山口県山口市香山町の瑠璃光寺とは?
瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺です。元は仁保の地にありましたが、のちに現在地に移転されました。この場所はもともと、大内義弘菩提寺・香積寺があったところです。ゆえに、大内盛見が兄・義弘のために建立した五重塔が建っていました。現在、瑠璃光寺五重塔として、山口県の一大観光スポットとなっている国宝・五重塔は、陶弘房やその菩提寺とは無関係なものだったのです。
香積寺は毛利輝元によって解体され、その居城を建てるための建築資材とされてしまいました。ゆえに、義弘菩提寺の面影を偲ぶものは何もありません。唯一五重塔が残るだけです。毛利輝元はそれすらも解体しようとし、地元の人々の嘆願によってなんとか残されたという経緯もあります。
重要
※現在、五重塔は令和の大修理中でして、残念ながらお姿を見ることができません。詳細については、自治体さま、観光協会さまなどの公的機関のホームページでご確認くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
瑠璃光寺・基本情報
住所 〒753-0081 山口市香山町7−1
山号・寺号・本尊 保寧山・瑠璃光寺・薬師如来
宗派 曹洞宗
瑠璃光寺・歴史
瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺です。弘房は、大内教弘、政弘期の重臣で、応仁の乱の際、相国寺の戦いで亡くなったとされています。この寺院は弘房の死後、その菩提を弔うために夫人によって建てられました。創建は文明三年(1471)、元々は仁保の地にあり、安養寺といいました。開祖は石屋派の大庵須益大和尚。明応元年(1492)、弘房の念持仏が薬師如来であったことから、瑠璃光寺と改名されました。長門・大寧寺、周防・龍文寺(陶氏の菩提寺)とともに、江戸時代末期に至るまで、西日本の僧録司を務めた名刹で、多くの名僧を輩出し、県内外に三十を超える末寺があったといいます。
瑠璃光寺が現在の場所に移ったのは、元禄三年(1690)のこと。この地は周知のごとく、元大内義弘の菩提寺・香積寺の跡地でした。そこで、香積寺の由来についても確認しておく必要があります。
香積寺は大内義弘が石屏子介(周防出身、仏鑑派、入元僧)を開祖に建立した寺院でした。義弘が応永の乱で敗死したのち、弟・盛見は兄の菩提を弔うために五重塔の建立を始めます。けれども、盛見は塔の完成を見届けることなく九州で戦死してしまいました。嘉吉二年(1442)、ようやく塔が完成します。塔の完成年度が嘉吉元年であると確定されたのは、大正時代に修理を行なった際、「嘉吉二年」と書かれた「巻斗」が見付かったことによります。
※「巻斗」って? て思いますが、要するに建築物のパーツ名です。素人的意見ですが、建築関係、文化史等の専門家以外には、説明をきいたり、覚えたりする必要はないと思います。気になったらまんま検索してください。出てきます。
大内氏が滅亡し、毛利氏が防長の主となると、香積寺は解体され、萩に移築されてしまいます。「移築」というと、名前や場所を変えながらも寺院は存続しているように思えます。実際、毛利氏ゆかりの寺院もあれこれと場所や名前を変えていますし(⇒ 洞春寺、常栄寺など)。しかし、残念なことに、香積寺は廃寺とされ、寺院そのものがなくなってしまいました。萩に運ばれた後は、城郭を造る資材としたとか、他家に贈呈されて寺院建築用材となったとか、色々言われています。そのうち、元仏殿は、安芸国に移築されました。現在安芸不動院として国宝となっているものがそれです(広島市東区)。⇒ 関連記事:洞春寺、常栄寺、不動院
唯一、五重塔だけは、今も変わらず、元あった地に佇んでします。これには地元の人々が五重塔を壊さないで欲しいと願い出て聞き入れられた、という経緯があります。住人たちが奉行所に宛てた請願書が残されているといいます。
瑠璃光寺がこの地に移って来た理由は不明ですが、前述のように、元々由緒ある古刹だったことから、現在に至るまで信仰を集めています。また、香積寺にあった五重塔は、瑠璃光寺五重塔となって、今も人々に愛されていることは言うまでもありません。(以上参照:『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』、『周防国と陶氏』、説明看板ほか)
瑠璃光寺・みどころ
瑠璃光寺五重塔(国宝)、日本最古の『正法眼蔵』(山口県指定文化財)、『拈頌集』(山口市指定文化財)
参考
『正法眼蔵』 曹洞宗開祖・道元の著作
『拈頌集』 禅宗法話集のようなもの。右田弘詮が書写し、瑠璃光寺に納めた。
右田弘詮
外祖父上(← 母が弘詮の娘)ゆかりの品だ!
