することとなりましたし、歌人・正徹の弟子・正広もやって来ました。有名無名を問わず、数え切れないほどの文化人が行き来したことと思います。

教弘自慢の嫡男・政弘が、歌人として輝かしい業績を残したのも、父・教弘の文芸好みによるところが大きいかと。幼い頃から、文化人との交流を目の当たりにして育ったゆえにでしょう。

教弘の死後、政弘の前半生は応仁の乱による在京に十年もの歳月を費やすことになります。しかし、あまりにも長く続いた大乱は膠着状態に陥り、在陣中とは言っても、文化人と交流するような余裕すらあった模様です。文芸の人としてますます磨きがかかって帰国した政弘の元には、次々と文化人たちが集結しました。大乱で京の都は焼け野原となり、活動の場を失った人々が文芸好きの守護大名たちの元に身を寄せたことは、受験参考書にも書いてあります。これによって、中央の進んだ文化が地方に波及していったと。

守護たちはこの頃から、在京を完全にやめてしまい、自らの領国経営に精を出します。そして、当主たちの趣味嗜好によって多少の差異はあるものの、彼らは極めて貪欲に中央の文化を取り入れようと努力しました。こうして、いずこも受け入れ体制は整っていたとはいえ、京都の暮らしに慣れきっていた貴族たちにとっては、京都にそっくりな山口の町がどこよりも住み心地がよかったものと思われます。しかも当主は、武門の中では最高級の文芸人。山口の町が「西の京都」と化してしまったのも、自然の流れですね。

文芸を好むかどうかによって、その人物を評価するのもどうかと思います。武士である以上、荒くれた武芸者であっても問題ないわけで。ただ、のちの戦国大名といわれる方々も、武芸に優れていたのみならず、皆それぞれに文化的教養も身につけておられたようですので、その意味では文武両道は当たり前になっていたのかもしれません。しかし、何事も初めが肝心。その意味で、大内氏歴代がのちに次々と輩出された文武の武将たちの先駈けとなったことは間違いありません。

文明十八年

文明十八年(1486)は、大内氏の繁栄が最高潮に達した年であると考えています。これは極めて個人的な意見でして、研究者の先生方にはお叱りを受けるかも知れません。大内氏歴代の中で、最も有名なのは恐らく、最後の当主・義隆でしょう。しかし、気の毒なことに、家臣の叛乱で命を落としてしまいましたし、戦国の荒波を乗り越えることができませんでした。義隆の父・義興こそが、最高の当主であるとする向きも、いや、山口開府の父・弘世さんだと考える地元の方々も、変わり種では琳聖太子こそ最高にロマンチックと感じる方もおられるかと。なので、極めて「個人的な」とお断りしているのです。

確かに義興期は足利義材の将軍復職を助け、将軍の周防国下向とその後の帰洛・復職後も含めれば、義興は半ば天下人の雰囲気すら漂います。けれども、彼は単に将軍家を助けたに過ぎず、天下取りなどという概念を持たなかったわけで、その意味ではただの上洛です。しかも留守中に、尼子経久などの新勢力の台頭を許し、中国地方の秩序は乱れてしまいました。ここは本人の落ち度でも何でもなく、歴史の流れではあります。しかし、このような不安定な状態を以て、最高に繁栄した時代の当主に推すことはできないのです。

では、文明十八年とは大内氏にとってどのような一年であったのでしょうか。以下の通りです。

一、政弘と亀童丸(のちの義興)とが、氏寺・興隆寺に参詣する
二、興隆寺に後土御門天皇の勅額が下賜される
三、雪舟が雲谷庵をアトリエとして「四季山水図」を製作

一について。教弘期から始まったイベントです。現役の当主が、二月会で次代の跡継をお披露目するという役割も持った行事です。これによって、跡継は誰なのかが明白となり、平穏無事に家督が継承されるという願いが込められたものでもありました。兄弟が大勢いれば、その後のことなどどうなるかわかりませんが、恐らくは、この時期に至り、当主権力が絶対的に安定してきたということでしょう(実際、義興の家督相続に反対する勢力の暗躍などもあったのですが、簡単に撃退されています)。また、跡継候補には「亀童丸」と名付けることも、教弘期に始まったことで、政弘以降、嫡男はすべて「亀童丸」を名乗ることになります。わずかに三代で途絶えてしまうのが何とも皮肉なことですが。

