禅宗とは?
座禅をして悟りを開くという、仏教の一宗派です。インドの達磨が開祖で、中国大陸を経て日本に伝わりました。鎌倉時代に栄西が臨済宗、道元が曹洞宗の祖師となり、武士階級などを中心に広く受け入れられ、今日に至ります。現在は、臨済宗、曹洞宗のほかに、江戸時代に伝えられた黄檗宗をあわせて三つの系統があります。
大内氏について調べる時、漢字だらけでぎょっとするのが禅僧との交流云々。理解しろと言われても無理だけど、どうしたら? ここは修行中の宗景さまに聞いてみようと思ふ。
この俺に尋ねて理解できる回答が得られると思ったか。何一つわかっていないことの証明としてはじゅうぶんだ。
この人はたぶん、修験者の類だと思うよ。それに世捨て人みたいだから、そっとしておいてあげようね。僕と新介さまがまるっと解説するよ。
宗文化の流入と鎌倉新仏教
平安時代末期、平清盛が日宋貿易で富を築いたことは有名です。大内家歴代同様、海外との取引で利益を上げる、ということに目を付けた革新的な人だったんだね。推古天皇の頃から、遣隋使、遣唐使なんかで大陸に使者を派遣して先進文化を取り入れる、ってことをやっていたわけだけど。それらが、天神さま、こと菅原道真の提案で「もう唐に学ぶべきものはない」航海も危険だし割に合わないってことで、894年に廃止されて以降、国を挙げて大陸とやり取りってかたちはいちおう終結したんだ。歴史の授業で習った話だよね。
もはや唐に学ぶことなんかなくなった、って意見には大賛成。僕たちには僕たちの歴史と文化がある。漢字使ってるから何もかも大陸の真似してるとか言われたら憤慨だよ。確かに彼らからあれこれ学んだことは事実だけど、「もはや学ぶことなんかなくなった」くらい、独自の文化が発展したんだからね。それはほかの(元)漢字文化圏だった国々すべてにいえることだよ。他国から学ぶばかりで、いっさい独自の文化をもたない国や民族なんて、存在するはずがない。ただし、それと同時に、たくさんのことを学ばせてくれたかつての先進国には素直に感謝しているけれどね。
平清盛にしろ、大内家歴代にしろ、海外取引はもはや、金儲けの手段。海外から日本では手に入らない珍しい物を手に入れて、国内で高く売る。日本からも連中が喜ぶ物を持って行って高く売りつける。あまり高尚なお話じゃないけれど、究極はそういうこと。けれどもそれらの珍しい物と一緒に、なおも宗教や文化が輸入されていたことも事実。これは遅れていたからじゃないよ。それこそ物珍しかったからだろう。
仏教伝来からこの方、お坊さんたちは国家公務員みたいな扱いで、南都六宗の教義を勉強し、国家事業として天皇や大貴族のために仏事を執り行った。その後、遣唐使から帰国した弘法大師、伝教大師によって密教が伝えられ、真言宗、天台宗が盛んとなった。密教ってきくとミステリアスなイメージだけど、真言宗は文字通り、せっせと加持祈祷を行なった。いっぽう、天台宗も加持祈禱はしたけど、こちらはその哲学的な教義を学ぶことが一種の教養、ステイタスみたいになって、天皇や貴族たちは熱心にその習得に努めた。そんな具合なので、天台宗のトップ・天台座主になれるのは、人柄や教養はもちろんのこと、元々の身分も高い人でなければならなかった。
だって、皇族方や摂関家みたいな錚々たる方々がその位に就いていたから。天台座主○○法親王なんてよく聞くよね。むろん、真言宗とて負けてはいない。真言宗御室派はやはり皇族方の宗派。総本山たる仁和寺など、代々皇族方がお入りになっておられたりする。
どうやらここまでだと、仏教は一般庶民のものではなく、天皇や貴族のためのものみたい。平安末期、末法の世に入ると、人々は死後に極楽浄土に行くことだけが望みとなり、せっせと念仏を唱えた。浄土教ってやつだね。「生きているうちから極楽浄土を見ておきたい」なんて言って平等院鳳凰堂を造ったような話を聞くと、なんだ、やっぱり大金持ちの大貴族しか救われないのか、と幻滅するかもしれないけど、大丈夫。『平家物語』では白拍子の祇王や仏御前も念仏唱えていたじゃん? ようやく、一般庶民にも救いが見えてきたみたいだね。でもまだまだだよ。
どんだけ前置き長いんだよ? 早く禅宗の話しろよ。眠い……。
(↑ 無視)仏教が一般庶民のものとなってくるのは、武士の世の中、鎌倉時代になってからのことです。
だから「鎌倉新仏教」なんだね。
鎌倉新仏教
鎌倉時代くらいに、新たに広まった仏教のことを、ひっくりまとめて「鎌倉新仏教」なんて呼ぶことがあります。お金もなく、京の貴族たちのような教養もない、世間一般の庶民の人々でも信仰できるようなわかりやすい内容だったことが特徴です。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗……などがそれです。
新仏教のキーワードには二種類、合計五つあります。
まずは、もっとも根本的なものとして、「選択」「専修」「易行」です。
「選択」はせんたくではなく「せんじゃく」、「専修」はせんしゅうではなく「せんじゅ」と読みますので注意してください。それぞれどういう意味なのかといえば……。
新仏教のキーワード・その1
- 選択 ⇒ なにかを一つ選んで信仰しましょう
- 専修 ⇒ 選んだらそれだけをお勤めしましょう
- 易行 ⇒ お勤めはとっても簡単です
