簡略通史

年代記 第二回:大内氏の経歴(在庁官人出身)

2024年1月6日

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大内氏の経歴

この記事の中身

一、大内氏は周防国衙の在庁官人だった。では、在庁官人とはいったいどのような人々を指すのか?
二、「在庁官人」という言葉が出現した時代とその様相
三、周防国衙の在庁官人における大内氏の地位

前回のお話で、大内氏の先祖は百済の王子・琳聖太子である、ということを学びました。今回は、血統としての出自ではなく、「大内氏は周防国の在庁官人出身だった」と語られることの多い、在庁官人とはいったいどのような人たちなのか、ということを考えてみます。

在庁官人とは読んで字の如く、政庁に在って政務を執っていた官人(役人)のことです。ふーん、そうだったんだ。と、深く追求しない方々にとっては何でもないことなんですが、恐ろしく悩みました。最悪、ここは飛ばして、それこそ、そうだったんだ、ですまそうかとも思いました。でもそれだと気持ち悪くて仕方がない。

在庁官人という言葉は受験参考書にも載っており、普通に受験生でも知っています。とりあえずそこらの超基本的なお話から始めて、最終的に周防国の在庁官人たちについて確認し、それらの集団の中から大内氏という大勢力が形成されていったところまでをおさらいしておきたいと思います。

在庁官人とは何か?

在庁と在庁官人

読み飛ばし用要約・1

在庁官人とは、国衙において国司の配下にあって、実務を執り行った現地の役人のこと。よく似た言葉に「在庁」というものがあるが、正確には両者は微妙に違う。元は「在庁」と「官人」は別物として区別されていたが、やがて「在庁官人」として一体化された。

律令制が崩壊したのち、国司が国衙に赴任し、地方政治を担うというのではなく、受領といわれる徴税請負人的なものとなってしまった時代の話。現地に赴いてせっせと税金を搾り取る受領となる国司もいるし、現地には目代という代理人を派遣し、自らは都にいる、というケースもありました。そのように、代理人に丸投げしている状態を「遥任」といい、その場合、地方政治(徴税)はその目代と現地の在庁官人とが執り行いました。このような、国司不在の国衙を「留守所」と呼びます。『大内氏史研究』にも解説があるけれども、ここは日本史授業の知識から説明できる範囲です。

『大内氏史研究』などに手を伸ばさないほうが、遙かに分りやすいので、チラ見でスルー。一昔前のご本は頭が割れそうになるほど難解です……。ところが、念のため日本史事典で確認しておこうと思ったところ、「在庁官人」の前に、「在庁」という項目があるではないですか。

む? 「在庁」と「在庁官人」とはイコールではないのか? としばし悩む。結論から言うと、敢えて分割して別物としなくとも、何ら不都合なことはありません。しかし、見てしまった以上、放置は無責任です。

ざいちょう【在庁】
平安中期以降、国衙の実務を行った現地の役人。国司四等官や史生は 本来中央からの派遣官であり、国衙の実務はその下で働く国内の有力豪族層出身の書生や雑色人がになった。平安中期にはこうした国衙運営にたずさわる在地有力者が在庁と称して国衙機構の所を分掌する体制ができ、惣大判官代・大判官代・判官代・録事代といった職名を名乗った。また寺院組織でも長官不在中の実務担当者に在庁の称がみられる。

出典:山川出版社『日本史広事典』

これのどこが「在庁官人」と異なるのか? 国衙で実務を執った現地の役人って、つまりは在庁官人ではないの? そう思いますよね。丁寧にじーっとお読みくださいませ。

国司四等官:守(かみ) 介(すけ) 掾(じょう) 目(さかん)+史生(書記官)⇒ 中央から派遣
書生・雑色人(複雑化するので職掌はまんまスルー)⇒ 現地の役人

まずは上のような構図があり、現地の役人は中央から派遣されていた役人たちの下で働かされていたような雰囲気。しかしながら、律令制が崩壊するのを待つまでもなく、任期が満ちたら帰国する国司と違い、現地の事情に明るい実務者が重宝され、力をつけていくのは自然の流れ。平安時代の中期頃にもなれば、現地の役人たちは惣大判官代・大判官代・判官代・録事代などとご大層な名称で呼ばれるようになっていったということです。しかし、惣大判官代以下云々については事典に解説がなく、「判官」を見ろと。見ましたがよくわからなかったので、これはもう、そういうふうに呼ばれていた、でいいです。むろん、覚える必要もありません。

この、「平安時代の中期頃」といえば、すでに国司が徴税請負係となっていた頃の話となりますので、ほぼほぼ、参考書に書いてある「在庁官人」そのものです。「在地有力者が在庁と称して国衙機構の所を分掌する体制ができ」ていたわけですから。

では、コレと「在庁官人」とどこが違うのか、ということですね。これ以上長々と引用すると70%を越えてしまうので、同じ『日本史広事典』からまとめてみますと、「平安中期~鎌倉時代に、国衙行政の実務にあたった現地の役人の総称」とのこと。いっぽう、上の「在庁」による国衙機構の分掌は「9世紀」頃のことだと書いてあるので、時代の変遷につれて呼び方が少々変ったようです。

