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築山館跡(山口市上竪小路)

2020年10月10日

築山跡・説明看板

山口県山口市上竪小路の築山館跡とは?

山口市上竪小路にある、中世大内氏の館跡のことです。大内氏は戦国期に毛利家によって滅ばされるまで、南北朝期~室町時代にかけて、中国地方最大の勢力を誇った一族でした。二十四代・弘世公が山口に本拠地を移して以来、一門の繁栄とともに、町も繁栄し、応仁の乱で焼け野原になった京都と比して「西の京」などと呼ばれました。戦乱で焼け出された公家たちのほか、多くの文人たちが山口を目指し、一大文化サロンが形成されていくのです。

築山館は、守護所として政務の中心となった大内氏館のほかに、このような「客人」たちをもてなすために増築されたおもてなしのための別館のようなものであったと考えられています。二十八代・教弘公が造築したといわれ、のちには隠居所として使われた模様です。二十九代・政弘公はお父上を「築山大明神」として神格化しますが、その際に、築山館は築山大明神をお祀りする社殿のような建物にその用途を変えたのではないかということが、発掘調査などの結果から推測されています。

大内氏の滅亡後、築山館、築山大明神も廃頽してしまいましたが、江戸時代くらいまではなお、その石垣などが残っていたようです。現在は、完全なる「跡地」にすぎませんが、わずかに一部分の土塁が残されているほか、敷地内に八坂神社、築山神社が移築されたり、自治体が貴重な跡地の保護に力を入れて公園化するなどして、あれこれのみどころがある観光スポットとなっています。

なお、自治体さまによる正式名称は「築山跡」です。

築山館跡・基本情報

所在地・アクセス

所在地 〒753-0035 山口市上竪小路100
問い合わせ先 山口市観光交流課
最寄り駅 県庁前バス停から徒歩10分

指定範囲図

築山跡指定配置図

(築山跡公園化整備地四阿ベンチ内説明看板より)

これを見る限り、敷地内にある八坂神社、築山神社のほか、河村写真館なども含め全体を「築山跡」という史跡としてとらえていることがわかります。けれどもこちらでは、後から移された二つの神社や、近代になって建てられた写真館などは、かつての築山館とは無関係と考え、あくまでもかつての「築山館」のご紹介をしています。

※ただし、みどころとしては跡地を整備した公園、河村写真館さまなど、単独で項目をたてられないものもまとめています。

築山館跡・歴史

「築山跡」とは、大内氏別邸築山館の跡地のこと。現在の八坂神社、築山神社の境内敷地にあたる。

築山館は八十間四方を土塁で囲み、外面には大石を積み上げていたと想像される。土塁は天明三年(1783)頃までは存在していたらしいが、その後、今も残されている西北の隅以外、くずされてしまった。土塁をくずした土は庭園の池を埋めるために使われ、池も失われた。

大内氏が本拠地を山口に移したのは 14 世紀後半から 15 世紀前半とされていて、初期には当主たちが在京していたため、居所である館も最低限の政務をこなせれば十分という規模だったと思われている。その後、当主が在国するようになると、館の機能は拡大し、「首都」としての役割を与えられていったとされる。寛正二年(1461)の「掟書」にそれに関する記述がある。居館は政務をとる場所としてだけでなく、当主の居住空間としての機能も充実させていき、やがて接客用スペースとして、「築山館」が建てられた。

築山館を建てたのは、二十九代・教弘とされ、幕府と衝突し家督を息子に譲らざるを得ない事態を引き起こしていたことから、「表向き」にはこちらを住処に隠居身分となっていたとする考え方もある。築山館に住まいしたことから教弘は「築山殿」とも呼ばれていた。その死後、子息・政弘によって神格化され「築山大明神」と呼ばれる祖先神として祀られることになる。政弘は神となった父を社殿に祀っており、それは大内氏館の北側にあって、元の築山館の場所ではないかと考えられている。

考古学的研究の成果から、なるほど築山館跡地には、15 世紀世紀後半から幅 3 メートルを超える堀が埋め戻されたことが判明しており、元々の施設(館)の性格に変化が生まれた可能性があるという。研究者の先生方はこの変化がすなわち、築山館が元々の御殿から、宗教施設としての社殿への改築であると指摘なさっている。

それと同時に、接客施設であった時期の史料も残されおり、築山館で日ごと行われていたであろう、雅な文芸行事の数々や、訪れた著名な客人たちについての逸話を知ることができる。

かの連歌師・宗祇が「池はうみこずゑは夏のみ山かな」と発句したのは、当主・政弘から、連歌会で庭園の風景を詠むように、と所望されてのことだった。この句は今は「跡地」となった築山跡に、句碑として刻まれている。