というような感じです。かつての貴族たちはたいへんでした。さまざまな教義を学びつつ、さらに加持祈祷だなんだと大枚はたいて僧侶を呼び、加えて念仏も唱えていました。コレってほとんど、ありったけの宗派全部使い倒してますが、これからはそんなことは必要ないです。何か一つを選択し、それだけを信仰すればいいのです。しかも、信仰の仕方もとっても簡単。浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗とかきいてピンときた人もいたかも。そう、念仏あるいは題目さえ唱えていたら極楽浄土にいけてしまうのですよ。ほかには何もしなくていいんです。
わけわからない哲学的な教義を学ぶ必要も、大金使って豪勢なお堂を造る必要も一切なし。唱えるだけで極楽往生とかきいたら、嬉しすぎて誰でも唱えますよね? ん? 地獄に墜ちたいから唱えない? まあ、そういう特別な人がどうすればいいのかわかんないけどね。
浄土宗以下の説明はここではしません。主題は禅宗なので。
さて、二種類のキーワードのもう一種類ですが、「他力」と「自力」というものです。
他力って、他力本願とかいうように、他の人の力を借りてってことですよね。上の念仏唱えて云々系の宗教というのは、念仏を唱えることによって仏様に助けてもらえる、という性格の宗派です。自分が頑張るのではなく、仏様が勝手に助けてくれるのですから、これらは「他力」です。もちろん、念仏(題目)をちゃんと唱えないと助けてはもらえないけどね。
いっぽう、「自力」はその反対ですから、自らの力で頑張らなくてはなりません。えーー、「頑張る」とか、簡単じゃないじゃん。「易行」じゃなくなっちゃうんじゃないの? って声が聞こえてきそうですが、単に座禅するだけだから。誰でもできることにかわりはないよ。
新仏教のキーワード・その2
「自力」と「他力」
- 自力本願:浄土宗、浄土真宗、時宗、日蓮宗など
- 他力本願:禅宗
やっぱり嘘つきじゃないか。どこが「簡単」なんだよ。「単に」とか言ってるけどさ、座禅とか面倒なことこの上ないよ。俺、大嫌い。
だよな。メンドーじゃん。
このような人たちは相手にしていません。
臨済宗と曹洞宗
『日本史広事典』で禅宗を引いてみたところ、およそつぎのようなことが書いてありました(江戸時代以降無視)。
一、北魏末 インドの達磨によって伝えられた
二、唐~宗代 臨済・曹洞・潙仰 ・雲門・法眼の五家に分裂。臨済はさらに黄竜・楊岐の二派に分れた(『五家七宗』)
三、「宋代以後、五家七宗は臨済宗楊岐派と曹洞宗の二派だけとなった」
四、鎌倉時代から江戸時代にかけて、臨済・曹洞二派のすべてが日本につたわり、全部で「二十四流」がある。
というようなことで、ナントカ派とかわかりませんが、鎌倉時代に日本に伝わったのは、臨済宗と曹洞宗でした。二十四もの流派があったってことは、覚えなくていい気がするのですが、大量にいてゴチャゴチャになりそうな禅宗のお坊さんたちを整理するときに、ひょっとしたら何かの役に立つかも知れません。
臨済宗は栄西が、曹洞宗は道元が日本に伝えました。同じ禅宗ですが、中身は少しく異なっています。そもそも、栄西は天台宗のお坊さんでした。所属していた宗派から分れ出てほかの宗派を信仰し始めたくらいなので、元の所属宗派から批判されたりもしました。著作『興禅護国論』は天台宗の批判に対する反論集です。
臨済宗は「公案問答」なる師匠から出題される問題に回答していきます。すべて答えられれば合格で、「悟りを開きました」ってことになるようです。
いっぽうの曹洞宗を開いた道元も、もとは天台宗のお坊さんでした。天台宗がよほど嫌われていたのか、それとも禅宗がそれほど魅力的だったのか本人たちにきいてみないと改宗の理由はわかりません。道元の著作『正法眼蔵』の「日本最古の」ものが瑠璃光寺で山口県指定文化財になっていることを忘れてしまった人、いないよね? ⇒ 関連記事:瑠璃光寺
曹洞宗は「只管打坐」といって、ただひたすら座禅だけをし続けることを説く宗派です。師匠からの試験問題に答える必要はないものの、悟りを開くまで座禅しろって言われたって、いつまでやればいいのかわからないですよね……。逆に言うと、座禅し続けていれば、そのうち悟りが開ける、って意味でもあるわけですが。
臨済宗は鎌倉幕府の援助を受けます。おかげで栄西は、鎌倉に寿福寺、京都に建仁寺を建てました。その後、北条得宗の時代になると、北条時頼は建長寺、時宗は円覚寺を建てました。いずれも、蘭渓道隆(大覚禅師)、無学祖元という中国出身のお坊さんを招いて開山としています。
臨済宗と曹洞宗・まとめ
- 臨済宗:栄西が伝える、公案問答
- 曹洞宗:道元が伝える、只管打坐
禅宗が日本に伝えられたのは鎌倉時代というふうに、教科書などには書いてあります。義務教育レベルでも、そこらの観光客レベルでもそれでまったく問題ないし、専門家でもないのにそれ以上踏み込むと混乱するだけです。ただし、中には「嘘つき」ってお怒りになる方もおられるかもしれないので、補足しておきますと(そんな専門家、こんなところ読んでるはずないけど。笑)、禅宗じたいはじつは奈良時代くらいにすでに、日本にもたらされていました。その後、天台宗を開いた平安時代の最澄さんなんかも、じつは禅宗の教えを学んでいます。なので、正確にいうと、鎌倉時代に伝えられた、っていうのは違うようです。ただし、その当時はまだ、日本の側に禅宗を受け入れる準備が整っていなかったんですね(遅れていたって意味じゃないよ)。何のかんの言っても、受け入れる順序は大陸が先になるから、時間差ができるのは仕方ないことです。けれども、いくらかは禅宗の教えなるものが取り入れられていたらしく、それゆえに、のちのち天台宗のお坊さんたちが日本における禅宗の開祖となっているみたいです。専門家の先生方がお書きになったご本は、たとえ啓蒙書であっても複雑すぎて目が点になるゆえ、細かいことは理解できません。ただひとこと、すでに奈良時代にして、禅宗は知られてた、って事実。