ここで、ちょっと「超難関」向けの受験参考書にあたると、この謎がストンと解けました。9世紀と、平安時代の終わり頃・院政期~鎌倉時代(院政期と鎌倉時代の初めはちょっと重なるけど)とでは、同じ受領でも少しく違うのです。当然、国衙の在り方も変化しました。

まず、律令制の崩壊により何が起こったか? きちんと租庸調を納めさせ、税収入を得ることができなくなります。税金を取らなくては国政は回らないので、とにかく税金を集めて来い! ということが国司の任務となります。ここで質問です。国司っていったい何人いたのでしょうか? え? もちろん一人じゃないの? そうなんです。ここが間違っておりました。「国司の四等官:守(かみ) 介(すけ) 掾(じょう) 目(さかん)」じゃないですか。最低でも一ヶ国に四人はいますよ。なんと、全国に500人くらいいたそうです。

一番偉いのが守、次が介……という具合に、一つの国に複数人の国司がおり、彼らは「共同で」政務を執っていたのです。国衙は地方行政機関ですから、朝廷の命を受けて任国の政治を執っていたわけです。むろん、そこには税に関する役目もあったでしょう。しかし、律令制の崩壊によって、税収が困難となり、もう政治云々じゃなくて、とにかく税、税、税、税を集めて来い! って事態になりました。

「税金取り立て」の任務は、国司の中で最も偉い人物に委ねられます。普通に考えたら「守」が最もランクが高いわけなので、その人を最高責任者とし、もう朝廷の指示云々じゃなく、自らの裁量で運営していいから、とにかく税を集めて来い! ということで、なんだか恥ずかしい話ですが、国司のうちもっとも位が高い人物を責任者に任命し、その地方の政治を丸投げしました。そして、最たる任務は「税の徴収」だったわけです。この最高責任者こそが「受領」です。

受領はすべての権限を委任されているため、とにもかくにも税金を集めればいい。まじめに行政指導をやっている人物もいたでしょうけど、数は少なかったかと。しかも、ノルマを達成できれば、超過した分は自らの懐に入れることができました。取り立てを厳しくすれば、民は疲弊しますが、ノルマの達成は容易となります。自らの財布を潤わせるため、圧政を敷いたワルモノまで出現しました。まあ、そこまで行かずとも、多少の役得があるというだけで、こんなおいしい仕事、ほかにはないってなります。それゆえに、希望者が殺到したのです。

受領じたいは、大した身分ではないため、高級貴族などが就くようなポストではありません。しかし、中下級貴族で金もうけを企む人々は受領になりたくて仕方ありませんでした。それゆえに、高級貴族に根回しをしたり、任期が切れてもお金を払って再度任命してもらったりということが普通に行われました。

在庁と言われる人々は、このような受領を助けて実務を執り行うために雇われた現地の有力者や、律令制崩壊前に郡司を務めていた人々などでした。ココが9世紀末~10世紀頃の話。頂点に立つ「受領」は別として、同じ国衙に勤めるほかの国司など中央から派遣されてきた人々を「官人」、現地採用の人を「在庁」という区別がありました。しかし、すべての権限が受領に集中する中、ほかの国司たちはもはや任国に赴任しなくなってしまいます。遥任って、受領が目代を派遣して現地に行かないことだとばかり思っていましたが、このようにして、嫌気がさして行くのをやめてしまった方々も同じく、遥任といいます。

というようなわけで、「在庁」と「官人」という言葉には区別があり、あくまで現地採用の人を「在庁」と呼んでいた時期があったのです。しかし、あえて区別せず、まとめて「在庁官人」と「総称」することもあり、鎌倉時代頃になると、ひっくりまとめて「在庁官人」と呼ぶようになります。かれらは、幕府の下で守護たちと結びつき、協力したということです。

『平家物語』と在庁

読み飛ばし用要約・2

誰もが知っている『平家物語』に身分卑しき者として出てくる「在庁」。彼らが権門勢家の荘園を侵食しようとして、山門(延暦寺)と争いになる章段は、後白河法皇の命令によって行なわれたフシがあるものの、その後の武士たちが、寺社や貴族の荘園をつぎつぎと浸食していったことを考えると何とも興味深い。

『平家物語』は平清盛を批判しているのか、それとも、栄耀栄華の末に壇ノ浦の藻屑と消えた平家一門の悲哀に同情しているのか、未だによくわかりません。それはともかくとして、鹿ヶ谷の陰謀事件(1177)で平家に叛旗を翻して捕らえられたり、島流しになったりした人々の中に、西光法師という人がいました。

清盛と対立する後白河法皇の取り巻きで、法皇とともに平家打倒を計画した連中のうちのひとりです。法皇のお気に入りであったがゆえにか、その子どもらまでも取り立てられます。西光はどうもワルモノとして描かれているようで、その子らも然りです。

それらワルモノたちが揃いも揃って、国衙の役人であったことは何とも言えません。まず、西光はその出自が「阿波国の在庁」でした。そこまではいいとして、「熟根いやしき下﨟なり」(素姓の卑しい下級の者である。『新版 平家物語 全訳注 全四冊合本版 (講談社学術文庫・Kindle版)』)と書かれています。王朝貴族から見たらそうなんでしょうけど……。そして、その息子は加賀国の受領となり、権門勢家の荘園をつぎつぎに没収します。また、本人は現地で政務を執ることなく、弟を目代として現地に派遣。そこで弟は、寺院の人たちと暴力沙汰に及びます。