そうだね。本だけではなく、それを入れる箱もお作りになったようだよ。
残念ながら、書物は一般人が見ることはできないけれども、五重塔は見放題。満喫しましょう。
山門
地元の方々に愛される瑠璃光寺は、常に訪れる人々でいっぱい。写り込みの処理もたいへんです……。「保寧山」の扁額が素敵だなぁといつも感じます。文字の大きさが絶妙。けっこうひっそりとしたモノも多くて、○○山の部分がわからぬまま帰宅してしまう寺院さま、けっこう多いので。
鎮守石殿
瑠璃光寺が仁保にあった頃、十三代・重堂専宗大和尚が慶安三年(1650)、寺の鎮守として造りました。造立年代は刻銘から明らかで、山口県内にこの時期の石殿は少ないことから、たいへんに貴重なものです。(参照:説明看板)
石造五重塔
このミニチュア版五重塔は、石造りで、じつは「経塚」。五重塔建立 550年という節目の年、平成四年(1992)に造られました。これまで五重塔を守り支えて来られた人々の霊を供養し、また、信者の方々、参詣者の人々の先祖供養や、子孫繁栄を祈って般若心経を書写、埋経してくださったものです。(参照:説明看板)
背後に廻廊と鐘楼が見えています。
慈母観音
見切り地蔵
身代わり地蔵ともいいます。「我が身を切ってその人の身代わりとなられる」お地蔵様。
水掛け地蔵
ガン、ぼけ封じのお地蔵様。
本堂
瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺であるため、その念持仏・薬師如来が本尊です。
ちなみに、薬師如来様は瑠璃光浄土におられます。寺名の由来は多分これですね。
長寿薬師如来・高祖承陽大師
仏足石
金毘羅大権現
南北朝時代の貞治三年(1364)、讃岐国・金比羅神社本宮から分霊を勧請したのが、大内氏における金毘羅神社信仰の始まりです。御祭神は大物主神と崇徳天皇の二柱。航海安全、交通安全の神様。
説明看板によれば、瑠璃光寺に金比羅様を寄進したのは弘房の子・弘護とあります。宝永の頃、海難に遭った信者がこの神様に祈ったところ、無事に帰国することができたので、そのお礼に社を再建したというので、弘護代の社は傷んでしまっていたのでしょう。
現在も毎年四月十日に大祭が行なわれ、信者も多いといいます。(参照:説明看板)
わあ、祖父上が寄進した神社だ!!