日本初の禅寺
参考書には日本に禅宗を伝えた栄西・道元と鎌倉時代に建立された建長寺、円覚寺の説明を以て禅宗の始まりのお話は終わっています。あとは、鎌倉五山、京都五山の暗記に進むわけですが……。大切なことが書き漏らされている気がします。北条政子や源頼家が開基となっている五山の寺院があることから、建長寺、円覚寺以前にも著名な禅寺が建立されていたことは容易に想像がつきます。
じゃ、日本で一番最初に建てられた禅宗寺院はどこ? って気になったりしますが、参考書には書いていないですよね。
答えは福岡県にある聖福寺です(しょうふくじとお読みします)。『福岡県の歴史散歩』というガイドブックによりますと、「栄西が源頼朝に願い出て、1195(建久6)年に創建した」といわれている、となっています。山門には後鳥羽上皇の御手になる「扶桑最初禅窟」なる額が掲げられており、つまりはこの寺院が「日本(=扶桑)で一番最初の禅寺」だよ、という証です。
えええ!? 京都でも鎌倉でもなく、福岡に!? ってなりますけど、じつは人気の観光地として著名な福岡には、ご存じない方はおられぬと思われるくらい有名な筥崎宮、香椎宮のような神社と並んで、由緒正しい古寺も多いのだそうです。ことに禅寺が多いようでして。観光案内を見ていたら臨済宗寺院が目立ちました。
聖福寺の名は、筥崎宮などと一緒に、大内氏に関わる文献によく出てきますので、聞いたことはありました。でも、日本初の禅寺ということは知りませんでした(反省)。
知っといたほうがいいかも
日本で最初の禅寺は、福岡県(福岡市)の「聖福寺」である
五山制度について
五山ってそもそも何?
「鎌倉五山」「京都五山」とか寺院が五つ選ばれていて、「五山派」「五山版」「五山文学」だの、「五山」「五山」っていったい何? ってなりますが、文字通り五つの寺院を選んだもの、選ばれた五つの寺院です。いわば、寺院のランク付け制度といったところです。一から五までの寺院は当然、最初に名前が挙がるほど格上です。これらの「五山」制度とでもいうべきランク付けは、中国のマネをしたようです。
五山の下には、十刹、諸山なるものも定められ五山を中心に寺院の格付けがなされていたわけです。神社にも延喜式神名帳に載っている載っていないだとか、なんと神階なる「位」までありましたので、寺院も同じようにランク付けして秩序を定めたのでしょう。「防長五刹」とかあれこれ出てきていたのも、同種のランク付けと思います。
※「防長五刹」は泰雲寺のところで出てきた言葉です。ランク付け、格式の高い寺院を表わしている表現という意味では似たようなものですが、泰雲寺は曹洞宗寺院であり、いわゆる幕府の保護を受けた「臨済宗」の五山制度とは無関係です。
京都五山と鎌倉五山
室町幕府も鎌倉幕府同様、禅宗を手厚く保護。京都にある政権ですので、鎌倉だけでなく、京都五山も制定します。そもそもだけどコレ、京都五山、鎌倉五山って区別が当時からあったのかどうかよくわかりません。後醍醐天皇が建武の新政始めた頃、鎌倉の寺中心の五山が腹立つってことで、京都中心に制定し直しました。その時は、南禅寺、大徳寺、建仁寺、東福寺というようなラインナップだったみたい(なにゆえにか、四寺しかないけど、参考文献にこれしか書いてないので。参照:『日本史広事典』)。
けれども、室町幕府が開かれると、鎌倉の寺院も大切ってことで、建長寺&南禅寺、円覚寺&天竜寺、寿福寺、建仁寺、東福寺という具合に鎌倉・京都が渾然一体となった組み合わせで再設定。その後、三代・義満将軍の代にさらに整理されたのが、現在教科書に載っているものです。
この「五山」を記憶するのが骨ですが、覚えておかないと却って面倒なことになるので覚えましょう。
京都五山と鎌倉五山
- 京都五山:天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
- 鎌倉五山:建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺
寺院の名前を眺めていても、肝心の何者かわからず謎なことになっているヘンテコな名前のお坊さんたちについてはさっぱりわからないままなので、開山、開基も含めて一覧表としたものが下記です。
南禅寺 | 無関普門(聖一派) | 亀山上皇 |
天竜寺 | 夢窓疎石(夢窓派) | 足利尊氏 |
相国寺 | 夢窓疎石(夢窓派) | 足利義満 |
建仁寺 | 明庵栄西(黄竜派) | 源頼家 |
東福寺 | 円爾弁円(聖一派) | 九条道家 |
万寿寺 | 十地覚空、東山湛照 (聖一派) | 郁芳門院 |
ん? 『五山』なのに六つある。どういうことだよ?