築山館跡・みどころ

跡地内には八坂神社と築山神社がある。⇒ 関連記事:八坂神社築山神社

江戸時代の末までは庭園跡が残っていたとされるが、今は失われており、発掘調査でも今のところ確認できていないという。当時の石垣も残されてはいたが、毛利敬親代に藩庁を山口に移した際、その建築用材として使われた。ゆえに、現在地ではなく、藩庁跡地のほうで石が保存されている形となっている(後で説明する)。つまりは、現在目にすることができる遺構はわずかに土塁のみであり、それもほんの一部分である。

大内氏ゆかりの地であることから、顕彰碑の類が多数あるほか、解体・放置された石材が転がっている。
⇒ 宗祇句碑、修大内義興墳墓碑、月見松跡碑、箏曲組歌発祥の地碑、市川少輔七郎墓

築山館跡土塁

今もわずかにその面影を留めているものとして、築地跡の土塁がある。北西隅の西面および北面にL字型に遺っており、居館の位置、規模を示すものとしてたいへんに貴重な土塁遺構となる。

築山跡・土塁

ミル涙イメージ画像
ミル

ええーーっ、土塁はどこ?

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五郎

草ボウボウじゃないか……(絶句)。

じつはこれ、撮影日が初秋だったので、土塁が草に覆われてしまっているのである。よって、土塁というよりは単なる叢にしか見えない。しかし、きちんとガイドさんのご説明をおうかがいしているから、間違いなくココである。

基本的に、自治体関係の資料にある通り、八坂神社&築山神社境内の周りに土が盛り上がっているだけなので、草が刈り取られた後ならば、それなりわかりやすいと思う。大内氏館跡や勝栄寺の土塁と見た目的に同じである。ただし、築山館跡の土塁は周辺を取り囲むようにはなっていない。かつてはなっていたはずだが、現在も遺されているのはほんのわずかな部分だけになっているからである。自治体さまやガイドブック、諸々研究書などのご紹介だとだいたい「北西隅」にちょい残ると書いてある。

築山跡・土塁(2)

冬に再確認したところ、こんな風になっていました。上の写真とちょい場所的にズレているみたいだけど、やはりイマイチわかりにくい。ひょっとして、間違ってる? 築山跡付近の盛り土であることだけは確かです。

築山館跡にあった石垣の石

土塁とともに、館跡の石垣も残されていた。しかし、毛利敬親が山口に藩庁を移した際、その建築用材として使われてしまったので、「築山館跡」には石垣の形としては残されていない(逆に言えば、藩庁建築時にはまだあった、ということ)。

場所などどうでもいいので、石垣の石を見たいということであれば、かつての藩庁に行けばよい。とはいえ、残念ながら、藩庁も跡地としてしか残っていない。石垣を再利用したのは、藩庁だけではなく、その後も公園などの建設で使われたことがあったようなので、探せばほかにもあるかもしれない。ここでは、現在の山口県庁の辺り、香山通りにあるものを紹介している。これもガイドさんに連れて行っていただいたので、正確なものである。

元築山館の石垣

立派な石垣である。

宗祇句碑

築山跡・「宗祇句碑」

昭和二十八年に造られた石造の句碑。「池はうみこずゑは夏のみ山かな」という発句が刻まれている。

月見松跡碑

築山館跡「大内氏月見之松紀念」碑

あまりにも有名な「大内氏月見之松」を偲んで建てられた石造記念碑。
なお、この付近に本当に松の木があるが、木は当時のものではないので、誤解しないように。

箏曲組歌発祥の地碑築山跡・「箏曲組歌発祥の地碑」

 

夜毎雅な宴に明け暮れた日々。ここから生まれた芸能も数知れないだろう。そのうちのひとつが「箏曲組歌」と伝わる。これはそのような雅な宴を偲んで(?)昭和四十年に造られた石碑。文芸は難しいので詳細はわからないが、石碑の近くに詳細な説明看板がある。

築山館跡・筝曲組歌説明看板

ガイドさん曰く、このような「発祥の地」というのは、様々な地域が我々のところが発祥地です、と名乗り出るのが常で、いったいどこが実際の発祥地なのか、見極めることは難しい。史料から確証を得られたことならば、はっきそうとわかるし、それ以外の場所があれこれと名乗り出ることもなくなるだろう。この看板にも書いてあるけれど、ここが本当に発祥地なのかはわからないという。

発祥地かどうかが事実かは別として、そのような伝承が生まれるほど、文芸が盛んであった、という点が大内文化の姿を伝えていて興味深いのである。なお、この石碑は昭和四十年に造られたものである。

市川少輔七郎墓

築山跡・市川少輔七郎墓

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

市川少輔って誰? なんで毛利家臣の墓がここにあるんだ?