二について。氏寺・興隆寺は歴代当主によって大切に大切にされてきました。けれども、ここへ来て天皇から「勅額」を賜ったことは、ただの田舎大名の氏寺ではなく、由緒正しい勅願寺として興隆寺の荘厳さも最高潮に達したといえます。興隆寺が勅額を得るまでには、政弘による数々の根回しがあったであろうことは確実で、数多くの文芸に秀でた人々との交わり(当然、公家が多いでしょう)によって叶えられた側面もあろうかと。困窮した公家たちには経済的援助も必要だったと思われ、財政的にも潤っていなければ叶わなかったことです。

氏寺に勅額がもらえるかどうかなど、どうでもいいと言えばそれまでですが、現代人の感覚では中世の人々の思想は理解できません。歴代当主はそれまでも、氏寺興隆寺に対して数々の荘厳化を試みてきましたが、その集大成とも言えるかと。

氏寺・興隆寺の勅願寺化に際して、天皇から寺院の由緒来歴についてご下問がありました。政弘はそれに答えるために、大内氏の家譜をまとめます。これが「大内多々良譜牒」といわれるものです。長々と続けられてきた、歴代当主たちの先祖伝説をまとめる事業も、ここへ来て完結したのでした。

三について。雪舟の「四季山水図」は国宝です。著名な画家の国宝にまでなっている大作が、この年、この時、山口で制作されたというのは、極めて意義深いことだと思われるのです。

このように見てくると、さまざまな意味で、文明十八年は大内氏にとって記念すべき一年であった、と思えるのです。

築山大明神の誕生

孝行息子から父への贈物

政弘は父・教弘の没後、従三位を追贈し、また父の御霊を祀る社殿を造って菩提を弔っていました。追贈が何年のことなのか、『大内氏実録』にも『大内文化研究要覧』にも記述が見当たらないため、年次についてはしばし保留にさせてください。

また、お父上を神として祀ったことについても、何年何月から始まったことなのかは正確に書かれたものが見付かりません(書いている人が見付けていないだけです)。「築山大明神」として正式に神格化されたことがわかるのは、教弘が祀られた社殿をきちんと清掃するようにと記された掟書と、神道家によって神号が与えられたのが、ともに文明十九年であった、ということです。

教弘が亡くなってから、応仁の乱による在京、帰国後の荒れ果てた分国の整備など、政弘にはやらねばならないことが山ほどありました。九州は留守の間に秩序が乱れており、出陣して鎮圧することも行なっています。そのような中で、心静かに父の御霊をお祀りする社殿を造ることができたのか定かではありません。けれども、神道家が神号を授けた時点で、教弘はすでに大内氏では神として祀られていた模様です。神号授与は、単にそれを公的に認めたようなものかと。

つまりは、何年何月のことか不明ながら、政弘は父を神として祀っており、神道家に頼んでそれを正統なものと認めてもらったのです。思うに、いくら忙しいからといって、私的に祀っている状態で長期間放置していたとは思えないので、神号授与からそう遠くない時期の話なのではなかろうか、と思います。

神号授与

大内氏と神道家との結びつきはじつは意外に古く、大内義弘代にまで遡ります。歴代の中で、神道に深く傾倒したのは義隆であったと言われており、初期の頃から最後の当主まで、長らく交流が続いていたものと思われます。

なぜかなら、後述する教弘の神格化にも、のちの義興による伊勢神宮勧請にも、神道家の援助は必須でした。この二点を除けば、義隆以前の当主と神道家の結びつきについてはあまり語られることがないように思いますが、恐らくは義弘期から脈々と受け継がれていたのでしょう。

義弘が神道家と結びついた理由は、南北合一を成し遂げた際、義弘とともに南朝との交渉にあたったのが、神道家・吉田兼煕であったゆえにです。応永二年に『故事拾遺』なる書物をもらった、ということだけしか知られていませんが、ほかにもなにがしかの行き来があった可能性はあります。

この吉田兼煕の子孫が、のちに「唯一神道」といわれる説を唱えたことで知られる吉田兼倶です。反本地垂迹説(神道を中心に儒教や仏教を統合した神道説)の論者として、受験参考書にも赤文字で載っているお方ですね。要は、神仏習合の時代に、日本の神々が仏教の神々(仏さま)の風下に置かれているのはもってのほかである、と主張したわけです。

教弘に「築山大明神」の神号を与えたのは、まさにこの、吉田兼倶さんでした。文明十九年三月のことです(『戦国武士と文芸の研究』)。このとき、「教弘を祀る霊神築山社」に大明神の神号を与えたというので、この時点で「霊神築山社」なる社殿があって、教弘が祀られていたことは確実です。そして、この時点を以て、「築山大明神」となったわけです。