解説を拝読すると、西光の息子たちのこれらの行為は、有力寺社が膨大な荘園を所有している事態を快く思わない法皇と寺院との対立の一コマを描いているものだそうですが、のちに、武士たちが文字通り寺社や貴族の荘園を次々浸食してやりたい放題になっていったことを想像すると何やら面白く感じられます。

『平家』では、同じ権門勢家の筆頭である法皇と寺社の対立を描いているわけですし、特に政治的時代背景を映し出そうという意図はなく、ただただ西光の一族をワルモノとしているだけですが。

法皇が延暦寺と対立し、天台座主を追放するようなヒドい仕打ちをしたときも含め、平家はどちらかと言えば、山門とはそれなり友好的だったように思えます(あくまで『平家物語』)。清盛の死後、四面楚歌となった平家一門は、東大寺の焼討ちまでしてしまっており、摂関家の氏寺・興福寺もともに燃えてしまったため、彼らを味方に付けることは不可能。それでも、山門に対しては、特に不愉快な思いをさせた覚えはないからと、今後は延暦寺を氏寺、日吉神社を氏社に致します、と書状を送り、味方について欲しいと懇願します。けれども、タッチの差で、木曾義仲からの誘いにOKをしてしまっていた延暦寺は、平家に味方することはありませんでした。何とも悲壮感漂います。

しかし、問題は平家一門などではなく、我らが多々良氏です。

在庁官人出現期の様相

知行国制と在庁官人

読み飛ばし用要約・3

院政期には知行国制といって、一国の収入をすべてひとりの人物が手に入れてしまう仕組みがとられていた。しかし、知行国主となれるのは平家一門のような身分の高い人ばかり。ランクの低い国守にはなれないため、一族の者などを国守に任命。国守となっても任国に赴く者はおらず、目代という代官を送り込むだけだった。国守不在の政庁で実際に政務を執り行っていたのが在庁官人で、次第に力をつけていった。

国司のリーダー「受領」がただの徴税請負人となり、国衙の政務は在庁官人たちのお陰で回っていた時代(正確に言えば「在庁」と「官人」)。平清盛らが活躍した頃は院政の真っ只中で、知行国制が取られていました。ひとりでひとつの国を知行(支配)する、つまりその国の収入がすべて我が物となるという制度です。

そうやってある国の支配権を委ねられた者を「知行国主」と呼びました。ゆえに○○(国名)の知行国主となれば、○○国のものはすべて自らの懐に入ります。しかし、ここで問題があります。知行国主は高級貴族たちです。ゆえに、都住まい。彼らには自らの知行国の国守(=受領)を任命する権限が与えられていたため、本人ではなく身内、息子や甥などを国守としました。しかし、高貴な方のご子息だの甥御さんだのがわざわざ○○国くんだりまで行く必要もありません。そこで、赴任セレモニー程度であとは目代なる代官に丸投げ。こうして、国守がいない国衙は留守所と呼ばれました。着任した目代は現地のことはよくわかりませんから、これまた在庁の人々に頼らねばなりません。こりゃ在庁の天下となるのも当然ですね。おそらくは、在庁ーー目代ーー国守ーー知行国主と、得分が移動する間にも、密かにポケットに入る分はあったかと。このことは誰も書いていないけど。

こうして、国司が赴任しなくなった国衙では、あれこれの政務はすべて在庁官人の手に委ねられます(目代はどこへ?)。身分の上では、中央から派遣される(はずの)国司にはかないません。単なる地方の役人です。けれども、実質上、国衙は在庁官人の天下となります。そもそも、「在庁」となるのはどのような人々であったか。地方の豪族、有力者です。先祖代々その地に根付いていた人もいたでしょうし、中央から地方に下ってきた役人たち(国司含む)で、そのまま土着して開発領主となった人たちもいました。

いずれにしても、この頃はいわゆる、「武士の成立」なんて時代とも重なってきます。役人といえども、力ある人々は、自らの権益を守るために武装しました。ただの文書管理係ではなくなっていくのです(全員が武装したとか、そういうの分らないけど。恐らく、武装できない=我が身を守れないような、力のない人たちは、力ある人たちに飲み込まれてしまったでしょう)。

このように、地方政治に欠かすことのできない存在となった在庁官人ですが、彼らの中にも「序列」がありました。事務処理能力の出来不出来ではなく、武力もものをいいます。全国見回すと、在庁官人出身の有力な武家は、何も大内氏だけではないのですよ。その国の中で、もっとも力をつけた有力な在庁官人は、元々は中央から派遣された国司が名乗っていた四等官の二番目「介」を名乗るようになりました。受領=国司も国衙も存在はしている以上、身分の上では彼らが上。しかし、受領(=国司の最上位、『守』)も含めて中央から下ってくる人はほぼいない。ならば、国の守にとって代わることはできないものの、その次官におさまっちゃおう、ってことで。○○介と呼称する武家が登場してきたのは、こんな流れかと。おおっ、ようやく繋がった。なにゆえに、単なる在庁官人が、周防介だの、大内介だのと名乗っていたのかが!