ミル涙イメージ画像
ミル

お墓がここにある、ということは当然、この場所に関係があるからだよ。

市川少輔七郎という人は、名を元教といい、市川元経の長男だった。父親のほうは名前をきいたことがある。どこできいたのだろう、と思ったら、大内輝弘が山口に侵攻した時の山口奉行だった。庭園はとっくに滅んでいたから、知らなくても当然だ。しかし、ガイドさんがこの人にかかわる悲劇のお話をご案内くださったので、記憶に残っている範囲で記録に留めておく。

市川元教は大友宗麟からの手を組もう、との誘いに乗り、毛利家を裏切ってしまった。大内家滅亡後、毛利家と大友家が九州の地で長らく合戦したことは周知の通り。そんな敵国と内通するなど、絶対にあってはならないことだ。しかし、元教の裏切りは主に知れる前に、父・元経に知られてしまった。主君の家はもちろん、自らの家のため(家から裏切り者が出たら、最悪家は潰されてしまう)、元経は息子を処罰する道を選んだ。父として、我が子が愛しくない人などいないはずで、どれだけ辛い決断であったことか。このとき、元教が処刑されたのが、この場所(この付近と仰ったかも知れず、記憶が曖昧になってしまった)。のちに、供養のためにこれらの供養塔やらが造られたのである。

盃状石が刻まれた巨石

築山跡・盃状石が刻まれた巨石

「盃状石」というのは「死者をよみがえらせたり、豊作を願ったりすることを意味する刻印」との説明看板があった。朝鮮半島の支石墓の蓋石にも刻まれていたということであり、国内最初の発見例は、大内の神田山石棺群の箱式石棺墓墓石に刻まれていたものだと書いてあった。国内最初の発見が県内であったこと、それも大内であったこと、大内氏と朝鮮半島は関係が深いこと、別に大内氏とは無関係に、朝鮮半島の支石墓とそっくりな古墳は西日本でよく造られていたこと、などなどを思い出したけれど、なんで、この築山館跡にこれがあるのかは謎だった。

築山館跡の見学に来ていたから、ガイドさんからもこの石についてのご案内はなく、お伺いすることも忘れていたから、確かめようがない。

修大内義興墳墓碑?

築山館跡・修大内義興墳墓碑

築山神社のそばに、「修大内義興墳墓碑」なる石碑があることは、自治体さまの公園整備計画書などにも明記されている。そのタイトルと明治二十三年に造られたものであるということ以外、書かれた文字などは不鮮明であり、内容を判読することは不可能、という点は皆さまの意見が一致している。で、この「修大内義興墳墓碑」にあたるものを毎回必死で探しているけれど、「判読可能」なものすら石碑の中身は理解できないのに、「不可能」なものを探し当てるなど並大抵のことではない。

敷地は限られており、ほかにこれ以外の石碑はないこと、タイトル(?)にかろうじて「大内義興」と書いてあるんじゃないのかな? と思われる四文字があるからこれがそうなんじゃないだろうか、と思った次第。ゆえに「?」付きである。解像度を下げているこの写真からはまったく不鮮明だが、元のクリアな画像からは「大内義興??」と読める(気がする)。けれども「修大内義興墳墓(碑)」と読むには一文字足りないし、ビンゴじゃないと思う。

大内氏とソテツ

ガイドさんからのワンポイント

ソテツは大内氏のシンボルみたいな木です。

築山館跡・ソテツ

石碑の向かって右側に生えている。大内氏館跡にもあった。館や別邸、庭園内にソテツがあるのは大内氏の外交・通商の範囲が広大な地域に渡っていたことの現われ。今でこそ、どこにでもフツーにありますが、かつてはなかったもので、時代に先駈けて海外から持ち帰ったのです。現在あるものが、当時からの木であるかはわかりません。庭園やゆかりの地の復元整備事業などに際して、象徴的に意識して植えられたりしています。最初は大内氏のような海外に開かれた裕福な人々しか持ち得なかったソテツですが、以後はほかの権力者や寺院の庭園、やがては現代の一般庶民の庭にまで広まっていったのです。

八坂神社と築山神社

現在自治体さまが指定している「築山跡」の範囲というか、敷地内には八坂神社と築山神社が鎮座している。それらの神社については項目を改めているので、そちらをご覧くださいませ。

築山神社・鳥居と拝殿
築山神社(山口市上竪小路)