上の暗記表は、天竜寺から始まっていました。それゆえに、「京都五山」は天竜寺が最高ランクと思えますが、じつはその上があるのです。それが南禅寺です。「五山」というからには五寺でないといけないのですが、そもそも南禅寺、天竜寺、建仁寺、東福寺、万寿寺となっていたところに、義満将軍が強引に自らが建立した相国寺を組み入れちゃったんですよね。だからひとつはみ出してしまったんです。そこまで大胆不敵なことをするのであれば、最下位の寺院を押し出してしまえばいいような気もしますが、それはできなかったみたいね。で、できうることならば、自らの寺院をトップに置きたいところだけど、南禅寺と天竜寺が邪魔。しかし、天竜寺は幕府を建てた祖父・尊氏が建立した寺院であるためそれを下に置くことはできず、結果として、最上位の南禅寺を五山を上回る地位とし、五山筆頭を祖父建立の天竜寺として、自らの寺院を二番目に押し込んだのです。
それから、天竜寺の開山は夢窓疎石ってなっていますが、とっくに亡くなっていたので名前だけ。実際の開山は夢窓疎石の身内(甥)でもある春屋妙葩です。このように、実際の開山は自分なのに、自らは二世となって師匠だの兄弟子だのを開山とする、って例も数え切れないほどありますね。多分、なんかの法則性があると思うんだけど、今のところわかりません。「開山の名誉を譲り」とかどこかに書いてあった気がします。開山になるって、名誉なことなんですね。
夢窓疎石さんは足利尊氏だけでなく、後醍醐天皇にも崇敬されており、要するに南北朝期の超有名かつ大人気のお坊さんだった、ということです。
建長寺 | 蘭溪道隆(大覚派) | 北条時賴 |
円覚寺 | 無学祖元(仏光派) | 北条時宗 |
寿福寺 | 明庵栄西(黄竜派) | 北条政子 |
浄智寺 | 大休正念、兀庵普寧、南洲宏海(仏源派) | 北条宗政、北条師時 |
浄妙寺 | 退耕行勇(黄竜派) | 足利義兼 |
スゴい~。寿福寺って尼将軍・政子が開基だったんだ。しかしこれらの寺院、開基が北条氏だらけだから、後醍醐天皇に無視されたのもわかる気がするね。
けどさ、寺にランク付けなんかしてどうすんの? 意味分らん。
きちんと格付けをして、秩序立てて管理することで、これらの禅宗寺院は我らが幕府の統括の下に入ったんだよ。
「五山」の下には「十刹」その下にはさらに「諸山」とランク付けされました。そして、「五山十刹」制度によってランキングされた禅宗寺院は、「僧録」なる役職によって半ば官営みたいに統括管理されます。「僧録」は相国寺鹿苑院に置かれていました。
いっぽう、「五山」にもどこにも入らなかった臨済宗寺院や曹洞宗寺院などは「林下」と呼ばれました。
五山制度・まとめ
- 禅宗寺院(臨済宗)を格付けする制度。
- 寺格が高い順に「五山」、「十刹」、「諸山」とランク付け
- 五山制度に組み込まれた寺院は「僧録」によって管理される
- いずれにも属さない臨済宗寺院、および曹洞宗寺院は「林下」と呼ばれる
……というようなところまでが、受験参考書に書いてある内容となります。これを棒暗記で問題ないわけですが、「だからなんなの?」と思いますし、「十刹」はどの十の寺院なのか? 「林下」ってよくわかんない……などとなって、なんとなく意味不明です。そこで、もう一歩だけ踏み込んで見ておきましょう。
室町幕府と五山叢林
五山制度が単なる禅寺のベストファイブ選手権にすぎなければ、選ばれた寺院の関係者が名誉に思うだけで統治機関である幕府にとっては何の旨味もありません。五山をトップに、十刹、諸山と続く数多くの禅宗寺院は、五山派とか五山叢林(もしくは単に『叢林』)とか呼ばれ、幕府の庇護を受けて大いに繁栄しました。ですけど、そっくりその管轄下に入っているため、人事にせよ何にせよ、好き勝手なことはできませんでした。
大いに盛り立ててもらえると同時に、自由にならない側面もあったわけです。たとえば、「五山の禅寺の住持となるには室町幕府から公帖という任命状が必要」(『日本史広事典』)でした。誰でも適当に思いついて寺院を造り、お坊さんになれるものではなかったのです。まあそれは、古代史の時代も同じでしたが。要は、「官寺」だったんですよ。
俺ならば、適当にどこぞに庵を結んで住むことも可能だぞ。
禅宗寺院の政務(?)を統括する役職である「僧録」は、文字通り全禅宗寺院のトップですが、初代「僧禄」に任命されたのは春屋妙葩でした。任命したのは義満将軍です。上述のように、春屋妙葩は「実質上」相国寺の開山ですから、義満将軍ともゆかり深い人です。
以後、相国寺内の鹿苑院塔主が僧録を兼ねました。現在、金閣として知られている鹿苑寺は、そもそも相国寺の塔頭にすぎなかったのです。ただし、塔頭といっても単なる寺院の付属品というものではなく、「一定の自立性」(『日本史広事典』)をもっていたそうで、ココ鹿苑院など相当なものでしょう。この鹿苑院の中に、蔭涼軒なる建物があり、そちらは副僧録となって、僧録を補佐したということです。
なんかきいたことあるなぁ……と思った方、ビンゴです。『蔭涼軒日録』なる僧侶日誌は超一級史料として、庭園関係の事柄もたくさん載っているから、目にしたことがあって当然です。この「蔭涼軒」の主というのが、季瓊真蘂、益之宗箴、亀泉集証の三代、永享年間から明応二年までの日誌といいますから、そのまま大内盛見さんから法泉寺さままでの記録。季瓊真蘂なんて、いったいどういう漢字なのか、何と読むのかもわからず呆然となったことをはっきり覚えていますよ。
それはいいとして、鹿苑院主の僧録、それを補佐する蔭涼軒主の副僧録といったら、ものスゴい力を持っていたらしい。けれども、それもわずかな期間だけで、やがては名ばかりとなって廃止されたそうです。室町幕府が最も輝いていた時代こそが、彼らが最も勢力を振るうことができた時代でもあったのでしょう。事典類には江戸時代以降の新しい僧録について言及されていますが省略します。
お前らのところによく出てくる春屋妙葩って、受験生レベルの知識だったのね。しかも赤文字の「要暗記事項」。ふりがなあって助かるよなぁ。
ええっ、そうだったの!? どんだけ無知だったんだろ。
幕府による寺院統制
- 五山制度は要するに「官寺制度」
- 五山制度に組み込まれている寺院は幕府の庇護を受けられるが、同時に統制もされる
- 五山制度に加わっている寺院の住持になるためには、幕府の許可が必要
- 五山寺院の統括管理を行なう職を「僧録」といい、初代は春屋妙葩で足利義満が任命
- 以後の「僧録」も代々鹿苑院主が務め、副僧録を務める蔭涼軒主とともに、非常に大きな権限を持っていたが次第に形骸化した
十刹は十寺院じゃない!