と、これもじつは受験参考書(難関向け)に書いてあったことでして。しかし、積年の謎だったのです。だって、大内介だけではなく、○○介なる武家、あらゆるところに出没しているもの。彼らが出世して、中央の役人になったということも考えられるけれども、それこそ、国司はランクが低い役職ですので、のちの大内義隆のように、武家にして最高の官位をもらう時代になっても、なお周防介とか怪しすぎるとずっと悩んでしました。「名乗り」と実際の官職がまったく釣り合わないので。要は本当に、単なる「名乗り」でしかないということです。

流罪になった恨みから源氏に味方!?

読み飛ばし用要約・4

院政期、ちょうど平家一門が驕り高ぶっていた頃、大内氏の先祖たちが、「流刑」にあっていたことが記録に残っている。なにゆえに流罪となったのかは不明ながら、各地で反平家の声が高まっていたことから、同様の行動をとったがゆえにではないかとする見方が優勢。

さて、知行国制において、誰がどこの国を知行するか、を決めるのは院政の主でした。犬猿の仲に見える平清盛と後白河法皇ですが、密月もあったのです。さもなくば、「日本秋津島は、纔かに六十六箇国、平家知行の国、 卅余箇国、 既に半国にこえたり(同上)」などという状態にはならないでしょう。むろん、院自身も知行国を持っていました。院分国といわれるものです。何ともはや。権力者たちのやりたい放題ですね。

そんな風にして、平家が我が身の栄華を誇っていた頃、先の鹿ヶ谷の陰謀事件ではないですが、全国各地で平家の専横を快く思わない者たちの密やかな抵抗があった模様です。史料がないため、研究者の先生方にも真実は不明らしいのですが、この頃、多々良氏の一族の者が流罪に処せられていることが分っています。なにゆえに詳細が分らないのに、流罪になったことだけは明かなのかと言えば、恩赦によって帰国を許された旨の史料だけが残されているからです。

それによれば、多々良盛保は伊豆国、盛房は常陸国、弘盛と忠遠(実房)は下野国から召還されたそうです。治承二年(1178)十月のことでした。記事は『玉葉』にあるとのことで、先生方の本諸々に採取されています。果たして、多々良氏の人々が反平家だったのかはわかりません。しかし、時期が時期だけにさもありなんではあります。さらに、源平合戦で、多々良氏は源氏に味方したことが分っていますので、ますます説得力がありそうに思えます。

平家が海底深く沈んでいった壇ノ浦は長門国にあるのですから、おとなり周防国から援助してくれるのは有難いことです。その後も一族は鎌倉幕府に協力したそうなので、好意を寄せていたことは事実かも知れません。けれども、四面楚歌の相手に味方する義理はないですし、単なる自然の流れかと。平家のせいで島流しにあったことを恨みに思っていたとか、流された理由がわからないので、根拠なしですし。そうだったとしても、そんなことで恨みを抱くとか了見狭い気がして嫌だし。『大内氏史研究』は平清盛と足利義満に個人的恨みでもあるかのような記述が見受けられ、ついていけません。どうやら、武家が太政大臣となるのが、お気に召さぬようでして(感じ方には個人差があります。先生のご本心はわかりません)。なので、申し訳ありませんが、長々と書かれた源平合戦についての記述は読み飛ばしました。ほかの最新研究のご本をお読みになるのがよろしいかと。そんなもの、関心のない方は受験参考書で十分です。

ちなみに、公家日記にある「恩赦」の記述が正しいとすれば、そこに名前が出てくる方々の詳細は以下の通りです。
 盛保(鷲頭祖・盛房子息)
 盛房(十六代当主)
 弘盛(十七代当主・盛房子息)
 忠遠(盛房弟?)※遠の字は不鮮明ゆえ調査中(古本見て書いています)

源平合戦と周防国

読み飛ばし用要約・5

源平合戦、特に平家が海の藻屑と消えた壇ノ浦は、長門国にある。お隣周防国で、在庁官人をしていた大内氏十六代・盛房と子息・十七代・弘盛とは、この合戦で源氏方に味方し、手柄を立てたことが知られている。

最近は、治承・寿永の内乱といったり、ほかにもあれやこれや研究者がネーミングしているとかいないとか。別に呼び名などはどうでもいいことです。メンドーなので、源平合戦で意味は通じるでしょう。平家の栄華が頂点に達したのが、平清盛が太政大臣となった年、ということで、1167年を暗記させられたことと思います。しかし、ここが頂点で後は坂道を転がり落ちるように……という展開です。それらも、もはや説明する必要すらないかと。

後白河法皇と平清盛との対立が決定的となり、清盛はとうとう法皇を閉じ込めて政務が執れない状態にしてしまいます。そして、娘婿の高倉天皇を上皇にし、自らの外孫を即位させました(安徳天皇)。ここらでついに、平家の横暴に対する怨嗟の声が最大となり、源頼政に勧められた高倉宮(高倉天皇と紛らわしくてわけわかんないけど。参考書だと以仁王)が打倒平家の令旨をばらまいて自らも挙兵。高倉宮と頼政は倒されてしまいますが、この令旨のおかげで、そこらの源氏が相継いで挙兵。その間に、平家は都を福原に遷してみたりしていますが、もはや総スカン。