確かにあれこれと、どう見てもここは、陶のくにの寺院だね。
瑠璃光寺資料館
瑠璃光寺に来て、資料館を通過したらダメです。ここに入れば、五重塔のことがすべてわかります。外の壁に貼られている資料は購入することができるので、必死に暗記して帰る必要はありません。なお、売店で素敵なポストカードを販売しておいでなのも、資料館の方々。春の花、夏の青葉、秋の紅葉、冬の雪、春夏秋冬折々の美しい五重塔の写真が揃っています。写真撮影の技術がイマイチの人、シーズンオフに遠方から来た参拝者もがっかりしなくて大丈夫。綺麗な写真を購入すれば、五重塔のベストショットはすべてコンプリートできます。
なお、前述の住民たちが奉行所に充てた嘆願書や、嘉吉二年と書かれた巻斗なども、資料館で見ることが可能です。
五重塔
五重塔についてのあれこれは、資料館に行けばすべて分ってしまうので、ココでは省略します(信じられない手抜き。嘘です、リライトしてるところなんです……)。現地にある文化財説明看板が秀逸なので、これを読めばすべてわかってしまうので、そのまんま看板の写真を貼っております。普通、文字起こしなどをしますが……。メンドーなので、しばらくお待ちくださいませ。また、建築物としての五重塔の各パーツについても、看板にある絵図を見れば完璧です。ちょっとこれだと小さすぎて見えませんので、看板に書いてある内容が消化できたら、絵図の部分だけ拡大して、説明文は噛み砕く予定です(予定は未定)。
山口に来て、五重塔を見ない人はまずいないでしょう。塔は再建当時の姿のままで残されており、今に伝わる貴重な文化財です。花咲く春も、紅葉の秋も、五重塔はいつ来ても綺麗。そして、時間によってもその姿が変わります。
写真家たちは毎日この場所に足を運び、四季折々時々刻々と姿を変える、でも、いつ、どこから見ても美しいこの塔の姿を写し取って行きます。手前の池は、吹く風によって波立っていることが多く、鏡のような水面に映る塔の姿に出会えることは珍しいそうです。偶然にもその稀なるワンシーンに行き会い、興奮して声をかけて来てくださった愛好家とともにシャッターを押しました。これが、ただのスマートフォンではなく、高機能のデジタルカメラであり、撮影者の技術も高ければ……と思うと残念です。
どうすりゃこんな完璧な写真が撮れるの? と思われる見事な写真は瑠璃光寺資料館に行けばいくらでも購入できると書きましたが、そもそも山口県まで行けないんだよ、という方のために、国指定重要文化財等データベースにリンクを貼っておきます。五重塔についての解説も文化庁の説明文以上に権威のあるものはないと思われるので、素人があれこれ書くのは省略します。
文化庁の解説文には「詳細解説」というリンクがありまして、クリックするとより詳細な説明文が読めます。どうやら以下の解説文はその「詳細解説」の要約です。しかし、「詳細解説」には「引用」として、どなたか研究者の先生がお書きになった解説が載っておりますので、孫引きとなるためここには載せることができません。なので、下記 URL から、詳細解説および高品質の写真をご覧くださいますようお願い申し上げます(何やら『要約文』は現地説明看板と比較してあまりにもコンパクトな解説で、引用する意義を感じませんね……要は写真を見ていただきたいがためです)。
構造及び形式等 : 三間五重塔婆、檜皮葺
指定番号 : 00098
国宝・重文区分 : 国宝
重文指定年月日 : 1903.04.15(明治36.04.15)
国宝指定年月日 : 1952.11.22(昭和27.11.22)
所有者名 : 瑠璃光寺
解説文:(前略)
檜皮葺の屋根は、軒の出が比較的深く、勾配が緩やかで、軒先が軽快に反り上がり、加えて三重目より上に縁と高欄を設けず、全体に細身でひきしまった姿が特徴的である。
初重の内部には心柱が通り、心柱を覆い隠すように円形の須弥壇を設け、天井を張る。円形の須弥壇は、塔では他に例がなく、仏堂を含めてもきわめて希少で独特なものである。
出典:国指定重要文化財等データベース(文化庁) ※大部分省略して引用。引用部分の改変はなし。
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/102/3203
※なお、瑠璃光寺および五重塔を含め、この付近は「香山公園」として公園化されています。⇒ 関連記事:香山公園
瑠璃光寺(山口市香山町)の所在地・行き方について
所在地 & MAP
所在地 〒753-0081 山口市香山町7−1
最寄り駅 山口駅から車で15分
アクセス
山口駅から町歩きしながら30分、もしくはバス、タクシーなどの車で15分。瑠璃光寺五重塔は市内観光の定番なので、湯田温泉などから観光バスが出ていたりします。とにかく有名どころをまるっと回りたい方はそれでもまったく問題ないと思います。けれども、団体行動ですと、自分のペースで見て回ることができませんので、五重塔を一日中眺めていても飽きない……というリピーターの方などには向いていません。
そもそも、歩いたら 30 分、という公式アナウンスがよく分りません。そういえば時計などみたことがないので、そのくらいかかっているかもしれませんが、とにかく歩いていて楽しいのが山口という町なので、時間はまるで気になりません。行く途中にあれもこれも見るところがございますし。
加えて車でも 15 分って公式アナウンスはさらによくわからないです(そもそもどこから出た情報だったか忘れてしまった……『公式』というからには自治体さま HP 以外あり得ないですが)。車でも 15 分もかかるのなら、歩いても変らないような気がします。たった半分にしかならないわけで。どうやったら山口駅からここまでそんなにかかるんだろう?