五山が五つの寺院(南禅寺の件は置いておくとして)であるならば、「十刹」は当然、十の寺院だと思いますよね。でも違います。最初はもちろん、そうだったのですが、だんだん増えてしまったんですよね。義満将軍の代には十六、中世も終わりに近付く頃にはなんと、六十にも増えてしまっていたそうです。
ですので「十刹」が意味するところは、「十の名刹」というよりも、単なる「名刹」ということかと思います。五山の五つの寺院には入っていないけれども、それにつぐくらいの著名な寺院である、というような認識でよいのではないでしょうか。
その下に位置する「諸山」に至っては、最終的に「二百数十カ寺」(『日本史広事典』)にまでなったというので、どんだけあるんだよ? って感じですね。ただし、このメンバーに加えてもらうためには、きちんと「認定」を受け、「将軍の御教書」をもらう必要がありました。なので、数が多いからといって、いちおうはいい加減なものではなかったのです。
なお、「諸山」は「甲刹」とも言うことがあり、意味不明の「甲刹」なる文字列を見かけたら「諸山」のことだと読み替える必要があります。ちなみに「かっさつ」と読みます。文字変換でフツーに出てきませんよね。「官寺の住持の資格を得た者」はまずは、「諸山」でお勤めし、つづいて「十刹」に進み、最終的に「五山」の住持に昇格する決まりとなっていたそうです。「十刹」はともかく、「五山」は京都と鎌倉あわせても定員十名なので、ものすごく狭き門となりますね。
十刹と諸山
- 五山につぐ寺格をもつ「十刹」は十の寺院という意味ではなく、次第に数が増えて中世末には六十もあった
- 「諸山」はさらに大量に存在し、二百を越えていた。しかし、認定には将軍の御教書が必要であり、いい加減なものではなかった
- 「諸山」は「甲刹」というときもあるので注意
- 官寺の住持になる資格を得た者は、「諸山」⇒「十刹」⇒「五山」の住持と昇格していく決まり
五山僧と五山文化
ついにれいの「漢字だらけ」の話に進まなければなりませんが、紙幅も尽きたので、さらっと終えたいと思います。受験勉強で「一番楽そう」という理由で日本史を選択した人が、悶絶することになるのが文化史です。寺院とか仏像の名前を暗記しろと言われても、そんなん興味がない人からしたら、苦行でしかないやん。世の中には、仏像を見ていたら一日でも飽きないとかいう高尚なお方は大勢おられますし、御朱印もらうんだとかなんとかで、寺院巡りの人も増えました。そういう方々ならば、苦にもならないでしょうけど。
その嫌でたまらない文化史の中に出てくる「五山文学」「五山版」とそれに附随する五山僧の名前。それだけでも堪えられないのに、どこかの西の京では、参考書に出ても来ない漢字まみれの僧侶まで登場。もはや苦行を通り越して、悶絶死。前述の季瓊真蘂だって、何じゃこりゃ? って思ったもん。コレ、普通、読めないし、書けないでしょ? イマドキの童で、習いもせずにスラスラとこれを書いているのを見かけたらもはや神童ですよ。
恥ずかしいからいい加減にして。ここは僕が穏便にすませるつもりだったのに……。
だって、於児丸、ミルよりトロいんだもん。一ページに何日かかってるの?
五山文学
せっかく、国風文化でカタカナひらがなが花盛りとなったというのに、室町時代に入ってまたしても漢字だらけの「五山文学」とやらがもてはやされるようになってしまいました。これは、一言でいうなら、京都・五山派の禅僧たちを中心とした漢文学です。残念ながら、中世の文化史はこれを避けては通れないといっていいほど、重要です。けれども、あまりにも難解でつまらないので、せいぜい僧侶の名前くらい覚えておけばいいでしょう。
ちなみにですが、禅僧と一口に言っても、二種類あります。ひとつは、中国から招かれるなどして来朝したお坊さんたち。つまりは、外国人ですね。もうひとつは、中国に行って勉強(修行)して帰国した日本人のお坊さんたちです。コレ、お名前だけ見ても、正直なところ、どなたが海外の方、どなたが日本人なのかサッパリです。覚えるしかないみたいですね……。むろん、絶対に海外留学して勉強して来なければならなかったわけじゃないです。立派な師匠の下について勉強すれば、国内にいても学べます(と思います)。
いずれにしても、漢文がスラスラ書ける方々なので、たとえば、貿易なんぞを行なう際にも役に立ってくれました。外交僧ってやつです。何も海外に行く時だけではなく、当時最高の教養を身につけていたお坊さんたちですので、幕府からのお使いとして国内でも外交僧やってました。むろん、禅宗寺院は国内各地に大量に存在し、優秀なお坊さんは地方にも大勢おられたので、守護大名たちのお使いをやったり、ブレーンになった方々もおられたはずです。大内家から派遣された朝鮮や中国への外交使節にもお坊さんたちの名前、たくさん載っていますよね。
五山文学・人名まとめ
時期:南北朝期~室町中期
一山一寧 南宋の人。「中国禅林の文学を好む気風を日本に伝え、禅宗の学芸興隆に大きな影響を与え」る
竺仙梵遷 古林清茂(元の人、禅林文学の純化をめざした)の弟子
竜山徳見、中巌円月 入元僧、古林清茂に師事 ⇒ 「日本における新たな作風の漢詩文が誕生」
虎関師錬、雪村友梅、義堂周信、絶海中津 ⇒ 五山文学の代表的な人物。漢籍創作以外に、中国古典・宋元文学の講義、研究にも「足跡を残」す。
(参照:『日本史広事典』、近世以降への系譜無視)