毛利輝元の命令で建てられた大内義隆父子らを祀る神社。現在は、築山館跡敷地内に鎮座する。社殿は江戸時代の建築で県指定文化財。元は氷上山興隆寺境内にあった東照宮の建物。義隆父子以外にも、政変で命を落とした公家から徳川家康まで祀られている。

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八坂神社石段前にて記念撮影
八坂神社(山口市上竪小路)

大内弘世が京都祇園社を勧請したといわれ、かつては祇園社と呼ばれていた。所在地は移転、名前も変わったが、本殿は永正年間義興代再建当時のもので、神事・鷺舞はじめ祇園祭も途絶えることなく存続している。

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ミル通常イメージ画像
ミル

築山館跡の復興整備計画はついに完了し、2022 年に公園として生まれ変わりました。開園セレモニーには、参加できませんでしたが、今後は市民の憩いの広場としての、新しい役割も担うことになります。

五郎笑顔イメージ画像
五郎

いまよりもっと、楽しい場所になるね!

追記:公園となった築山跡

築山跡が公園化される、セレモニーには蹴鞠のイベントがある。イベントより先に行ってしまったーー。と喚いていた(↑)ので早速、「公園化された築山跡」を再訪してみた。

築山跡公園プレート

ミル通常イメージ画像
ミル

な、なんと、雅で麗しいお方……。

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五郎

(雅で麗しいのは看板じゃなくて、平安貴族風コスプレの俺の兄上イラストじゃないか……)

築山跡公園敷地

九月の時点ですでに、この辺りはきちんと整備されていた気がする。それ以前がどうなっていたのかは思い出すことができないけれど、要するに綺麗にしてベンチや看板を置いた、というだけな気がする。真冬ということもあって、子どもたちの歓声もなく、長閑にベンチに腰を下ろす休憩中の方々のお姿もなかった(小雪がちらつく寒い日だった……)。

○○ 跡地が自治体によって整備されるとこのように、整然とした公園に生まれ変わり、大切な遺跡がこれいじょう宅地や産業用地として切り崩されていくことから守られる。予算の関係でちゃちなレプリカ館が建つよりも、これがもっとも麗しい保存方法だと思う。

2019 年に教育委員会から出された「史跡大内氏遺跡保存活用計画」が、いちばん最初にこの記事を書いた時の参考文献となっていたようだ。確かにその時、このように整備して説明看板やらベンチを置くという「計画書」を読んだ記憶がある。つまり、その保存計画が、計画ではなく実行に移され、無事に完成したのである。

築山跡公園のベンチ

この綺麗な四阿式ベンチの中に、築山館のことがまるっとわかる説明プレートがあり、公園敷地内にもそれぞれ、この場所は昔こうだった、というような発掘調査の成果を記したプレートが埋め込まれている。

築山跡公園プレート

「南側出入り口」と書かれたプレート。写真には発掘調査の結果が紹介されている。現在は大内館庭園と同じく、保存のために埋め戻されている。つまり、この地面の下に、かつての築山跡が埋まっている。

整然とした広大な敷地に佇み、「池はうみこずゑは夏の……」雅の宴は今となっては、歴史の中にしか存在しないのだと言うことを痛感し、何とも言えない気分となった。

附・河村写真館

河村写真館

築山跡公園の傍にある。明治時代の洋館がおしゃれで、当時を偲ぶ貴重な文化財として、県の重要文化財となっている。前回どこで紹介しようか迷っていたけれど、築山跡が公園化されたことで、まとめてしまう。そもそもこの写真館は「築山跡」の範囲図(冒頭)にきちんと明記されている。

なお、現在、写真館さんはここで営業を続けられてはおられない。

五郎通常イメージ画像
五郎

公園についての記述がやけに淡々としているのは、ミルが公園完成セレモニーの蹴鞠イベントを見れなかったからじゃないの? 出演者は全員、平維盛だと信じて。もしくは緑髪将軍とか。当日に来れなくて残念だったね。

ミル涙イメージ画像
ミル

あああ、三位中将と緑髪将軍って、どっちがよりイケメンなの? やっぱ法泉寺さまがいちばんだよね?