地図を見るとぎょっとしますが、駅から道なりにひたすら歩き、バイパス渡って山口県庁までは迷うこともない道です。その先が、じつはちょいわかりにくく、初めての人だとえーと……となるかもですが、普通にナビゲーションで対応できるレベルです。遠いのは県庁までなので、そこまで来たら着いたも同じです。
あまりに無責任では? 県庁まではバスも出ているし、あれだけの距離を歩くのはキツいと感じる方も多いと思うよ。それに、県庁まで来たら着いたも同じって本当なの?
ミルは俺たちが仲良くしてもらっている、大野のガイドさんも認めたタフネスなんだ。いわゆる山ガール(妖精にもあてはまるかわかんないけど)。平らな道なんてちょろすぎるんだよ。
一般の観光に訪れてくれる方たちを想定して書いてくれないかな? そんな特別な人を基準にしても、普通の方々の参考にはならないよ。
参照文献:『大内文化探訪ガイド No.1中世文化の里』、『中世周防国と陶氏』、国指定文化財等データベース、案内看板
※この記事は 20230417 に加筆修正されました。
瑠璃光寺(山口市香山町)について:まとめ & 感想
瑠璃光寺(山口市香山町)・まとめ
- 瑠璃光寺より「瑠璃光寺五重塔」として有名
- ここは元大内義弘菩提寺香積寺があった場所で、五重塔は大内盛見が兄・義弘のために建立した供養塔である
- 塔が完成したのは盛見の戦死後、嘉吉二年のことだったということが、現代の研究からは明らかになっている
- 香積寺は毛利輝元によって解体され、萩に城を造るための建築資材にされてしまった。その際、五重塔も壊そうとしたが、地元住民の反対に遭い断念したという経緯がある
- 香積寺がなくなり、五重塔だけが残っているという物寂しい跡地に、なぜか陶弘房の菩提寺・瑠璃光寺が移ってきた
- それゆえに、五重塔は陶弘房菩提寺の移転先、つまり現在地の寺院境内にあるが、陶弘房とはもともと何の関係もないものである
- 五重塔は基本、盛見が建設を始めてからの姿そのままで維持されているため、とてつもなく貴重な文化財として国宝になっている。その美しい姿と文化財的価値の高さから、山口市(県)のシンボル的な建築物のひとつであり、市民の誇りとなっている
こんな方におすすめ
- 塔が好きな人。五重塔、多宝塔色々あるけど特に五重塔
- 国宝は絶対見る人
オススメ度
大内文化のシンボル五重塔がある寺院がオススメ度満額ではないなんて、ここのオススメ基準おかしいよ、って方へ。香積寺がいまなおこの場所に存在していたら、瑠璃光寺が引っ越しせず元の場所にあったらそうします(瑠璃光寺の引っ越しじたいはじつは、まったく気にならないのですが。むしろ、曾祖父さまの菩提寺は必ずお参りしなくてはならないと考えた際、元の場所より現在地のほうが有難いです。でも、『跡地』にもいずれは行くことになると考えると、県庁所在地から遠い場所に立ち寄らねばならないという点はかわらないけど)。ですが、五重塔が建てられた香積寺は今はもう存在しない、そう考えるととてつもなく残念です。にもかかわらず、ばーーんと満額は入れることができませんでした。ちょっと感情的なものが入っている採点となりました。ごめんなさい。
(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)
毛利輝元さんが香積寺を解体してしまった、ということは、文化史研究の先生方がショックを受けておられる筆頭の出来事です。さらに、五重塔まで解体しようとしていたとは。解体された香積寺が萩で建築資材になってしまったという噂は本当なのでしょうか? 寺院などを解体しほかの場所に移す、というのはそう珍しいことではなかったりします。名前を変えて、どこかでほかの寺院になっているんじゃないだろうか? と考えたりするのですが、そうであるのならば、先生方はそちらに赴いて調査研究なさっているはずなので、やはり、建築資材のほうなんでしょうかね。