ところで、そもそも五山派にはどのような人々がいたのか、ということはおいおい情報追加していくとして、おおまかに「宗派の系統」だけメモしておきます。
五山派宗派の系統(一部分)
臨済宗諸派
大覚派:派祖・蘭渓道隆
仏光寺派:無学祖元
仏源派:大休正念
一 山派:一山一寧
黄竜派:明庵栄西
聖一派:円爾
曹洞宗宏智派:派祖・東明慧日
(参照:『日本史広事典』)
これら「○○派」ってのは、上の京都五山、鎌倉五山のところに開山名隣に( )で書かれていたものですね。いったいなんなんだろう? って思いましたが、あれこれ分れていてたいへんです。これは主なものだけですので、当然このほかにも山とあります。何しろ、臨済宗と曹洞宗あわせてですが、合計「二十四流」もあるんですから。夢窓疎石さんが書いてないのが謎なんですが、春屋妙葩、義堂周信、絶海中津とか、みなこの流れです。「夢窓派」と書いている人もおられるのですが、なぜか『日本史広事典』に載っていないので外しています。
五山版
「五山文学」とセットで書いてあることが多いのが「五山版」。要するに、五山僧たちが行なった出版事業のことです。当時の本というのは、まずは板に文字を彫って版木を作り、それを使って印刷をしていました。宗、元、明などの中国の書物を復刻したり、禅にかかわるものや仏教以外(たとえば儒教など)の漢籍を印刷しました。最古のものは、弘安一〇年(1287)に建長寺で出版された「禅門宝訓」二巻(『日本史広事典』)といいます。わずかに「二〇余」の刊行ということなので、どれほど貴重なものだったかわかります。
南北朝期が最盛期で、数百種類もの書物が作られました。中国から多くの版木を作る職人がやって来て、その技術を伝えたといいます。臨川寺・東福寺・ 建仁寺・南禅寺などの寺院(『日本史広事典』)が出版事業を行なっていました。春屋妙葩も天竜寺で多くの書物を出しています。けれども、室町時代に入ると、「地方での出版」が増え、室町中期には、京都での出版は廃れていきました。(参照:『日本史広事典』)
「地方での出版」にはきっと、「大内版」も入ってるね。
そうだね♪
……。
大内家と禅宗
臨済宗の歴代当主菩提寺
さて、ここで話が終わってしまったら、庭園とは無関係な下手な禅宗まとめで終わってしまいますので、関わりを挙げておかなければなりません。大内家歴代の菩提寺にも、幕府の保護を受けて繁栄した臨済宗の寺院が数多くあります。
たとえば、以下のような寺院です。
二十二代・重弘公 乗福寺
二十三代・弘幸公 永興寺
二十四代・弘世公 正寿院
二十五代・義弘公 香積寺
二十六代・盛見公 国清寺
弘世公の時代には明使・趙秩さんと春屋妙葩の弟子との交流があったり、まだ公開が間に合ってないけど、義弘公と交流した禅僧たちの中に、絶海中津のような五山僧がズラッといたり、つづく盛見公も惟肖得厳と交流したり……と、初期の頃は、当主・菩提寺も臨済宗、五山僧との交流も盛んでした。
ん? 二十四代って「乗福寺」に墓あったよな? そういや、「墓参り」掟書でも確かに「正寿院」ってなってるけど。これって確か塔頭じゃないの? 一番偉い人の菩提寺が単なる塔頭とかありなの?
あああ、文字数の関係で塔頭の話は省略しようと思ったけど、やっぱり必要かな? まるでわかってくれてないみたいだし……。
あんまりじゃん。俺らどうせ、まるでわかってねぇよ。於児丸の説明が悪いから。
補説・塔頭とは?
たっちゅう [塔頭] 塔中とも。禅宗寺院の境内におかれた子院。何々院・庵・坊・軒などと称した。高僧の墓を中心に祠堂・昭堂・方丈・庫裏などからなり、弟子により相伝された。本寺に付属する存在だったが一定の自立性をもち、所領や末寺を所有。 のち大名などの檀越の墓所を設け、その菩提寺的性格をもつものが増加した。 天台・真言を除く禅宗以外の諸宗でも、本寺の寺域内にある子院を塔頭とよぶようになる。
出典:『日本史広事典』
この引用が「塔頭とは何か?」ということを完璧に解説してくださっているものとなりますが、『図説歴史散歩事典』を参考にもう少し補足しておきます。この「塔頭」というものも、中国からもたらされました。中国では、「高徳の僧」が亡くなると「塔」というお墓を作りました。ことに「一宗一派の開祖」のお墓は「塔の主」と呼びました(塔主は tazyu と発音しますから、タアチュウ ⇒ たっちゅうと日本語化? どう考えても日本語では普通、「頭」を「ちゅう」とは読まないですからね……でも、塔主ではなく、『塔頭』(tatou)なわけですし、現在と当時とで発音が同じかも不明)。
蘭渓道隆や無学祖元などの錚々たる開山の塔頭が建てられるのは以上の説明で納得ですが、その後、開山のお墓に限らず、前住持が居住する場所も塔頭と呼ばれるようになりました。開山のお墓(生前から作られることもあったそうですが)だけならば、どこの寺院にもひとつしかない、ということになりますが、前ご住職の住居となれば話は別です。延々と続く由緒ある寺院ならどれだけ塔頭ができるかわかりませんよね。
塔頭は元々は寺院の境内に建てられるものでしたが、門の外に出てしまうものも現われました。それゆえに、「塔頭が並ぶさまは、特異な町並みに類する景観として注目に値する」(『図説歴史散歩事典』)状況となりました。たとえば、相国寺でしたら、門内に十二、門外に三の塔頭を擁しています(これ、多分、現在の数ではないかと思いますが、未調査)。金閣寺(つまりは鹿苑院)、銀閣寺まで含まれてしまっております。