大内氏による築山大明神信仰

神道家から神号を得、由緒正しき神として認められた教弘は、「築山大明神」として、大内氏歴代や家臣たちから崇拝されました。そのことを示すものとして、同じ文明十九年に出された築山大明神を清掃することを記した掟書、有名な相良武任の「申状」に、無実を訴えるために、○○の神に誓って云々のところで、妙見大菩薩とともに築山大明神を挙げていることなどがあります。

政弘にとっては父、義興にとっては祖父、義隆にとっては曾祖父となりますが、おそらく義隆期には完全に神格化されていたのでしょう。義興すら、祖父の死後の生まれですから、優しい祖父さまというよりはすでに神さまであったかも知れません。

大内氏によって、かくも篤く信仰された築山大明神ですが、その社殿が鎮座していたのは、元々築山館であったところではないか、と見なされています。例の、考古学的発掘調査から、ある時期を境に造り替えが行なわれた形跡が認められているためです。ここも、正式に何年何月ということまでは現在の技術ではわからず、もどかしい限りですが、文明十九年に神号を授かった時点で社殿があったのですから、だいたいのところは想像できますね。

その後の築山大明神

義隆期に家臣の叛乱で家が滅亡し、やがて叛乱家臣たちの政権も毛利家によって滅ぼされてしまいました。毛利家が滅ぼしたのはあくまで「叛乱家臣の傀儡政権」ですので、大内氏を滅ぼしたという感覚ではなかったものと思われます(個人的にはそうは思いませんが)。ゆえに、毛利隆元は、舅でもあった大内義隆の菩提寺・龍福寺を、大内氏館跡地に建立したりしております。その後、輝元期にも、大内氏代々の霊を祀る宝現霊社なる神社を建立し、それは龍福寺の境内にあった模様です。現在も龍福寺境内に同名の祠がございますが、由緒では、輝元建立の宝現霊社は現在築山館跡にある築山神社であるということです。

要するに、毛利家の方々が菩提寺まで造って弔ってくださったのは、最後の当主なのであって、その後それに加えて大内氏歴代を合祀した神社も造りましたが、それもやはり最後の当主が主祭神であり、それ以外は配祀です。つまり、築山大明神はどういうわけか忘れ去られてしまったことになります。まあ、毛利家の方々には何ら関係のないものですので、仕方ないといえばそれまでですが。

ただし、かように荘厳化され、崇拝されていた築山大明神の社殿がなにゆえに消えたのか、謎です。叛乱家臣は、傀儡政権とはいっても、大内氏の血縁者に大内姓を名乗らせて当主としていました。幕府からの認可も得ています。つまりは、見た目状、大内氏は義隆後も続いていたわけです。その状態で、代々篤く信仰されてきた築山大明神を粗略にしたとは考えにくいです。

ならば、いつ誰によって? となりますが、毛利隆元が大内氏館跡に義隆の菩提寺を建てた際、館を壊して菩提寺を建立するような無礼なことをするはずがありません。要はその時点で「跡地」になっていたのです。大内義長(大友晴英)が毛利家の防長経略によって倒される直前、側近の内藤隆世と敵対する杉重輔との間に戦闘が起り、山口の町は燃えてしまいました。どのくらいの範囲が火災の被害に遭ったのかは不明ですが、大内氏館跡が燃えたことは間違いなく、焼け出された義長は今八幡宮に仮住まいしている状態となります。

大内氏館と築山館とはとなり合っていたわけで、政庁と居館が被害を受けたならば、築山大明神も無事ではなかった可能性が高いと思います。あくまで推測ですが。

現在、かつて築山大明神があったと思われる場所は、築山跡として整備され、公園となりました。市民の憩いの広場として大切にされているのです。大内氏歴代を祀る築山神社の中には、築山大明神、こと、教弘の御霊も含まれているわけです。姿もかたちも変りましたが、信仰は今も続いている、ということもできるでしょう。

参考文献:『大内文化研究要覧』、『戦国武士と文芸の研究』、『大内氏実録』、『大内氏の文化を探る』、受験参考書

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五郎

掃除当番嫌だなぁ、って思ってたけど、神社が燃えちゃったのはなんだか悲しいね。ん? 燃えたかどうかわかんないの?

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ミル

現状のミルたちにはこれ以上調べられないよ。つぎ、山口行ったら図書館に行ってみようね。

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於児丸

新介さま、寒いからちゃんと着込んで、公園に行きましょう!

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新介

そうだね。築山大明神がイマドキの方々に愛される公園となって、僕はとっても嬉しいよ♪

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法泉寺さま

……。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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