生まれて初めて見た五重塔が瑠璃光寺のそれだったので、日本で一番美しいのは瑠璃光寺の五重塔だと思っていました。今はそう思っていないとか書いたらクレームの嵐に押し潰されてしまいそうで恐ろしいのですが、じつはほかの場所の五重塔もこちらと同じくらい好きになってしまったので、甲乙つけがたい状態です。曾祖父さまの菩提寺がなにゆえにここに移ってきたのかわからないのですが、正直なことをいえば、あまり関心ない大内義弘さん菩提寺に禅僧と交流しすぎて漢字だらけの大内盛見さんが建てた供養塔、国宝である、って認識で、フツーにスゴいって思うだけです。むろん、見ての通り美しいですし。これが凌雲寺さまがお父上のために建立したものであったりしたら、黄色い声で周囲の方々に迷惑をおかけすること必至です……。そして、仮にそうであったとして、法泉寺さま菩提寺が解体されたりとかいう話だったら、この野郎……とか穏やかならぬことになりそうで怖いです……。
解体して自らの居館(城)を造らねばならなかった、というのも致し方ないことですし、そうなった理由が元の本拠地を追い出されたゆえに、である。となれば、大内文化の遺産を破壊した元凶は毛利家を広島から追い出した連中である、ということになります。それらの連中については、怒りしか覚えません。そもそも興味も、関心も 1 ミリもない連中でしたが、こうなると無関係ではおられず、かわりにそいつが埋葬されてる(埋まっているのかとか、興味ないので知らないですが)豪華絢爛趣味悪しの世界遺産を解体して、香積寺再興の建築資材にしたい、とか思います(マジ、趣味悪くて嫌いだよ、アソコ。ケバケバしくて趣がまるでない。小学校の修学旅行にして知ってしまった事実)。
まあ、あれこれ考えて精神的に辛くなってしまうという、複雑すぎる観光資源がココ、瑠璃光寺さまです。実際には現地に着くと何もかも忘れて、あああ、五重塔最高~♪ とうっとりして、何もかもを忘れていますけどね。義弘菩提寺解体と瑠璃光寺引っ越しなどの複雑な歴史的背景がなく、創建当時のままに香積寺の五重塔としてここにあったとしたら、どんだけスゴかったんだろうな、って考えると、ちょっと感傷的になります。
いったいなんで香積寺壊したんだよ……はぁ。関東のタ×キのせいだよ、許せないー。
重要
忘れがちですが、ココは「五重塔」ではなく、陶弘房・菩提寺「瑠璃光寺」です。
五重塔は単に、その境内にあるというだけです。
毛利輝元による解体(タ×キの陰謀に端を発する)がなければ、「大内義弘菩提寺・香積寺、その境内に義弘弟・盛見が兄のために造った五重塔がある」という観光案内となっていたはずです。
「が」、瑠璃光寺は陶弘房の菩提寺ですので、五重塔は義弘(供養されている人)、盛見(造った人)、弘房(五重塔の現在地がある菩提寺の人)にゆかりがある観光資源です。
書かなくてもわかるよ。ミルが大好きなのは宮島の五重塔だよね。陶入道の本陣あったから?
自分でもわかんない。ちょっと前まではやっぱ瑠璃光寺の五重塔にはかなわない、って思ってたのに。今はあの朱塗りの塔に萌え萌えてる。なんかこっちとはご縁がないみたいな気がするんだよね……。山口来ると自分が他所者みたいに思えて。
じつは俺もそう思わないでもない。俺たち、山口より広島にいることが多いもんね。何でだろ?
(そうだね……君は未来永劫広島から離れられない身だよ。ミルもきっとそうなる予感がする……)
まあ、好きなところはいくつあってもいいんじゃない? ミルは厳島神社の信者だから、そっちが贔屓目になるのは仕方ないよ。俺もあっちのほうが好きだよ。宮島は俺の海だし、塔の岡茶屋のちから餅最高だもん。お祖父さまの菩提寺だって俺的には「跡地」のほうが馴染みあるもん。アレ、でもなんで今はココにあるんだ?