また、円覚寺にある塔頭のうち、正続院は開山・無学祖元、仏日菴は開基・北条時宗のものです。ご住職以外の人(北条時宗)の塔頭が存在するということは、上記引用の「大名などの檀越の墓所」とか「菩提寺的性格をもつもの」の例と言えるかな。
なお、「子院」というのは「大寺院の境内内にあって、それに付属する寺」(『図説歴史散歩事典』)のことです。
こんな感じで、いわば大寺院から派生した子院とはいえ、あれこれの必要な建物を完備し、「弟子によって相伝」されるような大切なもの。極めつけは「一定の自立性をもち、所領や末寺を所有」とあるように、もはや一寺院としてとらえてしまって差し支えない雰囲気です。
そんなわけで、「単なる塔頭」なんてものではないのです。鹿苑院主が五山派の僧録を務めた話のところで、書いといた気がするけど。ただの大寺院に附属したミニ寺院にすぎないところの主が、そんな要職に就いているはずがないよ。だけど、附属していることは事実なので、その附属先の寺院がどれほどの大寺院かということには左右されるんじゃないかなと思います。
京都五山第二位の相国寺、義満将軍お気に入りの春屋妙葩。そこら辺の小さな寺院本体よりも、塔頭である鹿苑院のほうが権勢を振るっていても不思議はないね。乗福寺は当時、とんでもない大寺院だったわけですから、多くの塔頭があったに違いありません。現在、元・塔頭だった正寿院と一体化するかたちになっている(乗福寺そのものは衰頽してしまい、塔頭だった正寿院だけが残り、それが乗福寺となったような感じかと)ため、重弘公墓と弘世公墓とは、重弘公菩提寺・乗福寺があり、その塔頭・正寿院が弘世公墓所となっており……という当時の姿そのままではなくなっています(お二人のお墓は、現・乗福寺内一所にまとめられています)。弘世公墓所が乗福寺塔頭だったことも、「大名などの檀越の墓所を設け、その菩提寺的性格をもつものが増加し」たことの、とてもわかりやすい例のひとつと言えるんじゃないかな?
周防国と曹洞宗
だけど、途中からこの中に、もう一つの禅宗宗派・曹洞宗が加わってくる。禅昌寺が義弘公建立の曹洞宗寺院であることはすでに紹介されているけど、二十八代・教弘公に至っては、菩提寺が臨済宗ではなく、曹洞宗の闢雲寺となる。闢雲寺は盛見公が開基なので、それも含めすでに義弘公時代から、曹洞宗が防長の地に入り、当主等の信仰を集め始めていたということになるよ。
俺の実家も菩提寺は曹洞宗だ!
(そうだね。それに、君のお墓があるのも曹洞宗寺院だよ……)
これは、幕府べったりの五山派と異なり、その統制下には入らずに独自の道を歩んできた曹洞宗が、次第に力を増してきた時代の流れにも沿っている。そもそも、「叢林」と「林下」なんて区別して、なんだか五山に入っていないのは「入れてもらえなかったから?」なんて思う人がいたら大間違いで、むしろ、武家政権の支配下に組み込まれることを嫌って敢えて中央政権から遠い所に寺院を建てていたという先生もおられるくらい。
曹洞宗の総本山は越前国吉祥山永平寺。ついで、能登国に総持寺が建てられた。さらに加賀国に大乗寺が建てられる。やがて、加賀国大乗寺の明峰素哲と総持寺の峨山韶碩の二つの門派ができたというよ(この ○○ 派の区別については覚える必要はないと思います。普通に曹洞宗=永平寺まででいいような。あとは、それぞれの関心あるなしによって、もしくは、参詣予定の寺院さまについて事前リサーチあるいは現地案内看板でふーーんのレベルかと)。永平寺はひたすら修行をすることに徹し、いっぽう総持寺は布教活動を盛んにしたとか。ちなみに、義弘公が招聘した慶屋定紹は明峰派の人だというよ。
周防国における曹洞宗の展開についてはすべて、『月光山泰雲寺の歴史』にまるっと書かれているよ。普通の事典類に載っているのは石屋真梁くらいなので、このご本に書かれているほど詳細に知ることはできない。その石屋真梁は闢雲寺の開山として、盛見公が招いた人。
せきおくしんりょう[石屋真梁] 1345.7.17~14 23.5.11 南北朝期~室町中期の曹洞宗の僧。 薩摩国生れ。一六歳のとき南禅寺の蒙山智明のもとで出家、以後、臨済禅を学ぶが、やがて曹洞宗の通幻寂霊の法嗣となった。 一三九〇年(明徳元・元中七) 島津氏の招きで薩摩に赴き妙円寺を開いた。九四年(応永元)には島津元久の帰依をうけ福昌寺の開山となった。中国地方にも寺院を開き曹洞禅の教化に努めた。
出典:『日本史広事典』
地道に力をつけてきた曹洞宗は、幕府権力が衰退しようがどうなろうが、そういうことには左右されずに、地方を中心に信者を増やしていったんだ。そうした布教活動の一環として、周防国にも多くの曹洞宗寺院が建立された。「中国地方にも寺院を開き曹洞禅の教化に努めた」という事典の引用がまさにそれだね。それはもちろん、大内家歴代当主やその一門などが開山として彼らを招いたということもあるけれど。
ここで、泰雲寺のところで、泰雲寺が「防長五刹」と呼ばれていたことを思い出して欲しい。曹洞宗寺院なので、臨済宗の五山、十刹、諸山とは関係ないよね。純粋に、曹洞宗の名刹五選とでもいうべきか。それがどこなのか、というと、つぎの五つの寺院。
防長五刹
第一大寧寺、第二龍文寺、第三瑠璃光寺、第四泰雲寺、第五禅昌寺