築山館跡(山口市上竪小路)の所在地・行き方について

所在地 & MAP

所在地 〒753-0035 山口市上竪小路100

アクセス

山口駅から町歩きで。敷地内には築山神社、八坂神社が、付近には大内氏館跡があるので、かつての町並みを偲びつつ歩かないともったいない。

参照文献:山口市教育委員会「史跡大内氏遺跡保存活用計画」2019 年 PDF、『大内氏の文化を探る』勉誠出版

※この記事は 20230402 に加筆修正されました。

築山館跡(山口市上竪小路)について:まとめ & 感想

築山館跡(山口市上竪小路)・まとめ

  1. 築山館跡は、大内教弘が建てた大内氏館の別館跡。もとは、客人接待用の施設だったと考えられる
  2. そのご、教弘の隠居所、死後には神格化された教弘を祀る「築山大明神」として宗教施設的役割をもつ建物になったのではないか、と推測されている(歴史学、考古学両研究の成果による)
  3. 大内氏の滅亡後、築山館もなくなってしまったらしいが、江戸時代の頃にはまだ土塁や石垣が残っていたらしい
  4. 石垣はその後、毛利敬親が山口に藩庁を移転した時、石垣の石に転用されたり、ほかにも公園などを造る際に使われてしまい、失われた。
  5. 現在も土塁の一部分が残っているほか、石垣は藩庁の跡地で見ることができる
  6. 館跡地には、祇園社(八坂神社)が移転させられ、宝現霊社(築山神社)も遷ってきたので、敷地内には現在二つの神社が同居し、あわせて参拝できる
  7. 広大な跡地は八坂神社、築山神社、河村写真館などの中世~近代までの貴重な文化財を見ることできるほか、発掘調査地を保存した敷地を公園化するなど、観光資源として整備された姿を満喫できる

大内氏館跡のように、池泉庭園や枯山水庭園があるなどのみどころはないです。けれども、八坂神社、築山神社と二つの神社が並んで鎮座していますし、河村写真館のような近代の洋式建築なども見学できてしまいます。また、龍福寺さまの寺地があるゆえ、今ひとつ館としての全体像をつかみにくい大内氏館跡に比べ、その広大さはわかりやすいです。

とは申せ、やはり現在の館跡は両者とも単なる「跡地」でしかなく、発掘調査の成果を享受できる人はそう多くないと思います。「南側出入り口」とか書かれた案内プレートを見たとして、ただそれを見ただけで感動できる人がどれだけいるのでしょうか……(つまり、素人には考古学的調査結果の史料を拝見しても、元の姿を思い浮かべることは難しい、って意味です)。やはりここは、考古学の知識が豊富な研究者の方のための場所です。世間一般の観光客としては、龍福寺さまや八坂神社さまなどをお参りするために来ているのだと思います。

公園として整備されたことで、市民の皆さまの憩いの広場的な場所となったので、歴史を学びつつ楽しい時間を過ごせたら申し分ないですね。残念ながら、自宅付近の「××氏△△邸跡(国指定史跡)」がただの原っぱにしかみえない人間の目には、築山跡もただの公園にしか見えません。「××氏△△邸跡(国指定史跡)」は自治体がここまで力を入れて管理していないのがまるわかりであるため、山口県、山口市の皆さまの地元愛にはいたく感動しました。残念ながら「××氏」は全国で知らない人がいないほど有名ですが、大内氏を知らない人は普通にいたりして、驚愕します。ただの原っぱなんぞに負けずに、「築山跡」公園に頑張って欲しいと思いました。

こんな方におすすめ

  • 築山館こそ大内文化のシンボルなんだ、ただの跡地だってかまわない。月見の松だの宗祇の句だのの石碑もあれこれあるじゃないか
  • 史跡跡公園とか大好きです。当時の面影を想像しつつ感傷に耽るひとときが心地良いので

オススメ度


(オススメ度の基準についてはコチラをご覧くださいませ)

五郎涙イメージ画像
五郎

あるのは土塁だけだね……。宗祇が句を詠んだ池ってどこに消えたの? 「当時の面影を想像しつつ感傷に耽る」ってどういうこと?

ミル涙イメージ画像
ミル

今の君がまさにそうなってるよ……。

於児丸笑顔イメージ画像
於児丸

広々として清潔感溢れる公園ですね!

新介笑顔イメージ画像
新介

そうだね。築山神社にも立ち寄ってご先祖にお参りしてから帰ろうよ。

瑠璃光寺五重塔記念撮影
五郎とミルの防芸旅日記

大内氏を紹介するサイト「周防山口館」で一番の人気キャラ(本人談)五郎とその世話係・ミルが、山口市内と広島県の大内氏ゆかりの場所を回った旅日記集大成。要するに、それぞれの関連記事へのリンク集、つまりは目次ページです。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

【取得資格】
全国通訳案内士、旅行業務取扱管理者
ともに観光庁が認定する国家試験で以下を証明
1.日本の文化、歴史について外国からのお客さまにご案内できる基礎知識と語学力
2.旅行業を営むのに必要な法律、約款、観光地理の知識や実務能力

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