やめようね。またある人の悪口になるから。褒めるのはいくらやってもいいけど、マイナス意見は書かないように、ってあれだけ頼んでるのに……。
何言ってんだよ!? 嫌なやつは嫌だと正直に書いて何が悪い? 顔も知らない昔の殿様の菩提寺だって、壊した野郎を赦したりなんて生温いことを、俺は絶対にしないからな。ミルはクレームとやらの嵐なんて恐れちゃいないんだ! しかも、元凶は人間ではなく、タ×キだっていうじゃないか。タ×キに化かされて猛将として名高いお殿さまの菩提寺が壊されたとか、あり得ない話だ。八岐大蛇じゃないんだから、俺だってタ×キの一匹や二匹、フツーに仕留められる。
(嫌です……怖いです……わがままな子のせいで身の危険を感じる毎日です……)
……。
じつは、明治維新とやらで、輝元の子孫がワルモノの子孫をとっちめて仇を取ってくれてるわけよ。あいつら( ↑ )の歴史って、1551 年で終わってるとかなんとかわけ分んないこと言って、それ以上学ぼうとしないけど、無関係な俺は知ってたりする。歴史はいくつもの栄枯盛衰の積み重ねからできている。「名門」語るなら管領家の俺らのほうがずっと格上なのに、跡形もなくなったじゃん。そんなもんだよ。素直に『きゃあー五重塔素敵ー』とか喚いているくせに、なに感傷的とやらになってんのか、意味分らん。
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五郎とミルの部屋
大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。
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附・瑠璃光寺五重塔
20240620 サイトの統廃合により、これまで写真だけをメインに公開していた「写真集サイト」を廃止しました。写真だけで、記事ボリュームが足りない観光資源についてはそちらに一言解説を載せてすませていたりしました。その中に、「瑠璃光寺五重塔」なるページがあり、文字通り何回かの訪問で撮影した五重塔の写真だけを紹介していました。基本、このようなペラ記事は noindex 処理をするのですが、ここはなぜか index にしていました(検索エンジンには無視されていたかと思います)。
写真は宝物なので、今後は非公開として一人だけで楽しみますが、何となく文字列もあったので、名残惜しくてここに書き写して置きます。そのうち本文中に取り込むか、そのままざっくりと削除いたします。文章は以下(「 」の中)です。
公開日は 20220914 となっていました。なお、吹き出しもついていました。
国宝五重塔は日本の宝、山口の誇りです。その美しい姿を集めました。
「五重塔は、瑠璃光寺五重塔と呼ばれ、香山公園内にあります。もともとは、大内義弘の菩提寺・香積寺内に義弘の菩提を弔うために建てられたものです。香積寺の萩移転、その跡地への瑠璃光寺の移転などから瑠璃光寺五重塔となり、瑠璃光寺も含めて周辺は香山公園として整備されています。
四季折々、美しい姿を見せてくれる五重塔ですが、花と紅葉の季節に訪問したことは未だなく……。同じような背景ばかりですが、とにかく見かけるたびに写真を撮っていたらこんな数になりました。
池の水には漣がたっていて、昼間は五重塔が水面に映ることは稀です。しかし、奇蹟的に風が止んだ瞬間に、珍しい昼間の光景を撮影できました。夜間はライトアップが美しく、その際には漣とは無関係に池の上に姿を映し出します。
ちなみにこの池ですが、大切な国宝を守るため、万が一の際に、消化用水として使えるように造られた人工のものだそうです。あまりに奥ゆかしい風情なので、古くからある庭園の一部かと思っていました(もちろん、庭園の一部であることは確かです)。現在は放水設備が完備されていますので、消化用水としての用途は薄れました。
素人写真ですが、少しでも五重塔の魅力がお伝えできれば幸いです。
なお、香山公園や瑠璃光寺については、下記リンクをご覧くださいませ。瑠璃光寺も香山公園内にありますが、香山公園の記事では主に近現代の施設をご紹介しているため、二つに分けました。」