ところで、曹洞宗には「○○(人名)△(数字)哲」というのがよく出てくる。何となくわかるけど正確にはナニコレと思っていたけど、事典にまで載っていたのでもうこれは間違いない重要ワード。つまりは「○○の優秀な弟子△人」という意味と思うけど、たとえば、『月光山泰雲寺の歴史』には「石屋真梁には六人の高弟があり、これを石屋六哲と称している」とある。「石屋六哲」というのが誰なのかと言うと、以下の方々。
石屋六哲
竹居正猷、大田霊用、智翁英宗、定庵守禅、監宗桂鑑、覚隠永本
このうち、覚隠永本は泰雲寺の三世となったが、彼にはまた十人の高弟がいた。
覚隠十哲
大功円忠、全庵一藺、南寿慎終、徳林心建、竺心慶仙、雪心真昭、玉崗慶琳、明室昌暾、鼎庵宗梅、牛欄鑑心
なんてお読みするのかもわからない方々のお名前がズラッと並んでいますね……(汗)
ところで、「防長五刹」については、すでにすべての寺院をサイト内でご紹介済み。復習も兼ねて順番に見ていくと……。
大寧寺 開基・鷲頭弘忠 開山・石屋真梁、第二世・智翁英宗、第三世・定庵守禅、第四世・竹居正猷
龍文寺 開基・陶盛政、開山・竹居正猷、第二世・在山曇璿、第三世・器之為璠 末寺:建咲院(開山・龍文寺大悦薫童)、龍豊寺(開山・龍文寺春明師透)、洞雲寺(開山・龍文寺金岡用兼)ほか多数
瑠璃光寺 大庵須益(石屋派大功円忠の高弟) 末寺:周防長門筑前肥前肥後一七三寺
泰雲寺 開基・大内盛見、開山・石屋真梁
禅昌寺 開基・大内義弘、開山・慶屋定紹
龍福寺 大内満弘創建臨済宗(白石)寺院だったものを、教弘が雪心真昭を中興開山とし曹洞宗に改宗
お詫び
※公私多忙につき、途中ですがアップします。むろん、説明はここでお終いではありません。
じつは、これまで書いてきたことは、ほんの「さわり」でしかない。つまり、歴代当主と五山僧、曹洞宗の禅僧たちとの文化交流については、まだ何も書けていないという意味。いい加減、少しはわかるようになっているかと思ったけれど、最終到達点だと考えている『戦国武士と文芸の研究』をチラ見したら、ぞっとするくらい大量に見たこともない禅僧の名前が出ていたから。
これだけ書くためにも相当苦労して初めて見る漢字だらけの名前を追加したので、多少は知識が増えたかと思ったけれど、まだまだ到底無理でした……。しかしですよ、受験参考書だけで対応しようというのは虫がよすぎるとしても、せめて『日本史広事典』に載っていない人名は知らなくても平然としていてかまわないだろうと思いきや、それだと、この家の方々と交流していたほとんどの人名は「知らなくてもいい人々」となってしまい、何も分らなくなってしまいます。
漢字とか書き写すのがメンドーでかなり調べてしまいましたが、絶望的なくらい検索にもヒットしません。例えば上の、石屋六哲なども検索で全員揃えることは無理です。ほかにもこれらの「優秀な弟子」シリーズの組み合わせは何種類もありますが、たとえば「通幻十哲」などどこにも載っていません(十哲まではあっても十人書いているものはなし)。禁を犯してフリー百科事典をチラ見したところ、どなたかわかりませんが、十人書いておられました。ですが、出典もないものを引用はできませんし、書いた方が仮にどこかの教授先生や寺院関係のお方であらせられたとしても、匿名でこっそり書いておられる以上載せることはできません。
あるいは、難解すぎてまだ目を通していない専門書にあるかも知れないのですが、現状疲れ果ててここまでです。
どんだけ目茶苦茶な家なんだろう、この文武の将の庭園は、と思いました。米原正義先生のご著作が高尚すぎるゆえ、身の丈にあわないせいだとはわかっているのですが、文芸の家について書いているのに、五山僧名前わからなくて意味不明です、で終わりにはできませんから、最終的になんとか名前くらいわかるようになりたいものですが。
ありがたいことに、法泉寺さま以降は、五山僧(というか禅僧)が減っていて、そりゃ、大和言葉のことのはを綴るお方なのだから当然と思いますが、それでもやはり大量に載っています……。最大級に大量なのは何と言っても盛見さんですけど、築山大明神さま以降は曹洞宗のお坊さんたちが出現し(もちろん義弘さん以降から曹洞宗の方々がお名前出てきてますけど、この人、それなり『武』偏重なので。盛見さんに至ってはもう数える気がしない……)、別の意味で複雑化しています。
最後のに至ると大騒ぎしている割には少ないですが、儒教まで大量に加わるのでもうやめなはれ、って感じです。なにゆえに、ここは日本なのに、漢文を綴らねばならぬのか、まったく理解できません。古文と漢文は学んでも実社会で何の役にも立たないもの、という受験生の認識です。参考書などにもそう書いてあります。単に受験勉強のため「だけ」にやらされるものであり、知らなくても生きていけます(それを言ったら数学の平方根とかも不要に思えるけど)。ああ疲れた……。
俺もう、メンドーだから伯父上みたいな修験者として出家する。将来『ひとかどの』武将になったらさ、この家にいる限り漢字だらけになって嫌だ。歌も詠めないし。『源氏物語』の講義とか苦行でしかない。どんだけつまんないんだよ、この家。
そうだなあ。まあ、お前には優秀な兄がいるゆえ、気ままに暮らせるではないか。腑抜けた公家のような主には近寄らぬが身のためだと思うぞ。お互いのためにな。
頼まれても嫌だ!
ん?
参考文献:『月光山泰雲寺の歴史』、『日本史広事典』、『福岡県の歴史散歩』、受験参考書
※参考書と事典以外の参考書はまだすべて記しておりません。また、記してあるご本についても、まだ消化しきれておりません。