何月にどこでとか、覚える必要もないけど(ココ大内庭園ですから)、源頼朝は石橋山でボコボコになりつつも持ち堪え、富士川では水鳥が飛び立つ音に驚いた平家の軍勢は大慌てで逃げ出し、平重衡が南都を焼き討ち、ってところで清盛死去。

いっぽう、頼朝に続いて、木曾義仲も挙兵。倶利伽羅峠(最近は砺波山っての?)で平家を谷底に突き落とす。この勢いで義仲が都入りってところで、平家一門は大慌てで都から落ち延びていきました。頼朝さんのほうは、どうしていたかといいますと、富士川で戦いもせず勝利したのち、いったん東国へ戻ります。「寿永二年十月宣旨」なるもので、頼朝が東国を支配することが認められたためです。あれこれ役所を置いたりして、のちに幕府を開く準備段階に入ってます。

ゆえに、合戦のほうは弟たちに任せました。源義経を知らない方はおられないかと思いますが(いたとしても、別にマズいことはなにもないです)、彼とその兄・範頼(つまり、年上の順に頼朝、範頼、義経)が戦を担当し、頼朝は政治機構を造るほうに専念。政治機構はどうでもいいので、合戦行きましょう。

まず、木曾義仲ですが、どうやらこの人、トップを切って都へ入ったのはいいですが、評判が芳しくありません。『平家物語』には何度読んでも笑いが止まらない『猫間』の章段とかありますね。何というか、都のマナーが分らない田舎者扱いされていて、よくよく考えてみたら、超差別なんですけど。どうせ自らも田舎者ですから。まあ、理由はどうあれ、義仲は頼朝が派遣した弟・義経によって討伐されてしまいます(念のため、コレが粟津の戦い)。

その後はもう、源義経がカッコいいと思うか、平家の公達が麗しくも儚くて哀れと思うか、考え方は人それぞれ。一の谷、屋島、壇ノ浦と有名な合戦が続いて、ついに平家は滅ぼされてしまいます。その後、義経も範頼も頼朝に消されてしまいますから、諸行無常だか、盛者必衰だか知りませんが、何も滅び去ったのはワルモノ・平家だけではないのです。それよりも、なにゆえに、源平合戦などに付き合わされなければならないかと言えば、それはもちろん、我々の庭園の主たちと関わりがあるからです。

思うに、琳聖太子以降、系図に欠落はあるものの、推古女帝の時代からずっと、その子孫は続いているわけです。ただし、史料に出て来ないため、どこで何をしていたのかが不明でした。しかし、前回のお話に出てきた「史料に名前が出てきた最初」以降、チラホラと存在が確認できるようになります。その意味では、平清盛云々ではなく、推古天皇から始めなくてはいけないのですが、順番が相前後しております(そもそも、どこで何をしていたかわからない時代のことなど、何を書けばよいのか)。

多々良氏改め、大内弘盛、満盛父子は、源氏方に味方して勲功を挙げたことで有名です。改めといういい方はちょっと適切ではありません。まあ、ここらの時代から「名字の地」が名乗りとなったのでしょう。さっきの、流刑地から帰ってきた第十六代当主とその息子ですね。大内氏の先祖が源氏方に味方した話はあれこれの場所(本)で見かけました。それゆえ、どれほど活躍したのだろうかと、楽しみにしていたのですが……。

周防国は当時藤原実教の知行国でその二男公基が周防守であったが、国務の実際は周防権介大内弘盛の掌中にあって、その子満盛と共に源軍に対して勲功のあったのは、その軍糧を供したことによるもので自ら弓矢を取って立ったのでなかった。

出典:御薗生翁甫『大内氏史研究』

何とびっくり、単に兵糧を提供しただけでした。むろん、腹が減っては戦はできません。笑う人がいるかもしれませんが、兵糧の問題は極めて重要なのです。その意味で、功績は甚大といえます(どのくらい提供したのかなど、具体的なことは不明ながら、勲功として認められたのです)。

『大内氏史研究』では、やたらと、蒲冠者範頼を持ち上げております。

範頼が果たした平家覆滅戦における役割の極めて重大にして、その功勲義経に劣るもので無いことを看取すべきである

出典:御薗生翁甫『大内氏史研究』

当然、これ以前に長々と説明があるのですが、日本語が難しすぎて、中途で脱落しました。要は、義経ばかりヒーロー扱いするなよ、と。『平家物語』しか読んでいない上に、日本史は受験参考書の知識で事足りると思っているゆえ、源範頼は名前だけの人です。何しろ、どこへ行っても義経が活躍した話で持ち切り。範頼っていったい何をしたんだろう? と思うわけです。

もう少し頭がクリアな時に、御薗生先生のご本をお読みした記憶では、二人は別行動をとりつつも、目的はひとつ。要は平家をぶっ叩くことです。兄のサポートがあったからこそ、義経も大いに助けられたような(うろ覚えです)。軍記物などには、義経の鵯越の逆落としだの、梶原景時と揉めた逆櫓だの、那須与一の扇の的だのそういう話しか書いてありません。範頼についてはほぼ無視されています。ゆえに、周防の在庁・大内某が兵糧を提供してくれた云々などという話は語られることがないのです。

ま、範頼・義経は二人とも同じく兄・頼朝に討伐される運命となりますが。先生がこのご本を最後まで書き上げておられたならば、吉見正頼なんかを絶賛したんでしょうね、多分。範頼贔屓はそこらに関係していると思うのは深読みしすぎでしょうか。願わくは、先生のご著作を義興期まで拝読したかった……。合掌。

周防国衙の在庁官人における大内氏の地位

在庁官人になったのはどんな人?

読み飛ばし用要約・6

在庁官人となったのは、律令制度下の元郡司や地元の有力者たちだった。任期ごとに交代する国司と違い、地元に根付いた彼らの職務は世襲であり、そのことが勢力を蓄えていく基盤ともなった。

律令制がきちんと機能していた時代、全国は国郡里にわかれていて、国ごとに派遣された国司が地方政治を担っていました。中央の下に各国があるように、国の下には郡や里があって、それぞれ郡司、里長というような人たちが管理していていたのです。国の役所、いわゆる国衙が、中央官庁のミニチュア版としてあれこれの機構を備えていたように、郡にもさらなるミニチュア版の郡の役所があった模様。里長は里を、郡司は郡を治めると同時に、集めた収入を国衙に納めました。

重要なことは、国司には任期がありましたが、郡司などは世襲だったことです。つまり親が郡司なら子も郡司、先祖代々そうなのです。この頃の役所内でも、地元の人々を登用して実際の実務を担当させていたことは同じ。赴任の際に、国司は自らの配下を伴っていくでしょうが、人数には限りがあるし、地元のことを良く知っている地元の人たちの助けは絶対に欠かせません。

任期が満ちて、国司は交替しますが、地元民からなる役所内の役人たちはそのまま。やりなれた業務を続けてもらったほうが効率はいいし、特別な理由がない限りは、変える必要もないでしょう。すると、何となくですが、国衙内の役人たちはそのポストも半ば世襲のようなことになっていきます。むろん、有能な人物ならば、より高いポストに昇格することもあるでしょう。ただし、彼らは中央官庁から任命された国司ではないので、いわゆる四等官制の守、介、拯、目にはなれません。かわりに大判官、大惣判官などというランクでよばれました(既述)。

律令制度が崩壊したのち、国司が受領とよばれるようになっても、国衙は従前通り存在し、地方政治も行われていました。そして、ここでも、実務は地元の役人たちにやってもらう、というスタンスは変りません。参考書類に、在庁官人というワードが頻繁に現われるようになるのは、この辺りからです。

地位・身分が「世襲」されていたということは、本当に重要です。ずっと同じ地位にあれば、収入なども安泰ですし、長らく同じ職務についていれば、実務能力はさらに向上していきます。彼らの地位がそれ以前よりも上がっていったのは、ある意味当然でしょう。「世襲」され、ずっと同じ地域にいたことで、富も権力も蓄積されていきます。

そもそも、国司が受領に変質してしまったのは、戸籍制度の崩壊と土地制度の変化などによるものです。また、武士の成立なんていわれる時代もこの頃。在庁官人などというと、役人なので力のないひ弱な文官たち、のように思われるかも知れません。しかし、彼らも地元の有力者である以上、自らの権益を守るために武装しています(既述)。

『平家物語』の中に出てきた「在庁」という言葉は、何やら彼らを身分卑しきものとして差別していたようでした。中央の高級貴族たちからしたら、受領階級すら低ランクなので、彼らの下で実務を執行している「在庁」たちなど、卑しいと見なされても仕方ありません。しかし、身分の上下と実力の有無とは無関係です。自ら王朝貴族化していった平氏は真の武士の世を打ち立て、その主となることが叶いませんでしたが、その後、鎌倉幕府が成立するに至って、武士階級の地位も高まります。もはや、身分がどうのこうのではないのです。名ばかりの「国守」とは違い、事実上地方政治を取り仕切っていた在庁官人のほうが、遙かに実力があります。とりわけ、上位クラスの者たちは、その地方において飛び抜けた存在といっても過言ではありません。

周防国の在庁官人たち

読み飛ばし用要約・7

律令制下で周防国にも国衙が置かれ、そこには多くの在庁官人たちが勤めていた。やがて国司が現地に赴任しなくなると、地方政治は在庁官人たちの手にゆだねられる。同じ在庁官人の中にも優劣があり、多々良氏は周防国の在庁官人中で、トップクラスの発言権をもつ名門として、「周防権介」の地位を世襲。「大内介」と名乗るようになった。

最後に、大内介たちが活躍した、周防国について見ておきます。周防国衙は防府にありました(というよりも、かつて、国衙が置かれていたゆえ、周『防』国『府』という地名が生まれたと思われます。国衙跡石碑見落としているのですが……)。国衙には、多くの在庁官人が勤務しており、多々良氏はその中の一官人、一氏族にすぎませんでした。

けれども、同じ在庁官人でも、その勢力の大小(おそらくは、武力的な面が大きいと思うけれど)によって地元での発言権も変わります。国衙内でのポストもそうでしょう。多々良氏の一族はかなり力をもった一族であり、在庁官人グループ内でも強い発言権を持っていたと考えられています。

あまりに古い時代については史料が乏しく、結局のところ、例の多々良氏の名前が史書に現れた最初なる文献くらいから以降のことしかわかりません。なので、主に鎌倉時代以降についてピックアップしたものとはなりますが、『周防国衙の研究』では、周防国衙にどんな名前の人がいたのかを詳細に調査してまとめてくださってあります。

以下のような人たちがいました(ボリュームの関係上、姓のみとなるけど)。

土師、佐波、日置、賀陽、菅野、大原、中原、大江、多々良、矢田部、安部、胡、大中臣、源、上、六呼

時代によって、大量に出現したり、一時的に消えたりしながらも、この十六の一族が在庁官人として、あれこれの書類に署名をしておりました。つまり、これ以外の人たちはいなかった、ということです。

土師、佐波の二氏が来目皇子殯葬のときより防府の地に土着し、また日置氏が古郷名にまで見えてゐる豪族であることは既に前篇に於て說明した通りであるが、その他の諸氏もまた皆當國に定住せる古豪族であつて、賀陽氏の如きは代々松崎天満宮の公文職を世襲し、特に多々良氏は土着の在廳官人の中でも最も著はれて、時代を経るに従って勢力を得て當國の權介となり、やがては進んで数ヶ國の守護職を兼ねて幕府をも凌ぎ將軍をも壓する程の大勢力家となつた大内氏である。

出典:『周防国衙の研究』

引用に「前篇」とあります。このご本は、大内氏について書かれた研究書ではなく、周防国衙について書かれたものです(タイトルまんま)。なので、律令制度下からずっと詳細に記してあるわけ。国衙について研究していれば、そこに勤めていた役人についても触れるのは当然です。それゆえに大内氏も登場し、引用のごとく一大勢力となりますから、関係する記述も大量にあります。でも「前篇」は、律令制度や周防国が成立するまでとか、とてつもなく古いところから始まっており、「在庁官人」なんて言葉も出てこないので、機会を改めてご紹介します。

まあ、この一文を拝見する限りにおいては、土師、佐波、日置、賀陽さんたちは、多々良氏よりも古い時代からその存在が明らかとなっていたらしきことがわかります。しかし、在庁官人中、ぶっちぎりで繁栄したのは大内氏であったと書いてあります。

当然のことながら、ココでひとつの疑問が湧くと思います(湧かない人は羨ましいよ)。数いた在庁官人の中で、なんで多々良氏が頭角を現してきたのか、ということ。史料にその名前が現れて来る頃というのは、すでに相当の大物となってから。それまでは空白なので、何もわかりません。

現代においても、事情はまったく同じですが、出来る人・出来ない人というのが、必ず存在します。せーのと一緒に同期で入社しても、出世する人・しない人の区別が。ここはもう、先祖たちが、出来る人、出世する人だったと考えるよりほかないです。どうせ、出来ない人、出世しない人だ! と自虐的になる必要はありません。人生楽しめればそれでいいんですから。だいたい、出来る・出来ないなんて、職場の中だけの話。それでその人の価値が決まるわけじゃありません。

まあ、平社員 A と○○CEO とでは、給料も違うし、○○CEO は社史にその名を刻むかもですが、平社員 A の名前は歴史に残らないかもしれません。でも、そんなことどうだっていいじゃないですか。家に帰って趣味の世界に生きたり、幸福な家庭を築けたら。いつの世にも、世渡上手で出世したり、小金を貯めこんだりする輩はいます。むろん、生まれながらにして有能だったからかもしれないし、人一倍努力したからかもしれないし、両方かもしれません。

何が言いたいか。そこに至るまでの道のりは不明ながら、多々良氏の先祖たちは有能で、どんどん出世し、勢力を拡大し、発言力を強めていった。そういう「部類」に入る人たちだったってことです。

『周防国衙の研究』では、多々良氏は周防国内でももっとも古い武家の名門の一つと書いています。それが、百済の王子・琳聖太子に出自をもち、推古天皇の時代から続いているゆえに、と聞くと、これそのまま信じてもいいのだろうか、と思わなくもないけど。

大内氏は武家として最も古い家柄に屬し、系圖に從へばその祖先は百濟王聖明の第三子琳聖より出で、琳聖が推古天皇の御即位十九年に投化したのに始まるとなつてゐる。子孫相續ざ盛房(系図には九世となってゐる)に至って初めて周防權介に任じ、これより周防介或は權介を世襲して大内介と稱した。

出典:『周防国衙の研究』

琳聖が聖徳太子に会うために来朝した時から続いているとなれば、推古天皇の時代まで遡るわけなので、先ほどの、土師、佐波、日置さんにはかなわないとしても、松崎天満宮関係から出自がわかる賀陽さんよりは古いかもしれません。だって、菅原道真をお祀りする神社の関係者だから。菅原道真は聖徳太子よりずっと最近(もはや年代感覚麻痺してますね)です。

しかし、聖徳太子は実在しなかったとか叫ばれている現代、それが本当ならば、琳聖の来朝もでっち上げ確定(そもそも研究者は否定している)となります。文字史料の欠落というのはどれほど悲しいことか。そもそも、推古天皇の時代なんて、ひらがなカタカナもなかったわけで。古代史はすべて謎でしかない。けれども、本人たちの自己申告を信じて、琳聖の子孫とすれば、それこそ輝かしい名門中の名門ということになりますね。そこはまあ、信じる者は救われる、ってことで。ただし、それ以降の記述は正確なものです(本が書かれた時代が古いので、盛房が九代になっていたり、その典拠が信じてよいのか疑問符だらけの『系図』から来ているっぽいのが気になってきましたが……)。

多々良盛房の子孫は周防権介となり、その地位が世襲されたってことがわかります。この、周防権介というポストは、政争に敗れて流される人がなる大宰権帥で有名な「権」、つまり代理を表す一文字が、国司の四等官「介」についたものとなります。けれども、大宰権帥と違って代理どころか、実質上の介と同じような扱いでした。介は国司の二等官ですが、その職掌は守と変らないといわれたポスト。多々良氏はそれに就任し、さらにその地位が世襲されたわけです(しかし、なにゆえに『権』がついているのか、どこにも解説がないですね。要は、本来は国から任命された『介』がいたからってこと? わからないので答えが知りたいけど、こんなどうでもいいこと、どなたも断ってない)。

この周防権介が世襲されるに至り、大内介という名乗りも定着します。国衙の中で、名ばかりの受領、目代らにかわり、実務をバリバリと取り仕切っていた文字通り周防国における一番の実力者といったところです。ちなみに、律令制崩壊後、武家政権が成立した後ですら、国司はいちおう任命され続け(少なくとも大内氏滅亡時はまだ国衙も国司も存在)、有名無実とはいえ、国衙も国司も存在していました。

周防国衙についての研究も実に奥が深いものです。在庁官人が、そこに勤めていた人々である、と考えた時、律令制から始めなければ、正確なところは突き止められないような気がしています。前回の琳聖来朝から、平清盛までいきなりぶっ飛んでしまっていますし。

とはいえ、その長い空白の時代については、先生方ですらわからないのです。ただ、日本史全体の中で見た場合、聖徳太子から平清盛までワープするのはいかがなものかと。どこかで埋め合わせはしようと考えていますが。たとえ、どこで何をしていたかわからないにせよ、存在していたことは確かなのですから、どんな時代を生きてきたのかってことは知りたいですよね。

在庁官人のお話はじつはまだまだ続きます。だって、大内弘世さん登場までは、「ただの役人」状態が続いたのですから。身分の上ではね。しかし、平家の滅亡と鎌倉幕府の成立は時代的には引っ付いていますが、中身は大きく飛躍します。さらに、周防国に限ってみれば、「東大寺再建」のために重源が下向してくることで、国衙の有様が大きく変化します。

そんなこともあり、いったんここで区切りたいと思います。〆には同じく『周防国衙の研究』から以下の名文をお借りしたいと思います。在庁官人出身の大内氏とその実態は、これだけですべてわかるまとめです。

兎も角も周防國にはかくの如く多數の在廳官人があり、土着して各々その職を世襲し、抜く能はざる勢力を持つてゐた。中にも大内氏の如きはその筆頭にをり、名は權介でありながら實は數ヶ國の守護を兼ねてゐたのであるから、その實勢力よりすれば甘んじて一國司の元に屈服すべきものではない。

出典:『周防国衙の研究』

参考文献:『日本史広事典』、『周防国衙の研究』、『大内氏史研究』、受験参考書

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次郎

こんな説明で理解できた?

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五郎

理解できない。要するに「在庁官人出身」「在庁官人というのは国衙の役人のこと」それしかわからない。

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ミル

だって、それしかわかってないんだから、それ以上なにが書けるの?

五郎不機嫌イメージ画像
五郎

百済の王子・琳聖の末裔、在庁官人出身。この二点、知らない人なんかいないじゃないか。誰もが知ってることをダラダラと書いているだけで、何の特になるんだ?

ミル涙イメージ画像
ミル

あんまりじゃん……。もうこんなところ、閉めてしまおうと思ふ。何度言ったかわからないけども。

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新介

続けることが大事だよ。そのうち理解できたら、もっとわかりやすく書けるようになるのでは? 今はまだ、頭の中が整理できていないみたいだね。少なくとも、僕がお籠り儀式を終えるまでは頑張ってね。

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於児丸

新介さまが家督継承者の儀式を行うのって、文明十八年ですよね? 彼ら未だに平清盛云々ですよ。とうてい間に合いません。しかも、奈良時代も平安時代もぶっ飛ばしてますし。

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五郎

お前のために茶屋(カフェ)スペースを作ってやったのは、そういう基礎知識をわかりやすく書く約束だったじゃないか。何も書かないでミルだけをせめるな。

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於児丸

僕の担当は室町時代だけだよ。君たちがそこまで辿り着けないから、いつまでも書き始められない。

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ミル@周防山口館

大内氏を愛してやまないミルが、ゆかりの地と当主さまたちの魅力をお届けします

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